イタリアのアフリカ侵略 第4部

   第二次世界大戦に参陣   目次に戻る 

 さて、ドイツがポーランドに侵攻して第二次世界大戦を始めたのは1939年9月1日のことである。同月3日にはポーランドと結んでいたイギリス・フランスがドイツに宣戦を布告した。イタリアはその時点ではとりあえずは中立を保つことにした。ヨーロッパの列強を相手に戦争出来る程にはイタリア軍の戦備は十分でなかったからである。しかしドイツ軍が破竹の快進撃を続けているのを横から眺めているうちに、さっさと参戦しなければ何も得られなくなるのではないかと心配になってきた。40年6月、ドイツ軍の猛攻の前にフランスが崩壊状態になる中、ムッソリーニは参戦を決意、同月10日をもってフランス・イギリスに対する宣戦を布告した。その時点でのイタリア軍の総戦力は兵員163万人に艦艇266隻・飛行機3300機であった。本稿ではイタリア軍のアフリカ植民地における戦いのみを簡単に記述する。戦場は北アフリカ(リビア)と東アフリカ(エチオピア等)である。

 最初の戦闘が起こったのはリビアである。リビアの東隣のエジプトにはイギリス軍が駐留しており、宣戦布告の翌11日未明にはイギリス軍機が越境、イタリア側はこれを2機撃墜したと発表した。翌日には東アフリカのエリトリアの各地がイギリス機の爆撃を受けた。それぞれに隣接するフランス植民地とも空戦や海戦が発生し、リビアのバルボ総督はとりあえずは西隣のフランス植民地チュニジアへの侵攻を計画した。しかし22日フランス本国政府がドイツ軍に降伏し、26日にはイタリア・フランス間の休戦協定も成立した。チュニジアのフランス軍も本国政府に従ったためイタリア軍のそちらへの侵攻計画はお流れとなった。次の標的はイギリス軍のいるエジプトである。28日、リビア総督バルボ元帥が飛行中に味方高射砲の誤射で死亡するという事故が発生し、後任のリビア総督および北アフリカ軍総司令官としてグラツィアーニ元帥が着任した。ローマにいる参謀総長バドリオ元帥がグラツィアーニに対し7月15日を期してのエジプト侵攻を命じた。しかしバドリオは軍需物資の増派をしなかったため、現地のグラツィアーニは進撃をみあわせた。

   ソマリランド征服   
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 イタリア領東アフリカ帝国は三方をイギリス植民地(イギリス領ソマリランド・ケニア・スーダン)に囲まれていたことから苦戦は必至であった。現地の最高責任者は東アフリカ帝国副王にして軍事兼民事総督のアオスタ公、兵力は32万人を数えるがそのうちイタリア人は5万だけ、海上戦力は駆逐艦7隻・魚雷艇2隻・駆潜艇5隻・潜水艦8隻、さらに航空機200機であった。

 東アフリカのイタリア軍による近隣のイギリス植民地への攻撃は6月の航空攻撃から開始され、7月4日には西のスーダン方面に、同月16日には南のケニア方面に進撃してそれぞれ国境近くの町を占領した。これはどちらもごく局地的な動きであった。続いて8月3日、ナージ将軍に指揮されたイタリア軍4万が東のイギリス領ソマリランドへの本格的な侵攻を行った。この地のイギリス軍(主力は黒人やインド人)は1万3000人にすぎず、イタリア軍は同月16日には首都ベルベラ市を占領出来た。イギリス軍は海へと退却した。イギリス側はこれについては予定の行動であったと声明した。イタリア軍の戦死者は2000人、イギリス軍の戦死者はわずか250人であった。その後3ヶ月、東アフリカのイタリア軍は何の動きもみせなくなった。対してイギリスは近隣植民地の兵力(その多くはやはり黒人やインド人)を増強しつつエチオピア人の反イタリア蜂起を促した。

   シディ・バラニの戦い   
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 リビアのグラツィアーニ元帥は相変わらず動こうとしなかった。ムッソリーニは8月にはエジプトを攻めろと催促したが、返事は涼しくなる10月末から始めるとのものであった。グラツィアーニはいくら督促されてもイギリス軍に勝つ自信が無く、無理を言われるなら辞職するとまで言い出した。資材は不足し、イタリア正規軍と黒シャツ隊(普通の軍隊ではなくムッソリーニの私兵)との仲が悪く、兵士は敵を恐れている……。しかしイタリア軍と違ってイギリス軍はじっとしておらず、頻繁に戦車隊を動かしてイタリア陣地を攻撃してきた。開戦以来3ヶ月、小競り合いに終始する北アフリカで出た死傷者はイタリア軍3500、イギリス軍150であった。リビアのイタリア軍21万5000に対してエジプトのイギリス軍は5万、これで劣勢というのは常識的に考えてありえない話だが……(しかしリビアとエジプトの間は砂漠なので、行動には慎重を期すべきだとは思う)。

