藤原仲麻呂は聖武天皇の皇后光明子の甥である。仲麻呂は天平勝宝元(749)年に聖武天皇が退位して娘の孝謙天皇が即位した頃から光明皇太后とともに実権を握るようになり、天平勝宝9(757)年には政敵の橘奈良麻呂を退け、翌年には大炊王を新天皇として擁立した。淳仁天皇である。この新天皇は上皇となった孝謙やその母の光明皇太后、そして自分を擁立してくれた仲麻呂に全く頭のあがらない存在であった。仲麻呂は新天皇から、大臣として「汎く恵むの美、これより美なるはなし」「暴を禁じ強に勝ち、戈を止め乱を静む」との意味で「恵美押勝」という名をもらい、官名を唐風に改める改革を行った。例えば太政大臣が太師、大納言が御史太夫。押勝は太保だからそれまでの右大臣に就任したことになる。そして彼は天平宝宇4(760)年には太師すなわち太政大臣にまで登り詰める。皇族以外の者でこの職についたのは彼が最初である。押勝はその前後に息子たちを要職に引き立て、曾祖父藤原鎌足の伝記『大織冠伝』を執筆、東北に蝦夷経略の拠点たる桃生城・雄勝城を建設、さらに実現には至らなかったが新羅遠征の準備まで行った。押勝の全盛期である。しかし天平宝宇4(760)年に最大の後ろ楯であった光明皇太后が亡くなる頃から押勝の権勢にも影が差してきた。
さて孝謙上皇はこれまで母親たる皇太后の下であまり自由に動けなかったのが、母の死で制約がなくなったことになる。上皇と押勝はそれなりに親しい間柄だったのだが……。翌天平宝宇5(761)年、孝謙上皇と淳仁天皇は平城京の内裏(天皇の住まい)改修工事を避けて近江の保良宮(滋賀県大津市の石山寺の近くにあった離宮)に移ったが、ここで病気にかかった上皇は、看病禅師として平癒祈願してくれた道鏡という僧侶を強く信頼するようになった(宿曜秘法なる呪術で快癒したという)。面白くない押勝は天皇を通じて苦情を申し入れたが、激怒した上皇は翌6年、国家の大事は自分が行い、天皇(と押勝は)は小事のみを行えばよいとの宣言を行った。押勝・淳仁天皇陣営と孝謙上皇・道鏡陣営との政争の始まりである。平城京に戻った上皇と天皇は前者が法華寺、後者が中宮院(押勝が用意した内裏)に入って睨み合った(上述の上皇の宣言は平城京に戻ってからのもの)。
この頃押勝の腹心の部下が次々と亡くなり、それに反比例して上皇に引き立てられる道鏡の権勢が高まってきた。さらにそれまで主に九州で仕事をしていた吉備真備が都に呼ばれて上皇の有力なブレーンとなる。真備は昔は都で要職を勤めていたが、10年ほど前に押勝によって左遷されていたのである。押勝も対抗して息子たちを地方の国守に任じ、自派の者たちを要職につけようとした。天平宝宇7(763)年4月、同族の藤原良継が押勝排除の陰謀をめぐらせたがこれは事前に潰された。藤原氏は南家・北家・式家・京家の4家が独立して行動しており、良継は式家、押勝は南家であった。良継は死刑にはならなかったが官職剥奪となった。
翌(764)年9月、押勝は「都督四畿内三関近江丹波播磨等国兵事使」という職を与えられ、10ヶ国の兵士20人ずつを都督衙にて訓練することとなった。要するに押勝の手勢にしようというのである。実はこの職は押勝から孝謙上皇に願い出て任命してもらったものであった。上皇は反対しなかった。その頃たまたま新羅との関係が険悪化していたことからそちらとの戦争に備える必要上やむなく認めたとか、そもそも制度的に上皇の立場で反対することが出来なかったからとか説明されている。ところが、押勝は諸国宛の命令書にて規定数の20人を600人に書き換えようとしたが、このことが命令書の作成に携わった高丘比良麻呂の密告によって上皇側に露見した。これは明らかに押勝による反上皇クーデター計画である。上皇からみれば淳仁天皇も信用出来ない。
