衰えたとはいえ、オスマン・トルコ帝国の領土は現在のトルコ共和国のそれの2倍以上の面積を有していた。現在のギリシアはその北部でマケドニア(旧ユーゴスラヴィア)・ブルガリア・アルバニア(とトルコ)と国境を接しているが、そのうちマケドニアとアルバニアは1912年の時点でまだ完全なトルコ領であり、ブルガリアの南部と、現在ギリシア領に含まれている西トラキアに南エピルスもオスマン領に含まれていた(註1)。しかし、これらオスマン帝国に残された地域も実に厄介な問題を抱えていた。
註1 現在の「マケドニア共和国」は20世紀初頭にマケドニアと呼ばれていた地域の半分程度の領域しか有しておらず〜詳しくは後述するが〜残りの大半はギリシアに含まれている。1912年段階のオスマン帝国の領土は上に上げたもの以外に現在のシリア・イスラエル・ヨルダン・イラク・サウジアラビアの紅海沿岸地方などが含まれていた。
マケドニアはいわば周辺諸国の草狩り場であった。ここは山がちなバルカン半島のなかで肥沃な平野に恵まれ、海港テッサロニキはバルカン第3の都市である。周辺3国(セルビア・ブルガリア・ギリシア)は現地の人々を自国と同じ民族であると唱え争った。その根拠はそれぞれ次元が違っていて、セルビアはその宗教儀式が、ブルガリアは言語の文法・語彙がそっくりだと主張し、ギリシアは現地の教会の管轄がギリシア総主教区に属することを声高に唱えるといった具合である。3国はマケドニアの領有を目指して水面下の暗闘を繰り返し(註2)、マケドニアの住民自身も諸派に分かれてテロ合戦を行った。
註2 1897年の「30日戦争」でギリシアがセルビア・ブルガリアの支持を受けられなかったのはこのためである。
前述のとおりギリシアはマケドニアの人々がギリシア正教会を信奉することをもってそのギリシア人たることを主張していたが、1870年に「ブルガリア正教会」が創設(註3)され、マケドニアにおいても各教区の住民の3分の2が賛成すればそこはブルガリア総主教の管轄になる(つまり実質的にブルガリア人として認められる)との規定が出来ると、どちらの教区に属すかでたちまち血を見る争いに発展した。その一方でここには全く独自の「マケドニア人」というアイデンティティも芽生えつつあった(註4)。マケドニア在住の知識人が「マケドニア人のためのマケドニア」を唱えて1893年に結成したグループ「内部マケドニア革命組織(VMRO)」が勢力を拡大し、1903年にはマケドニアの自治獲得を目指して武装蜂起を行った(イリンデン蜂起)が、これはオスマン帝国の大軍によって鎮圧された。この後オーストリアとロシアが乗り出し、マケドニアを国際管理下において秩序回復後に「民族ごとの」行政区を設立するとの提案を行った。しかしこれがよけいな混乱を呼ぶハメになる。マケドニアの住人を「自分と同じ民族」と考える周辺3国は、将来の有利な区割りを確保するためにマケドニア内部で力づくの工作を行い、セルビア・ブルガリア・ギリシアの不正規軍とオスマン軍と、4派入り乱れての大混戦を呈するに至ったのである。
註3 もともとブルガリアは宗教的にはギリシア総主教区の管轄に置かれていたが、18世紀以降はギリシア人の聖職者がブルガリア人にギリシア語を押し付けようとしたことから次第に独自の教会組織を持とうとの意識が高まってきた。ブルガリア人とは5世紀に中央アジアからやってきた遊牧民族と先住のスラブ人が混合したものであり、中世には「ブルガリア帝国」を建設してビザンティン帝国と争ったこともある。近代ブルガリアの民族意識には東方正教会によるギリシア語の押し付けへの反発と中世「ブルガリア帝国」への回顧が大きく作用しており、ギリシア総主教区から独立する「ブルガリア正教会」の創設も、ギリシア人の反オスマン活動に怒ったオスマン政府がギリシア・ブルガリアの分断を狙って実施したものなのである。
註4 かつてのギリシア人と同じく、マケドニアの人々も「民族」という枠組みにあまり関心をもっていなかったのである。
