北米イギリス植民地帝国史 後編 その5

   

   ブラドックの敗戦  (目次に戻る)

 1740年代以降、イギリス植民地の毛皮商人がミシシッピー河支流のオハイオ川流域に入り込もうとしていた。ヴァージニア植民地で組織された「オハイオ会社」は100万エーカーの土地獲得を目指し、その他にもいくつかの会社がこの地域のインディアンとの交易を進めていた。いうまでもなくミシシッピー方面はフランスの縄張りであり、そちらはオハイオ川上流に砦を築いてイギリス人の進出に対処した。

 砦の建設に関してヴァージニア総督ディンウィッディーが抗議したが無視された。そこでディンウィッディーはオハイオ川とアレゲニー川の合流点という重要拠点を制圧すべく150人の民兵隊を派遣した。この時大佐として民兵の指揮をとったのが後の合衆国初代大統領ジョージ・ワシントンその人である。御年21歳、ヴァージニアの大プランターの出身である(註1)

 註1 異母兄の婚姻関係を通じて植民地の支配層にも有力な伝手をもっていた。16歳で測量技師となり(未開拓の地がいくらでもある=測量の仕事もたくさんある)、その後民兵隊に転じたのである。

 しかしこれは一足遅かった。目的地にはフランス人がフォート・デュケーヌという要塞を築いてヴァージニア民兵隊を待ち構えていた。54年7月3日、怖いもの知らずのワシントン大佐が部下に発砲を命じ、宣戦布告もなにもないまま本格的な戦闘が始まった。結果はヴァージニア民兵隊の惨敗、3分の1が死傷し、降伏したあげくヴァージニアに帰ることを許してもらうという有り様である。

 この段階では英仏両本国は全面的な大戦争をするつもりはなく、イギリスの方がとりあえず局地的限定的な戦闘で優位を得るために本国から定数に満たない2個聯隊を送るにとどまった。13植民地のうち7つが「オルバニー会議」に結集して植民地の大同団結をはかったが、各個の利害が衝突して話がまとまらなかった。

 本国からやってきた2個聯隊を率いるブラドック少将はただちに進撃を開始した。兵力は約1500人、幕僚にはワシントンがいた。目的地のフランス要塞フォート・デュケーヌは現在のペンシルヴァニア州西部に位置し、それだけ聞けば「イギリス植民地のすぐ近所か」と思ってしまうがそれはとんでもない勘違いである。イギリス人の居住地はこの時代でもまだ大西洋沿岸部からそんなに離れておらず、海岸から西に300?も進めばそこはもはや(白人にとっては)人跡未踏の未開の大地であった(註2)。イギリス側の拠点から目的地フォート・デュケーヌまで110マイル、道らしい道もなく、300人の工兵隊が斧を振るって森を切り開く。遠征隊の資材の一部を調達したのはベンジャミン・フランクリン(註3)、さらに馭者として21歳のダニエル・ブーン(註4)が加わっていた。

 註2 現在のアメリカ合衆国の地図を見ると、東部にアパラチア山脈という山岳が南北に続いている。現在の合衆国を見る限りではこれはどう見ても東部の山々だが、イギリス植民地人がアパラチアの西側に村を築いたのはやっと1775年のことである。

 註3 政治家にして外交官にして自然科学者にして社会運動家にして文学者。詳しくは自伝を参照。

 註4 「西部開拓の先駆者」と呼ばれる人物。現在のケンタッキー州の原形をつくる等、西部の辺境にいくつかの村を建設するが、人口が多くなるごとに「人ごみで息がつまりそうだ」としてさらに西へと移っていったことで有名。

