第4部その1

   

   パパゴス政権   目次に戻る

 1950年、内戦終結後初の総選挙が行われた。結果は中小政党の乱立で、1年と6ヵ月の間に6つの連立政権が交代する有り様だが、5月に起こった「朝鮮戦争」のために1個歩兵旅団と1個空軍部隊を提供したのは大きな出来事だった。

 51年9月、もっと安定した政局を生み出すため、新しい選挙制度のもとで再び総選挙が行われた。結果第1党を獲得したのは「ギリシア人期成同盟」、伝統的な王党派にとってかわった(ギリシャ近現代史)新しい右派政党で、指導者は内戦末期に政府軍総司令官をつとめたパパゴス元帥である。パパゴスは古くからの王党派軍人で、戦前の王党派・共和派の政変の度に失脚・復帰を繰り返し、メタクサス独裁体制のもとで陸軍大臣・陸軍総司令官をつとめて対伊戦に活躍、さらに戦後の民主軍鎮圧の功績によりギリシア史唯一の元帥に列せられていた。その後(動機は不明とされるが)全ての役職を退いて政界に入った彼は、しかし相変わらず混迷を極める政党政治にも嫌気がさしており、彼が率いる「ギリシア人期成同盟」が「党」という名称を用いていないのは、同じ頃のフランスでやはり政党嫌いのド・ゴール(註1)が率いていた「フランス国民連合」の意識的な真似(近代ギリシァ史)なのであった。

 註1 フランスの軍人・政治家。第二次世界大戦中に「自由フランス」を率いてドイツ軍と戦う。戦後政界で活躍し、58年に大統領となるが、政党嫌いで知られていた。詳しくは当HPの『ド・ゴール伝』を参照のこと。

 ただし「ギリシア人期成同盟」単独では政権獲得は無理であり、この時はニコラオス・プラスティラス率いる「国民進歩同盟」を中心とする中道諸派連立政権が(パパゴスを除外して)組織された。皆さんは忘れているでしょうが、プラスティラスとは、1909年、22年、33年と3回に渡ってヴェニゼロスのためのクーデターを行った、あの「黒騎士」プラスティラス将軍である。彼はメタクサス独裁体制下にて非組織的な抵抗運動を行った後、第二次世界大戦中にはEDESの名目的な長をつとめ、解放後政界に入っていたのである。

 連立政権からはじかれたパパゴスは、政権獲得のために第1党を率いる自分に有利な新しい選挙制度の導入を望んだ。これは具体的には小選挙区制の導入だが、ここでパパゴスはアメリカという強力な味方に頼ることが出来た。アメリカは大戦後の冷戦下において、ギリシアに明確な反共思想を持つ右派の安定政権が出来ることを強く望んでいた。その点でパパゴスは左派に厳しい政治思想を持ち、現に第1党を率いている以上、選挙制度をかえてやるだけでアメリカ好みの政権を造ることができるのである。アメリカは内政干渉ともいえるほどにパパゴスに肩入れし、ギリシア議会に対して、選挙制度を小選挙区制に変更しなければ援助額を減らすという脅しをかけてきた。内戦からこちらのギリシアは、政治・経済・軍事の全面においてアメリカの巨額援助に頼りきっており、その属国のような立場に追い込まれていたのである(ギリシャ近現代史)。

 52年10月、ついに小選挙区制による総選挙が実施され、パパゴスの「ギリシア人期成同盟」が得票率49%、議席数では82%という大勝利をおさめた。大戦中から数えると内戦が3度も繰り返されており、経済も破綻したままである。これを打破しうる長期安定政権はアメリカのみならず多数のギリシア民衆も強く望んでいたことなのである。(プラスティラスはこの後すぐに病死)

 とはいえ、経済再建はなかなか進展しなかった。治安は良くなったがそれは秘密警察による抑圧的なもので、特に共産党シンパへの取り締まりが厳しく行われ、公務員になるにも免許証・パスポートの取得にも人物証明が必要だった(ギリシャ近現代史)。パパゴスの功績はそれよりも対外関係の改善にあった。