それからアルバニアである。アルバニア人はその大部分がイスラム教を奉じており、長い間オスマン帝国の官僚機構や軍隊に優秀な人材を提供し続けていた(註5)。ただしアルバニアの南部には東方正教会の信徒がおり(註6)、正教会がギリシア語とギリシア文化の教育を行っていたことから、後にギリシアがその地域の領有を主張することになるのだが……それはともかく、1878年の「ベルリン条約」の際、アルバニア人居住地域の一部がモンテネグロに割譲されそうになったことから「アルバニア民族の権利擁護のための連盟(プリズレン連盟)」が結成された頃から彼等の間にも独立意識が芽生えてくる(バルカン現代史)。
註5 後にトルコ共和国初代大統領となるムスタファ・ケマルも実はアルバニア系トルコ人なのである。アルバニア人もマケドニア人と同じく民族意識の形成が遅れていたといえる。
註6 北部にはカトリックの信徒もいる。
最初プリズレン連盟の綱領(アルバニア人居住地域の他国への割譲を拒否する)はオスマン帝国の政策と一致していたが、その後アルバニア人議会の設置といったことまで要求しだしたことからオスマン帝国の態度も硬化してしまい、アルバニア語の公的使用も禁止されることになった。1908年の青年トルコ党革命の際、アルバニア人は革命を強く支持し、この機にアルバニア語の学校や新聞を設立したが、青年トルコの方はアルバニア独立まで認めるつもりはなかったので、次第に弾圧に乗り出すに至ってきた。もうひとつ、アルバニア人居住地域に含まれるコソヴォは、実は14世紀までセルビア人の居住する地域であった。それが1389年の「コソヴォの戦い」においてセルビア軍がオスマン軍に敗退したことからセルビア人は北へと逃れ、その後にアルバニア人が移住してきたという因縁の地なのである。したがってセルビアはコソヴォを中心とする北部アルバニアの領有を強く唱える(註7)ことになり(内陸国セルビアから見れば、北部アルバニアを領有することで海への出口を確保することにもなる)、前述のギリシアによる南部アルバニアへの野心とあいまって状況はますます複雑怪奇を極めていくのである。
註7 近年のコソヴォ紛争の遠因がこれである。
だが、マケドニアをめぐる対立は(表面的には)一時的に鎮静化することになる。まずセルビアで、1903年に新王ペータル・カラジョルジェヴィチが即位するあたりからロシアへの接近が開始され、1904年には同じく親ロシアに傾くブルガリアとの秘密軍事協定が締結されるに至った(註1)。1908年の青年トルコ党革命の直後にオーストリアがボスニア・ベルツェゴヴィナを併合したことはすでに述べたが、セルビア人の多く居住するこの地域の併合はセルビア王国を大いに憤慨させていた。その一方でオーストリアのバルカン進出に危機感を抱いたロシアはバルカン諸国をまとめて味方につけることによってこれに対抗しようと考えた。1908年12月、というからボスニア・ヘルツェゴヴィナ併合のわずか2ヵ月後、ロシア外相イズヴォリスキーが「バルカン・ブロック」という言葉を使用した(バルカン〜歴史と現在〜)。バルカン諸国の思惑は諸国結束してのオスマン領分割にあるが、マケドニアをどのように料理するかで交渉は難航した。
註1 (セルビアは)ロシアに近付いたのはよいが、ちょうどその頃極東で日本と対立していたロシア(日露戦争の直前である)はバルカン半島まで顧みる余裕がなかった。そこで孤立を恐れたセルビアはブルガリアと妥協したという訳である。(バルカン現代史)
11年春、アルバニア人が自治要求の反乱を起こした。同年9月にはイタリアがオスマン領のトリポリタニア(現在のリビア)に侵攻して「伊土戦争」をひき起こした。オスマン帝国の弱体化につけこむなら今しかない。それに、反乱を拡大するアルバニア人がマケドニアにまで攻め込んでその北西部の領有を主張するに至っており(註2)、彼の地に野心を持つ周辺3国としてもますます決断を迫られることとなった。(ユーゴスラヴィア史)。バルカン諸国の同盟交渉が軌道に乗った。12年3月にまずセルビアとブルガリアが、5月にはギリシアとブルガリアが、さらに9〜10月にモンテネグロ・ブルガリア・セルビアがそれぞれ同盟条約を結ぶに至った。これらをまとめて「バルカン同盟」と呼ぶ(註3)。
註2 現在のマケドニア共和国にも多数のアルバニア人が居住し、自治を求めて紛争をひき起こしている。
註3 1865〜67年の「バルカン同盟」と区別し、「第二次バルカン同盟」とも呼ばれる。
