ロングドライブ
アメリカ大陸とその周辺の島々にヨーロッパ人が牛を持ち込んだのは1494年のことである。これがさらに現メキシコ地域に上陸したのが1521年頃、食用や皮革・油をとるための畜獣として急速に繁殖した。ヨーロッパからやってきたスペイン人たちが現地のインディオや黒人奴隷に馬を与えて牛の世話をさせたのが「カウボーイ」の起源である。スペイン人がアメリカ大陸に足を踏み入れた第一の目的は黄金探しにあった訳だが、これが枯渇してくると大規模な牧畜に利益を求めるようになり、やがては現アメリカ合衆国の南西部へと牧畜圏を広めて行く。ただ、ヨーロッパ人が到来する以前のアメリカに牛の類がいなかった訳ではなく、バッファロー(バイソン)という牛科の動物が大量に棲息していた。
1821年、メキシコ共和国がスペインからの独立を宣言し、カリフォルニアやテキサスといった現アメリカ合衆国南西部もその領土に含まれることとなった。その頃のアメリカはミシシッピー河の流域までしか領土を持っていなかったのだが、アメリカ人の開拓民は国境を越えてメキシコ領テキサスにどんどん入り込むようになり、1830年頃にはテキサスの人口の8割にも達するようになっていた。そこでアメリカ政府はテキサスの購入を持ちかけたがメキシコはこれを却下してアメリカ人の流入を阻止する措置をとった。これを受けたテキサス在住アメリカ人は自治を叫んで独立戦争を開始、アメリカからの義勇兵の応援もあって1836年には独立を勝ち取った。この「テキサス共和国」はアメリカに併合してもらおうと考えていたのだが、当時のアメリカでは既に南部奴隷州と北部自由州との対立が激化する一方であり、奴隷制であったテキサスの併合で奴隷州の勢いが伸びることを嫌った北部自由州の反対によってこの話は見送りとなった。
その8年後の44年、テキサス併合を唱える民主党ジェームズ・K・ポークがアメリカ大統領に当選、翌45年にようやくテキサス併合を実現した。北部自由州に対しては、その頃まだメキシコ領だったカリフォルニアの海港サンフランシスコ(太平洋の海運基地)を奪って儲けさせてやるからと納得させた。という訳でその翌46年にはメキシコとの戦争(米墨戦争)勃発、敵首都メキシコシティまで攻略して48年2月の「グアダルーペ・イダルゴ条約」によりカリフォルニアを獲得した。
この条約が締結される直前、カリフォルニアにて金鉱が発見され、空前の「ゴールド・ラッシュ」が始まった。話を聞いてアメリカのみならず全世界から採掘人が殺到してくる訳だが、急激に人口が増えて食糧の不足を来したカリフォルニアに、テキサス等で盛んに飼われていた牛が運び込まれてきたのが本稿の主題である「ロングドライブ」のそもそもの始まりである。もちろんトラックなんてない時代、鉄道も普及していないので、投げ縄と銃を持ち馬にまたがったカウボーイたちが牛の群を追い立てて行くのである。この商売は最盛期には仕入れ値1頭1ドル程度の牛が100ドルで売れる程の莫大な利益を生み出したが、やがてゴールドラッシュの狂乱が過ぎ去るとともに牛価格も急激に下落していき、やがてはカリフォルニア行きのロングドライブ自体が消滅した。
テキサス牛の次の売り込み先となったのは北部の諸州であった。53から54年にかけて、トーマス・キャンディ・ポンティングという男が700頭の牛を北部のイリノイ州・インディアナ州まで運ぶことに成功した。この牛の一部はさらにインディアナ州マンシーから鉄道でニューヨークまで運ばれたのだが、この試みは新聞で報道されてたちまち多くの模倣者を生むことになる。かくして54年にはさっそく5万頭ものテキサス牛が北を目指して移動していくのだが、しかしその道程ではインディアン居留区で通行料を取られたり、途中のミズーリ州(正確には当時は准州)を通過する際に地元の農民や牧畜業者に邪魔されたりと困難の連続であった。後者は、テキサス牛に寄生するダニを通じてミズーリ牛に伝染する「テキサス熱」や、大量のテキサス牛が道々ミズーリ州内の牧草を食い散らしていくのが嫌われたのである。特にテキサス熱はテキサス牛には大した病気でないのにミズーリ牛には致命的な破壊力をもっていた。仕方がないのでミズーリの隣のカンザス州を通って北部に行こうとするが、そこでもまたテキサス熱が発生し、おまけにここの住民には奴隷州テキサスからやってくるカウボーイたちに強い反感をむき出す反奴隷主義者が多かった。カンザスとその北隣のネブラスカでは54年の「カンザス・ネブラスカ法」によって住民投票で奴隷制度の是非を決めるとの取り決めがなされており、それを有利に運ぶために武装した移民が北部自由州・南部奴隷州の双方から殺到して「流血のカンザス」と呼ばれる紛争が起こっていたのである。