9月5日、押勝は上皇の失政を糾弾する文書の作成に着手した。押勝は普段からことの吉凶を大津大浦という陰陽師に占わせていたが、謀反の企みを察知して恐れをなした大浦は全てを上皇に密告した。押勝謀反の噂はあちこちで囁かれた。11日、遂に上皇は小納言山村王を淳仁天皇のいる中宮院に派遣して鈴印を没収させた。鈴印とは駅馬すなわち公用通信網の使用に必要な使用許可証明のことで、地方で軍勢を動員したりするのに必須なアイテムである。天皇は山村王に対して特に抵抗しなかったが、(山村王が)中宮院から帰る途中、押勝の3男訓儒麻呂が手勢を率いて襲ってきた。もはや完全な反乱勃発、これが世に言う「恵美押勝の乱」である。
急報を受けた上皇は坂上苅田村麻呂らの部隊を派遣し、押勝もまた矢田部老の部隊を差し向けたが、勝利したのは上皇方の方で、訓儒麻呂も老も戦死した。上皇方の主力となったのは「授刀衛」という比較的最近(5年前)設置された役所の部隊だが、これはもともと皇太子の身辺警護をつとめる部局「授刀舎人寮」を前身としていたことから昔(聖武天皇の)皇太子だった孝謙と縁があり、この時は道鏡の弟の弓削浄人らによって支配されていた。余談だがこの授刀衛は後に「近衛府」に発展解消して内裏(天皇の住まい)の警護等にあたることとなる。押勝側の兵力は「中衛府」という別の宮廷警護組織を主力としており、これは神亀5(728)年に本来の宮廷警護組織である「五衛府」(大伴氏や佐伯氏と関係が深かった)よりも高位の組織として藤原氏の意図により設置されたものであった(とされている。つまり藤原氏の私兵に近い組織)。平安時代に「近衛府」が「左近衛府」、「中衛府」が「右近衛府」に改称される。……余談はともかく、押勝の邸には上皇の勅使として紀船守が派遣されたがこちらでも戦闘となった。押勝軍はその日夜に都を脱出した。天皇は連れ出せなかったためその従兄弟の塩焼王を連れていく。12日、上皇は押勝を逆臣と認定する勅を発した。
押勝はとりあえずは近江国を拠点にしようとそちらに向かった。彼は太師でありながら近江守を兼任し、彼の父の武智麻呂も長年ここの国守をつとめていた。南から近江に入るルートとしては田原道と逢坂越えの二通りがあり、押勝はわざわざ遠回りになる後者の方を選択した。そちらの方が官道(国家の伝令等が通る道で、それだけ整備されている)で歩きやすかったからと推定されている。しかし鈴印を手中におさめた上皇方の動きは押勝の予測を越える早さであり、山背守の日下部子麻呂ら数百騎が田原道から近江に入って勢多の橋(現在の大津市の瀬田川にかかる橋)を焼いてしまった。押勝が兵馬を徴発しようと近江国府に先発させた使者も尽く捕えられた。少し遅れて近江に入った押勝軍は、勢多の橋が渡れないことには近江国府に入れない。やむなく押勝軍は琵琶湖の西岸を北上して高嶋郡に入り、さらに越前に向かおうとした。押勝は高嶋郡に鉄穴(製鉄所)を所有し、越前の国守は押勝の7男の辛加智であった。とりあえず高嶋郡角野郷の角家足の宅で14日の夜を明かす。角家足は押勝の鉄穴を管理する地方豪族である。この夜おおきな隕石が落下したという。それが次なる不運の前兆を示していたのか、辛加智は既に越前国府にて斬られており、愛発の関(近江から越前に出たところにある関門)も封鎖されていた。勢多の上皇軍が船か馬で一隊を飛ばしていたのである。押勝はそのことを知らないまま、都から同行していた塩焼王を帝に擁立してその子らを親王とした。さらに精鋭数十人を先発させて愛発の関を押さえようとしたが物部広成によって阻まれる。押勝軍は琵琶湖を船で渡って浅井郡の塩津に向かいそちらから別ルートで越前に入ろうとしたが逆風に押し戻され、そこで陸路に戻って再び愛発の関を突破しようとしたが8〜9人が戦死して失敗した。近江国は交通の要衝で、越前に出たところに愛発の関、美濃に出たところに不破の関、伊勢に出たところに鈴鹿の関という三つの大きな関所があるが、これらはそもそも押勝のような反乱者が地方に脱出するのを食い止めるために設けられたものであるとの説がある。