 9月7日、厳命に負けたグラツィアーニはようやく配下の部隊に対しエジプトへの侵攻を命令した。その期に及んでもまだモタモタし、実際に動き出したのは13日である。イギリス軍は正面切っての抵抗はせずに後退し、軽戦車や装甲車でイタリア軍の背後に回り込んでは出血を強いるという作戦に出た。それでもシディ・バラニまで進撃したイタリア軍は、そこで停止した。グラツィアーニの説明によれば、猛暑で兵員が疲弊しており、物資が足りず、後方との補給路の整備の必要がある……云々。イタリア本国からリビアへの補給がイギリス空軍によって妨げられているという事情もあった。それにしても、実はイタリア政府は去る7月にドイツから北アフリカに援軍(戦車を主力とする2個師団)を送ろうという話を持ちかけられていたにもかかわらず、「威信にかかわる」と言って拒否していた。後の展開を考えるとあまりにも馬鹿げた話である。その後数ヶ月、イタリア軍はシディ・バラニに滞留してアスファルト道路や水利設備の建設に力を向けた。

 一方のイギリス軍(正確にはインド人部隊やニュージーランド軍も含む)は戦力の増強を続け、約9万の兵員を揃えるに至っていた(それでもイタリア軍の半分以下!)。新着の部隊の中でも強力なのは「マチルダ」戦車50輛を持つ第7戦車聯隊である。12月9日未明、戦車隊を先頭に押し立てたイギリス軍がシディ・バラニに突入した。空からは爆撃機が、地中海からは艦艇の砲撃がこれを援護する。イタリア軍はたちまち潰走し、一方的に押しまくられて翌年2月までにはリビアの東半分を失う惨状となった。さらに南のフランス植民地チャドからは自由フランス軍(註1)がサハラ砂漠を縦断してゲリラ的にイタリア領のオアシスを襲撃してきた。しかしこの2月14日、ドイツからの援軍としてロンメル将軍の率いる「アフリカ軍団」が到着し、イギリス軍への反抗を開始するのだが、ロンメルの戦いはあまりにも有名な話であるからして本稿では割愛する。

註1 本国をドイツ軍に占領されたフランスのド・ゴール准将がイギリスに創設した亡命組織。ドイツに敗れた後のフランス本国には親独政権「ヴィシー政府」が成立しており、フランス植民地は自由フランス派とヴィシー派にわかれて争っていた。リビアに隣接するフランス領では西のチュニジアがヴィシー派、南のチャドが自由フランス派となっていた。詳しくは当サイト内の「ド・ゴール伝」を参照のこと。

   東アフリカ帝国の崩壊   目次に戻る 

 東アフリカでは去る11月、先にイタリア軍が占領していたスーダンのガラバトをイギリス軍1個旅団が攻撃した。この戦闘は1ヶ月近くに及び結局イギリス側の敗北に終わったが、しかし翌月18日ソマリア方面で行われた戦闘ではイギリス軍が勝利した。イギリス軍は特に機械化部隊を充実させてきており、イタリア軍は外敵のみならずエチオピア人の反乱にも備える必要があることから積極的な行動がとれなくなった。しかしイギリス軍にしたってその兵員の主力は植民地で集めたインド人や黒人なのだが、イタリア人が征服して数年しか経っていないエチオピア人を信用するのは難しいのであった。翌年1月、イタリア軍はスーダン方面の占領地を放棄して後退し、東アフリカ帝国の首都アジスアベバを中心として各地の陣地でイギリス軍の攻撃を迎え撃つとの戦略を決定した。

 スーダンからの撤収はイギリス軍の追撃を呼び起こした。スーダンのイギリス軍は別の地域からの援軍が到着してからイタリア軍を攻撃するつもりだったのだが、相手が自発的に撤収しようとしたことから予定を繰り上げて攻撃を開始し、同月24日にはイタリア軍の旅団長を捕虜にする等の戦果をあげた。2月にはケニア方面からもイギリス軍が進撃を開始し、月末にはソマリアのモガデシオを占領、先に占領されていたイギリス領ソマリランドも数日で奪回した。エリトリア戦線のケレンでは2月5日から戦闘開始、イギリス軍2万7000人がイタリア守備隊1万3000人を6週間かけて圧倒、4月上旬にはマッサワ港のイタリア海軍部隊を降伏させた。このエリトリア戦線では自由フランス軍も戦闘に参加した。さらに別のイギリス軍が3月中にはエチオピア東部のハラールやディレ・ダワを占領した。