 55年7月9日、目的地から数マイルに迫ったブラドック軍の後衛がモノンガヒーラ川の浅瀬を渡りきる寸前にフランス軍の不意の攻撃が始まった。ブラドック軍にはインディアン(地理に詳しい)が8人しかおらず、警戒が不十分であった。フランス軍は正規の士官と兵士73人、民兵150人、友好インディアン637人、と数の上では劣っていたがブラドック軍を収拾のつかない大混乱に陥れた。ブラドックは打ち倒された馬を何頭も乗り換えたあげく自身も胸に弾を喰らって負傷、結局死亡した。ダニエル・ブーンは馬車の馬具を切って裸馬に飛び乗り全速力で逃走した。指揮権を引き継いだダンバー大佐やワシントン等がなんとか残兵をまとめて退却した。死傷者は全軍の3分の2にあたる977人にのぼっていた。いわゆる「ブラドックの敗戦」である。

   

   フレンチ・インディアン戦争  (目次に戻る)

 かくして始まったのが「フレンチ・インディアン戦争」である。その後しばらくの戦局はフランス側に有利に運び、五大湖方面やヴァージニア西部でイギリス植民地を大いに苦しめた。緒戦の結果を見たインディアンの多くはフランスの方が頼りになると考えた。インディアンは白人との交易で銃を手にし、それは戦争や狩猟になくてはならない道具となってしまっていたが、自分たちではほとんど修理出来ないため、とにかく強い植民地の味方をする必要があった(アメリカ・インディアン史)。親イギリス派インディアン部族や中立部族もいたが、中立のイロクォイ連合が「イギリスの政策を代表する機関がヴァージニアやペンシルヴァニア等々いくつもある上にそれぞれ違うことを言うので我々は混乱する」と述べる有り様。フランスよりもイギリスの方が(英仏植民地間の)係争地帯に住むインディアンに魅力的な贈物を提供出来たのだが、各植民地間の連絡・協力がまるでなされていないことが今回フランス側に有利に働いた。イギリスはとりあえずアメリカの北部と南部をそれぞれまとめて統轄するインディアン監督官を設置してこれに対応した。

 それはともかく、これまでのイギリスとフランスの戦争はまずヨーロッパで起こった戦いが植民地に波及するという形をとっていたのが、今回の戦争は逆に植民地の方が先に火蓋を切った訳である。

 それに対応して、ヨーロッパでも新たな戦いが始まろうとしていた。先の「オーストリア継承戦争」で苦杯を飲まされたオーストリア女帝(註1)マリア・テレジアはプロイセンへの復讐を誓ってまずロシアと同盟し、さらに前回の敵国フランスを同盟に引き入れた。フランスとオーストリア(ハプスブルグ家)は200年来のライヴァルであったこととて話はなかなか進まなかったが、フランス王ルイ15世の愛人ポンパドゥール夫人をかき口説いてどうにか同盟締結に持ち込んだのである。世にいう「外交革命」である。

 註1 正確には旦那が「神聖ローマ皇帝」なのだが、慣例として彼女も「オーストリア女帝」と呼ばれる。それに相応しい女性である。

 こうしてすっかり孤立したプロイセンは、56年の夏に先手を打って軍勢を動かし、ここに「七年戦争」が勃発した。オーストリアは前回(オーストリア継承戦争)の同盟国イギリスにも協力を求めたが、イギリスは既にアメリカでフランス軍と戦闘中であることからこれを断り、かわりにプロイセンに味方した。フランスの目をヨーロッパに集中させておき、その隙に植民地を根こそぎ奪おうとの魂胆である。

 正確には、イギリスは5月17日にフランスに対し正式に宣戦を布告していた。フランスは英仏海峡沿いに6万の兵力を展開し、さらに地中海のイギリス領ミノルカ島に上陸軍を派遣した。イギリスはビング提督の艦隊を送ってこれを防ごうとした。

 かくして「ミノルカ沖の海戦」が出来した。兵力は英仏両艦隊とも12隻である。この時単縦陣でフランス艦隊に殺到しようとしたイギリス艦隊はその前衛に属する1隻が大損害を被ったことから戦列が大幅に乱れてしまい、そのままジブラルタルに退却するハメに陥った。結局ミノルカ島はフランス軍に占領され、責任を問われたビング提督は軍法会議の結果銃殺刑に処せられた。

