南洋群島
本稿で述べる「南洋群島」は西太平洋の赤道以北に位置し、東西5000キロ・南北2400キロもの広大な海域に散らばる島々のことである。島の総数は1400余、1918年の時点で人が住んでいるのは623であった。島々の総面積は現在の東京都と同じ程度、その地質は珊瑚礁もしくは火山岩で、原住民はチャモロ族・カナカ族であるが言語等は島によってバラバラである。この地域は19世紀の末からドイツの植民地支配がなされていた。
1914年の「第一次世界大戦」勃発に際し日本はドイツに宣戦、太平洋の赤道以北のドイツ領へと艦隊を派遣した。戦艦「薩摩」「香取」、巡洋戦艦「筑波」「鞍馬」、装甲巡洋艦「浅間」といった顔ぶれである。日本軍はドイツ側の抵抗を想定していたが、どの島も戦闘は全くなく無血で占領(註1)となった。サイパン島のドイツ側責任者などは日独が交戦状態になっていることを知らず、島に到来した日本戦艦「香取」を表敬訪問して初めて事情を聞くという有り様であった。現地ではとりあえず軍政が布かれた。「南洋群島」の名称はこの時につけられたものである。サイパンでは食糧が不足していたため日本側が放出を行い、その一方でドイツ人が開いていた学校を閉鎖したりもした。日本では明治時代から南洋に進むべしと唱える論者もいくらかおり、商売に出かける者もいてかなり成功していたが、この頃は国民一般のそちらへの関心はまだ概して薄かったと言われている。
註1 赤道以南はオーストラリア・ニュージーランド軍が占領。
この年12月、日本は「臨時南洋群島防備隊条例」を制定してトラック環礁の司令部の下で南洋群島を6つの民政区に分け各々の守備隊長(大尉か少佐)を軍政庁司令官に任命して民政を担当させた。守備隊は全部で500名弱であった。18年には文官を「民政署長」に任命する改革を行った。無料の診療所(註2)や学校が建設され、基本的に原住民の首長を利用する統治を行ったが、反抗的な首長を退けたり、日本の近代的な施政に反発する新興宗教を弾圧した例もある(註3)。上に少し述べたが日本資本はドイツ領時代から既に進出していて現地の最大の得意先となっており、占領後は「南洋貿易会社(南貿)」が貿易を独占する特権を与えられた。
註2 同じドイツ領でもニュージーランド軍が占領した地域では検疫を怠ったことから人口が激減した。
註3 少し後の20年に行われた外務省の調査報告によれば、日本人による原住民への窃盗・強姦・暴力行為が行われているため、原住民は子供を日本人に近づけるのを避ける傾向があったという。また強制労働を行ったり、食糧(椰子の実)を買い占めたりして対日感情を悪化させていた。(南洋群島委任統治政策の形成)
大戦終結後、「ベルサイユ条約」によって日本は正式に南洋群島の統治を委任されることとなった。ここに限らずドイツは全ての海外植民地を放棄させられたがそれらの地域は(未開で)自立出来るレベルではないので、文明国が国際連盟から委任を受けるという形でその地の福祉・発展を後見するという建前であった(註4)。委任統治地域はABCの3つの種類があり、Aは受任国が「助言及び援助」を与える地域。Bは「その地域の施政に任ずべき」地域と規定されたが、南洋群島は「文明の中心より遠い」Cであって「受任国領土の構成部分」として扱うことが認められた。日本では大蔵省が群島の売却を主張したが結局そのまま受任国になることになった。19世紀の末以来アメリカがフィリピンを植民地化していたが、日本が南洋群島を押さえていれば万一の場合にアメリカ本土〜フィリピンの連絡を遮断出来るからである。かくしてこの南洋群島の獲得は後の日米対立のひとつの端緒となる(註5)のだが……。
註4 これを「委任統治」と呼ぶ。委任統治を担当する国を「受任国」という。日本はそれが出来る国として認められ、名実共に大国の仲間入りをしたのである。
註5 という訳でアメリカは南洋群島の統治を日本にさせることに反対していた。しかし赤道以南のドイツ領を欲しがっていたイギリス・オーストラリア・ニュージーランドが日本を支持したのである。
