リベリアの歴史
「リベリア」はアメリカ合衆国の解放奴隷を入植させる目的で建設された国である。アメリカ合衆国全体で奴隷制度が廃止となったのは南北戦争が終結した1865年のことであるが、それ以前に個々の事情によって解放奴隷となった黒人をアフリカに送り返してやるとの目的でアメリカの白人有志が「アメリカ植民協会」を創設したのが1816年、最初の移民団がアフリカに入植、いや帰還したのが22年のことであった。「リベリア」という名の由来は読んで字のごとくであり、この地名がつく以前は胡椒(のような物)が産出したことから「胡椒海岸」と呼ばれていた。ただ、解放奴隷をアフリカに入植させる試みはこれ以前から存在しており、早くも1787年にイギリスが「シエラ・レオネ」を創設している。ここは現在のリベリアの北西の隣国である。イギリスの奴隷制度廃止は1833年であった。
移民たちが入植する土地はアメリカ植民協会が土着アフリカ人(原住民)から借りることにした。移民の大半はアメリカから来た人々であったがカリブ海出身者もいた。リベリア首都は最初は「キリストの都市」と呼ばれていたが24年にはアメリカ大統領モンローにちなんで「モロンビア」に改称された。移民の宗教はアメリカから持ち込んだキリスト教(プロテスタント)が主で、彼等の生活は西洋風、公用語は英語、対して原住民の宗教は祖先伝来の原始宗教であった(一部はイスラム教徒)。ちなみにこの国は21世紀の現在でも国民の90パーセントが原始宗教を信じている。つまり、アメリカその他から「帰還」してきた解放奴隷「アメリコ・ライベリアン」の子孫は総人口の1割もいないのである。
建国以来20世紀初頭までに2万人前後の黒人が「帰還」し、それに伴って内陸へと領土が拡大されていった。正式にアメリカから独立したのは1847年7月26日である。この「リベリア共和国」はアメリカ合衆国憲法をモデルにした憲法を持つ「アフリカ史上初の共和国」といわれ、初代大統領はムラート(白人と黒人の混血)のジョセフ・ジェンキンズ・ロバーツという人物、2院制の議会を持っていた。大統領の任期は2年、閣僚は上院の承認により大統領が任命した。書類の上では強大な権限を持っていた大統領とその政府はしかし財政上の理由で首都モロンビア以外に権力を及ぼせなかったため、地域ごとに特定の一族が大きな力を持つこととなった。主要産業はコーヒー農園と商業であったが前者はブラジル産との競争に敗れ、後者は19世紀末の不況で打撃を受けてヨーロッパ資本に乗っ取られた。そのことによりリベリア政府は慢性的な破産状態となった。軍事力としては2000人程度の兵員を持つ「在郷軍」と、1隻か2隻の艦を持つ海軍があった。後には600人の兵員を擁する「リベリア国境警備隊」が新設されるが、どれもこれも予算・人員・装備が貧弱すぎて使い物にならなかった。
土着アフリカ人に対してはキリスト教が布教され「文明化」が押しすすめられた(しかし少なくとも布教に関してはうまくいかなかった)が、アメリコ・ライベリアンが自己の利権を守ろうとしたため、土着アフリカ人はたとえ「文明化」されていても参政権をほとんど認められず、せいぜい首長クラスが金を払って議会に「調停者(代表)」を送り込む程度、その場合でも限られた問題に発言出来るだけで投票権も持っていなかった。また、アメリコ・ライベリアンが自分たちの建設した港町でのみ対外貿易を行ったことも土着アフリカ人の不満の種であった。
リベリアが建国された頃はアフリカ大陸のうち西欧列強の植民地になっていた地域は全体の1割程度であったのだが、時代が進んで1880年代に入ると列強によるアフリカ植民地化競争が激化してきた。先に少し触れたシエラ・レオネは最初は会社組織であったがやがてイギリス政府の直轄植民地となってリベリア領土を狙うようになり、現在の国名でいうギニア(リベリアの北隣)やコート・ジボアール(東隣)はフランス植民地となってその支配地域の拡大をはかるに至る。リベリアはまず1882年にシエラ・レオネ植民地に国境地帯を奪われ、91年にはコート・ジボアールとの国境線をリベリアに不利な形で画定させられた。また、ドイツもリベリアを狙っており、第一次世界大戦が勃発する直前にはリベリア貿易の4分の3はドイツ資本に支配されるに至った。