 パパゴスは全く劇的というかその後の歴史からいうと信じ難いことを成し遂げた。ソ連と対立するユーゴスラヴィア、同じくソ連の圧力に苦しむトルコ(註2)を引き込むことによって、54年8月に「バルカン軍事同盟」の結成を実現したのである。これは加盟国のいずれか1国が攻撃を受けた場合は自動的に全加盟国への攻撃がなされたと見なすもので、合同参謀本部や非軍事的分野での協調のための共通の制度まで制定する、つまりNATOをモデルにした強力な安全保障体制なのであった。

 註2 ソ連は大戦中からダーダーネルス・ボスフォラス海峡に基地設定を要求し、その後も東部国境をソ連に、ヨーロッパ部分の一部をブルガリアに引き渡すよう要求した。アメリカはトルコに1億ドルの経済援助を行い、NATOに加盟させるとともに西欧諸国のための食糧供給基地としての役割を与えたのである。

 この同盟はすぐに死文化した。56年2月24〜25日、スターリン死後のソ連共産党第20回大会にて衝撃的な「スターリン批判」が行われ、これを受けたユーゴとソ連の関係が急速に改善されてしまった(註3)のである。さらにソ連・トルコ関係、ソ連・ギリシア関係もいくらか良くなったため、もはやソ連に備える軍事同盟が必要なくなった、というならこれほどめでたい話はありませんが、もうひとつ、ソ連と関係ないところから致命的な大問題が出来した。

 註3 ユーゴがソ連と対立したのは主としてスターリンの横暴によるものであった。この時「スターリン批判」を行ったフルシチョフの意図のひとつはユーゴをなだめることにあったとも考えられている。

   

   キプロス紛争の勃発   目次に戻る

 1923年の「ローザンヌ条約」の結果、ギリシアに住むトルコ人(イスラム教徒)はトルコに、トルコに住むギリシア人はギリシアにとそれぞれ強制送還されたことはだいぶ前に見たとおりだが、数十万のギリシア人を有していながら他国の領土にとどまり続けた島がある。キプロス島である。

 キプロス島はかつてはビザンティン帝国の支配下におかれ、その住民の大多数はギリシア語を話す東方正教徒によって占められていた。その後十字軍に占領されたりヴェネツィア領になったりしたが1571年にやはりオスマン・トルコ帝国の支配下に組み込まれ、ギリシア独立戦争が勃発した1821年以後も、本土から800?も離れたこの島はほとんど本国の政情に無関心でありつづけていた。本国がそうであったのと同じく、この島に住む人々も自らを「ギリシア語を話すキリスト教徒」とのみ認識しており、しかも島内のイスラム教徒と平和に共存していた。キプロスのイスラム教徒は現地のキリスト教徒が改宗した者とオスマン帝国の他地域から移住してきた者の2種類が存在するが、キリスト・イスラム混合の村(教会とモスクが隣り合って立つ例もある)や、ふたつの宗教を両方とも信じる者もいたのである。

 1878年、ヨーロッパの列強が一同に会した「ベルリン会議」にて、キプロス島の施政権はイギリスへと譲渡された(註1)。それまで島民たちは自らを「キリスト教徒」「イスラム教徒」とのみ認識してそれ以外の違いを自覚していなかったにもかかわらず、イギリスはこれを新たに「ギリシア人」「トルコ人」と定義し直し(ギリシアを知る事典)、政治や教育も別々の機関に振り分けて実施した。これはマケドニアと同じ構造であるが、特にキプロスの場合はギリシア・トルコ両民族間に適度の緊張感を与えることによって「調停者」イギリスの支配的立場を強化する(前掲書)という、まことに巧妙な統治法なのであった。