しかし委任統治の場合、受任国は国際連盟の委任統治常任委員会に毎年の統治報告書を提出することになり、その地域には築城・陸海軍根拠地の建設、及び地域防衛以外に原住民に軍事教育を施すことを禁止される。それは22年に結ばれたワシントン条約(註6)でも「現状ヲ維持」ということで再確認された。
註6 英米仏伊日の主力艦の保有数を制限する条約。
日本は以上の規定に従い22年には南洋群島防備条例を廃して軍隊を引き揚げ新たに「南洋庁」を設置した。初代長官は手塚敏郎、本庁はパラオ諸島のコロール島である。支庁がパラオ・サイパン・トラックに開設された。群島の軍人は在勤武官以外はいなくなった。諸外国はなかなかこれを信じなかったが、22〜23年に南洋群島に潜入したアメリカのスパイであるエリス少佐は実際に現地を見て確かにろくな防備がないのを確かめている。小笠原諸島(ここは日本固有の領土であって委任統治領ではない)の父島には陸軍の要塞が建設されかけたが22年の「ワシントン条約」の規定によって中止、要塞司令部だけを残置した。もっとも日本は、万が一対米開戦が行われた際には南洋群島のマリアナ諸島付近に基地航空部隊を進めることにしており、そのための調査もやっていた。海軍の在勤武官は南洋庁において「影の実力者」と呼ばれていた(南洋群島委任統治政策の形成)。そして30年代に入ると極秘に軍用の飛行場の造成を始めるが、これについては後述する。
日本政府は最初この地の経済発展については期待しておらず、もっと南のニューギニア等への経済進出の拠点にする程度のつもりであった(南洋群島委任統治政策の形成)。しかし南洋群島における日本人の商業活動はドイツ領時代から行われていたことは既に述べたとおり、農業関係の方も第一次世界大戦が終わる前から始まっていた。その頃の日本は大戦景気に湧いており、南洋ではまず16年に大阪の喜多合名が椰子農園を、17年に下関の西村拓殖が砂糖黍農園を、同年南洋殖産が製糖を始めている。しかし18年に大戦が終結して景気が悪くなると南洋殖産が倒産、他の2社も不調に陥った。日本や朝鮮から来ていた労働者のうち約1000人が帰る費用も食事もままならず貧窮したが、22年に西村拓殖を買収した松江春次の「南洋興発会社(南興)」が苦心の末にサイパン島の砂糖黍で成功した。この会社は後には水産や製酒やその他諸々の事業に躍進して「海の満鉄(註7)」と称せられることになる。テニアン島も、もともと無人島状態だったのを何度かの失敗の末に南興が開拓したものである。そこで働く日本人は29年の世界恐慌の後に急増した。多くは沖縄・東北・北海道からやってきた。かような日本移民による開拓を行うための土地の調査は原住民の利益を配慮して行われたが、調査を開始した23年から終了まで9年もかかった上に、島の伝統をあまり考えなかったために原住民が土地を手放してしまうこともあった(日本植民地支配下のミクロネシア)。ここで無主地もしくは未使用の共同体所有地と判定されて南洋庁に押さえられた土地は原住民所有地の3倍以上に達した。ともあれ移民の努力により32年には南洋庁も黒字となった。パラオでは農業はうまくいかなかったがカツオ漁で成功した。南洋庁が設置した国策会社である「南洋拓殖会社(南拓)」によるボーキサイトや燐鉱石の採掘も行われた。南洋群島の総人口は40年末の時点で約13万6000、うち6割が日本人、その6割が沖縄人であった。太平洋戦争開戦後には軍事関係の工事に朝鮮人が多数投入されることになる(註8)。
註7 南満州鉄道の略。1906年に満州に設立された国策鉄道会社で、鉄道以外にも製鉄や牧畜、学校の経営まで行った。
註8 以下は南洋庁設置以前の話だが、1920年の外務省と海軍の調査報告によれば、その頃の朝鮮人労働者は雇用主の契約違反を不満として不良化することが多かったという(南洋群島委任統治政策の形成)。
