ギリシア近現代史



第1部その1

 まずヨーロッパの地図でギリシアという国を見ていただきたい。ギリシアはバルカン半島の南の端に位置し、エーゲ海に散らばる多くの島々を主な領土とする国家である。国境を接するのはアルバニア・マケドニア(旧ユーゴスラヴィア)・ブルガリア・トルコの4国だが、これらの諸国との境界がほぼ確定したのは1923年のことである。つまりそれ以前の国境は流動的に変化していたのであり、ギリシア国家の版図が今よりも外側に広がっていた時代もあるのである。

 ここで最も重要なのが現在トルコ領となっている地域である。現在のトルコはアナトリア半島(小アジア)全体とその基底部、及びバルカン半島の一部を占めているが、トルコ人がアナトリアに現われたのはやっと11世紀のことであり、アナトリアの西部や、後にオスマン・トルコ帝国の首都となるコンスタンティノープル(イスタンブール)は本来ギリシア人の世界であった。例えば古代ギリシアの自然哲学の祖とされるタレースはアナトリアのミレトス市の出身であり、コンスタンティノープルの前身であるビザンティウムはギリシア人の都市として出発したものなのである。

   

   ビザンティン時代   目次に戻る

 ギリシア人は紀元前2世紀前後からローマの支配下に入っており、ローマ帝国が東西に分裂した後は東ローマ帝国領に含まれることとなった。その東ローマは6〜7世紀頃の相次ぐ敗戦によって領土を失い、アナトリアとバルカン半島の一部を保持するのみとなってしまった(註1)。 しかしながら東ローマ帝国の中枢部はギリシア世界の真只中に位置し、その国教であるキリスト教(東方正教会(註2))の公用語もギリシア語であった。という訳で帝国は次第にギリシア化し、完全にキリスト教化したギリシア人国家(註3)「ビザンティン帝国」へと変質していったのである(註4)

 註1 11世紀のバシレイオス2世の時代に勢いを取り戻すが、その後トルコ人の攻撃や十字軍の干渉でまた転落する。

 註2 キリスト教の一派。コンスタンティノープルに総本山を置く。本来はローマやエルサレムと並ぶキリスト教の総大司教座教会の1つであるが、8世紀頃からローマ教会と教義をめぐって論争し、1054年にローマとコンスタンティノーブルがお互いを破門して現在に至る。ローマ教会というのがいわゆる「カトリック」である。

 註3 ここでいう「ギリシア人」とは言語に基づく定義であり、本人たちの自覚は関係ない。古典古代のギリシア人が自らを指して呼んだ「ヘレネス」はビザンティン時代には「異教徒」を意味しており、彼等自身は自らを「ローマ人」であると認識していた。しかし使っている言葉はギリシア語なのである(近代ギリシァ史)。何をもって「ギリシア人」を定義するかは後で詳しく述べる。

 註4 ビザンティン帝国の基礎は、ローマ法及びローマ的行政、ギリシア文化、キリスト教(東方正教会)の3つであるとされている。現在のギリシア人はビザンティンとは呼ばず「ローマ」と呼ぶが、本稿では慣例に従い「ビザンティン」と表記する。

 そこに現れるのが西欧からやってきた十字軍、そしてオスマン・トルコの勢力である。十字軍は最初はビザンティン帝国をイスラム教徒の脅威から守る(註5)ために結成されたものであるが、1202年に始まった第4回十字軍は当初の目的を逸脱してコンスタンティノープル(ビザンティンの首都)を占領してしまい、ビザンティンの領土は十字軍の武将たちとそれを後援するヴェネツィア共和国によって分断されてしまったのである。

 註5 十字軍とは、西欧のローマ教会(カトリック)を信じる諸国が、東方正教会を信じるビザンティン帝国からの救援要請を受ける形で結成したものである。両者とも広い意味での「キリスト教徒」であるには違いないから。

 もっとも十字軍がコンスタンティノープルに建国した「ラテン帝国」は1261年にビザンティンの生き残りによってあっさりと撃破され、ビザンティン帝国が復活するのであるが、十字軍の武将がアテネに築いていた「アテネ公国」、同じくペロポネソス半島の「アカイア公国」等がそのまま残り、ヴェネツィア領となった島々も現状を維持していた。十字軍の人々は「ラテン人」と呼ばれていた。

 そこに今度はオスマン・トルコの勢力が現れた。トルコ人がアナトリアに登場するのは前述の通り11世紀のことであるが、1291年アナトリア西部にオスマン1世によって「オスマン・トルコ帝国」が建国され、1354年には海を渡ってバルカン半島へと侵入した(註6)。ビザンティン帝国の領土は首都コンスタンティノープルの周辺といくつかの飛び地に圧縮され、それ以外の地域のギリシア人はトルコ人かそれでなければラテン人、あるいはヴェネツィア人の支配下に組み込まれていった。