1912年10月8日、まずモンテネグロがオスマン帝国に宣戦を布告し、ここに「第一次バルカン戦争」(註4)が始まった。ギリシアはまずクレタ島の正式併合を宣言した上で18日に宣戦を発した(註5)。同盟諸国の利害は必ずしも一致しておらず、ギリシア軍とブルガリア軍とがマケドニアの海港テッサロニキの占領を争って競争するという一幕もあった(註6)が、テッサロニキは数時間の差でギリシア軍の手に落ち、ヒオス島・ミティリニ島・サモス島といったエーゲ海の島々にも次々とギリシア軍の軍旗が翻った。バルカン同盟は総勢71万もの大軍を動員していたのに対し、他の地域の少数民族の反乱やロシアの南下に備える必要のあるオスマン帝国がバルカン方面に投入出来た兵力はわずかに32万であった。ブルガリア軍はトラキアを、セルビア軍とギリシア軍の一部はマケドニアとアルバニアをそれぞれ攻略した。
註4 いつだったか古本屋に『バルカン戦争』という本があったので見てみたらエロ小説だったので仰天した。この本については澁澤龍彦が何かの文章で触れていた(全く評価していないが)し、結構有名な作品らしい。買っとくんだった‥‥。
註5 他の2国は17日に宣戦布告。
註6 ギリシア・ブルガリア間の条約文においても、テッサロニキの帰属については言及されていなかった。
12月、オスマン軍が休戦に応じ、ロンドンにて和平交渉が始まった。トルコは同盟側の強硬な要求を一旦は受諾し、バルカン半島の領土をほとんど全部失うこととなった。ところがこのすぐ後にオスマン帝国内で強硬派がクーデターを起こして新政府を樹立、和平交渉を蹴って再度の戦いを挑んできた。しかし、翌年2月から再開した戦闘は激戦ではあったが同盟側の優勢は揺るがず、4月中旬には再び休戦せざるを得なくなってしまった。
5月、「ロンドン条約」が結ばれた。オスマン軍の完敗であった。だが、バルカン同盟の諸国にとっては不完全な勝利であった。セルビアはアルバニアの領有を望んだが、セルビアの強大化を警戒するオーストリアとイタリアの妨害にあって果たせず、アルバニアは単独で独立することとなった(ただしコソヴォはセルビア領となった)。セルビアはかわりに中部マケドニアを要求し、先にそちらを占領していたブルガリアとの関係を悪くした。そのブルガリアはギリシア占領地区のテッサロニキの領有を策謀した。戦争に無関係だったルーマニアがブルガリア北部の南ドブルジアに野心を示した。オスマン帝国は失地回復を狙っていた。
ロンドン条約署名から3日もたたない6月1日、セルビアとギリシアが対ブルガリアの同盟条約を結んだ。6月29日、先にブルガリアが動いてマケドニアのセルビア・ギリシア軍を攻撃した。これが「第二次バルカン戦争」である。すぐにモンテネグロ・ルーマニア・オスマン帝国が(ブルガリアに)宣戦し、ブルガリアはなすところなく敗北した。
8月10日、新しく「ブカレスト条約」が結ばれ、第一次バルカン戦争以来の戦後処理が一応決着した。ブルガリアは西部トラキアを確保したものの他の(第一次バルカン戦争の時の)占領地を失い、さらにルーマニアに南ドブルジアを奪われた。オスマン帝国は古都エディルネを含む東トラキアを回復し、セルビアはコソヴォに北・中部マケドニアを、モンテネグロはノヴィ・バザール地方の一部を獲得した。ただし、特にセルビアはアルバニアの領有を認められなかったことからまだ不満を抱いており、モンテネグロも同様であった。
そしてギリシアは、2度のバルカン戦争を経てその国土を一挙に70%も増加させていた。南部エピルスに南部マケドニア、クレタ島を含むエーゲ海の島々を獲得、人口も280万から480万に急増した。ただし、こちらも完全な満足には程遠い状態であった。ギリシア人の多く居住する北部エピルス(註7)は独立アルバニアに含まれたままであり、やはりギリシア人の居住するドデカニサ諸島は先の「伊土戦争」の際にイタリア軍に占領されたままになっていた(註8)。周辺諸国に居住するギリシア人はまだ数百万人存在すると考えられた。またその裏返しとして、ギリシアは厄介な民族問題を抱え込むことになった。
註7 ここでいうギリシア人とは、ギリシア語とギリシア文化の教育を受けたギリシア正教徒という意味であり、北エピルスの「ギリシア人」が実際に何民族なのかは判然としない。