そして1861年、「南北戦争」が勃発し、南部に与したテキサス州は北部の牛市場を失った。テキサスはかわりに味方のヴァージニア州(南部連合の首都があり、対北部の最前線となった)等に展開する南軍主力に食用牛を届ける仕事を担当するが、63年には北軍がミシシッピー河を制圧したためテキサスと他地域の連絡が遮断され、65年には戦争そのものも南軍の敗北という形で終結した。
戦後すぐの頃、テキサスでは戦争で荒廃した牧場で牛たちが勝手に繁殖していたが、北部では地元の牛を食べ尽くしてしまっていたことから牛肉の値段が高騰していた。戦地から帰ってきたテキサス人たちはここぞとばかりにロングドライブの再開にとりかかるが、これがうまく行かなかった。テキサス熱の問題が解決しておらず、戦前のロングドライブの邪魔をしたカンザス人の一部が、戦後になっても相変わらずテキサスからの牛の流入を遮ったからである。このカンザス人たちは「ジェイホーカー」と呼ばれ、勝手に通行税をとったりして、逆らうカウボーイを私刑に処した。そこでチャールズ・グッドナイトやジェシー・チザムといった人々が苦心して危険地帯を回避するルートを開拓していった。戦前のルートはカンザス州の東部を通っていたのだが、もっと西のカンザス州中部やさらに西のニューメキシコ州・コロラド州を通って行こうというのである。
そのうちのチザムの開いたカンザス中部のルートを、東部から延びてきた鉄道と結びつけたのがジョセフ・マッコイという人物である。マッコイはユニオン・パシフィック鉄道沿線のアビリーンという10戸ほどの集落しかない土地に巨大な家畜置き場やホテルや事務所を建設し、これを即席の町に変身させてしまった。それまでのロングドライブは、途中から鉄道を使う場合でもカウボーイたちが終着点(例えばニューヨークとか)までついて行って売り買いしていたのだが、マッコイの編み出した方法では、ロングドライブは全部アビリーンで終了、そこから先については自分が仲買人としてカウボーイと北部の家畜商の間に立つ、ということになる。もちろん、それまで辺鄙な集落だったアビリーンを一大流通センターにかえるような大事業がマッコイ個人に出来る訳もないので、経費の4分の3はカンザス鉄道が負担することになっていた。テキサス熱を恐れるカンザス州知事に対しては、テキサスからアビリーンへのルートはまだそれほど地元民に開拓されていないから迷惑は少ないと説得した。一般のカンザス人に対しては、アビリーンにやってくるカウボーイたちの諸々の需要を満たしてやればお前等も儲かるだろうと説得した(カウボーイたちに市価より高い価格で物を買わせると約束した)。そして、牛を満載した最初の列車がアビリーンを出たのが67年の9月である。
それから4年間の間に150万頭の牛がアビリーンを通って行った。71年、以前は未開拓だったアビリーンの周辺にも(牛の取り引きと無関係な)農民たちが住み着くようになり、ロングドライブが迷惑だとの声をあげるようになってきた。鉄道もさらに西へと延びたため、ロングドライブの終着点はアビリーンの西60マイルのエルスウォースへと移された。アビリーンの生みの親ともいえるジョセフ・マッコイはそれ以前に出資者のカンザス鉄道にはめられて財産を失い、町の方もカウボーイが来なくなって衰退していったのであった。75年には終着点はさらに西のダッジ・シティに移る。これらの「牛の町」こそが西部劇でお馴染みのガンマンたちが活躍した主要舞台のひとつであるが、これらが喧噪を極めていられる期間はまことに短いものであった。そうして1880年には鉄道はテキサスまで開通し、ロングドライブもその役割を終えていくのである。
おわり
参考文献
『フロンティアの英雄たち』 津神久三著 角川選書 1982年
『アメリカ西部史』 中屋健一著 中公新書 1986年
『カウボーイの米国史』 鶴谷ひさし著 朝日選書 1989年