八日市飛行場

 日本人が初めて飛行機を飛ばしたのは明治43(1910)年12月19日、代々木練兵場における徳川好敏陸軍大尉の操縦によるものである。正確にはその5日前に日野熊蔵大尉が飛行を行っているが、これは予定されていた公式の飛行実施日ではなく「滑走テストで誤って離陸した」結果であるとされている。徳川大尉は名字からわかるとおりの名門華族の人なので、陸軍の贔屓で「日本初」の栄誉を譲られたとの噂もある。

 大正2(1913)年には「帝国飛行協会」が設立されて航空振興が推進され、翌大正3(1914)年6月13〜14日、兵庫県鳴尾競馬場にて「第1回飛行大会」が開催された。これにフランス製複座単葉機「モラーニ・ソルニェーG型」に乗って参加した荻田常三郎という人物がいた。彼は滋賀県愛知郡八木荘村の富裕な呉服商の出であったがこの前年に私財をはたいてフランスのヴィラーク・ブーレー飛行学校に留学し、万国飛行一等免状を取得、リゼーというフランス人の飛行教官を伴って日本に帰国し「第1回飛行大会」に登場したのである。

 大会での常三郎の記録は高度では一等賞、しかしエンジン不調のため不時着中破という結果であった。その後は軍の深草練兵場を利用して(彼は予備役少尉だった)飛行を繰り返し、それを見た皇族の伏見宮から愛機に「翦風号」の名を貰ったりしている。しかし教官のリゼーはこの年8月の第一次世界大戦勃発により帰国した。実は常三郎の飛行機は代金支払いが滞っており、リゼーは機体を封印していったのだが、常三郎はこれを解いてしまうのであった。

 大会の数ヶ月後、常三郎は深草練兵場から郷里の滋賀県八木荘村までを飛行機で往復するとの計画を立て、その際の緊急時の不時着場として八木荘村にほど近い八日市町の沖野ヶ原に注目した。このあたりは八日市の民俗行事として有名な大凧あげで知られる地域である。とりあえず現地で短距離の飛行をしてみたいと考えた常三郎は八日市の町長や有力者の後援を得て9月21〜22日、沖野ヶ原の一部を整地した臨時の飛行場にて「飛行会」を開催した。滋賀県で飛行機が飛ぶのはこれが最初であり、県内各地から見物人が殺到してきた。21日は残念ながら天候不順のため飛行を断念したが、22日には数万の観衆の前で12分45秒の飛行に成功した。着陸時の事故で機体が破損したが怪我はなしであった。その日の夜には祝賀会が行われ、その席で八日市町長横畑耕夫の音頭により、常三郎の愛機の名をとった「翦風飛行学校」の設立と本格的な民間飛行場の建設が決められた。今回の飛行に使われた用地は四千坪程度であったが、一挙に五万坪を使おうというのである。

 この話は11月には具体化して予算が計上され、特に飛行学校の話は瞬く間に全国に報道されて志願者が殺到した。しかし肝心の荻田常三郎は翌年1月3日、深草練兵場から離陸した後にエンジンから出火して墜落、死亡してしまった。八日市町はこの惨事にもかかわらず事業を継続し、4月には地元有力者や京都の飛行機好きの土木業者の支援を受けて飛行場の造成に着手した。

 この「沖野ヶ原飛行場」が完成したのは同年6月である。しかし、使い道がなかった。旅客運輸などはまだまだの時代である。翌大正5(1916)年5月に中国の辛亥革命の指導者である孫文がここで飛行士を訓練させたことが知られているが、それ以外にはたまに国内外の飛行家が訪れたりする程度で全く振るわなかった。困った八日市町が用地の買収費や造営費(借金していた)の支払いを「開墾費」の名目で町民に負担させようとしたことから町議会が紛糾する有り様である。「翦風飛行学校」の話も立ち消えとなる。