註8 別にイタリア軍がギリシア領土を占領した訳ではない。オスマン領の中でギリシア系住民が多数を占める島々を占領してしまったという意味。
新しい領土、例えばテッサロニキの住民で一番多いのはギリシア人ではなくユダヤ人であった。南部マケドニアの住民の多くは(前述したとおり)ギリシア人なのかブルガリア人なのかセルビア人なのかそれとも独立の「マケドニア人」なのか判定のつかない状態であった(つける必要はない……というのは理想論)。「民族」を言語によって分類するなら南部マケドニア住民にはギリシア語を話せない人が少なからず存在したが、ギリシア政府は彼等を「スラヴ化したギリシア人」と解釈し、ギリシア語教育(ギリシア化)に力を入れることになる。が、それはなかなかうまくいかず、他にも明らかな非ギリシア人(ブルガリア語を話すブルガリア正教徒、イスラム教徒(註9)、ユダヤ人他)も多数存在したことが後々まで深刻な問題として糸を引くことになる(註10)。
註9 1912年の南部マケドニアにおけるイスラム教徒の割合は実に39.4%を数えていた。(バルカン現代史)
註10 マケドニアのうちセルビアに併合された部分の住民は第一次世界大戦後のユーゴスラヴィア王国時代を経た後ユーゴ共産党によって(セルビア人でもギリシア人でもブルガリア人でもない)独立した「マケドニア人」としての民族自決権を承認され、第二次世界大戦後の社会主義体制の連邦制度の中でセルビアやクロアチアと同格の「マケドニア共和国」を構成することになった。ただしブルガリアはその後も「マケドニア人」なる民族の存在を認めず、ユーゴ国内に住むそれらの人々はあくまで「ブルガリア人」であると主張している。もちろん現在(2001年)のブルガリアではそんな考えは少数派であるが、今度は「マケドニア共和国」内において明らかな非マケドニア人たる(少なくとも本人たちがそう自覚している)アルバニア系住民の動きが活発化するに至ってきた。マケドニアは19世紀後半から周辺の「大セルビア主義」「大ブルガリア主義」「大ギリシア主義」「大アルバニア主義」の草狩り場となってきたのである。
それでもこの頃のギリシアはその近代の歴史の中での極盛期にあたるといえる。第一次バルカン戦争の最中の13年3月18日、国王ゲオルギオス1世が狂人(註11)に暗殺されるという悲劇が出来したが、その後継者コンスタンディノス1世は、その名前故に最大の歓呼をもって迎えられることとなった。
註11 この「狂人」はテッサロニキに野心を持つブルガリア人には「愛国者」と呼ばれた。どっちが正しいのやら。
現在の日本人には極めて理解しにくい話であるが、(少なくとも20世紀初頭の)ギリシア人の多くにとっては、現在オスマン帝国の首都となっているイスタンブール、ギリシア流に言えばコンスタンティヌーポリ(コンスタンティノープル)こそがギリシアの本当の首都であると考えられていた(註12)。コンスタンティヌーポリとはかつてのビザンティン帝国の首都であり、ビザンティン帝国とはギリシア人が誇りをもって回想するギリシア人の国家なのである。新たな国王となったコンスタンディノス1世とは、ビザンティウム(コンスタンティヌーポリの古名)の建設者コンスタンティヌス大帝と、ビザンツ帝国最後の皇帝コンスタンティヌス11世の名を受け継ぐ名であり、彼を戴くギリシア人は、「いつの日か、彼がその名を同じくする都市に君臨するであろうことを疑う者は、ほとんどいなかった(近代ギリシァ史)」のであった。
註12 そう考える人は今でもたくさんいるそうです。(ギリシアを知る事典)
ただ……これは前にも述べたことではあるが……オスマン帝国から独立した当初のギリシア人が自らのアイデンティティを古典古代に置いていたのに対し、19世紀末頃のギリシア人がビザンティン時代に目を向けるようになったのは、「メガリ・イデア」なる美名を持つ領土拡張策を正当化するための方策という一面があった(ギリシャ近現代史)。現実にこの時代のコンスタンティノープルには多くのギリシア人が住んでいたとはいうものの、もはや彼の地はオスマン帝国の首都として多様な民族・多様な宗教が共存しているのである。ここに偏狭な民族意識や領土拡張策を持ち込むことでどんな悲劇が出来するか、そのことはいずれはギリシア人自身の身に大変な災厄としてふりかかってくるであろう。
