撃墜王アフリカの星
ハンス・ヨアヒム・マルセイユは1919年12月13日にドイツの首都ベルリンに生まれた。姓から見当がつくように彼の家は17世紀に南フランスから移住してきた家系である。父のジークフリートは第一次世界大戦にパイロットとして従軍、大戦が終わった後も陸軍に勤務し続けたが、仕事が忙しかったために妻シャルロッテと離婚している。このことが原因で素行に問題があったとされるハンス・ヨアヒム少年は第一次大戦のトップエースだったマンフレット・フォン・リヒトホーフェン(80機撃墜)に憧れ、38年11月にドイツ空軍へと志願入隊、第5戦闘機乗員学校の生徒となった。翌年3月に少尉候補生となった彼は、しかし規律違反が多くて教官たちに「生意気で反抗的」と評価されたために昇進が遅れ、第二次世界大戦勃発後の40年8月に候補生の身分のまま実戦部隊(第2教導航空団第1中隊)に配属された。
当時のドイツ軍はフランスを占領し、さらに英仏海峡を挟んでのイギリス空軍との激烈な航空戦、いわゆる「バトル・オブ・ブリテン」の真っ最中であった。マルセイユ候補生の初陣は8月13日、イギリス空軍の「ホーカー・ハリケーン」戦闘機と1対1の格闘戦を行い、見事撃墜して帰還した。翌日以降もかなりの活躍を続け、17日までに4機を撃墜し、その間に第2級および第1級の鉄十字章を続けざまに授与された(註1)。しかし彼自身も撃墜されて味方に救助されているし、相変わらず規律に無頓着だったことから禁固3日の処罰を受けたりもした。年末には同期で1人だけ昇進出来ないまま第52戦闘航空団第2飛行隊へと転属となり、そちらの上司からも「信頼性に欠ける」という評定を受けている。結局、バトル・オブ・ブリテンにおけるマルセイユの撃墜スコアは7機、彼自身も6回撃墜されるという結果に終わった。味方の編隊から離れて敵機を深追いしたがる性癖があり、撃墜数7機のうち僚機が確認したのは3機だけだったとされている(僚機でなくても地上の友軍が確認してくれれば公式記録となる)。
註1 鉄十字章とは戦闘における勇敢な行為に対して階級と関係なしに授与される勲章である。下から第2級鉄十字章・第1級鉄十字章・騎士十字章の3段階があったが、後にはさらに上位の章として騎士十字章の飾りが追叙されることになった。これには柏葉飾・剣十字柏葉飾・剣十字ダイヤモンドつき柏葉飾・剣十字ダイヤモンドつき金柏葉飾の4段階があった(最初から4段階あったのではなく、インフレ的に上級の飾が増えていった)。以上7段階の章は必ず下位から順番に授与される(どんな殊勲をあげても、第2級を飛ばして第1級を貰うとかは出来ない)ことになっていた。
翌年2月、マルセイユは第27戦闘航空団に転属となり、バルカン半島での作戦(ここでは1機も落とせなかった)を経て4月21日には地中海を渡ってアフリカ戦線へと移動した。北アフリカのリビアは同盟国イタリアの植民地、隣のエジプトにはイギリス軍(註2)がおり、昨年エジプトに攻め込んだイタリア軍はシディ・バラニの戦いに惨敗して総崩れになっていた(註3)。ドイツはこの2月からエルヴィン・ロンメル将軍指揮の「アフリカ軍団」を援軍としてリビアに投入し、マルセイユの属する第27戦闘航空団もアフリカ軍団を空から支援すべくアフリカへとやってきたのである。マルセイユの新しい上司となったエドゥアルト・ノイマン大尉はこれまでの上役とは違ってマルセイユを持て余すことがなく、自由にやらせることにした。
註2 正確にはイギリス軍だけでなく、南アフリカ軍や自由フランス軍もいた。ただし彼らが使う戦闘機はイギリス製である(6月以降はアメリカ製が登場)。
註3 この辺りの詳しい話は当サイト内の「イタリアのアフリカ侵略」を参照のこと。
4月23日、マルセイユは「ハリケーン」戦闘機1機を撃墜、これが北アフリカでの最初のスコアとなったが、自身も自由フランス空軍機に撃墜されて不時着した。ここまではマルセイユは専ら戦闘機を相手にしていたが、28日には「ブリストル・ブレニム」爆撃機を撃墜している。5月1日には2機を撃墜し、21日にまた撃墜されたが不時着して生還、6月1日にはようやく候補生から准尉に昇進、17日にまた2機を落とした。この頃マルセイユは同僚に「空戦のコツがわかったよ」と語っている。