このような浸食に対し、リベリア政府は領土内の土着アフリカ人を統制して乗り切ろうとした。政府から内陸部へと派遣された「地区弁務官」は、しかし給料が少なかったことから現地民を私有地で使役したり規定以上の税を絞ったりしたため反乱が頻発した。反乱は場合によっては長期に及び、予算不足で貧弱なリベリア軍では鎮圧出来ないことからアメリカ艦隊が呼ばれたりした。アメリカ合衆国はリベリア建国の経緯からいってこれが独立を失うようなことは断固として防ごうとし、英仏による浸食に対してリベリア政府が頼るのもアメリカであった。そんな訳で、1912年頃までにアフリカ大陸の大部分がヨーロッパ諸国によって植民地化されていく危機の時代においても、リベリアはどうにかこうにか独立を保つことが出来たのであった。
政党に関しては建国から1869年まで「共和党」が政権を担当し、その後は「真正ホイッグ党」が1980年に至るまで100年以上に渡って一党支配を続けることになった。この長期政権の土台は、大統領選挙の際に有権者が1万人しかいない筈なのに真正ホイッグ党の候補が何故か20万票以上も獲得するような酷すぎる腐敗選挙が行われたのと、政府が最大の雇用主であったために政治的安定が求められたことにあった。
経済面では、1920年代にはいくらか好調となった。まず第一次世界大戦の時に没収したドイツ系資産を売り払って収入を得、さらに26年からはアメリカ資本の「ファイアストン社」による天然ゴムの産出が始まったのである。しかし30年代は不況となり、一部のアメリコ・ライベリアンが土着アフリカ人をスペイン領ギニア(現在の赤道ギニア共和国)の農場で働かせるために強制的に船に詰め込んでいるという噂が広まった。要するにリベリアが奴隷貿易をやっている、と。この問題については国際連盟が調査に乗り出し、その結果、組織的な奴隷貿易は存在しないが、少なくとも、労働力が輸出用・国内公共事業(私的事業にも)用に強制的に集められているということが確認された。まぁもっとも、当時の各国のアフリカの植民地はどこでも似たような状態であった訳だが、調査を担当したクリスティ委員会はリベリアは「有能かつ思いやりのある白人の統治」に置かれるべきと連盟に報告した。連盟の是正勧告を受けたリベリア政府(このことで大統領が替わった)は労働力の輸出や強制労働を廃止して土着アフリカ人の待遇を改善……実際にどの程度の実効力があったのかはともかく……し、ファイアストン社との関係を親密化することで国際社会からの批判を乗り切った。ファイアストン社の産出する天然ゴムはリベリア最大の輸出品目(最盛期には輸出額の9割近くを占める)となった。
時代が進んで1950年代からは天然ゴムにかわって鉄が最大の輸出品目となり(最盛期は世界第10位)、時代が前後するが48年からは「便宜置籍船」制度が始まった。これはリベリア国籍を持つ船舶に関する各種手数料を格安に設定するという制度で、外国の商船が節税目的でリベリア船籍を買い漁ったことから大きな利益を生み出した。最盛期には置籍数世界第1位となるが、これは例えば日本の商船でもリベリア船籍を買ってしまえば船の中では日本の法規(労働条件や安全基準)に従う必要がないという問題が発生した(そういう訳で国際航路で活動する日本商船の大半はリベリア等の便宜置籍船制度を利用しており、外国人の船員を劣悪な条件で雇傭しているという)。
44年に大統領に就任したウィリアム・タブマンは土着アフリカ人にも参政権が認めたが、国会に用意した議席はアメリコ・ライベリアンの6分の1だけであった。52年の大統領選挙では土着アフリカ人クル族のディドオ・ツウエーがタブマンに戦いを挑んで敗れた。ツウエーは選挙手続きに疑惑があるとして国際連合に提訴したため、タブマンに「反逆罪」の汚名を着せられて亡命を余儀なくされた。
57年、リベリアからほど遠からぬガーナがイギリスから独立した。ブラックアフリカ(黒人の住んでいる地域のこと)のヨーロッパ諸国の植民地で最初に独立したのはこの国である(註1)。リベリア外交はそれまでアメリカ追随(42年に米軍基地を設置)だったのだが、ガーナの独立に刺激されて(註2)多面的な外交をはかるようになり、64年にはソ連との国交を樹立した。71年、タブマン大統領が死去し、副大統領のウイリアム・リチャード・トルバートが大統領に昇格してソ連との関係を強化したが、そのうちに、19世紀から延々と続いて来た真正ホイッグ党政権に対する批判が高まってくる。