戦争は休む間もなく連続する。ギリシア首相ヴェニゼロスがオスマン帝国との関係改善交渉のためにベルギーのブリュッセルに滞在中の1914年6月28日、オーストリア皇太子フランツ・フェルディナントが暗殺され、これを直接の契機とする「第一次世界大戦」が勃発したのである。第二次バルカン戦争の終結後わずか10ヵ月である。
ギリシアの政界は大戦をめぐって分裂を来たした。首相ヴェニゼロスは連合国(イギリス・フランス・ロシア)に加担し、国王コンスタンディノスは妃がドイツ皇帝の妹のであることから同盟国(ドイツ・オーストリア)に同情的であった。もっともこの時点では連合国は戦域を極力限定しようとしていたことからギリシアの参戦にはよい顔をせず、国王コンスタンディノスの方は、ドイツがオスマン帝国と友好関係を結び、そのオスマン帝国がギリシア対立関係にあるとこを理解している義兄(ドイツ皇帝)の「気の毒だが、ドイツはギリシアのために何もしてやれない」との言葉を勘案し(近代ギリシァ史)、中立に留まる腹を決めていた。
その一方で連合国は現在中立のギリシア・イタリアを少なくとも敵にまわさない工作をぬかりなく進めており、両国がアルバニア領に軍勢を進駐させる許可を与えたりした。アルバニア領の北部エピルスは大戦勃発の直前にギリシア語とアルバニア語を公用語とする自治機関が(ギリシア政府の援助によって〜バルカン・歴史と現在〜)創設されており、ギリシア系とアルバニア系の殺しあいが頻発していた。15年6月にはモンテネグロとセルビアも北・中部アルバニアに進駐した。アルバニア政府は大戦に際して中立を宣言していたが、そんなことはどの国も問題にしなかった。
話を戻す。14年11月、オスマン帝国が同盟国の側に立って参戦した。オスマン帝国に最も近いブルガリアの動向が注目され、連合国はもしブルガリアが自陣営につけばオスマン領以外にもセルビア・ギリシア領の一部を与えてもよいともちかけた。そのかわりセルビアにはオーストリア領の一部を、ギリシアにはオスマン領の一部を与えるという根回しも行われた。
ここでギリシアに約束された領土は、ブルガリアへの譲渡を頼まれた領土よりもギリシア系住民の多い地域であり、首相ヴェニゼロスは大いに乗り気になった。ところが肝心のブルガリアはドイツの「もし同盟国側につけばトルコを説得してその領土の一部を譲らせ、莫大な借款も供与する。セルビア領のマケドニアも占領すればいい」との甘い誘惑に負けてしまい、15年9月6日の秘密同盟条約によって、30日以内に(ドイツ側に立って)参戦することを約束した。一方のギリシア首相ヴェニセロスは引き続き連合国側に立っての参戦を主張していた。もっともギリシア一国でブルガリア(まだ参戦していないが)とオスマン帝国を引き受けるのは辛いので、「英仏混成軍が(ギリシア領の)テッサロニキ(註1)に上陸してギリシア軍を助けること」「もしギリシアがブルガリアの攻撃を受けた場合、ルーマニアが背後からブルガリアを攻撃すること」との要求を連合国に持ち出した。それならば、かねて予定の連合国によるオスマン帝国本土攻撃にギリシア軍1個兵団を提供してもよいという訳である。
註1 マケドニアのギリシア領部分の港町。ここはオスマン帝国・ブルガリアに近く、セルビアに向う鉄道の起点でもある。
ところが、この要求はかえって連合国の方を硬化させてしまった。イギリス軍にはテッサロニキにまで兵力を割く余裕がなく、もともとオスマン領に野心を持つロシアはギリシア軍がコンスタンティノープルを占領してしまう可能性を嫌い、ルーマニアはこの時点では中立を保っていた。さらにギリシア軍の内部にも軍事的見地からヴェニゼロスの計画に反対する意見が多く、特に参謀総長メタクサスが辞表まで用意して国王コンスタンディノスを説得していた。その結果、国王と対立したヴェニゼロスは辞任を余儀なくされた。しかし、ヴェニゼロスは議会で多数派を有しており、15年6月の総選挙でも勝利した。国王はヴェニゼロスを首相に復帰させるしかなくなった。
