大月氏とクシャン朝
「月氏」は紀元前3世紀以前にタリム盆地から黄河上流付近にいた遊牧民族である。中国の北〜西方には古くから遊牧民が活動していたが、その中で特に強大化した最初の民族がこの月氏であったとされている。民族系統はイラン系であったというが正確にはわからない。中国産の絹やタリム盆地南辺のホータンに産する玉を扱う中継貿易を独占して栄えたという。月氏の東方には別種の遊牧民「匈奴」がいてオルドス、陰山山脈、内モンゴル高原の辺りを縄張りとしており、その東方の東部モンゴル高原や満洲南部の辺りでは「東胡」という種族が狩猟、牧畜や原始的農耕を営んでいた。さらに北方のバイカル湖南辺地域にはトルコ系遊牧民「丁零」が、その西方のイェニセイ川上流には「堅昆」がいてこれもやはり遊牧を生業としていた。匈奴の居住地の南、つまり中国はながらく「秦」「魏」「趙」「韓」「燕」「斉」「楚」の7国に分かれて相争っていたが、紀元前221年に秦の始皇帝が統一を成し遂げ、さらに匈奴に攻撃を仕掛けてオルドスから駆逐した。
当時の匈奴の単于(王)は頭曼という人物であった。彼には冒頓という太子がいた。しかしやがて頭曼の愛する后が末子を産んだため、その子を太子にしたくなった頭曼は冒頓を月氏のもとに人質として送り込み、しかる後に月氏を攻撃した。月氏は冒頓を殺そうとしたが、冒頓は馬を盗んで逃走した。頭曼は冒頓の勇敢さを讃え、一万騎の将軍に任命したが、冒頓は紀元前209年に至って頭曼を射殺、新しい単于となった。冒頓はまず東胡を討って人民と家畜を奪い、その次に月氏を叩き、さらに丁零、堅昆を征服したという。
中国では紀元前206年に秦が滅び、新たに「漢」が建国された。匈奴は紀元前202年に漢を攻撃、優勢な戦いを展開し、「漢は毎年一定量の絹、酒、米等を匈奴に贈り、さらに皇族の娘を単于に嫁がせる」という条件で和睦した。続いて紀元前177年頃に再び月氏を攻撃、これを天山山脈の北方……現在の中国とカザフスタン、キルギスの国境地帯……へと追い払った。ただし月氏の全部が天山の北に逃れた訳ではなく、一部は甘粛省西部のあたりに留まった。天山北方に逃れた集団を「大月氏」、甘肅に留まった集団を「小月氏」と呼んでいる。冒頓の次の老上単于の時、匈奴はまた月氏を破ってその王を殺し、王の頭蓋骨で酒杯をつくった。これはユーラシアの遊牧民の間では古くからみられる風習である。大月氏はさらなる移動を余儀なくされ、今度はウズベキスタン共和国からアフガニスタン北部にかけての地域に移っていった。
紀元前141年、漢で第7代の皇帝武帝が即位した。武帝は「西方に逃れた月氏(大月氏)が匈奴を怨み、復讐のための同盟者を求めている」という噂を聞き、大月氏と結んで匈奴を東西から挟撃しようと考えた。この時に使者の役に応募して西方へと旅立ったのが張騫という下級官吏である。張騫は途中で匈奴に捕まったりして10年かけて目的地に到達した(紀元前129年)が、肝心の大月氏は新しい居住地に安住して匈奴への恨みも薄れ、同盟の話に乗ってくれなかった。
やがて漢に帰国してきた張騫が語ったところによると、大月氏は今でも遊牧を営んでいて、弓をひく兵を10〜20万ほど抱えてアムダリヤ川の北に居住し、アムダリヤ川の南にある「大夏」という国を臣従させていた。大夏は遊牧民ではなく定住民で100万以上の人口を持ち、国全体の王はいないが、都市ごとに小王がいた。その兵は臆病で戦争を怖がるが、商業に長けていたという。張騫が大夏に滞在していた時に中国の四川省の辺りで産する竹杖や布を見かけたので「どこでこれを手に入れたのか」と聞いてみたところ、「我々の商人が出かけていって身毒(インド)で購入してきたのです」とのことであった。
その「大夏」であるが、この国の所在する地域には、しばらく前まで「バクトリア王国」という国があった。ここで数百年ほど時代を遡って説明すると、バクトリア地方(現在のアフガニスタン北部のあたり)は非常に古いオアシス地帯で「千の都市を持つ」と伝えられ、もともとはイランの王朝「アケメネス朝ペルシア」の版図に含まれていた。ここはアケメネス朝の東方諸州の中でも最重要な地域であったらしく、「ゾロアスター教(拝火教)」の開祖ゾロアスターの出身地であるとの説もある。しかしアケメネス朝は紀元前330年にギリシアから遠征してきたアレクサンドロス大王の軍勢によって滅ぼされ、バクトリアもアレクサンドロス軍に征服された。アレクサンドロスは物産豊かで交通の要衝でもあるバクトリアに2万人ものギリシア人を入植させ、さらにインド北西部へと進撃していった。