 註6 ビザンティン帝国の内紛に際し、その一方の当事者から援軍として求められたのである。

 そして1453年、オスマン軍の攻撃の前にコンスタンティノープルが陥落し、ビザンティン帝国は1000年の歴史を閉じた。ラテン人の建てた諸国もその後10年ほどの間にオスマン帝国の軍門へとくだっていった。ヴェネツィア領の島々はその後、場所によってはなんと1715年までオスマン軍の攻撃を退け続ける(イオニア諸島は18世紀末までヴェネツィア領であった)が、ギリシア史は事実上1453年をもってオスマン帝国治下の「暗黒時代」へと移行するのである。

   

   暗黒時代   目次に戻る

 かくしてギリシア国家「ビザンティン帝国」は滅亡し、その首都コンスタンティノープルはオスマン帝国の首都「イスタンブール」に改称された(註1)。しかし「暗黒時代」とはいっても、実はオスマン帝国治下のギリシア人はそれほど極端な苦しみを味わった訳ではなかった。重い税や、男児を兵士に、女児をハーレム(註2)に差し出すことはあったが、それでも彼等の生活は同時期の西欧の農民のそれより楽なものであった(近代ギリシァ史)。イスラム教(註3)においては宗教法と世俗法の区別が存在しないため、キリスト教を信じる(つまり非イスラム教徒の)ギリシア人や他の従属民族はその法体系の外に置かれることとなり、従ってある程度の自治(ミレット制)が認められることが多かった(直轄地になった地方もある)。また、非イスラム教徒には「ハラージュ」と呼ばれる人頭税が課せられており、これはオスマン帝国の大きな財源であったから、キリスト教徒をイスラム教に改宗させてわざわざハラージュの納税人口を減らすこともなかったのである(註4)。ギリシア人の中にはオスマン帝国に積極的に協力して外務大臣や地方の太守に出世する者もおり、尚武の民トルコ人が商業を賎しんだことから(そういう感情を利用して)そちらへの進出もめざましく行った。ただし、トルコ人にとって、ギリシア人はあくまで「家畜」であった。トルコ人にとってのこの語はそれほど悪い意味ではないのだが、それでもやはりギリシア人には屈辱的であった(近代ギリシァ史)。各地に「山賊(クレフテス)」が出没し、反乱も散発的にだがおこっていた。

 註1 正式に改称されるのは1930年。したがって本稿では以後も「コンスタンティノープル」もしくはギリシア語で「コンスタンティノーポリ」と表記する。

 註2 正確にはハーレムで働く奴隷になった。奴隷とはいえアメリカの黒人奴隷ほどには悲惨でない。

 註3 いうまでもないとは思うが、トルコ人の宗教である。

 註4 キリスト教徒から一定数の男児を召し出してイスラム教に改宗させ皇帝親衛隊に組織した「イェニ・チェリ」というものもある。また、セルビア人とクロアチア人の混在するボスニアにはブルガリアから広まってきたボゴミルなる異端宗教が盛んであったが、その信者は東方正教会とカトリック双方から弾圧されており、1463年にオスマン軍が侵入してきた時にイスラム教にのりかえてしまった。近年のボスニア内戦の一方の当事者となったイスラム教徒の起源がこれである。

 17世紀末、キリスト教の諸国が対オスマン帝国の「アウグスブルク連合」を結成し、その主要国の1つとなったヴェネツィアの艦隊がギリシア本土のかなりの部分を占領した。それまで完全な形で残っていたアテネのパルテノン神殿を破壊したのは実はこの時のヴェネツィア軍なのであった。それはともかく、1718年にオスマン軍が盛りかえしてヴェネツィア軍を追い払った時、ギリシア人はむしろオスマン軍を歓迎した。宗教的に寛容なオスマン帝国と異なり、ヴェネツィア人はギリシア人を東方正教会からローマ・カトリックに改宗させようとして嫌われたからである(ギリシア独立とカポディーストリアス)。

 18世紀、北方でロシアの勢力が勃興した。ロシア人は東方正教会の信徒としてオスマン帝国に敵意を燃やし、同時にギリシア人に強い親近感を抱いていた。1770年のロシアとオスマン帝国の戦争に際し、はるばる大西洋をまわって東地中海にやってきたロシア艦隊がギリシア人に対しオスマン帝国への反乱をけしかけた。ギリシア人からみればロシア艦隊の規模は期待外れの小ささであったが、それでも促されるままに反乱を起こし、そして残酷に鎮圧された。