原住民……日本人は「島民」と呼んだ……に対する行政機構は、伝統的な首長に報酬を与えて総村長・村長に任命し、島民1人あたり年1円の人頭税の徴収といったことを行わせた。もちろん議会はない。警察機構は南洋庁の内務部が担当し、主要な島では日本語の達者な若者を巡警に採用して治安維持・監視にあたらせた。島民の教育は「公学校」で8歳から14歳まで、群島全体では30年までに就学率50パーセントに達した。科目で最も重視されたのはもちろん日本語の習得である。上級生は放課後に報酬を与えて日本人家庭で働かせた。日本人対象の小学校はあったが島民は入学出来ず、本土に留学するのも原則として不可であった(特例はあったようです)。公学校の上の学校は「土民の現在の文化の程度」(註9)にあわせて最初は存在せず、26年に技術者を養成する「木工徒弟養成所」をつくった程度である(この学校は後には電気や機械も扱うようになる)。宗教についてはバチカンからスペイン人宣教師を呼んで布教にあたらせた(註10)。警察官が規則を破った島民を鞭打ちしたり、公学校で生徒をやたら怒鳴りつけたりはあった(註11)が、島民が反乱を起こすようなことは皆無であり(ドイツに対して反乱したことはある)、特に20年代の施政は欧米の視察団から「最善の統治」という評価を受けた(オセアニア史)。後には神社参拝や皇居遥拝といったことが行われた。
註9 20〜22年に国際連盟に提出した統治報告書の文言。(南洋群島委任統治政策の形成)
註10 何でスペイン人かというと、日本との利害関係が少ないからということらしい(南洋群島委任統治政策の形成)。日本人によるプロテスタントの布教も行われた。
註11 作家の中島敦がそれを見てがっかりしている。
島民の移動には日本船を使わせて伝統的なカヌーの遠洋航海は禁止し、島民が公的な仕事についても給料は日本人の3分の1程度であった(オセアニア史)。島民の中には日本人に土地を貸す等してかなり儲ける者もいたが、基本的に農業等の労働力としては期待されなかった(オセアニア史)。防衛庁編纂の戦史叢書の兵要地誌でも島民は「性質は温順、快活であるが勤労意欲に乏しい」と書かれている。工業製品や洋服が入ってきたが、伝統的な自給自足の生活を続ける者も多くいた。少なくとも、日本統治以前とくらべて島民の生活が悪化することはなかったようである。
33年、満州事変をめぐって日本は国際連盟を脱退、しかし南洋群島については「帝国不可分の領土」として永久統治を宣言した。一応は、委任統治に関するベルサイユ条約の規定を子細に検討すれば南洋の統治権は国際連盟ではなく第一次大戦の時の連合国から付与されたものであるし統治を委任されるのは連盟加盟国に限定するとの規定もない、と説明された。つまり委任統治という形式をそのまま続けたのであり、第二次世界大戦が勃発する前年までは統治報告書も提出していた。委任統治領の軍備制限については解除になったが、22年に結んでいたワシントン条約(太平洋の島嶼の軍備については22年現在の現状を維持という規定がある)については生きており、34年に日本がそのワシントン条約破棄を宣言した際にも36年まではその効力が残ることになっていた。諸外国では日本がその約束を守っていないのではないかという疑惑が高まってきた。日本が必要以上の秘密主義をとり南洋群島への外国人立ち入りを厳しく制限していたことが疑惑に大きな拍車をかけた(戦史叢書中部太平洋方面海軍作戦1)。はたして実は日本は約束を守っておらず、31年には海軍から南興に対しサイパン島とパガン島での飛行場造成を「農場の造成」という名目で発注していた。33年の海軍特別大演習(これは別に条約違反とかではない)ではこの「南洋興発第1農場」から極秘に軍用機の離発着が行われているが、その滑走路のアスファルトはさして大きくもない艦上機の発着でヒビが入り、下から生えてくる雑草に突き破られるような貧弱なものであったという(サイパン・グアム光と影の博物誌)。