アレクサンドロスの死後、彼の帝国は「セレウコス朝シリア」「プトレマイオス朝エジプト」等に分裂、バクトリアはセレウコス朝の一部となった。セレウコス朝の領域は現在のシリア、イラク、イラン、アフガニスタンを含み、ギリシア文化とオリエント文化が融合した「ヘレニズム文化」を発展させたが、初代国王セレウコス1世の死後は急速に衰えた。そして紀元前250年にバクトリアのギリシア人たちがセレウコス朝から分離独立して建国したのが「バクトリア王国」である。やや遅れてイラン方面に「アルサケス朝パルティア」が成立、アルサケス朝は西方に、バクトリアは南方へと進出していく。
バクトリア王国は紀元前175年頃にヒンドゥークシュ山脈を越えてインド北西部のパンジャーブ地方に勢力を拡大するが、紀元前162年頃にはヒンドゥークシュ山脈以北(バクトリア地方)と以南(パンジャーブ地方)で別々の王家を立てるようになった。パンジャーブ側の王家で有名なのがメナンドロス王で、仏教に深い関心を示したことで知られている。仏典『ミリンダ王の問い』のミリンダがこの人である。バクトリア地方のギリシア人は紀元前145年頃に来襲してきた「スキタイ(サカ)」という遊牧民の「アシオイ」「パシアノイ」「トカロイ」「サカラウロイ」という4つの部族に滅ぼされた。パンジャーブのギリシア人たちはその後もしばらく生きながらえ、その地にギリシア文化を植え付けたが紀元前75年頃までに消滅した。
で、バクトリアを滅ぼした「スキタイ(サカ)」と大月氏が同一であるか否かは議論のあるところである。大月氏が直接バクトリアを占領したのか、それとも別の民族がバクトリアを占領していたところに大月氏が現れたのか。中国側の史書で月氏について言及している基礎資料は紀元前に司馬遷が著した『史記』と紀元後に班固が著した『漢書』であるが、『漢書』には『史記』に記されていない「塞」という種族が登場し、これは最初は天山の北にいたのだが、月氏に圧迫されて南下したという記述がある。その場合だと「塞」は「サカ(スキタイ)」、「大夏」は「トカロイ」の漢訳と考えるのが自然なのだが、実は塞は架空の民族であるという説もある。
大月氏は大夏に「翕侯」と呼ばれる諸侯もしくは部族長を置いて統治した。和墨城の「休密翕侯」、雙靡城の「雙靡翕侯」、護澡城の「貴霜翕侯」、薄茅城の「キツ頓翕侯」、高附城の「高附翕侯」の5つである。紀元後1世紀の前半頃になると貴霜翕侯が強大化、他の翕侯を滅ぼして「貴霜王」と称し、さらにはヒンドゥークシュ山脈以南に進出してインドの北部を征服した。これがインド史にいう「クシャン朝」であり、初代の国王は丘就却(クジュラ・カドフィセス)という人物であった。「翕侯」というのが大月氏の一族なのか、それとも大夏の中から取り立てられた存在なのかははっきりしないが、その頃の中国では貴霜王のことも「大月氏」と呼んでおり、張騫の報告にある「兵は臆病で戦争を怖がる」大夏の者がそんなに強大化するとは考え難いため、やはり大月氏の一族ではないかとみられている。また、月氏というのは実はもともとアムダリヤ川の流域に住んでいたのが紀元前3〜4世紀に中国方面に進出し、やがてそちらで匈奴に敗れたためアムダリヤ川流域に戻ってきたのだという説もある。
イランのアルサケス朝パルティアは紀元前1世紀から中東に進出してきた「ローマ」との衝突を繰り返しており、クシャン朝はその隙に乗じる形で西北方へと進出、さらにインダス河口やインド西海岸の諸港まで勢力を拡大した。1世紀の中頃に書かれた『エリュトゥラー海案内記』という書物には、ローマ商人が海上ルートでインドと交易していた様子が描かれている。彼らはローマ領のエジプトから紅海を通ってインド洋に入り、そこからモンスーン(季節風)を利用してインドに向かっていた。クシャン朝が発行した金貨はローマの「アウレウス金貨」と同じ重さ(約8グラム)にしてあった。ローマからはガラス製品、葡萄酒、金貨が持ち込まれ、インドからは胡椒、染料、綿布、宝石、象牙が輸出されたという(註1)。