 戦争そのものはロシアの勝利であった。しかし1787年再び起こったロシア・オスマン戦争は(ロシアは)それほど得るところがなく(註5)、一旦ギリシアへの感心が薄れたロシアのかわりにフランスの勢力が台頭してきた。1797年、フランスの将軍ナポレオン・ボナパルトが北イタリアを征服し、さらにイオニア諸島の主権を手に入れた(註6)。イオニア諸島はギリシア人がその住民の多数を占め、ギリシア本土の西に位置するが、これまで400年もの間ヴェネツィア領であり続けてきた。

 註5 ただし、この戦争でロシアが獲得した地域に建設されたオデッサ市はその後のギリシア史に大きな役割を果たすことになる。

 註6 1797年にフランス・オーストリア間に結ばれた「ガンポ・フォルミオの和約」のこと。これによってヴェネツィア共和国はオーストリア領とされたが、フランスはイオニア諸島の他にそれまでオーストリア領だったベルギーとロンバルディアを獲得した。

   

   イオニア七島連合共和国   目次に戻る

 イオニアのギリシア人たちは単純にフランス軍を歓迎し、ギリシア神話の『オデッセイ』をその司令官に献上した。「現在のオデッセイ」たるフランス軍を歓迎するとの意味である。しかし、フランス軍はギリシア人に重税を課し、その政治運動を弾圧した。ギリシア人の熱狂はすぐに冷めてしまった。

 翌年、ナポレオンがエジプトに遠征したが、それを運んでいった艦隊がアブキール湾でイギリス艦隊の攻撃を受け壊滅した。これを見たロシア・イギリス・オスマン帝国その他が「対仏大同盟」を結成し、イオニア諸島もロシア・オスマンの連合艦隊(註1)によって占領された。ロシア艦隊の司令官は島の人々に、解放後は自分たちの好きな形で政府を組織してよいと約束した。イオニア諸島は「中央政府」を設置し、なんと自前の憲法まで作成した。しかしこの憲法はオスマン帝国の反対にあって徹底的に修正され、ロシアの保護を受けつつオスマン帝国に毎年貢ぎ物を送ることを義務付ける「ビザンティン憲法」として1800年4月をもって調印される運びとなった。こうして誕生したのが「イオニア七島連合共和国」である。

 註1 ロシアとオスマン帝国はこの前もこの後も長年の宿敵関係であり続けた。今回の同盟は非常に珍しい話であった。

 当然ながらギリシア人たちは憲法の修正問題をめぐって紛糾した。しかしながら中央政府は修正受け入れを甘受した。現実に自分たちの島々にロシア・オスマン軍が駐留している以上、他の選択肢はありそうになかった。

 1802年、イオニア出身の父を持つロシア全権大使ゲオルギー・モセニゴ伯が着任した。モセニゴ伯はイオニアの中央政府議長スピリドン・テオトキスと、名門出身の医師ヨアン・カポディーストリアス(それとロシア兵1600人)を味方につけて島々の治安の維持に尽力した。七島連合共和国はモセニゴ伯の指導のもとにオスマン帝国の影響下を離れ、ロシアの保護のもとに貿易の振興や独自の租税体系を整備していった。その陣頭指揮にたったのが27歳の青年国務大臣カポディーストリアスである。

 カポディーストリアスはイオニア諸島のひとつケルキラ(コルフ)島のイタリア系の名家に生まれ、長じてイタリアの大学で医学を学びつつフランスの進歩思想に触れていた。その彼を中心とする共和国首脳は1803年10月、「立憲議会」を招集し、新たな憲法を採択するに至った。すでにイオニア諸島への影響力を失っていたオスマン帝国は文句をつけなかったが、しかしロシアは全権大使モセニゴ伯を通して強硬な抗議を送りつけてきた(註2)。結局、憲法は全面的な修正を受けた。

 註2 モセニゴ伯本人は相当苦慮したという。(ギリシア独立とカポディーストリアス)

 この頃のヨーロッパの情勢は激動につぐ激動の嵐であった。先の「対仏大同盟」は1802年に解体して平和が戻っていたが、この平穏は1年ほどしか続かず、まずイギリスがフランスとの再度の戦争状態に突入した。1805年、ロシアも一旦途切れていたオスマン帝国との同盟関係を修復し、その上でイギリス・オーストリアとともにフランスに戦いを挑むことにした。しかし同年12月の「アウステルリッツの戦い」においてロシア・オーストリア連合軍はナポレオン軍の前の完敗し、フランスの工作を受けたオスマン帝国もロシアとの同盟を破棄してしまった。

