第1部その3

   

   ナヴァリノの海戦   目次に戻る

 9月、イギリスとフランスの地中海艦隊がギリシアに到着し、現地のエジプト軍司令官イブラヒム・パシャに停戦を勧告した。イブラヒムはオスマン政府からの明白な支持がなければ停戦は出来ないとつっぱねた。ギリシア軍の中央は停戦を受諾したが、前線の部隊は勝手な行動を続けていた(近代ギリシァ史)。

 10月14日、ロシア艦隊が到着した。3艦隊の司令官は再びエジプト軍に交渉を申し入れたが、「閣下は留守です。どこにいるかわかりません」と告げられただけであった。冬が近付いており、艦隊をそのまま地中海の荒天にさらす訳にはいかなくなってきた。3艦隊の首脳は相談の上、エジプト・オスマン艦隊のいるナヴァリノ湾に進入し、大砲をちらつかせながら話に決着をつけるしかないと考えた(前掲書)。ただし、相手が先に発砲しない限り、こちらからは絶対に戦闘をおこさないことが決められた。

 10月18日、ナヴァリノ湾に入った連合艦隊はオスマン艦隊に極めて隣接する形で錨を降ろした。連合艦隊は英将コドリントン提督の指揮下にあわせて27隻の戦列艦(大砲1280門)、エジプト・オスマン艦隊は大小130隻(大砲2430門)を揃えていた。

 20日午後2時、使者を乗せた小艇がオスマン艦の銃撃を受け、たちまち本格的な大海戦へと発展した。ネルソン提督以来ヨーロッパ最強のイギリス艦隊を含む連合艦隊と、数は多いが旧式艦ばかりのオスマン艦隊では全く勝負にならず、オスマン艦隊は4時間たらず後に7割以上の艦艇を失って潰走した。この「ナヴァリノの海戦」は帆船のみをもって行われた最後の大海戦であった。

   

   露土戦争   目次に戻る

 これはまたとんでもないとこをやったものである。ロシアとフランスは喜んだがオーストリアは激怒し、イギリスでも「望ましからざる意外な出来事」との意見が吐かれた。オスマン帝国も3国への謝罪と損害賠償を求めてきた。結局3国の大使はオスマン帝国を退去したが、そのうちイギリスとフランスの大使はオスマン政府に対し遺憾の意を表明し、ロシアのみがオスマン帝国の怒りの矢面に立たされることになった。「ロシアはオスマン帝国の宿敵で、懲らしめなければならない。1人1人自分たちの信仰と帝国のために立ち上がろう」。オスマン領内に住むロシア人への迫害が行われた。ロシア・オスマン関係は一触即発の状況となった。

 オーストリアは思いきってギリシアの完全独立を認めるべきことを提案した。オスマン帝国がロシアに負けた場合、ギリシアにロシア領が出来ることを警戒しての措置である。フランスはこの機会に近東への発言権を伸ばそうと考え、イギリスで新たに出来たウェリントン政権はフランスの野望にもロシア・オスマン間の戦争にも反対した。このままでは全ヨーロッパ規模での戦争がおきかねないのである。(ギリシア独立とカポディーストリアス)

 28年1月18日、カポディーストリアスがギリシアに到着した。ロシアのプーシキン、フランスのユーゴー、ドイツのゲーテからギリシア独立に共感を示す挨拶が贈られた。2月7日には正式の大統領就任宣誓が行われた。しかし、諸国の知識人はともかくとして、各国の政府は各々の利害の調整のみに熱心で、カポディーストリアスの「臨時革命政府」は世界中のどこにも承認されていなかった。だが、情勢は確実にギリシアの独立容認へと進みつつあった。少なくとも、独立戦争以前の、オスマン帝国の完全な支配のもとに戻ることはないことははっきりしていた。

 4月26日、ロシアがオスマン帝国に宣戦を布告した。ロシア軍は黒海の東西両岸から総勢10万の兵力をもって南下を開始した。これを迎え撃つオスマン軍は総兵力18万と多数ではあるがロシア軍の主力7万の進撃するワラキア(ルーマニア)方面の兵力は約8万であった。オスマン軍の抵抗は極めて激しく、道路が不良かつ補給の不手際からロシア軍の進撃は難渋を極め、ドナウ河を渡るまでに丸1ヵ月、そこからブルガリアのヴァルナ要塞の線まで進むのにさらに4ヵ月もかかる有り様であった。

 9〜12月、ポロス島でイギリス・フランス・ロシア3国の大使会議が行われ、ギリシアの国際的地位や領域に関する話し合いがもたれた。そこでは、ギリシアがオスマン帝国に払うべき貢租といったことが問題とされ、まだ諸国がギリシアに完全な意味での主権を与えるつもりがないことを物語っていた。29年3月のロンドン協議会でも、やはりオスマン帝国の宗主権下におかれるべきギリシアには、英仏露3国以外の王家の人物を君主として推戴されることが望ましいと決められた。かような話し合いはギリシア人には何の相談もなく進められていた。ただし、英仏とエジプト太守メフメト・アリの協定によって、ギリシアのエジプト軍が撤退したのは喜ぶべき進展であった。

 

