第九聯隊の設置
廃藩置県直後の明治4年8月、新政府の軍事力として、東京・大阪・鎮西(熊本)・東北(仙台)の4つの「鎮台」が設置された。現滋賀県地域は大阪鎮台の小浜分営の管轄下におかれた。明治6年1月10日に徴兵令が実施されるが、その前日に大阪鎮台の管轄のうち北陸を新設の名古屋鎮台に、中国・四国を広島鎮台に移管した。鎮台はそれぞれ2ないし3個の「聯隊」を持つことになった。ただし大阪鎮台管区で徴兵が行われたのは翌明治7年からで、それまでは壮兵(志願兵)を用いていた。徴兵は滋賀県においては大津に徴兵署、彦根と八幡に検査場を置いて明治7年3月に身体検査、4月に抽選が実施され、311名とも567名とも言われる若者が大阪鎮台に入営した。大阪鎮台には前年9月に当時の鳥取・豊岡・北條・足羽・石川の5県の壮兵で編成された第5大隊が所在したが、これを第1大隊とし新徴兵を第2大隊とする「歩兵第9聯隊」が明治7年5月をもって発足した。
この第9聯隊は滋賀県の大津に置くことが徴兵令実施の時点で決まっていた。第9聯隊はまず明治7年12月18日に第8聯隊・第10聯隊と共に東京日比谷練兵場にて大阪鎮台司令官三好重臣少将から軍旗を授与された。「歩兵第九聯隊編成成ルヲ告グ。仍リテ其隊旗一旒ヲ授ク。汝等軍人等協力同心シテ益々威武ヲ宣揚シ、我帝国ヲ保護セヨ」。旗手として軍旗を受け取ったのは古川治義少尉であった。駐屯地の大津に入ったのは明治8年3月8日である。この「第4軍管大阪鎮台第9師管歩兵第9聯隊」初代聯隊長は竹下弥三郎中佐、兵力は2個大隊で、前述の通り第1大隊は壮兵、第2大隊は徴兵であった。しかし第1大隊はすぐ後の明治8年4月に解除され、第2大隊が新たに第1・第2大隊に分割されて徴兵のみの部隊となった。壮兵には士族が多かったため、この頃から頻発した不平士族の反乱に同調したりするのを警戒したのである。明治9年にはさらに第3大隊が増設された。兵営は園城寺(三井寺)の旧寺領を用い、兵舎は現大津商業高校所在地(記念碑がある)、練兵場は現皇子山総合運動公園所在地に建設された。兵隊病院も設置される。
明治10年2月、鹿児島の不平士族が「西南戦争」を起こした。明治天皇が鹿児島暴徒征討の詔を発したのが2月19日で、この日まず第1・第2旅団が編成されて九州へと出陣した。第9聯隊は第2次動員の際に戦地に投入されることとなった。しかし第9聯隊として丸々1個で行動するのではなく、聯隊を構成する3個大隊のうちまず第1・第2大隊が名古屋鎮台第6聯隊第1大隊・大阪鎮台第10聯隊第3大隊とともに大山巌少将に率いられて九州に向かい、前線に到着した時点で第1大隊が第2旅団に、第2大隊が第1旅団に編入されるという形となった。しかし第1旅団と第2旅団は砲兵や補給どころか本営も同一であって作戦指揮も両旅団長が合議して行っており、戦闘においては概ね中隊単位を動かしていて大隊・旅団は組織としては実体がなかったという。
第9聯隊から動員された部隊が前線に到着したのは3月5日、熊本城の北である。3月7日、第2大隊の第1〜3中隊が激戦地として名高い田原坂に投入された。田原坂の戦いは4日から始まっていたが、薩軍の精鋭がここに集中していたことから大変な苦戦となった。この、第9聯隊の初陣で支払われた損害は戦死者23名に負傷者64名、さらに失踪したのが66名でそのうち28名が翌日帰投したという。同日第1大隊第3・第4中隊も吉次越に投入されたが大して活躍出来ず、夜襲を受けて総崩れとなった。
9日には第1大隊第1・第2中隊が投入されるが最初から及び腰で、指揮官五藤大尉の叱咤激励でなんとか敵軍の陣地を1つ抜いた。次の陣地に迫った所で薩軍数百に斬り込まれて敗走寸前となるがまた五藤大尉の奮戦で退けた。しかし五藤大尉は戦死し、弾薬も尽きたので退却した。
政府軍は10日に第3旅団を、14日に第4旅団を投入した。第9聯隊のうち第3大隊の第1中隊が第4旅団に、第3・第4中隊は第3旅団に編入された。これで、大津に残るのは第3大隊第2中隊だけである。
15日には第2大隊第4中隊が他の聯隊から動員された2個中隊とともに横山平に待機していたところを薩軍300に突入されて苦戦に陥った。薩軍は日頃はあまり撃たないのにこの時は乱射しまくり、政府軍には続々と救援が駆けつけるで西南戦争全体でも有数の激戦となったのだが最後は政府軍が警視庁の剣客で編成した抜刀隊を投入して勝利した。16日は休みとなったが17・18日には激戦が継続された。20日午前9時、第1・第2旅団が豪雨をついて総攻撃を開始し、ようやく田原坂を突破した。
と、かような一連の激戦に参加した第9聯隊の西南戦争における戦死者は曹長以下で441名に達し、これは聯隊としては東京の第1聯隊に次ぐ数であった。滋賀県出身者に限定すれば戦死220名であった。凱旋は10月1日である。第9聯隊は明治27年に始まる「日清戦争」においては終盤まで戦地に送られず、28年4月13日ようやく宇品から大陸の大連を目指して出陣して、到着した時には講和条約が締結されていた。しかしこの戦争で獲得した台湾で反日闘争が行われたためこちらに聯隊長草葉彦輔中佐の指揮下に2個大隊を派遣している。そして明治37年の「日露戦争」では序盤から出征して各地に苦戦を強いられた。それらについてはまたいずれ機会を改めて書きたいと思う。
おわり。
参考文献
『おおみ軍記』 産經新聞1961年よりの連載を滋賀県立図書館が製本したもの。
『日本の戦史8 維新・西南戦争』 旧参謀本部編纂 徳間書店 1966年
『新修大津市史5』 大津市役所 1982年
その他