滋賀県の変遷

 幕末、現在の滋賀県域(近江国)には彦根・膳所・大溝・水口・西大寺・山上・宮川の7藩と幕府直轄領・旗本領・公家領・寺社領、さらに他国の藩の飛び地が錯綜していた。この中で最大なのは彦根藩だが「桜田門外の変」で藩主 井伊直弼が討たれたうえに領地を大幅に削られ、幕府からも朝廷からも白い眼で見られつつ下級藩士に引っぱられる形(彦根市史下冊)で世の中の趨勢に順応しつつあった(註1)

 註1 戊辰戦争における下総流山の戦いで元新撰組局長 近藤勇を捕えたのは彦根藩兵である。

 慶応4(明治元)年1月16日、1ヵ月前に発足したばかりの新政府はそれまで幕府直轄領であった大津代官所支配地を政府管轄地とし、3月7日には代官所跡地に「大津裁判所」を設置した。当時の裁判所の職掌は司法だけでなく行政一般にも及んでいたが、これは同年閏4月25日に廃止、かわって「大津県」の設置となる(同月28日)。この県には他の幕府直轄領・旗本領・寺社領・公家領が漸次加えられていくが、それらは近江各地にバラバラに散らばっており、県官 籠手田安定に「所部ノ町村江州一二郡ニ散在シ、他ノ藩県所部ノ地ト犬牙交錯」と記される有り様である。?犬の牙のように入組んでいる?とはうまい表現です。1つの村からあがる年貢を数人の領主で分けている例もあり、この当時の近江の各藩・領主の支配地域は地図で表すことが出来なかったのである。

 この当時は諸藩と府県(新政府直轄領)が並立する「府藩県三治体制」がとられていたが、近江国内では明治4年6月23日に財政難に苦しむ大溝藩が自発的に廃藩、同年10月5日に大津県に編入となった。他にも、明治3年に自発的に廃城した膳所藩(註2)をはじめ、諸藩の財政はもはや限界に達しており、おかげで明治4年7月14日の「廃藩置県」にもたいした抵抗は見られなかった。このとき近江に成立した県は膳所・水口・西大路・山上・宮川・彦根・朝日山(明治3年に山形から移転)の7つだが、これまで藩と同じ扱いを受けていた大津県も一旦廃止のうえ改めて新しい大津県の発足となった。

 註2膳所城は琵琶湖に張り出した水城であり、維持費がかさんでいた。 

 ただ、諸藩が以前から他国に持っていた飛び地は(整理されつつはあったが)そのままということが多かったため、例えば彦根藩の飛び地であった下野の佐野、武蔵の世田ヶ谷もそのまま彦根県の一部となっていた。逆に、近江国内に他藩がもっていた飛び地もそちらの県の管轄となり、それは15県を数えていた。

 11月22日、近江国内の全ての県が廃止されて劃一的に「大津県」と「長浜県」に統合された。近江にある12の郡のうち北の6つが大津県、南の6つが長浜県である。この際、それまで彦根県の管轄であった下野の佐野は栃木県に、武蔵の世田ヶ谷は東京府に移管となった。

 長浜県庁は最初は旧彦根藩庁に置かれていたが明治5年2月に長浜に移転して県名も「犬上県」に改称(5月27日)した。4ヵ月後に再び彦根に戻っている。大津県は同年1月19日に「滋賀県」に改称されたが県庁は変化なしである。

 滋賀県では県成立直後から全国に先駆けて地方議会の試みが行われている。この「議事所」は「県庁ノ為メニ県内ノ人民アルニアラズ。県内人民ノタメニ県庁」というスローガンを掲げ、具体的な議事は不明かつ国政には一切口出し禁止だったが、土地開拓・道路修理・教育・物産の興隆といったことが議論出来るとされていた。「議者」つまり議員は県令以下の県当局者に県内の豪農・豪商、さらにそれ以外の者も5人だけ出席を認められていた。

 小学校の開設は長浜県の方が早くてこれは「学制」発布(明治5年8月)より1年前(4年9月)。滋賀県では明治5年7月に最初の小学校設置であり、前述の「議事所」で議すべき事項にも学校の事が入っていた。

 明治5年9月28日、滋賀県と犬上県が合併して単一の「滋賀県」が誕生した。廃藩置県から1年2ヵ月である。県庁は大津だがこれは恐らく大藩(35万石)のあった彦根を意図的に嫌ったからであろう。彦根への県庁移転の議論は何度か起こっている。明治9年8月には現福井県下の敦賀など4郡が滋賀県に編入されたが14年2月には分離した。これについてはいずれUP予定の「福井県の変遷」で語られることになるであろう。

『彦根市史 下冊』 彦根市役所 1964年

『新修 大津市史5 近代』 大津市役所 1982年

『滋賀県の百年』 伝田功 山川出版社 1984年

『滋賀県の歴史』 畑中誠治他著 山川出版社 1997年

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