仏印武力処理
現在のベトナム・ラオス・カンボジアは19世紀後半からフランスによって植民地支配されていた。ベトナムは北からトンキン・アンナン・コーチシナの3地域に大きく区分されるが、フランスは1862年にコーチシナの3省を獲得したのを手始めに、やがて、アンナンはある程度の主権を持つアンナン国王(註1)がフランスの保護下に統治し、コーチシナはフランス直轄植民地、トンキンはアンナン国王が総督を任命するがやはりフランスの保護下に置かれる、といった形でこれを支配していった。1863年に隣国のカンボジアを保護国化、95年にはラオスを保護国化した。直轄植民地とか保護国とかいくらかの違いはあるが、これらはまとめて「フランス領インドシナ連邦」、当時の日本からは「仏印」と呼称され、フランス本国から送り込まれたインドシナ総督によって支配されていたのである(註2)。このフランスによる支配が大きく揺らぐのは1939年に勃発する第二次世界大戦に際してのことである。
註1 この王家はフランスに侵略される前はアンナンだけでなくコーチシナとトンキンも支配していた。王朝が出来た時に清(中国)から「ベトナム(越南)」という国号を貰ったが、気に入らなかったので「ダイナム(大南)」と自称した。それがフランス人からは「アンナン(安南)」と呼ばれたのである。
註2 1900年には清(中国)から租借した広州湾もこれに組み込まれた。
さて1937年、仏印の北の中国で日中戦争がはじまるが、四川省の重慶に籠る蒋介石の中国国民党軍は主に米英からの援助を東南アジア経由のルートで確保しており、その主要路の1つが仏印であった。日本軍は40年に入る頃から仏印に進駐してこの「援蒋ルート」を遮断する計画を立てていたが、その40年6月にフランス本国がドイツ軍によって占領される(註3)と日本の計画は一気に具体化し、仏印総督カトルーに対して援蒋ルートの遮断と監視委員の派遣を申し入れた。弱体の軍事力しか持たないカトルーはこれを必要以上に受け入れた(ようにみえた。本人にはそれなりの意図があったようだが)ことから本国政府に解任される(註4)が9月22日に日・仏印協定が結ばれて日本軍部隊による北部仏印進駐が決定し、翌41年7月23日には新たな日・仏印共同防衛協定が結ばれて日本軍による南部仏印進駐が行われた。以後の仏印はフランス政庁(以後、仏印政庁と表記)と日本軍による二重支配下に置かれることとなる。かような日本の動きに対しアメリカ・イギリス・オランダ(註5)がまず北部仏印進駐への制裁として屑鉄・鉄鋼の対日禁輸を、次いで南部仏印進駐への制裁として対日石油輸出全面禁止を行い、このことが41年12月8日に勃発する太平洋戦争の直接の原因(註6)となった。
註3 以降のフランス本国ではペタン元帥の率いる「ヴィシー政府」が成立して対独協力を行う。ただしフランス海軍と植民地は無傷であったため、それらがイギリスに合流することがないよう、ヴィシーにはある程度の主権(フランス本国の5分の2はドイツ軍が入ってこない「自由地区」に設定され、艦隊と植民地は原則として一切ドイツ軍に協力しなくていいから大戦に中立の立場をとる)が認められていた。そのため仏印の総督カトルーもとりあえずヴィシーを支持した。一方、ドイツに対する徹底抗戦を主張するド・ゴール准将はイギリスにて亡命組織「自由フランス」を組織。このあたりの話は当サイト内の「ド・ゴール伝」を参照のこと。
註4 そのためカトルーは自由フランスに投じることになる。カトルー解任後の仏印にはヴィシー派の総督が着任。もう一度整理しておくと、ヴィシー派の植民地は原則としてドイツ軍の指図を受けずイギリス軍に対しても中立を維持する(局地的には交戦したが、イギリスは戦線を広げすぎないようあまりヴィシーを攻撃しなかった)。自由フランス派は対独徹底抗戦である。
註5 オランダは40年の段階でドイツ軍に占領されたが、植民地(インドネシア等)は抗戦を継続していた。
註6 正確には、アメリカは既に40年1月、日本の中国侵略に抗議するとして日米通商条約を破棄。
仏印の原住民(ベトナム人等)の中には日本軍に積極的に協力するグループもおり、日本軍もフランスの仏印政庁を牽制する目的からこれを利用しようとした。その一方で仏印政庁とも日本軍とも断固として戦う(ベトナム人の)共産主義者の一団も存在し、彼らは41年5月「ベトナム独立同盟(ベトミン)」を結成した。日本は原則としてはあくまで仏印におけるフランス(ヴィシー政府)の主権を認めた上でこれを防衛するという名目を掲げていたが、そのうち、むしろこの地域にフランスからの独立を宣言させた方がよいのではないのかという考えが主流を占めるようになる。