10月、ブルガリアが正式に同盟国側に立って参戦した。ブルガリア軍はドイツ・オーストリア軍ともどもセルビアに雪崩れ込み、危地に立ったセルビア政府はギリシアに援助を求めてきた。ヴェニゼロスはセルビアを助けるために再度英仏軍にテッサロニキ(註2)上陸を要請し、今度は英仏軍も数万の軍勢を送り込んできた。ここまで来ても、国王コンスタンディノスは参戦に絶対反対であった。彼は再びヴェニゼロスを辞任に追い込み、後任の首相ザイミスは「参戦すればキプロス島を与える」というイギリスの提案を蹴るという、その後のギリシア史を考える上で恐ろしく大変な決断を下してしまった。テッサロニキの英仏軍はブルガリア軍と険しい山岳地帯に阻まれて大した動きがとれず、ドイツ・オーストリア・ブルガリア軍の総攻撃を受けたセルビアはその国土の大半を占領されるという事態に陥った。セルビア軍の生き残りは難民とともにアルバニアを通って(註3)海へと退却し、そこから英仏伊の船で命からがら脱出したのであった。(アルバニア南部は中立国たるギリシアの勢力が強く、セルビアが崩壊したすぐ後の16年4月にギリシアへの併合が宣言された)
註2 既に述べたように、ここは陸路セルビアに向う鉄道の起点である。
註3 アルバニアの北・中部がセルビア・モンテネグロ軍によって占領されていたのは前述の通り。そこを通って退却するセルビア軍はアルバニア人の報復に耐えなければならなかった。
セルビアとギリシアは「第二次バルカン戦争」の前から、「ブルガリアがセルビアを攻撃した場合、ギリシアはセルビアを援助する」との盟約を結んでいたのに、今回のギリシアの行動は明らかに信義にもとるものである。
もちろん国王コンスタンディノスにも考えがあった。この少し前にイタリアが連合国側に立って参戦していたが、連合国はギリシアよりもイタリアの御機嫌をとるため、ギリシア人の多く住むドデカニサ諸島や北部エピルスの占有を認めてしまっていた。また、英仏軍によるガリポリ半島上陸作戦(註4)が無惨な失敗に終わったことが、一般のギリシア人の連合国に対する信頼を失わせているとも考えられた(近代ギリシャ史)。国王は解散総選挙に訴え、ヴェニゼロス派が棄権にまわったこと等が手伝って勝利をおさめることが出来た。だが、セルビア軍の残党(といっても軍隊だけで10万以上いる)がテッサロニキの英仏軍に合流するのを妨げたり、南下してきたブルガリア軍に国境の陣地を明け渡したりしたのはやりすぎだった。
註4 オスマン帝国本土(しかも首都のすぐ近く)への上陸作戦。
16年6月、しまいに怒りだした連合国がギリシアに最後通牒を突き付けてきた。「ギリシア軍の動員解除、現政府の辞任、議会の解散」。しかし国王コンスタンディノスはのらりくらりとこれをかわそうとする。9月、ヴェニゼロスが故郷クレタ島で「まだ救い得るものを救う」として決起を宣言、10月5日にテッサロニキに上陸して「臨時政府」を樹立した。(アルバニア領南部の、それまでギリシアの勢力圏だった北部エピルスにはイタリア軍が進駐した)
連合国はこの事態に戸惑った。ロシアは国王コンスタンディノスの母がロシア王家の出身であることからヴェニゼロスを疑っており、イタリアは自国のオスマン領への野心をヴェニゼロスが妨げるのではないかと考えていた(近代ギリシァ史)。確かにヴェニゼロスの主張は「メガリ・イデア」の実現を強力に追及するものであり(ギリシャ近現代史)、これは列強にとって簡単に認めることの出来ないものであった。連合国が結束して強硬な態度をとれないでいるうちに、親国王派の多い地方でヴェニゼロス派への粛清が行われた(前掲書)。アテネでは市街戦まで起こった。
その間も、テッサロニキや島嶼部のヴェニゼロス派が勢力を固めつつあった。外国に駐在する外交官の大半がヴェニゼロス支持を表明し、兵力も約6万に達した。ロシアでは17年3月(ロシアの暦で2月)に革命が起こったことから全部の政策がひっくり返った。様々な外交交渉が実ってイタリアの態度も軟化してきた。
17年6月10日、連合国は国王コンスタンディノスに退位を勧告し、従わなければアテネを爆撃すると付け加えた。12日、コンスタンディノスは皇太子を伴ってスイスに亡命した。残ったのは次男のアレクサンドロスだが、コンスタンディノス本人は「退位する」とは言わなかった。27日、ヴェニゼロスとその臨時政府がアテネに入城した。7月2日、ギリシアはついに同盟国(ドイツ・オーストリア・ブルガリア・オスマン帝国)に対し宣戦を布告した。
