アイルランドは古くから隣国イギリス(イングランド)の侵略に晒されてきたが、イギリスの支配がほぼ固まったのは17世紀の中頃、清教徒革命の指導者オリヴァー・クロムウェルの侵攻を受けて以降のことである。
クロムウェルは配下の将兵に対し、現地の土地を与えて給与のかわりとしようと考えた。ここで実際に土地を得たのは一部の上級将校や投機者であったが、彼等の多くはアイルランドには定住せず、「不在地主」として小作人たるアイルランド人から地代を取り立てて贅沢な生活を送ることとなった。しかも、イギリス政府は本国の産業を保護するためにアイルランドの工業を抑制し、おかげでアイルランド人には小作人以外の職がなかったが、そこに目をつけたイギリスの不在地主はさらに地代を釣り上げるという横暴を行っていた。かように先進国イギリスに徹底的に搾取されるアイルランド人はヨーロッパで最も貧しい民族と呼ばれ、ジャガイモを主食としてかろうじて生活を立てていた。
1845年、アイルランドは長雨と冷夏に祟られ、さらに新種の立ち枯れ病によって、以後3年に及ぶ大凶作となった。しかし、その不作というのはアイルランド人の主食たるジャガイモに限られ、逆に豊作となった小麦は作り手の口には全く入ることなくイギリスの不在地主のもとに送られていた。イギリス政府はしばらくしてからから慌ててアメリカ産のトウモロコシを安価で放出したが、貧しい者にはそれすら手が出せず、疫病の流行と相まって数十万の死者が出た。しかも、46年にはイギリスで穀物法(註1)が廃止され、利益を失った不在地主が農業から牧畜に転換したことから大勢のアイルランド人小作農が用済みになってしまった。生きる道を断たれた彼等の多くは海外へと移住し、アイルランドの人口は1841年から91年にかけて半分近くに激減してしまった。
註1 地主層の利益を守るために外国産の安価な穀物に高率の関税をかける法律。
19世紀において人口の増加を見なかったのはアイルランドだけと言われており、現在(21世紀)のアイルランドの総人口(北アイルランド含む)500万に対し、海外のアイルランド系移民は7000万を超えると考えられている。
もちろんアイルランド人も逃げるばかりではなく、時には勇敢な抵抗を行った。1842年、「青年アイルランド党」が武装蜂起を行って鎮圧され、52年にはその残党ギャヴァン・ダフィの率いる「アイルランド小作農組合」が合法の選挙にうって出た。しかしこの組合の要求はあくまで小作人としての権利の擁護という点にとどまっており、58年にはさらに過激に「土地は人民のものか、征服者のものか」と唱える秘密結社「フェニアン(アイルランド共和主義団)」が結成されるに至る。この組織の革命的中枢となったのが今日のIRA(アイルランド共和国軍)の前身である「IRB(アイルランド共和兄弟団)」である。
しかし彼等の計画した67年の武装蜂起は計画を事前に察知したイギリス側によって妨げられ、以後50年もの間本格的な活動が出来なくなってしまう。
アイルランド問題はイギリス本国でも大きな政治的課題となった。68年に成立した第1次グラッドストン内閣はまず小作人を保護する「アイルランド土地法」を制定するが、70年代の農業不況を受け、穀物法の時と同じく農業から酪農に事業を転換する不在地主が続出し、小作人の追い出しとそれに反対するアイルランド人の暴動が全島に広まった。
1880年のある日、メイオウ州の土地管理人チャールズ・ボイコット大尉が小作人を追い出そうとしたが、彼の召し使い・小作人・商人を含む周囲の村びと全員がボイコット大尉との一切の交渉を断ち、おかげで餓死に瀕した大尉の一家は小作人の要求を飲む以外になくなった。現在では不買運動・排斥を意味するこの「ボイコット戦術」は全国の闘争にて採用され、流血も死人も出さない「土地戦争」として全島を席巻した。
80年に成立した第2次グラッドストン内閣はこの事態に対応して小作権の安定や適正な地代を規定する「新アイルランド土地法」を制定した。ところが、急進的なアイルランド人を主体として結成された「アイルランド国民土地同盟」の一部はこの程度の戦果に満足せず、さらにすべての土地の国有化といった過激なことまで唱えてグラッドストンの態度を硬化させてしまった。結局、アイルランドには戒厳令が布かれ、土地戦争も一定の成果をあげつつ終息したのであった。
この後、イギリス議会に議席を持つアイルランド人による自治権獲得闘争も活発に行われたがこちらも中々進展せず、イギリス政府はアイルランド人の独立運動・小作争議を弾圧しつつも、アイルランド人自作農の創設をはかる「アイルランド土地買収法」等の制定をすすめる、「親切によって自治を殺す」政策によってアイルランド問題に一応の決着をつけたのである。この状況に劇的な変化が生じるのは20世紀に入ってからで、1905年に結成された秘密結社「シン・フェイン党」が「イースター蜂起」を起こす1916年4月25日の物語を語らねばならないが、それは本誌の扱う範囲ではありません。
おわり