それからしばらくの北アフリカの戦局は小康状態となり、マルセイユにも活躍の機会がなかったが、9月24日には1日に4機を、10月12日には2機を撃墜、これで撃墜スコア15に達したということでドイツ空軍名誉トロフィーを受賞した。敵の機体は「ハリケーン」や「スーパーマリン・スピットファイア」といったイギリス製戦闘機だけではなく、アメリカ(この時点では中立国)から供与されてきた「カーチスP40」も含まれていたのだが、後者はマルセイユの操る「メッサーシュミットBf109E7型Trop」からみればカモに感じられたらしい。11月は新型機(F4型Trop)を貰い受けるためにドイツ本国に戻り、12月にアフリカに帰ってきて最初の半月で6機を撃墜、その後もどんどんスコアを伸ばして翌42年2月21日には通算50機撃墜を記録、その翌日に少尉への昇進を果たすとともに騎士十字章を授与された。マルセイユの射撃術は「見越し射撃」と呼ばれるもので、敵機の後側方から相手の一瞬先の未来位置を読んでそこに銃弾を打ち込むことで弾を節約し、1度の出撃で何機も撃墜しながら弾は半分も使わなかったという。また、普通なら空戦の時は常に出力全開にするものなのに、マルセイユはまず敵機に旋回戦を挑み(敵機の特に「ハリケーン」の編隊は縦列を組んだまま円を描いて旋回することで互いの背後を守るという戦術を用いていた。そこに飛び込むのは極めて危険なのだが……)、スロットルを絞り込んで速度を落とすことで旋回半径を短くして敵機との距離を詰めるという戦術を好んで行った。そして、必殺の一撃を短く的確に撃ち込んだら今度はスロットル全開で次の獲物へと飛びかかるのである。戦果の確認をしなければならない僚機がマルセイユ機についていくのは大仕事であったという。
5月1日には中尉に昇進、6月3日には6分間で「P40」6機を撃墜するという偉業をなしとげた。この功績により、先に貰っていた騎士十字章に柏葉が追叙されている。ドイツ本国政府の宣伝相ゲッベルスはマルセイユを戦意高揚のためのヒーローとして大々的に持ち上げ、新聞に「アフリカの荒鷲」「砂漠の星」と書かせたことからマルセイユ(美男子)は本国の女性たちの間で大人気となった。6月8日には中隊長となり、17日には遂に撃墜スコア100機に到達した。マルセイユは本国に呼び出され、ヒトラー総統から直々に剣十字柏葉飾を授与された。ただし100機撃墜を記録したのはマルセイユが最初ではなく、実はドイツ空軍で11人目にすぎなかったのだが、マルセイユ以外の10人は主に東部戦線(ソ連方面)でスコアを稼いでおり、そちらの敵であるソ連空軍のパイロットは数は多いが質についてはマルセイユの主敵であるイギリス空軍より劣ると考えられていた。マルセイユは2ヶ月の休暇を貰い、昼間はナチス党の幹部や戦闘機設計者のメッサーシュミット博士と会見し、夜はファンの女性たちと遊び回ったという。同盟国イタリアのムッソリーニ統帥からも殊勲金賞が贈られる(これは特例中の特例で、ロンメル将軍ですら銀賞しか貰っていない)ほどの大人気である。マルセイユは無名だった頃は「映画スターの中に顔見知りが大勢いる」とか吹聴していたが、有名になってからは映画スターの方がマルセイユに会えたことを自慢するようになった。
……その頃の北アフリカでは、ドイツ・イタリア軍がエジプトのアレクサンドリアまであと150キロのエル・アラメインにまで迫り、頑強な抵抗を続けるイギリス軍との消耗戦を続けていた。イギリス空軍のパイロットは規定の出撃回数をこなせば休暇が貰え、昇進すれば大抵は地上勤務や教官の仕事にまわされたが、ドイツ空軍ではそのあたりのシステムが整っておらず、長期間前線に出っぱなしで戦闘による疲労が溜まりやすいという重大な欠陥があった。