 註1 オスマン帝国がロシアに攻撃された時にイギリスが援護する代償としたのである。

 1914年に始まる「第一次世界大戦」では、イギリスとオスマン帝国は敵対関係となり、イギリスはそれまで名目的に認めていたオスマン帝国のキプロスへの宗主権を断ち切ってこれを正式に併合した。15年にはギリシアの参戦を求めるイギリスがキプロスの譲渡案を示したのに当時の国王がこれを蹴ってしまったのも既に見たとおり。従って「スミルナの破滅」もローザンヌ条約もキプロス島には関係なかったが、他ならぬイギリスの政策によって「ギリシア人」たる自覚を深めた島民は、早くも31年にギリシアとの併合を求めて総督官邸を焼き討ちする等の実力行使に出た。「エノシス(母なるギリシアにキプロスも統合されるべきである)」をもっとも強力に押し進めたのは正教会の勢力であった。

 とはいえ、本国政府はキプロスの扱いには慎重であった。この島がイギリスの統治下にある以上、その機嫌を損ねる訳にはいかなかった。第二次世界大戦後の1950年10月、キプロスのギリシア系住民による投票が行われ、実に97%が「エノシス」に賛同した。キプロス代表団はこの結果を国際連合に報告し、「エノシス」への理解を訴えたが、ギリシア政府はこの問題はあくまでイギリスとの伝統的な友好の枠内で取り扱うと表明するにとどめた。

 しかしながらキプロス問題は本国のギリシア人をも強くとらえており、キプロスからの働きかけや、イギリス側の「キプロス問題など存在しない」との有無をいわさぬ対応を受けて、ギリシア政府はパパゴス政権の時代になってようやく重い腰をあげた。54年12月、パパゴスはとりあえず国際連合にキプロス問題を取り上げるよう提議した。

 ところが国連はイギリス・アメリカの強固な反対にあってこれを却下した。ギリシアで激しい反英米デモが行われ、キプロスでも翌年4月から「キプロス闘争民族組織(EOKA)」による暴力活動が始まった。EOKAはキプロス生まれのギリシア軍将校ゲオルギオス・グリヴァス将軍によって指揮されており、島の正教会との関係は公然の秘密であった。最初EOKAの攻撃はごく一部の「非愛国的ギリシア人」に向けられていたのだが、イギリスはここでトルコの介入を促すという、最も破滅的な手段に訴えた。トルコはそれまでキプロスに対してはせいぜい現状維持か分割を考えていた(トルコ現代史)のが、島民の2割を占める「トルコ系住民」に関して利害を持つと主張すべきとイギリスに促され(ギリシャ近現代史)、9月6日にコンスタンティノープルとスミルナにて反ギリシア暴動を扇動した(註2)のである。

 註2 『近代ギリシァ史』より。トルコ政府と暴動のつながりはこの時点では噂にとどまったが、60年にトルコで政変が起こった際に暴露された。

 この暴動により、それまで大きな地位を占めていたコンスタンティノープルのギリシア人街は壊滅的打撃を受けた。4000以上の店鋪、100のホテルとレストラン、70の教会が破壊もしくは損傷し、多数の死傷者が出たのである(前掲書)。こうなるとキプロスのEOKAも黙ってはおらず、島内のトルコ系住民やイギリス軍に対するテロを開始する一方で、トルコ系住民の方も武装組織を結成してこれに対抗した。今に続く「キプロス紛争」の勃発である。ギリシア人の唱える「エノシス」に反対するトルコ系住民のスローガンは「タクシム(分離)」であった。コンスタンティノープル暴動に関してトルコは謝罪と賠償を示したものの、もはやギリシア・トルコ関係は修復不可能な程に悪化してしまった。

   

   キプロス共和国   目次に戻る

 この重大な時に、パパゴスは病死した。在任期間わずか3年であった。国王パヴロスは後任の首相としてコンスタンディノス・カラマンリスを指名した。煙草商人出身のカラマンリスはパパゴスの忠実な支持者として通信建設大臣をつとめていたが、この時まで一般国民にはほとんど知られていない人物であった。

 56年2月、総選挙が実施され、パパゴス派「ギリシア人期成同盟」を再編成した「急進国民連合」が勝利した。騒乱の続くキプロスでは8月に一旦EOKAのグリヴァス将軍が休戦声明を出したもののまたすぐテロが再開され、11月の「スエズ戦争」(註1)でイギリスの国際的信用が下落したことにも助けられ、「エノシス」はますます活気づいていた。カラマンリスはかような流れに逆らうことが出来なくなった。