註1 南アフリカは除く。南アフリカは1910年にはイギリスから独立している(厳密にいうと国家元首はイギリス国王のままだったのだが、これは現在のカナダやオーストラリアもそうである)のだが、ここは少数の白人のみが実権を握って黒人大衆を差別的に支配する国であり、真に「ブラックアフリカ初の独立国」といえるのはやはりガーナである。
註2 ガーナは米ソいづれの陣営にも属さない「非同盟主義」を唱えていた。
まず75年、アメリカに留学していた学生が「リベリア進歩同盟」を組織、79年4月に政府による食糧(米)の値上げに反対するデモを行ったが武力で鎮圧された。死傷者100人以上という。がしかし反政府運動はこの弾圧によってかえって勢いづき、リベリア進歩同盟は「進歩人民党」へと発展、別派の反政府運動「アフリカ正義運動」とともに活発な政府批判を行うに至った。
そして80年3月7日、進歩人民党のガブリエル・バッカス・マシューズが政府打倒を掲げたストライキを発動、すぐに政府によって党の指導者全員が逮捕されたが、4月12日には軍のサミュエル・ドウ曹長がクーデターを起こして政府を転覆、トルバート大統領を銃剣で刺し殺した。さらに閣僚・議員のうち13人が公開処刑(テレビ放映された)となり、ここに建国以来133年の長きに渡って続いたアメリコ・ライベリアンの支配は終了した。ドウは17人の下士官からなる「人民救済委員会」を組織してその議長の座を占めるとともに国家元首に就任し、進歩人民党のマシューズやアフリカ正義運動の指導者ファーンブレー博士を閣僚に任命した。
ドウはすぐに本性をあらわし、独裁政治を開始した。ドウは賄賂と麻薬取り引きに精を出し、2度に渡って人民救済委員会のメンバーを粛清した。83年にはニンバ州の鉱山で反ドウ派が騒乱を起こしたため、政府軍が報復の虐殺を行った。このような暴政にもかかわらず、対外的には反共を訴えたことからアメリカの援助を引き出すことに成功した。ニンバ州の騒乱の際にはソ連が関与していたとしてその大使を退去させている。84年には軍人の組織である人民救済委員会を解散、新たに「リベリア国民民主党」を創設して民主化をアピールした。翌85年の大統領選挙ではドウは51パーセントの得票で当選したが、これはアメリカに貰った選挙資金を注ぎ込んだ結果であった。
この年、ニンバ州騒乱の際にドウに疑われて(冤罪だったが)隣国シエラ・レオネに亡命していた元参謀長トーマス・キオンパが35人の同志とともにリベリア首都モロンビアに現れ、クーデターを行った。しかしこれは6時間で鎮圧され、キオンパ以下の全員が虐殺されるという結果に終わる。キオンパの出身地のニンバ州では報復の殺戮が荒れ狂い、600〜1500人が殺された。今回のクーデターは事前にアメリカにキャッチされており、そこからドウにリークされていたのであった。88年には別のクーデター未遂事件が発生した。
89年12月、元閣僚で外国に亡命していたチャールズ・テイラーの率いる「リベリア国民愛国戦線」がシエラ・レオネの基地からリベリアへと侵攻した。この組織はリビアのカダフィー大佐やコート・ジボアール大統領ウフエ・ボワニ(ドウの政権掌握の際に殺されたトルバート大統領の縁者)の支援を受けていた。戦いは長期に及んだがリベリア国民愛国戦線およびそこから分裂したリベリア独立国民愛国戦線が優勢となり、ドウは9月9日に逮捕・虐殺された。戦いはそのまま97年まで続き、15万人が死んだと言われているがそこまでは本稿の述べるところではない。
おわり
参考文献
『アフリカ現代史4』 中村弘光著 山川出版社世界現代史16 1982年
『ユネスコ アフリカの歴史第7巻上巻』 A・アドゥ・ボアヘン編 宮本正興日本語版責任編集 同朋社出版 1988年
『現代アフリカ・クーデター全史』 片山正人著 叢文社 2005年
「アトリエIV リベリア内戦史資料」http://www.aa.tufs.ac.jp/~imajima/atl_4.html