 翌大正6(1917)年11月、滋賀県を舞台とする軍の特別大演習が行われ、その際に沖野ヶ原飛行場も利用された。八日市町はこの少し前から軍の航空部隊(註1)を誘致する計画を講じていたが、これがここにきて本格化した。要するに軍需目当てで飛行場を活用しようとの話であるが、軍の飛行場となると広大な面積(五十万坪を想定)が必要なため、八日市町だけでなく隣接の村々からも用地を買収して造成を進める。費用は八日市町と周辺3ヶ村、その上の神崎郡と蒲生郡、それから滋賀県が出した。土地転がしのような不正もあったようである。大正9(1920)年12月、陸軍にて「航空第3大隊」が新設され、これの八日市への配備が決定した。誘致成功は地元関係者だけでなく滋賀県知事堀田義治郎らの尽力の賜物であった。部隊は翌年11月から順次八日市に移動、そのつど地元民の大歓迎を受け、大正11(1922)年1月11日名称も改まった「八日市飛行場」にて航空第3大隊の「開隊式」が挙行された。この隊は大正14(1925)年には「飛行第3聯隊」に発展して戦闘機2個中隊・偵察機1個中隊の飛行機約50機(予備機・訓練機を含む)を持つ編成となった(以後逐次拡大)。

註1 日本陸海軍の航空部隊は既に第一次世界大戦における青島攻略に参陣している。詳しくは当サイト内の「ドイツの植民地」を参照のこと。


 飛行第3聯隊は満州事変・日中戦争に際してその一部を大陸へと派遣し、昭和13(1938)年には「飛行第3戦隊」に改称されて爆撃機主体の部隊となった。地元の業者などは軍の需要に依存する向きがあって「軍隊さまさま」とも言われ、毎年4月3日の「飛行場祭り」は軍民共に楽しめる地域最大の年中行事となったが、時代が進んで飛行機が大型化(特に第3戦隊の場合、主力が爆撃機である)してくると飛行場周辺の(拡張工事のための)強制立ち退きや騒音公害の様な問題も発生した。特に住民が困ったのは墓地の立ち退きであったという。戦隊は太平洋戦争が始まった翌年の昭和17(1942)年3月に樺太の豊原へと全隊移動、かわりに第104教育飛行聯隊が入り、さらに変遷があって終戦の時点では、航空部隊としては第8航空教育隊・飛行第244戦隊等、陸上の部隊としては第254飛行場大隊・独立機関砲第56中隊等が駐屯していた。それから、飛行機の修理を行うために昭和13(1938)年に約70名で発足していた「八日市陸軍航空分廠」が終戦時に約1000名に拡大していた。その人員の中には徴兵逃れのために勤務していた人もいたという(註2)。戦中に行われた飛行場の拡張工事には朝鮮人も用いられた。樺太に移っていた飛行第3戦隊は昭和19(1944)年になってさらにフィリピンへと移動し、そちらでのたった1回の出撃で全機未帰還となった。地上要員もフィリピンや沖縄で全滅した。

註2 『軍都の轍より』50


 それから八日市に対しては終戦直前の7月24日と25日に米軍機多数による銃撃があり、飛行場の損害はよくわからないが、民間人については2日あわせて4名が死亡した。上空では空戦も行われて米軍機を何機か撃墜、搭乗員1名を捕虜としている。本土決戦用に温存されていた最新鋭の五式戦闘機が活躍して10機を撃墜したというのだが……。

 終戦後、飛行場は進駐してきた米軍に引き渡され、飛行機は焼却処分となった。『八日市市史』によれば飛行機224機があったが、そのうち飛行可能のものが何機であったかは不明である。飛行場用地は一部のみ元の地主に返還、あとは外地からの引揚者に農地として払い下げられた。施設は各地に移築して学校や官庁として用いられた。大正3年の荻田常三郎の飛行以来の八日市の飛行場の歴史は31年でその幕を閉じたのである。滋賀県における航空施設としては大津に海軍の水上機基地「大津海軍航空隊」があった(現在そこには陸上自衛隊の駐屯地があります)が、陸上の飛行場としては(軍民いずれにせよ)後にも先にも「八日市飛行場」だけである(註3)

註3 わりと最近になって「琵琶湖空港」という計画が立ち上がったが、資金も県民の支持もなくすぐに頓挫した。


                               おわり


   参考文献

『八日市の歴史』 八日市市史編纂委員会 八日市市役所 1984年
『八日市市史第4巻 近現代』 八日市市史編纂委員会 八日市市役所 1987年
『軍都の轍より 八日市私史近現代抄』 中島隆著 新風社 1993年


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