しかしながら、相次ぐ混乱からギリシア軍は戦争どころの状態ではなかった。本格的な準備が整ったのはようやく18年5月のことで、テッサロニキから英仏セルビア軍とともに総攻撃に出たのが同年9月、第一次世界大戦が終結するわずか2ヵ月前のことであった。ブルガリアはすでに戦意を喪失しており(註5)9月29日に休戦受け入れ、10月30日にはオスマン帝国が、11月3日にはオーストリアが戦線から脱落した。ドイツが休戦したのが11月8日であり、ギリシアはぎりぎりのタイミングで「戦勝国」の仲間入りを果たすことが出来たのである。
註5 バルカン戦争以来、国民の4%が死亡していた。しかしそんなのはマシな方である。モンテネグロとセルビアは総人口の2〜3割を失っている。
ヴェニゼロスは得意の絶頂であった。ギリシアは「報酬」としてオスマン帝国の西端に位置するスミルナとその背後地、現在アルバニア領となっている北部エピルス、イタリアの占領するドデカニサ諸島等を要求し、コンスタンティノープルの国際管理案に賛成した。特にギリシアが欲しがったのはスミルナであった。この地域は現在では完全なトルコ共和国領となっている(アナトリア(註1)の西端)が、この時代までは多くのギリシア人が居住しており、その数は当時のアテネの人口よりも多いと考えられていたのである。
註1 現在のトルコ共和国の大半を占める大半島。
しかしスミルナ周辺の地域はイタリアも野心を持っていた。19年4月29日、イタリア軍がスミルナ近くに上陸した。このことはイギリス・フランス・アメリカを警戒させた。この頃パリでは大戦後の処理を論ずる講和会議が進行中であったが、別の問題で他国と揉めたイタリア代表が退席している隙にギリシアがスミルナ占領に関する英仏米の許可を取り付けた。5月15日、ギリシア軍がスミルナに上陸し、この頃激しくなってきた国内問題に苦しんでいたイタリアはやむなくそれを承認した。大戦中、オスマン領に住むギリシア人のうち90万人が処刑もしくは流刑に処されたと考えられ(バルカン〜歴史と現在〜)、今度はギリシア人がイスラム教徒への残虐行為を行った(ギリシャ近現代史)。
1920年8月10日、オスマン帝国と連合国との間に「セーヴル条約」が調印された。スミルナとその背後地は5年間ギリシアの管理地としてその後の住民投票によって帰属を決定するとされた他、東トラキアとエーゲ海のいくつかの島も獲得したギリシアの版図は独立以来最大のものとなった。この条約ではキプロス島はイギリス領に、ドデカニサ諸島はイタリア領に留められてしまったものの、ヴェニゼロスは支持者から「2つの大陸と5つの海」からなるギリシアを築いたと讃えられた。2つの大陸とはヨーロッパとアジア、5つの海とは地中海・エーゲ海・イオニア海・マルマラ海・黒海のことである。
ただし、オスマン帝国はこの条約に批准しなかった。オスマン帝国はギリシアに隣接する領土以外にもシリアやパレスチナ等を連合国に奪われて滅亡の危機に瀕していたが、その国民は1人の英傑の出現によって(それだけじゃないが)急速に民族の誇りを取り戻しつつあった。その男ムスタファ・ケマルは1908年の青年トルコ革命にも参加した軍人で、伊土戦争・バルカン戦争に活躍し、第一次世界大戦の際に連合国によるガリポリ半島上陸作戦を阻止して名をあげた、斜陽のオスマン帝国で唯一の常勝将軍であった。
19年10月に「アナトリア・ルメリア権利擁護団」を率いて帝国議会の多数を獲得したケマルは「非トルコ人地区の民族自決は認めるがトルコ人地域の獲得は許されない」との「国民誓約」を採択させ、民衆の支持のもとに巻き返しを開始した。20年4月、ケマルはアンカラを首都とする臨時政府の大統領に就任した。ここから「オスマン帝国」を「トルコ」と書きかえる。