 57年には大陸(ヨーロッパ)でまず6月に同盟国プロイセンの軍勢が「コリンの戦い」にてオーストリア軍に敗北し、7月にはイギリスの大陸派遣軍が「ハステンベックの戦い」にてフランス軍に敗れ去った。が、それはあまり重要ではない。プロイセンはともかくイギリスは植民地の方が大事である。この年6月23日、インドで「プラッシーの戦い」が行われ、クライヴ率いるイギリス軍が、フランスの軍事支援を受けたベンガル大守の大軍を撃破した。ようやくイギリス軍にも本格的な勝機がまわってきた。11〜12月、プロイセン軍がロスバッハとロイテンにて連勝し、軍事的天才フリードリヒ2世はイギリスでも大人気となった。

 58年、イギリス艦隊が本国を出撃、ひとまずカナダ沖のケープ・ブレトン島ルイスバーグ港をその標的に定めた。ここは「ジョージ王戦争」の時に一旦イギリス側が占領したが48年のアーヘン条約によりフランスに返還されていた。北大西洋におけるフランスの鱈漁を守る重要拠点である。ボズカーウェン提督率いるイギリス艦隊は輸送船を含めて大小167隻、陸兵はアマースト等の率いる14個大隊である。これまでの植民地戦争が基本的に現地まかせだったのと異なり、イギリスは今回の戦争に関しては本国から北米へと大軍を投入した。対するフランスの方は海軍が弱いせいでなかなか思うにまかせない。アン女王戦争の頃25万程度の人口しかもたなかったイギリス領北アメリカは今では百数十万の人口を持ち、イギリス帝国内において経済的政治的になくてはならない存在となっていた。これに軍事的脅威を与えるフランス植民地をこの際徹底的に叩かねばならない。

 6月、イギリス艦隊がルイスバーグの沖に姿を現した。フランス軍は港の入口に艦船4隻を自沈させてイギリス艦隊の針路を阻もうとした。しかし港内のフランス艦隊は失火から5隻を失い、炎と煙の合間からイギリス軍のボート隊の侵入を許してしまった。別方面ではジェームズ・ウルフの率いる4個大隊が上陸を果たしており、フランス軍3600人はやむなく降伏した。大陸(アメリカ)でもいくつかの戦火が交えられ、「フレンチ・インディアン戦争」のそもそもの勃発点であるフォート・デュケーヌを占領した英将フォーブス将軍はこの町を本国の宰相にちなんで「ピッツバーグ」と改名した。フォーブス軍にはワシントンも従っていた。付近のインディアン部族の一部がフランスから離反した。イギリス植民地南部でフランス軍に呼応して反乱を起こしていたクリーク族やチェロキー族も撃破され、特にチェロキー族は全戦士の半数を失うという打撃を被った。

 翌年、北米のイギリス軍は4つに分かれ、うち3つが陸路から五大湖方面へと北上し、あとひとつが海路からケベックを攻略するとの作戦がたてられた。五大湖方面に出た軍はこの地域をあらかた占領したが、物資を使い果たしたりしてそれ以上は進めなかった。陸路からカナダに遠征する作戦はウィリアム王戦争以来何度も行われてことごとく中途で息が切れ、十数年後のアメリカ独立戦争、五十数年後の米英戦争でもやっぱり失敗することになる。それはともかく1759年の戦役である。残りは海路軍である。フランス海軍はもともと総戦力で劣る上にこの59年に各地の海戦でイギリス艦隊に敗れさり、もはや植民地への救援は不可能となった。イギリス海軍はフランスの主な港湾を封鎖して敵艦隊を圧伏する一方で、輸送船団に護衛をつけて私掠船の攻撃を防ごうとした。

 ケベック攻略の海路軍は、200隻の船団を指揮するのがソーンダーズ提督、上陸軍8500を指揮するのがジェイムズ・ウルフ陸軍少将である。6月6日から始まったセントローレンス河の遡行は相当の困難が予測されたが、船団の先頭を進むジェイムズ・クック船長が慎重な深度測定・浮標設置を行って僚船の座礁を回避した。後に太平洋探険で名を馳せるキャプテン・クックその人である。