 この頃オスマン領のギリシア北西部からアルバニア南部にかけて、アリ・パシャなる豪族が半独立の勢力を有していた。彼は口ではオスマン帝国への忠誠を誓いつつも自領の拡大を熱心に行い、この時もイオニア諸島へと食指をのばそうと考えた。

 1807年、アリ・パシャはイオニア諸島のレフカス島の対岸に5000の軍勢を集結させた。共和国政府はカポディーストリアスを総督兼臨時高等弁務官に任じてこの危機に対処させ、ロシア全権大使モセニゴ伯の後ろ楯と強固な意志によってアリ・パシャの侵攻計画を断念させることに成功した。ところがこの事件とほぼ同じ頃、はるか北方の東プロイセンにてフランス皇帝ナポレオン1世とロシア皇帝アレクサンドル1世とが「ティルジット条約」を結び、その中でイオニア諸島をフランスに譲り渡すことを決めてしまったのである。

 という訳で「イオニア七島連合共和国」は当事者に何の相談もないまま消滅してしまった。1799年以来、8年ぶりにイオニアの島々にフランスの三色旗が翻った。現地では大した波乱もなかったが、共和国政府で活躍したカポディーストリアスはロシアからの招聘を受け、いろいろ考えた上でそちらに旅立っていった。彼はロシア政府を100%信用していた訳ではないが、侵略者ナポレオンはもっと嫌いであった(ギリシア独立とカポディーストリアス)。ロシアでもらった最初の職は外務省勤務の国事参事官という、軍隊でいうなら准将に相当する位であった。

 1809年、コリングウッド提督率いるイギリス艦隊がイオニア諸島のフランス軍を攻撃、これを占領した。イギリスはイオニア諸島の戦略的重要性をよく理解しており、その後ギリシア本土がオスマン帝国から独立した後も、1864年までその領有を続けることになる。中途半端とはいえビザンティン帝国の滅亡以来始めて成立したギリシア人国家の故地が、本土が独立した後もずっと外国の支配下に置かれ続けていたというのは歴史の皮肉である。

   

   独立思想のめばえ   目次に戻る

 

 カポディーストリアスは青年時代(といってもロシアに渡った時点でまだ33歳だが)イタリアのパドゥア大学でアリストテレスの哲学に触れ、自分たちギリシア人(註1)こそが西洋文明の根源であることに強い誇りを抱くようになっていた(ギリシア独立とカポディーストリアス)。彼は七島連合共和国の首脳の1人として、公用語としてのギリシア語の採用(註2)等にも力を入れていた。彼の理想は次第に全ギリシアの独立へと拡大していった。

 註1 ただし、カポディーストリアスの家はイタリア系である。

 註2 イオニア諸島の住民はギリシア人が多数を占めるが、長らくヴェネツィアの支配下にあったことからイタリア語が第一言語とされていた。

 七島連合共和国が立ち消えになった後、ヨーロッパではナポレオンが没落し、その後始末を話し合う「ウィーン会議」が開催された。カポディーストリアアスはこの会議にロシア皇帝アレクサンドル1世の補佐官として随行し、様々な問題の解決に辣腕を振るった。彼はこの機にイオニアの独立回復を探って結局は失敗したが、カポディーストリアスがロシアを頼ったのは決して偶然ではなく、この頃のギリシア人全般の感情を代弁するものでもあった。

 そもそもオスマン帝国支配下のギリシアでは、北方から「金髪の民」がやってきて解放者となるという伝説が広く信じられており、これはロシア人を指すと考えられていた(ギリシャ近現代史)。ロシアは東方正教の信徒の中で、唯一オスマン帝国の支配に服していない民族なのである。

 当初、17世紀頃までのギリシア人の中には、自力でオスマン帝国からの解放を成し遂げようとする感情はほとんど存在しなかった(前掲書)。しかしながら、オスマン帝国の弱体化とロシア帝国の強大化によって、18世紀末頃からギリシア人自身による独立の機運が高まってくる。ロシア・オスマン間の戦争(註3)が激しくなる頃からロシアへと亡命(移住)するギリシア人が激増し、様々な便宜を与えられて海運や手工業に活躍する者が多く見られたが、その中でまず南ロシアのオデッサ市の商人たちが最初の秘密結社「友愛会」を結成するに至るのである。

 註3 1768〜74年の戦争、1787〜92年の戦争、1806〜12年の戦争と、寝てもさめても戦いつづけていた。イオニア占領の時の同盟は本当に一時的なものである。