註1 クシャン朝の南方のデカン高原には「アーンドラ朝」という国があり、こちらもローマとの海上交易を熱心に行っていた。
大月氏・クシャン朝はバクトリア王国の遺産であるヘレニズムを継承しつつも仏教との関係が深かったことが知られている。紀元前1世紀の末頃に大月氏の使者の伊存という人物が漢を訪問して「浮屠経(仏典)」を伝えたといい、紀元後1世紀には漢の明帝が派遣した蔡アンという人物がクシャンを訪問、経典や仏像、さらに2人の僧侶を伴って帰国したという。明帝は「浮屠之祠(仏寺)」を建て、経典を翻訳させた。クシャン朝は海上交通路でローマと連結すると共に、いわゆるシルクロードを通じて中国とも交流していたのである。
しかしその交流は平和的なものとは限らなかった。当時の漢は西域(現在の新疆のあたり)に勢力を拡大しており、その地域を統括する役職として「西域都護」を置いていたのだが、クシャン朝は西暦90年に7万の軍勢を繰り出して西域都護の班超を攻撃、しかし長距離の遠征に疲れて補給困難に陥ったところを反撃されて敗退した。その後のクシャン朝は毎年漢に朝貢するようになったという。
そのあたりまでのクシャン朝の様子は主に中国の史書によってうかがうことが出来るのだが、102年に班超が死んで漢の勢力が西域から後退すると、古銭の銘文や仏典の記述ぐらいしか文字資料がなくなってくる。クシャン朝最盛期の王とされるカニシカ王の在位年すらはっきりせず、120〜162年頃説、128〜155年頃説、144〜172年頃説と色々の説があって決着がつかない有り様である。
カニシカ王はインド北部から中央アジア、さらにはカスピ海に達する広大な地域を領有した。文化面では仏教を保護し、国中から選抜した仏教学者500名に12年がかりの大事業「仏典結集(釈迦の教説の編纂)」を行わしめたことがよく知られている。首都プルシャプラ(ペシャワール)には仏教寺院や高塔が建立され、ヘレニズムと仏教が融合した「ガンダーラ美術」が栄えた。西洋風に彫りの深い仏像はあまりにも有名であろう。しかしカニシカが発行した硬貨には「アルドクショ(豊穣の女神)」「アスショ(火神)」「マオ(月神)」「ミスラ(日神)」といったイラン系の神々が数多く描かれており、カニシカ自身もそれらに帰依していたのではないかと考えられている。むろん仏陀を描いた硬貨もあるし、ギリシア神話のヘラクレスやヘリオスも登場する。
この頃のインドの宗教界においては仏教の中から「大乗仏教」が生まれ、バラモン教が「ヒンドゥー教」へと進化していたが、大乗仏教で語られる浄土信仰や阿弥陀信仰にはギリシアやエジプトの宗教にある「死後の楽園」思想や、イランのメシア思想の影響があると考えられている。3世紀の前半頃にイランからインドにやってきたマニという人物は帰国後、仏教、キリスト教、ゾロアスター教を折衷した新宗教「マニ教」を創始している。
クシャン朝が滅んだのは3世紀のことだが正確な時期とその様相はよくわからない。西方のイランでアルサケス朝にかわって新たに勃興した「ササン朝ペルシア(西暦226年に成立)」との戦いに敗れ、次第に衰えていったようである。中国では220年に漢が滅んで「魏」「呉」「蜀」の3国が並び立っていたが、そのうちの魏に「大月氏王波調」という人物が貢ぎ物を届けてきたので「親魏大月氏王」に任じた(229年)という記録が史書『三国志』に記されている。邪馬台国の卑弥呼が「親魏倭王」に任じられたのと同時期のことである。
おわり
参考文献
『北アジア史』 護雅夫・神田信夫編 山川出版社世界各国史12 1981年
『西域 人物と歴史』 井上靖・岩村忍著 現代教養文庫 1980年
『古代インド』 佐藤圭四郎著 河出書房新社世界の歴史6 1989年
『西域』 羽田明他著 河出書房新社世界の歴史10 1989年
『大月氏 中央アジアに謎の民族を尋ねて』 小谷仲男著 東方選書 1999年
『中央ユーラシア史』 小松久男編 山川出版社新版世界各国史4 2000年
『南アジア史1』 山崎元一・小西正捷編 山川出版社世界歴史大系 2007年
その他