 6月27日、イギリス軍がケベックの東4マイルに到着した。待ち構えるフランス軍は民兵1万(註2)に正規軍3000、友好インディアン1000を集めていた。ケベックは堅固な城塞と河に守られており、1万足らずのイギリス軍がこれを攻め落とすのは容易なことではない。

 註2 当時のヌーヴェル・フランスの白人総人口は約6万である。女性が少ないのがその特徴だが、16〜60歳の男子は全て非常時に民兵として動員されることになっていた。

 そこでイギリス軍の上陸軍司令官ウルフ将軍は、まずケベックからセントローレンス河を挟んで東側にあるレヴィ岬を占領して砲陣を築き、そこから直接ケベック市内に大砲を撃ち込めるようにした。イギリス艦隊は何度もセントローレンス河を遡行してきてフランス艦隊と砲戦を交えて制海(河)権を奪取した。ウルフはさらにケベックの北東に2個旅団を配してフランス軍の目をひきつけた。7月19日、レヴィ岬からの援護射撃に守られたイギリス側小艦隊がケベックの目の前を通り過ぎてその20マイル上流(西)に上陸した。ケベックは東と北東と西を囲まれたことになる。ただし、市の西のアブラハム平原の南側(河岸)は断崖となっており、そちらからの攻撃は不可能と考えられた。

 9月12日夜、ウルフ自ら率いるイギリス軍1700人がケベックの西の陣地(正確には輸送船)からボートに乗り組み、セントローレンス河を下り始めた。フランス側の予定ではこの日味方の輸送船が河を移動することになっており、それと勘違いしてしまった。ただ一度だけ誰何があった。「誰か?」「フランスだ」「どの聯隊だ?」「国王のだ」。ボート隊はアブラハム平原南岸の断崖に到着し、まえもって見つけておいた隘路を登り始めた。ボートが各陣地を足繁く行き来し、13日の夜明けまでに総勢4500人の揚陸を完了した。

 ようやく異変に気付いたフランス軍が大急ぎで駆けつけてきた。その数4000。午前10時、フランス軍が前進を開始した。イギリス軍はその4分の3が一列横隊を組んでじっと待ち構える。フランス軍がわずか40ヤードに迫ったところで狙いすました一斉射撃、また射撃、そして銃剣突撃にうつる。キルトをはいたハイランダー部隊(註3)も刀(クレイモア)を抜いて突撃した。しかし、続く乱戦でフランス軍を総崩れに追い込んだものの、イギリス軍の損害もかなりのものだった。死傷者は両軍ともに約300人、英将ウルフ・仏将モンカルム共に致命傷を受け相次いで死亡した。ウルフはまだ33歳であった。「栄光の道もただ墳墓に至るのみ」。17日、ケベック市は降伏した。若き英雄ウルフ将軍の活躍は大変な評判となり、子供たちはその後何十年にも渡ってウルフを讃える「楓の葉よ永遠に」を暗唱した。「いまは昔、イギリスの岸辺から、豪勇無双の英雄ウルフが出港し、麗しきカナダの地にブリタニアの旗を打ち立てぬ」。

 註3 スコットランド高地人の部隊。つい十数年前まではイギリスの支配に抵抗していたが、この頃にはイギリス軍の主要な一部となっていた。

 60年9月、カナダのフランス勢力最後の拠点モントリオールが降伏した。まだ一部の親仏インディアンが抵抗していたが、北米大陸における戦火はほぼ終息した。翌61年1月にはインドのフランス拠点ポンディシェリーを占領、インドのフランス勢力を完全に制圧した。残りはヨーロッパ(大陸)とカリブ海である。

 同年11月、イギリス本国からロドニー少将の艦隊40隻が出撃し、翌年1月に到着した陸兵1万5000とでカリブ海のフランス拠点マルティニーク島を攻略した。艦砲を陸にあげての猛攻によりケリは10日でつく。死傷者は500人。グラナダ島やセントルシヤ島も前後してイギリス艦隊の軍門に下る。