ワシントン条約の効力の切れた37年になると当然のように本格的な防備が始まった。しかし日本海軍はもし対米戦をやる場合はまずフィリピン・グアム島(註12)を占領し、後は海軍主力艦隊が太平洋上で決戦をして勝敗を決めるという考えであり、この時点では島の要塞化といったことより飛行場の整備(艦隊を空から支援)を重視していた。37年前半に第12戦隊の艦艇4隻が半年かけて南洋をくまなくまわって飛行場適地を調査した。そして日米対立が顕著になってきた39年11月になってようやくこの方面を担当する「第4艦隊」が編成され(註13)、39〜40年には南洋群島で働く軍事関係の工員は1万人に達した。軍事機密に関する(註14)だけに工員の調達は困難で、普通の労働者や島民だけでなく横浜刑務所からまわしてもらった囚人による「赤誠隊」や「図南報国隊」までが投入された。対米開戦時に完成した航空基地は陸上が9、水上が10であった。燃料貯蔵庫や港湾(これらは南洋庁が前から普通に整備していた)の整備も進み、砲台も建設された。とはいっても損傷艦の修理を行う大型ドックといったものは最後までつくれなかった。
註12 19世紀末以来アメリカ領。
註13 ところで「第4艦隊」とは33年頃から海軍大演習の際に仮想敵として編成され演習終了とともに解隊される部隊の名称であった。37年の日中戦争勃発に際して常備艦隊となるがそれは39年11月「第3遣支艦隊」と改称され、別に南洋群島を担当するための「第4艦隊」が編成されたのである。
註14 サイパン島のアスリート飛行場の造成は「共同網干し場」という名目で発注された。
40〜41年には駆潜艇や陸上の砲台を持つ「根拠地隊」が4つ編成され、そのうちの陸上の部隊(防備隊や警備隊)は全部で3500名弱の定員を持った。つまりこれが南洋群島の陸上の全守備兵力である。各根拠地隊は海軍の第4艦隊に所属するが、艦隊旗艦の「鹿島」は練習巡洋艦、それ以外の艦艇も旧式ばかり、艦隊所属の基地航空隊である第24航空戦隊も零戦ではなく旧式の九六式艦上戦闘機を使っていた。41年には小笠原以北を担当する第5艦隊が編成されたが、陸軍の方は全く関与せずでせいぜい小笠原に対米開戦直前の時点で歩兵8個中隊・重砲兵8個中隊その他を置いていた程度であった。
開戦前、いや開戦後しばらく経ってからも日本は対米戦の勝敗は太平洋上での主力艦隊同士の一大決戦によって決まるものと信じていた(註15)。それが主眼なのだから南洋の小島の防備など手薄でいいと思った(註16)のだが、しかし米軍の方は艦隊決戦ではなくその南洋の小島を奪って拠点(飛行場)を築きつつ日本本土に迫ることによって勝敗を決するという発想の転換を行いつつあったのである。そして、南洋群島の多数の島では太平洋戦争後半において米軍の上陸を受けることになるが、それについては本稿の語るところではない。
註15 そのための哨戒基地としての南洋群島は重視していた。飛行場をたくさんつくったのはそのため。
註16 もしくはその強度を過信していた。ある程度の防御力を持つ小さな島に対する上陸作戦は確かに困難なのだが、アメリカにはそれに特化した海兵隊という組織があった。
おわり
参考文献
『戦史叢書中部太平洋陸軍作戦1 マリアナ玉砕まで』 防衛庁防衛研修所戦史室著 朝雲新聞社 1968年
『戦史叢書中部太平洋方面海軍作戦1 昭和十七年五月まで』 防衛庁防衛研修所戦史室著 朝雲新聞社 1970年
『オセアニア現代史』 北大路弘信・北大路百合子著 山川出版社世界現代史36 1982年
「日本植民地支配下のミクロネシア」 マーク・R・ピーティー著 『岩波講座近代日本と植民地1 植民地帝国日本』 岩波書店 1992年
「南洋群島委任統治政策の形成」 今泉裕美子著 『岩波講座近代日本と植民地4 統合と支配の論理』 岩波書店 1993年
『アメリカ海兵隊 非営利型組織の自己革新』 野中郁次郎著 中公新書 1995年
『日本植民地探訪』 大江志乃夫著 新潮選書 1998年
『オセアニア史』 山本真鳥編 山川出版社新版世界各国史27 2000年
『サイパン・グアム 光と影の博物誌』 中島洋著 現代書館 2003年
『太平洋 開かれた海の歴史』 増田義郎著 集英社新書 2004年
その他