「セーブル条約」は連合国側の諸国の欲望を完全に満たすものではなく、特に大きな利益を獲得したイギリス・ギリシアに対するイタリア・フランスの不満は相当のものがあった。そこにケマルのつけいる隙があった。まずケマルはイタリアに経済権益を与えるかわりに対ギリシアの援助を約束させ、フランスに対しても同様の手を打った。同時に革命ロシアとも「両国は力によっておしつけられた条約を認めない」との友好条約を結んでそちらからの武器援助を取り付けた。イギリスは大戦の疲れと国内世論から強硬な態度がとれないでいた。
一方のギリシアでは不吉な出来事が続いていた。20年10月、国王アレクサンドロスが死亡し(註2)、その弟パウロスは「現在亡命中の父コンスタンディノスが王位を放棄した訳ではない」として即位を拒否してしまった。さらに11月14日の総選挙はヴェニゼロス派の大敗に終わり、ヴェニゼロス本人も落選の憂き目を見た。バルカン戦争以来、すでに8年も戦争もしくはそれに近い状態が断続的に続き、現在もトルコ人との殺しあいが頻発している。ギリシア人の多くはすでに戦争に飽きていた。それにもかかわらず、ヴェニゼロスはスミルナのギリシア軍に対しさらに奥地への進撃を命じていたのである。
註2 ペットの猿に噛まれた傷から敗血症にかかったのである。
そして12月、国民投票の結果コンスタンディノスの帰国・復位が実現した。奇跡の復活、といいたいところだが、しかし彼は何故か、ヴェニゼロスが失脚前に下していたトルコ領奥地への進撃命令を取り消そうとはしなかった。コンスタンディノス派は総選挙の際にヴェニゼロスの好戦政策を批判して支持を獲得したのに、である。
そのトルコの各地では自発的に編成されたパルチザン部隊がギリシア軍への抵抗を続けていたが、ムスタファ・ケマルはこれらと旧オスマン軍とを統合する「正規軍」を組織した。1月10日、トルコ領を進撃するギリシア軍はイノニュ川の戦いでトルコ正規軍に敗北し、一旦後退した。ケマル率いる新生トルコの実力を見た各国は「セーヴル条約」の見直す会議を開催したが、トルコ(ケマル政府)代表も出席するその「ロンドン会議」が何の成果もなく終了した直後の3月30日、再びイノニュ川の線に進出したギリシア軍は、またしてもトルコ軍の反撃にあって敗北した。ギリシア国王コンスタンディノスは兵士を励ますために自らスミルナの総司令部へと前進し、イギリスの物資援助を得て3度目の進撃を命令した。その兵力は9万6000、飛行機も大砲も充分に揃っている。
今度はギリシア軍の優勢が続いた。ブルサ、エスキシェヒル、キュタヒヤを占領し、ケマル政府の本拠地アンカラから50?の地点にまで進出した。ケマルはあらゆる物資・人員を動員してこの危機にあたり、自身が総司令官に就任して反撃の準備を整えた。ギリシア軍は奥地に進入すればするほど現地民のゲリラ活動に悩まされ、伝統的な軍内部の王党派と共和派の争いも重なって次第次第に疲労の色を濃くしていった。そして、8月23日から22日間に渡った「サカリア川の戦い」にて、ギリシア軍はついに決定的な敗北を喫したのである。
ギリシア軍はそこから約200?もの後退を強いられつつも、まだ組織的に戦う力を有していた。しかしもはや徹底的な勝利は不可能と悟ったギリシア政府はイギリスに調停を依頼したが、その解答は「新たな国際会議がひらかれるまでは何も出来ないので、それまでギリシア軍は持ちこたえなければならない」とのものだった。
ギリシア軍はしぶとく戦い抜いた。イギリスその他の列強はギリシアの依頼どおり停戦を勧告してきたが、トルコはギリシア軍がアナトリアを完全に明け渡した上での停戦を主張した。列強はこの条件を拒絶したが、ケマル側には力づくで条件を飲ませるための充分の用意が出来ていた。
22年8月26日、トルコ軍はケマルの総指揮下に総攻撃を開始した。「前進せよ。目標は地中海!」ギリシア軍は30日のドゥムルプナルの戦いで大敗し、あっという間にエーゲ海へと追いつめられた。ギリシア軍は後退する際にあちこちの町に火を放ち(中東現代史)、9月8日には最大の拠点スミルナも放棄した。アナトリアにおけるギリシア系住民の最大の居住地であったこの港町は、翌日突入してきたトルコ軍によって略奪の限りを尽くされた(近代ギリシァ史)。逃れることの出来たギリシア人は船へと雪崩れ込み、その後ろではギリシア人とアルメニア人キリスト教徒(註1)約3万人が虐殺されたという(ギリシャ近現代史)。
註1 大戦中にロシアとの関係を疑われてオスマン政府に迫害されていた。