8月22日、休暇を終えたマルセイユはアフリカに戻った。そして9月1日、1日に3回出撃して合計17機を撃墜するという大戦果を記録した。この日はまず午前に味方の急降下爆撃機隊の掩護任務で出撃したところで敵編隊と遭遇、「ハリケーン」3機と「スピットファイア」1機を撃墜して帰投し、午後の出撃で「P40」を8機撃墜、さらに夕方の出撃で「ハリケーン」5機を撃墜した。とはいってもこの日のドイツの戦闘機隊は敵の爆撃機については1機も落とすことが出来ず、しかも暗号が解読されていたことから味方地上軍はこの前後4日のあいだ非常な苦戦を強いられた。
ともあれマルセイユは1日17機撃墜の快挙と、さらにその翌日の戦闘で5機を撃墜したことにより、剣十字ダイヤモンドつき柏葉飾(この時点では最高の勲章)の受賞が決定(また本国に出向いてヒトラー総統から手渡されることになった)、同月16日には大尉に昇進した。マルセイユはこの時まだ22歳、ドイツ軍で最年少の大尉であった。ロンメル将軍の司令部に呼ばれて「深く感謝する」との言葉をかけられ、戦闘機隊総監でマルセイユより先に剣十字ダイヤモンドつき柏葉飾を貰っていたアドルフ・ガランド大佐までが会いにきた。マルセイユの中隊は「世界最高の戦闘飛行中隊」を名乗り、ガランドもまたマルセイユのことを「戦闘機パイロットの中の最高の名人」と評した。(後に東部戦線で他のパイロットが1日18機撃墜を記録した)
しかし、地上でのエル・アラメインの激戦はまだ続いていたし、東部戦線では独ソ戦の天王山ともいうべきスターリングラードをめぐる戦いが始まり、後者でマルセイユの父ジークフリート(陸軍少将)が戦死してしまった。話が前後するが同月6日、マルセイユと同じ航空団で40機撃墜を記録していたギュンター・シュタインハウゼン上級曹長が戦死、翌7日には59機撃墜のハンス・アルノルト・シュタールシュミット少尉が行方不明となった。
同月26日、「ハリケーン」1機と「スピットファイア」6機を撃墜、総撃墜機数158機に達した。30日午前、マルセイユは新型機「メッサーシュミットBf109G2型Trop」に乗って出撃、この日は敵に会わなかったので帰投することにしたが、午前11時36分、エル・アラメイン近くでエンジンが突如煙を噴き出した。冷却液もれによる発火であった。マルセイユはしばらくそのまま飛び続けた(とにかく味方の地上部隊がいるところまで行こうとしたらしい)。やがて彼は落下傘で脱出する旨を僚機に無線で知らせ、機体から飛び出したが、その時に身体が垂直尾翼に激突した。煙のせいで目が見えなかったといわれている。そのまま落下傘も開かず、地面へと叩き付けられて死亡した。享年22歳と10ヶ月。出撃回数382回。総撃墜機数158機。撃墜機数については大戦期間中のドイツ空軍で30位にすぎない(註4)が、西側空軍機(註5)の撃墜数に限定すれば最高記録である。その内訳は「P40」が80機、「ハリケーン」が54機、「スピットファイア」が20機、あと爆撃機が4機であった。ヒトラー総統じきじきに授与する予定だった剣十字ダイヤモンドつき柏葉飾は結局マルセイユの手には渡らず、遺族にも渡されなかった。
註4 1位はマルセイユの死後に活躍を始めたエーリッヒ・ハルトマンの352機である。ドイツ空軍には200機以上撃墜の超エースだけで15人、100機以上なら104人いる。
註5 いちいち説明するまでもないが、ソ連のような社会主義国が「東側」、イギリスのような資本主義国が「西側」である。前註で触れたハルトマンの落とした352機のうち345機はソ連機であった。彼は44年8月に史上初めて300機撃墜を達成した功績で剣十字ダイヤモンドつき柏葉飾を授与されており、マルセイユの時とは授与の基準が違っていることが分かる。
おわり
参考文献
『鉄十字のエースたち』 R・F・トリヴァー T・J・コンスタブル著 手島尚訳 朝日ソノラマ 1984年
『メッサーシュミット』 マーチン・ケイディン著 手島尚訳 サンケイ出版第二次世界大戦文庫 1985年
「アフリカの星 ハンス・マルセイユ伝」 川上しげる著 『歴史群像欧州戦史シリーズ5 北アフリカ戦線』 学習研究社 1998年
『世界の戦闘機エース5 メッサーシュミットのエース 北アフリカと地中海の戦い』 ジェリー・スカッツ著 阿部孝一郎訳 大日本絵画 2000年
『撃墜王列伝 大空のエースたちの生涯』 鈴木五郎著 光人社NF文庫 2003年