イタリアのアフリカ侵略 第3部
ワル・ワル事件 目次に戻る
リビアの征服を完了したイタリアの次の目標は、前世紀に苦杯を飲まされたエチオピアであった。20世紀のイタリアでは特に農村部にて急激な人口増が起こっており、毎年膨大な数の農民が海外へと移住していた。受け入れ先はまずアメリカ合衆国だったがそちらは20年代になると移民排斥に転じてしまい、その変わりとして植民地への移民が考えられた。しかしイタリアが既に持っている植民地(リビア・ソマリア・エリトリア)は可耕地が少なすぎて移民に向いていない。1929年に起こった世界恐慌がまだおさまらない33年、軍のデ・ボーノ元帥がムッソリーニと会談してエチオピア征服を促した。同時期の日本が満州を侵略して「満州国」を建設し大量の移民を送り込もうとしていたのと同じ発想である。イタリア軍は平時から35万の正規軍と5万の植民地軍、それとは別にムッソリーニの私兵「黒シャツ隊」を揃えて訓練に勤しんでいた。
ところでイタリア領ソマリア及びイギリス領ソマリランドとエチオピアの国境線は不明瞭であり、各国による画定作業が行われていた。34年11月23日、イギリスとエチオピアの国境画定委員会が、イタリア領との未決線から100キロ以上エチオピア側に入ったワル・ワルの泉にてイタリア軍に遭遇した。イギリス委員はイタリア軍に抗議しつつ衝突を恐れて撤収したが、翌月にはエチオピア軍とイタリア軍との戦闘へと発展した。この「ワル・ワル事件」におけるイタリア軍の戦力は500人、エチオピア軍は800人であったがエチオピア側がせいぜい機関銃しか持たなかったのに対してイタリア軍は戦車や飛行機を持ち込んでいた。
これは明らかにイタリア側の一方的侵犯行為であったのだがイタリアは強硬に出て賠償金の支払いを要求した。エチオピアが国際連盟に訴えるとイタリアは話し合いに応じるそぶりをみせつつその陰で本格的な侵攻の準備を整え出した。国際連盟の仲裁委員会は弱腰で翌35年9月3日「双方に責任なし」という結論をくだした。特にフランスがドイツのナチス政権(註1)に対抗するために味方を増やそうとイタリアに甘くしたことが大きい。それからこの頃のエチオピアに対しては日本の経済進出が進みつつあった。日・エ関係は良好で、今回のイタリアの横暴に対して日本の特に右翼がエチオピア支援を訴えたが、結局のところ満州でイタリアと同じこと(巧いか下手かは別として)をやっていた日本は最終的にイタリアとの友好の方を重視することになる。
註1 33年に成立。第一次世界大戦に敗れたドイツは巨額の賠償金に苦しんでいたが、ナチスはこれを打破して諸外国に対抗しようとしていた。これを最も恐れたのがフランスであった。
第二次イタリア・エチオピア戦争 目次に戻る
10月2日、ムッソリーニはラジオ演説を通じて動員令を発し、翌日から宣戦布告もないまま「第二次イタリア・エチオピア戦争」が始まった。エチオピア付近に展開するイタリア軍の戦力はエリトリアにデ・ボーノ元帥率いる16万(うち植民地兵5万)、ソマリアにグラツィアーニ元帥率いる5万2000(うち植民地兵2万4000)、40年前に敗れた時の約10倍の大軍団である。もちろん数百機の飛行機に数千台の車輛を揃えていた。全軍の総司令官はデ・ボーノ元帥が兼任である。対してエチオピア軍の戦力は35万を数えるが、近代的な訓練を受けた兵員は10万弱であった。残りは地方の豪族の私兵である。今度は大規模な援助をしてくれる国も現れず、大砲や飛行機に至っては比較にならないほど立ち遅れていた。イタリア軍は10月6日には40年前の屈辱の地アドワを占領し、現地に「報復記念碑」を建立した。
10月9日、国際連盟の総会は反対1・賛成50・棄権3でイタリアを侵略者と認定したが、英仏が弱腰だった(註2)ことからイタリアへの措置は限定的な経済制裁に留まった。これはほとんど効果のないものであった(註3)。戦場では大した抵抗も受けないままのイタリア軍の快進撃が続き、10月15日には古都アクスムを占領した。ムッソリーニは国際連盟が考えを変えて強硬な制裁に出てくることを恐れて(そうなる前にさっさと決着をつけようと)さらなる進撃を指令したが、あまりな進撃で補給路が伸びきることを警戒する現地の総司令官デ・ボーノ元帥が作戦変更を要請するとムッソリーニはこれを解任、軍部の重鎮バドリオ元帥を後任にあてた。もっとも総司令官を交替すること自体は最初から決まっており、人物的にデ・ボーノよりも軍内部の人気の高いバドリオを登板させることでイタリア国民を結束させようとしたのであった。
註2 先に少し触れたが、特にフランスがドイツとの対抗上イタリアとの宥和を望んでいた。
註3 しかしそれでも制裁は制裁。ムッソリーニは制裁に参加しなかったドイツに接近することになってしまう。
ただしデ・ボーノの危惧は正解で、やがてエチオピア軍が効果的な反撃に出てきたことからイタリア軍は分断され立ち往生に追い込まれた。イタリア軍が近代兵器のデモンストレーションにと持ち込んだ飛行機や戦車はエチオピアの地形ではあまり威力を発揮しなかったため、リビアでも使われた毒ガスが大量に使用されることとなった(ちなみにデ・ボーノは毒ガス使用に批判的であった)。そのうちにイタリア本国から続々と増援が到着し、36年2月には補給路を整えたイタリア軍が圧倒的な物量のもとに進撃を再開した。イタリア軍の戦力は最終的に40万を越えることになる。エチオピアの地方豪族からイタリア側に寝返る者が続出した。
イタリア領東アフリカ帝国 目次に戻る
3月末、マイチァウにてエチオピア皇帝ハイレセラシエ自ら率いる帝国親衛隊がイタリア軍を迎え撃とうとしたが、イタリア軍は空からの大規模な毒ガス攻撃でこれを壊滅させた。ハイレセラシエはこれ以上の抵抗を断念し、5月はじめにフランス領ソマリア(現ジブチ共和国)からイギリスのロンドンへと亡命した。5月5日、イタリア軍がエチオピアの首都アジスアベバに入城した。既にエチオピア側の敗残兵が略奪や放火を恣にした後だったという。
9日、ムッソリーニはエチオピアとイタリア領ソマリア、エリトリアを合わせた「イタリア領東アフリカ帝国」の成立を「全人民に対して人道的な帝国」として宣言し、イタリア国王ヴィットリオ・エマヌエレ3世をその皇帝として即位させた。しかしまだ抵抗が止んだ訳ではなく、かなりの規模の戦闘がその後も継続した。イタリアの支配下におかれたエチオピア人はそれまでの倍の税金をとられ、劣等人種として扱われたと言われている。
イタリアによる「東アフリカ帝国」の統治はなかなか効果があがらなかった。白人入植者の総数ははっきりしないのだが(計画では100万人を入植させることになっていた)36年末の時点で労働者が14万6000人、うち10万以上は3年も経たないうちに儲けが出せなくて帰ってしまった。現地では食料の自給も出来ず、そのうちに第二次世界大戦が始まってしまう。その頃のイタリアは……先に註で触れたが……国際連盟の対イタリア経済制裁に参加しなかったドイツと仲良くなっており、40年には日本も入れた「日独伊三国同盟」を結ぶこととなる。