 註1 スエズ運河の国有化を宣言したエジプトに対し英仏イスラエルが戦争を仕掛けた事件。国際世論の非難を受けた英仏側の撤退に終わった。

 トルコはキプロスをトルコ系・ギリシア系の2つの集団が分割することを提案し、ギリシアは(ギリシア系が8割を占める)島民全体の住民投票によって島の帰属を決定すべきと主張した。イギリスは東地中海の重要拠点を手放すつもりはなかった。ギリシアのカラマンリス政府は国連の議決に勝利するため(近代ギリシァ史)に広範囲の外交攻勢を行い、ソ連・ポーランド・日本との通商協定、エジプト・ユーゴスラヴィアとの同様の交渉、アルバニア・ブルガリア・中華人民共和国との関係改善、スペイン・レバノン・スーダンとの公式訪問の交換等を実施した。しかしそれでもキプロス問題に関する首相カラマンリスの態度は(右派から見れば)弱気なもので、同時期にギリシア国内におけるアメリカ(エノシスに反対)軍基地に関する協定に調印したのは、ギリシア経済が相変わらずアメリカに依存していることを示していた。

 59年、ようやく妥協が成った。キプロスはギリシア系大統領とトルコ系副大統領のもとで独立の共和国を組織するものとされ、イギリス・ギリシア・トルコ3国それぞれが軍隊を駐留させる権利を有するとの「チューリヒ・ロンドン協定」が成立したのである。大統領はキプロス大主教マカリオス3世、副大統領にはクチュク博士が選出され、60年8月16日をもってとりあえずは平穏無事な「キプロス共和国」が発足した。議会・公務員・警察におけるギリシア・トルコ両民族の員数配分に不平等が残る(註2)等、内部に様々な矛盾をはらみつつもキプロス紛争の第1ラウンドが終結した訳で、ギリシアはイギリス・アメリカとの友好関係を修復し、一時的とはいえトルコとの交流も復活したのであった。

 註2 トルコ系住民は島民の18%にすぎないが、議員・公務員の30%、警察官の40%を与えるとの保障がなされた。

   

   政権交代   目次に戻る

 この4年間、キプロス問題ばかりが世論の注目を浴びていた訳はであるが、パパゴスからカラマンリスの治世において、ギリシア経済は相当の上向きを見せていた。海外に移住した移民からの送金は昔からギリシアの主要財源のひとつだが、大戦中中断していたアメリカ移民からの送金が復活し、新たな移民先として浮上した西ドイツ・オーストラリア・カナダからも送金も始まった。また、主要生産物たる煙草の買い取り先としての西ドイツ経済が復興し、それら西欧諸国で生活レヴェルが向上したことによって、古代遺跡の宝庫たるギリシアの観光産業がめざましく成長した。現在のギリシアからは考えられないが、観光産業は戦前にはとるに足らないものだったのである(ギリシャ近現代史)。

 61年、総選挙が行われ、キプロス紛争解決を評価されたカラマンリス派「急進国民連合」が過半数プラス50議席を確保した。第二党は中道派を結集した「中央同盟」、第三党は共産党(今は非合法)の隠れみのである「民主左翼連盟」によって占められた(これについては後述)。パパゴスの「ギリシア人期成同盟」及びそれを引き継ぐカラマンリスの急進国民連合が王党派の血を引く右派政党であるのに対し、中央同盟はかつての共和派や、カラマンリスに満足しない反体制的右派、以前の極左に属していた者を含んでおり、その代表ゲオルギオス・パパンドレウーはもともとヴェニゼロスの直弟子であった。実質的な共産党である民主左翼連合は、キプロス紛争においてギリシアがNATO(特にアメリカ)の支持を得られない怒りが高まった所を巧みにソ連支持へと誘導して勢力を伸ばした(ギリシャ近現代史)政党だが、これは右派のカラマンリスのみならず中道派のパパンドレウーにも強く警戒されていた。パパンドレウーは古くからの共和派ながらも大戦中に国王の亡命政府(共産党主体のEAMと対立した)の首班をつとめた経歴を持ち、断固たる反共思想の持ち主として知られていた。