 もっとも友愛会は最初のギリシア独立結社ではなく、正確には1796年に結成された「結社」をもってその嚆矢とする(註4)。これはオーストリアで生まれたもので、最初期のギリシア独立運動は、この「結社」にしても友愛会にしても外国でおこったものである。これは単なる偶然ではない。

 註4 すぐに弾圧された。オーストリアからトルコ領に潜入しようとしてオーストリア官憲にとどめられ、トルコ官憲に引き渡されたのである。指導者リガス・フェライオスも処刑される。

 イオニアのカポディーストリアスがイタリアの大学でギリシア人としての誇りを再認識したのと同じく、この頃のギリシアの若者の中には、(各地で活躍するギリシア商人から奨学金を得て)西欧に留学し、そちらの知識人の教養のバックボーンがギリシアの古典文化にあることに強い刺激を受ける者が多くいた。

 そもそも古代ギリシアについての知識はギリシア本国では絶えかけていた(ギリシャ近現代史他)。今まで著者はごく普通に「ギリシア人」という名称を用いていたが、ここでこの語について、少し突っ込んだ議論をする必要があるだろう。(民族とは何かというさらに抽象的な議論は後で行う)

 この「ギリシア人」なる語には、いうまでもなく「古典古代(ギリシア)文明の直系」というニュアンスが含まれている。ところが、オスマン帝国の支配下での「ギリシア人」は実は自分たちが古代文明の継承者であるなどとは考えておらず、ビザンティン(東ローマ)の伝統を受け継ぐ「ロメイ(ローマ人)」として自らを認識していた(オスマン帝国の解体)。さらに、イスラム教徒が「ルーム(ローマのアラビア語よみ)」という語を用いる場合、それは民族ではなく「キリスト教徒」を意味している(前掲書)が、これは、イスラム国家においては民族よりも宗教の方がアイデンティティの主要な拠り所となっていた(註5)ことに由来し、キリスト教徒の方もそれに対応する形をとるに至っていた(前掲書)(註6)。しかも、東方正教における公用語がギリシア語である以上、「ギリシア語を母語として話すキリスト教徒」たることが個々人の帰属意識として重要な位置を占めることは当然で、現実には「ギリシア人・トルコ人・アルバニア人・ルーマニア人・スラブ人その他が混血して出来たもの(バルカンの亡霊)」でしかない「ギリシア語を話すキリスト教徒から見れば、「古典古代直系のギリシア人」というものは、実体としても理念としても存在しないものであった。せいぜい、カポディーストリアスの「1453年のコンスタンティノープル陥落(ビザンティン帝国の滅亡)以来東方正教を信仰し、先祖伝来の言葉を話す人は、どこにいようと皆ギリシア人だ」という定義でのみ「ギリシア人」は存在していた。本稿で述べる「ギリシア人」というのはこれのことである。

 註5 もちろんイスラム国家においても「民族」は明確に存在する。かつては「イスラム教徒=アラブ人」だった時代からイスラム教の勢力が伸びるにつれ、(イスラム国家は)古くからの文化的一体性(民族性)を有していたイランその他を征服し、トルコ系遊牧民族にもイスラム教を広めていったが、そのような(文化的・軍事的に)強力な大民族はアラビア語(コーランを綴った言葉)を文明語として受け入れつつも自分の母語をそのまま保持し、それにイスラム教内部のスンナ派とシーア派の争いが絡んで、民族ごとに独自の国家を建設することが多かった。ただしそれは理念上はあくまでそれぞれの土地におけるイスラム法の守護者として位置付けられ、民衆レヴェルの実生活においてもイスラム法が機能していた。しかもイスラム社会においては、セルジューク帝国やオスマン帝国といったイスラムの大帝国が複数の大民族(アラブ・トルコ・イラン等)を一度に支配することが多く、その点で早くから「一民族一国家」が(相対的に)固定的だった西欧とくらべて、(イスラム国家においては)「民族」よりも「宗教」による統合を重視せしめたと考えられている。(オスマン帝国の解体)

 註6 イスラム法に基づく政教一致を旨とするが非イスラム教徒の存在も認めるというイスラム国家においては、中央の政治機構から除外された非イスラム教徒も、各宗教ごとにイスラム法的な自治を許されることになる。すると当然そこでは狭い意味での「民族」よりも宗教の違いを優先的にとらえることになる。(オスマン帝国の解体)

 しかしながら、西欧文明に接した若い知識人は自らを「古典古代直系のギリシア人」たると強く認識し、さらには、これも西欧で形作られた「近代国家」を移入する際の基盤にその「ギリシア人意識」を据えようとするに至る。この問題については後でまた述べることになるであろう。

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