 このすぐ後、フランス本国でイギリス艦隊の封鎖を受けていたブレスト港からブレナック率いるフランス艦隊12隻が暴風雨に紛れて脱出、カリブ海のケープフランソワに来航して、さらにキューバ島のハバァナにいるスペイン艦隊12隻との合流をはかろうとした(註4)

 註4 イギリスは62年1月をもってフランスの同盟国スペインに宣戦を布告していた。

 イギリス側にはボコック大将と増援艦隊が着任して全作戦を練り直した。ハーヴェー艦隊を分遣してケープフランソワのフランス艦隊を封じ込め、ロドニー艦隊はマルティニーク島の警備、ボコック率いる主力艦隊がスペイン艦隊のいるキューバ島ハバァナを攻略するとの作戦である。

 62年6月、イギリス軍1万6000がハバァナ東方に上陸、モロ城でスペイン軍の頑強な抵抗にあい200の死傷者を出したがこれを落した時点でスペイン軍は戦意を喪失した。スペイン艦隊は全滅した。

 ただ、ちょうど同じ頃、イギリス艦隊の主力がカリブ海に集中している隙に、やはりブレスト港の封鎖を突破したフランスのテルネー艦隊が防備の手薄なカナダのセントジョン港を攻略、占領するという事態が出来した。だがこれはもう末期のあがきである。9月、ハリファクスからイギリスのコルビレ艦隊、ニューヨークからアルヘンストの陸軍部隊が到着してセントジョンを包囲した。フランス軍はあっけなく降伏した。

 戦闘は東南アジアでも行われた。62年8月、インドのマドラス港からイギリス艦隊14隻が出撃、9月23日にスペイン領フィリピンのマニラ湾に侵入した。翌24日に上陸したイギリス軍の兵力は約2300、スペイン守備隊800人と10日間に渡って戦闘しこれを降伏せしめた。この年にはヨーロッパ(大陸)の戦局も奇跡の大逆転をとげていた。イギリスの同盟国プロイセンはそれまでオーストリア・ロシア・フランスの猛攻を受け、いくどかの勝利を得つつもじりじりと崩壊へと進んでいたのだが、この年1月にロシア女帝エリザベートが死去してプロイセン贔屓のピョートル3世が即位し、同盟国になんの相談もなくプロイセンとの単独講和を締結したのである。プロイセン軍は一挙に活気づき、反撃に出て各地にオーストリア軍を撃破した。

 1763年2月10日、「パリ条約」が結ばれた。フランスは北大西洋ニューファウンドランド島沖のサン・ピエールとミクロンという2つの小島、カリブ海のマルティニーク島・グアドループ島・サントドミンゴ島及びいくつかの小島、インドのポンディシェリーをなんとか返してもらったものの、カナダの全部とルイジアナのミシシッピー河以東を失った。スペインはハバァナとフィリピンを返還されたがフロリダをイギリスに割譲した。ただスペインは同盟国フランスからの詫びとしてルイジアナのミシシッピー河以西を譲られた。(註5)プロイセンとオーストリアも「フベルトゥスブルクの和約」を結び、プロイセンのシレジア領有が確定した。

 註5 1783年、「アメリカ独立戦争」の決着をつける「パリ条約」が結ばれ、ミシシッピー河以東のルイジアナはアメリカ合衆国領とされることとなる。同時に結ばれた「ヴェルサイユ条約」ではフロリダがスペイン(アメリカ独立軍を支援していた)に返還された。フロリダはさらに1819年に合衆国に500万ドルで買収される。ミシシッピー河以東のルイジアナは1800年の「サン・イルデフォンソ条約」によって(ナポレオンの軍事的圧力によって)フランス領に戻され、さの3年後に合衆国に1500万ドルで売却された。