 とはいっても、パパンドレウーは王室に対しても厳しい批判の目を向けていた。この頃経済成長が減速しており、そのあおりで王室の浪費が攻撃を受けるに至っていた。その点で、実はカラマンリスも王室に不快感を示していた。パパゴス死去の際の彼の首相就任は国王パヴロスの指名によるものだが、王室と軍部の伝統的な信頼関係に強い憤りを感じており(ギリシャ近現代史)、王妃フリデリキとの仲も険悪なものであった。これは後にギリシアが王制を廃止する伏線となった。

 63年5月、テッサロニキで開かれた平和集会の帰り道、民主左翼連盟の国会議員グリゴリオス・ランブラキスが何者かによって轢殺された。犯人は憲兵隊の高級将校をバックに持つ極右組織のメンバーであり、この事件を最大限に利用した(近代ギリシァ史)民主左翼連合による反体制運動が燃えさかった。

 これはイギリスに飛び火した。内戦以降、パパゴス・カラマンリス両政権を通じてずっと続いていた共産主義への抑圧は他国でも大きな問題となっていた。この年夏、国王夫妻がロンドンを訪問する予定を立てた。現地における抗議運動の激化を憂慮した首相カラマンリスは国王に訪問延期を助言したが、特に王妃に強く拒絶され、怒って首相の職を放り出してしまった。在職8年はギリシアの政界では異例に長いものであり、一般には辞職の原因は経済問題にあると考えられた(本人はそれを否定した)。

 11月、総選挙が行われ、パパンドレウーの中央同盟が僅差で第一党を獲得した。続くパパンドレウー新内閣に対する信任投票は民主左翼連盟が支持したおかげで勝利出来たが、共産主義者に頼ることを嫌ったパパンドレウーは即座に辞職、しかし第二党のカラマンリス派急進国民連合も組閣に失敗し、翌年2月に改めて総選挙が行われることとなった。

 その結果は中央同盟の勝利(得票率53%)であった。パパンドレウーはきわどい賭けに勝ったのである。カラマンリスはとりあえず引退し、急進国民連合はカネロプロスが引き継いだ。この時の王室とアメリカは中道派政権による穏健な改革主義こそが共産主義の伸長を抑える最善の道であると考えていた(ギリシャ近現代史)。この直後に国王パヴロスが癌で死に、わずか23歳のコンスタンディノス2世(註1)が即位した。新国王と新首相の仲は良好で、まさか彼がギリシア最後の君主になるとは誰も思いもよらなかった。

 註1  たしか、もとオリンピックのメダリストである。

   

   再びキプロス紛争   目次に戻る

 ところが、ここでまたしてもキプロス問題が火を吹いた。パパンドレウー内閣が成立する4ヵ月前、キプロス大統領マカリオスがトルコ系住民の政治的権利を縮小する憲法改定を一方的に発表し、これに反発するトルコ系住民との武力衝突が勃発したのである。島に駐留するイギリス軍及び国連緊急部隊が展開して事態の収拾にあたったが、64年8月にはトルコ軍の飛行機が島の北部のギリシア陣地を爆撃し、ギリシア軍も戦闘態勢をとるに至って情勢は極めて緊迫したものとなった。55年と同じくこの時もコンスタンティノープルのギリシア人街が襲撃された。

 ギリシア・トルコの全面戦争はアメリカのジョンソン大統領の調停によってなんとか回避された。「諸君の議会と諸君の憲法。アメリカは象である。キプロスはノミである。ギリシアもノミである。もしこの2匹のノミがいつまでも象を痒くさせるなら、ノミは象の鼻でひっぱたかれるだろう。それもこっぴどく」。それまで島のあちこちに散らばっていたトルコ系住民の約半数が少数民族居住地(島の面積の1.6%)に「隔離」され、国連平和維持軍による一定の平和が保たれることとなった。ただし隔離という結末はトルコ系住民にとっては耐え難い苦痛であった。

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