押勝の作戦はひとつ残らず先手をとられていた。上皇方で作戦を練ったのは吉備真備であった。彼は遣唐副使として中国に渡ったことがあり、そちらで軍略を学んでいた。都では聖武天皇の代から東大寺の造営が続いていたが、真備は造東大寺司の長官という役職にあり、去る11日の鈴印をめぐる戦闘に際しては東大寺造営に携わる木工はおろか、たまたま『大般若経』を書写していた写経生までが上皇方の軍勢に動員されていた。さらに速攻で押勝派を追放した新政権が樹立され、11日の戦闘で功績のあった人への報賞、さらに伊勢神宮での戦勝祈願が行われていた。昨年4月に押勝を退けようとして失敗したことから官職を失っていた藤原良継が復帰して、直ちに手勢数百を率いて近江に向かい、その弟で備前守の蔵下麻呂が押勝討伐の将軍に任命された。近江の諸寺院も押勝の誘いを蹴り、おそらく道鏡の指図によって上皇方に加担していた。
さて愛発の関で押し返された押勝軍はやむを得ず高嶋郡に戻り、17日に三尾の崎にて勢多から北上してきた佐伯三野や大野真本らの軍勢と戦闘した。ここは琵琶湖と山に挟まれた狭小な土地で、琵琶湖西岸の狭い土地を南北に走る道(西近江路)がさらに隘路となる要衝である。押勝軍の主力を率いるのは次男の真先であった。戦いはひる頃から申の刻(午後3〜5時)まで及び、数に劣る上皇軍の方に疲れが目立ってきたが、藤原蔵下麻呂が新手を率いて到着したため戦況は上皇軍の有利となった。翌18日、勝野の鬼江で最後の戦いとなった。押勝は妻子数人とともに船で逃げようとしたが石村村主石楯に捕らえられて湖岸の砂州で斬られた。享年59歳。乱を起こして7日であった。妻子と従者34人(44人とも)も現地で斬られたが、6男の刷雄だけは年少から仏道修行をしていたとの理由(唐に留学して鑑真と共に帰国したという経歴を持つ)で死を免じられ、隠岐国に流されることとなった。
押勝敗死の2日後、上皇は「帝」の名で道鏡を大臣禅師に任命した。その後の政局は道鏡を中心にまわっていくが、そこまでは本稿の述べるところではない。押勝によって唐風に改称されていた官職名ももとに戻され、10月9日には淳仁天皇が廃されて淡路に流された。実は「淳仁天皇」という名は明治時代になってからの追贈で、それまでは「淡路廃帝」と呼ばれていた。正史である『続日本紀』では単に「帝」もしくは「廃帝」と記されている。かわって孝謙上皇が復位した。これが称徳天皇である。廃帝は翌年10月に淡路を脱出しようとして失敗し、同日23日に亡くなった。享年33歳、暗殺されたとも言われている。
おわり
『奈良の都』 青木和夫著 中央公論社日本の歴史3 1965年
『奈良朝政争史 天平文化の光と影』 中川収著 教育社 1979年
「律令体制と西近江」 藤井五郎著 『高島町史』 高島町役場 1983年
『藤原仲麻呂』 岸俊男著 吉川弘文館人物叢書新装版 1987年
「古代国家と橋」 館野和己著 『勢多唐橋 橋にみる古代史』 六興出版 1990年
『続日本紀4巻』 青木和夫他校注 岩波書店新日本古典文学大系15 1995年
『平城京と木簡の世紀』 渡辺晃宏著 講談社日本の歴史04巻 2001年
その他