 なんにせよ、フランスは北米大陸から完全に追放され、17世紀初頭から連綿と維持されてきた「ヌーヴェル・フランス」は崩壊した(註6)。一時は1000〜1200万?の面積と3000万とも言われる人口(註7)を抱えたフランス植民地は今やたったの4万?に40万人を数えるのみであった。フランスはルイ14世以来の相次ぐ戦争や宮廷の浪費を賄うために一般庶民に巨額の税金をかけ、もはやこれ以上搾り取れないところまで来てしまっていた。しかし、これまで免税特権を受けてきた貴族や上級聖職者の財産に手が付けられた時、この国は再びイギリスの恐るべき敵となってその前に姿を現すこととなる(註8)。フランスはスペインやオランダとは違い、まだ完全に転落した訳ではないのである。

 註6 もちろん、そこに住んでいたフランス人入植者は今(21世紀)現在でもそこに生き続けている。その一方でフロリダのスペイン人は全員自主的に退去した。

 註7 『フランス植民地帝国の歴史』より。ほとんどインド植民地の人口と思われる。

 註8 その前の「アメリカ独立戦争」でアメリカ独立軍に加担してイギリスに勝利するのだが、経費がかかりすぎて完全にパンクするのである。

 イギリス側にとって、この「勝利はあまりにも完璧すぎた(アメリカの歴史?)」華やかすぎる勝ち戦ゆえに、その後にくる現実の苦さがひとしおとなるのである。

 「七年戦争(フレンチ・インディアン戦争)」の結果、イギリスは1億3000万ポンドもの国債を抱えるに至っていた。また、ミシシッピー河以東のルイジアナという広大な領土を得たのはよいが、そこでこれまでフランスと結んでいたインディアン諸部族の反抗がまだ続いていた(註9)。これは大西洋岸のイギリス植民地人がルイジアナへと入り込んでくることへの危機感も働いており、対応に苦慮したイギリス本国は63年10月をもって植民地人のアパラチア山脈以西への移住を制限する「国王宣言」を発布した。「フレンチ・インディアン戦争」のそもそものはじまりは植民地人がそのアパラチア山脈以西(つまりルイジアナ)の開拓を望んだことから起こったのであって、ようやくフランスの脅威から解放されて(好きなだけルイジアナに移住出来ると)喜んでいた植民者を怒らせることしきりである。

 註9 特にデラウェア族の反乱は激烈だった。イギリス軍は天然痘患者の着ていた服をデラウェア族に送るという、現在でいう細菌作戦を行ったといわれている。(「デラウェア族」というのは白人のつけた名称)

 さらに、本国政府は戦時においてすら直接植民地人に課税することはなかった(関税はとった)のだが、財政難に苦しむ本国は65年ついに「印紙条例」を導入してこの慣例を破ることとなる。イギリス法制の原則では税金の徴集は各地方の代表が参集する議会の承認を得た上でのみ行われるものであり、つまり本当は、本国議会に代表を送っていないアメリカ植民地に課税出来るのはそれぞれの植民地議会〜13の植民地(註10)全てに存在する〜のみなのである。もちろん当時の参政権は財産(土地)を持つ者のみに限られていたが、アメリカ13植民地の白人住民の多くは自分の土地を所有し百数十年に渡って植民地議会における自治を積み重ねてきた実績を持ち、本国の政策に唯々諾々として従うつもりは全くない。

 註10 ここではその後のアメリカ合衆国に参加しないカリブ海やカナダ植民地は除外する。

 しかも、フレンチ・インディアン戦争以降のアメリカ植民地への課税は北米の13の植民地に対して一括して行われるのであり、バラバラに誕生してそれぞれ異なる社会と利害をもって行動してきた13の植民地を1つにまとめる直接の凝固剤となる。1607年のジェイムズタウン建設に端を発して以来これまで百数十年かけて全世界に広げた大植民地帝国、1588年のスペインとの戦いから始まって3度の英蘭戦争と4度の対仏植民地戦争を戦い抜き最終的に勝利したイギリス帝国の第一次の隆盛には早くも深刻な翳りがさしていた。『アメリカ独立戦争』の勃発はフレンチ・インディアン戦争の終結からわずか12年後のことである。

                           

おわり

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