 4月3日、東アフリカ帝国首都アジスアベバのすぐ東のアワシュ渓谷を巡る戦いが始まった。イタリア軍は同日の作戦会議で首都の放棄を決定し、東アフリカ帝国副王・軍事兼民事総督のアオスタ公とその幕僚たちはその日のうちに10台の車に乗って北方の山岳地帯へと退去した。5日、アワシュ渓谷のイタリア軍が戦力を失った。イギリス第12植民地師団がアジスアベバに入城したのは翌6日、スーダンにいたエチオピアの正統皇帝がイギリス軍に守られつつ首都に帰還したのが5月5日である。現地にはイタリア民間人が取り残されており、エチオピア皇帝は彼等を迫害しないよう呼びかけた。それから実は……イタリア支配下においてもエチオピア人の抵抗勢力によるゲリラ戦はずっと続けられていた。ゲリラたちはめでたく帰ってきた皇帝と涙の再開、と言いたいところだが、ゲリラの指導者たちの多くは自分たちを見捨てて亡命していた皇帝に批判的であった。そのことで粛清される者も出る。

 アオスタ公はティグレ州のアムバラジ山に籠って防戦したがもはや袋のネズミ同然であり、5月15日には本国から「いかなる決定をくだされようと、我々はこれを全幅に支持する」との電報を受け取った。つまり降伏を許すとのことである。休戦交渉にはまずイタリア側から使節4人が赴いたが途中で山賊に皆殺しにされたため、イギリス使節が出向いて降伏条件を協議、士官は拳銃を携えたまま降伏してもよいとの名誉ある条件で話し合いがまとまった。アオスタ公は本国から最高軍功勲章を授与され、翌年イギリス植民地の病院で亡くなった。

 しかし東アフリカのイタリア全軍が降伏した訳ではまだなく、エチオピア北西部のゴンダルと南西部のジンマにてそれぞれ4万の兵力が抗戦を継続した。このうち南西部イタリア軍の攻略にはイギリス軍以外にベルギー領コンゴの植民地軍(註2)が参加した。南西部が降伏したのは7月3日、北西部のそれは11月28日であった。最後まで抵抗した北西部ゴンダル陣地の降伏に際し、本国政府は以下のように声明した。「イタリア国民は、ゴンダルの勇士に対し感謝と敬意を表する。ゴンダルに掲げられた理念の旗は決して引き降ろされたのではない。祖国は、三世代の勇士(註3)が生命を捧げたこの聖地に、いつの日か必ず、新しい世代が訪れ、この旗を永遠に引き継ぐ時が来ることを切望する」。もちろん、その時は来なかった。

註2 ベルギー本国はドイツ軍に占領されたが、その植民地コンゴは引き続き対ドイツ戦を継続した。ベルギー領コンゴについては当サイト内の「コンゴ動乱」を参照のこと。

註3 第一次イタリア・エチオピア戦争から数えて三世代たったという意味。


 さて北アフリカではロンメル将軍の活躍にもかかわらず43年5月には独伊側の敗北が確定した。7月には米英その他軍がイタリア本国のシチリア島に上陸し、同月25日にはムッソリーニが失脚してバドリオ元帥が新内閣を組閣、10月13日にはドイツに対して宣戦を布告した。しかしバドリオ政権に監禁されたムッソリーニはドイツ軍によって救出され、イタリアを舞台とする戦いは45年5月まで続くことになる。

   その後   目次に戻る 

 そして大戦の終結後、イタリア政府は「リビアはムッソリーニ政権成立以前からイタリア領であった」として引き続きリビア領有を主張し、英仏とで分割する案も出されたが、49年5月と12月の国際連合決議により丸ごと独立することが決められた。新生リビアの政体は地域間の利害が異なることを考慮して連邦制をとり、それまでエジプトに亡命していたサヌーシー教団のムハンマド・イドリースが国王として即位することとなった。だがその後のリビアは地域間の対立に苦しみ、さらに石油の採掘開始(註4)に伴う外国からの熟練労働者流入によるリビア人未熟練労働者の貧窮化が進むこととなる。このリビア王国を1969年9月1日の革命にて覆して権力を握るのがカダフィー大佐(当時は大尉)、その時まだ27歳の青年であった(註5)

註4 石油探査はイタリア領時代から行われていたが1950年代にようやく本格化、60年から大規模な採掘開始。

註5 正確な年齢は不明。カダフィーは砂漠の遊牧民の出身であるため、出生記録といったものが存在しないのである。それからカダフィー政権はサヌーシーの王家を追放して成立したものではあるが、かのオマル・アル・ムフタールについては高く評価しているようである。


 エチオピアはイギリス軍と一緒に帰ってきた皇帝のもとで問題なく独立回復である。エリトリアはイギリスの暫定統治下に置かれていたが52年の国連決議によってエチオピアとの連邦を組むこととなる。しかし62年エチオピア側は連邦制を廃止してエリトリアを帝国内のただの州とし、これに反対する勢力との戦闘を引き起こした。74年には「エチオピア革命」が起こって帝政が打倒された。93年エリトリアが「エリトリア国」としてエチオピアから独立を達成した。ソマリアは49年の国連決議で向こう10年だけイタリアの「信託統治領」となった。将来の独立のための政治活動育成をイタリアに委託するということである。そして70年7月1日に独立を達成したソマリアはその5日前に独立していた北ソマリア(旧イギリス領ソマリランド)との合併を行った。
                            
                              おわり   

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