 その間、ロシア軍はヴァルナ要塞の攻略にかかりきりになっていた。これを4ヵ月かかって陥落させ、さらにスリストリアとシウムラの要塞を攻め落としたのは冬を越した29年の6月、その2ヵ月後の8月20日にコンスタンティノープルから北西200?の古都アドリアノープル(エディルネ)を占領した時には、ロシア軍の兵力は1万5000程度にまで落ち込んでいた。激戦続きと疫病で疲弊しきったロシア軍は、しかし強気の攻勢策をとってさらに3方面に兵力を分かつ冒険に出た。アルバニア方面から新手のオスマン軍約4万が接近しつつあり、ペスト患者が増える一方のロシア軍にとってこの行動は虚勢以外の何者でもなかったが、首都に迫られたオスマン帝国の狼狽と、ロシア一国の優勢を嫌うイギリス・オーストリアの仲介交渉によって、9月をもって「アドリアノープル条約」締結を実現するに至ったのである。

   

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 「アドリアノープル条約」の規定は長い間ロシア・オスマン間の係争の地となってきたルーマニアやカフカスに関するものが大半で、ギリシアについてはオスマン帝国がその自治を認めるという意味のことだけが記されていた。そのギリシア「自治国」の領域や国制についてはまだ未確定である。

 そのことがイギリスを大きく動かした。今回の条約の内容は他国に相談なく決められたもので、ギリシアに対するロシアの影響力が拡大されることが強く懸念されたのである。それならいっそ、英仏が積極的にに参画することで可能な限りロシアの勢力を除外した形でのギリシアの「完全独立(註1)」を認めた方がいいであろう(ギリシア独立とカポディーストリアス他)。

 註1 オスマン帝国によるいかなる形での主権も認めないという意味。当初の「自治国」構想では、ギリシアの君主はオスマン皇帝の任命によるとかオスマン帝国に対して貢納金を支払うとかが考えられていた。

 30年3月、ロンドンで会議が行われ、ようやく諸国によってギリシアの完全独立が承認された。しかし、その国土や君主をどうするかはなかなか確定しなかった。この年7月にフランスで「七月革命」が起こってブルボン王家が転覆し、その余波が全ヨーロッパに拡大したことから、諸国はしばらくの間ギリシア問題どころではなくなった。

 列強によるギリシア問題の会議から常に除外されてきた「ギリシア大統領」カポディーストリアスは、主に新国家建設のための内政に取組んでいた。これまで中央からの統制がないままバラバラにオスマン軍と戦っていた各地の武装勢力を正規軍に再編し、財政確立のための税制の整備、銀行の創設、偉大なる古典古代文明と東方正教を教えることに主眼を置く学校の建設等が進められた。

 ただし、これらの改革はすべてカポディーストリアスの独裁的な手腕によって強行された。オスマン軍との戦いの最中に内部分裂を起こすようなギリシア人は、要するにまだ政治的に未成熟なのであって、自らの強力な権力を行使することによって彼等を教育しなおさなければならないと考えたのである。

 しかしながら、これまでオスマン軍との苛烈な戦闘をくぐり抜けてきた現地の指導者にとって、カポディーストリアスの態度は黙視し得るものではなかった。一般の農民たちにとってはむしろカポディーストリアスは尊敬の対象であつた(ギリシア独立とカポディーストリアス)が、指導者層は何度も反抗を企て、終いには反乱までひき起こした。エジプト・オスマン軍はロシアとの戦争の際にひきあげており、実質的なギリシア独立はほぼ確定しているにも関わらず、ごたごたは全くおさまらなかった。専制者からの解放は平和には結びつかなかった。これは第二次世界大戦においても繰り返されることになる。

 31年10月9日、教会に入ろうとしたカポディーストリアスが2人組の男に襲われ、ピストルと短刀の直撃を受けて絶命した。犯人はつい最近カポディーストリアスへの反乱を起こして鎮圧されたマヴロミハルス家の一族のものであった。

 

 32年5月、諸国はようやく「ギリシア王国」の建設を最終的に決定した。国王には英仏露3国以外の王族が望ましいとの基本方針に基づき、バイエルン王家の次男オットーが選出された。オスマン帝国は1300万フランの賠償金受け取りと引き換えにこれを承認した。カポディーストリアス暗殺後、ギリシアはまたしても2派に分かれて内乱寸前の状況に陥っていたが、その混乱はフランス軍の力によって収拾された。「ギリシア王国」の領土はペロポネソス半島に南部ルメリア、本土に近いいくつかの島に限定された。ヨーロッパの国際政治の基本が、どこか1国が突出することを抑制する「勢力均衡」にある以上、オスマン帝国があまりに弱体化することは避けねばならなかった。

 ギリシアの独立戦争はあくまでギリシア人の手によって起こされたものではあるが、自力での勝利は恐らく不可能なものであり、その独立達成は列強諸国間の利害調整の副産物とすら言えるものであった。また、独立戦争の背景となった西欧知識人の親ギリシア感情は、2000年も昔の古典古代の英雄たちの幻を現実の「ギリシア人」に被せたものであり、かような「歴史の遺産」を持つが故に独立を達成することが出来た近代ギリシアは、詳しくは後述するが、その後はビザンティン帝国の栄光を背負うことによって世界の歴史の中に深く寄与していくことになる。もちろん、あまりにも巨大な歴史の遺産は近代のギリシア人に背負いきれるものではなく、現実の独立戦争も各国の政治的・経済的思惑があってはじめて勝利することが出来たのは既に述べたとおりである。ギリシアの近現代史は、この、現実に不釣り合いな過去への思慕と、「保護者」たる列強の干渉によって彩られていくことになるのである。

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