ともあれ1941年12月8日、太平洋戦争が始まった。仏印はビルマ(当時はイギリス領)や蘭印(現インドネシアのこと。当時はオランダ領)を攻略する日本軍全体の兵站基地という役割を振り当てられた。日本は仏印の資源のうち、特に米を期待した。日本本土で不足していたからである。買い取り価格は格安であった。仏印政庁は日本軍の駐屯経費を支払わされ(註7)、さらに日本商社に借款を与えた。それらの費用は仏印政庁の予算をはるかに超えるものとなった(東南アジア史1)。膨大な支出を乗り切るためフランス資本のインドシナ銀行は紙幣を乱発し、戦時で工業製品が不足したことからインフレが巻き起こった。1942年も後半に入ると大戦全体の戦局は日本側にとって不利なものへと傾き、44年に入って日本軍が制海権を失うと仏印から日本への輸出が激減し、特に鉱業の失業者が激増した。
註7 最初は日本が全額負担という約束だったのが、すぐに破られたのである(第二次世界大戦とフランス領インドシナ)。
話が前後する。42年11月に米英軍が北西アフリカのヴィシー派植民地に上陸すると、日本はその後の情勢如何によっては仏印軍(註8)が日本に反抗してくることもありうる(註9)として警戒を強めることにした。それからしばらくは日本政府も(日本の)現地軍も仏印軍の武装解除のようなことには消極的であったが、そのうちに大戦の情勢が逼迫してくると、軍よりも外務省の方が仏印軍武装解除(仏印武力処理)案に積極的になってきた。フランス本国のヴィシー政府が消滅した場合(註10)、そのまま仏印政庁を利用し続けるよりもむしろこれを潰して原住民(ベトナム人等)に独立の希望を与えてやった方が得策であること、仏印政庁にかなりド・ゴール派の勢力が入り込んでいることがあげられた。44年6月、米英その他軍が北フランスのノルマンディーに上陸し、8月30日には臨時政府首班のド・ゴール将軍(註11)が仏印に関するヴィシーと日本の取り決めを無視するとの声明を発した。ヴィシー政府は潰されはしなかったものの実質的に滅び、コスム駐日フランス大使は、本国に「正統政府」が出現してからそちらに日仏関係の維持を進言し、それが(本国に)了承されねば辞職すると発言した。日本の外務省はますます強く原住民による独立案を主張したが、軍部の方はこのころ主にフィリピン方面での対米戦の方が重要であったことから仏印武力処理案になかなか積極的になれなかった。
註8 仏印には日本の進駐軍と。それ以前からのフランス植民地軍(仏印軍と表記)が同居する格好になっていた。
註9 アメリカは41年12月の時点でドイツと戦争状態になるが、ヴィシーとは外交関係を保っていた(イギリスはヴィシーと局地的な戦いを続けていた)ため、北西アフリカ上陸作戦はフランス領土の占領ではなく単にドイツと戦うための拠点づくりであるという名目であった。北西アフリカのヴィシー軍はとりあえずこれに抵抗したが、すぐに本国政府の意向と関係なく(正確には両者の連絡の有無は不明)米英軍と休戦してしまった。これについても詳しくは「ド・ゴール伝」を参照のこと。そんな訳で、仏印軍もすぐに米英になびくのではないかと警戒されたのである。
註10 米英軍による北西アフリカ上陸に際して、ドイツ軍はこれに対抗して地中海沿岸を固めるため南フランスのヴィシーの自由地区に進駐した。ヴィシー政府自体いつ潰されてもおかしくない状況であった。この辺りの話も当サイト内の「ド・ゴール伝」を参照のこと。
註11 ド・ゴールは1942年の末以降、それまでヴィシー派だった植民地を急速に自分の側に寝返らせ、44年6月には「共和国臨時政府」を組織してその首班におさまった。
しかしこの年末には仏印に対するアメリカ軍上陸の可能性が危惧されるようになり、それは恐らく翌年3月までに実現すると考えられた。12月19日にフィリピン方面の日本軍の敗北が決定的となり、仏印はそこから目と鼻の先となってしまったからである。仏印の西のビルマではイギリス軍が進撃している。45年に入るとインドのカルカッタ基地や空母から飛び立った米軍機が仏印を空襲して日本の設置した基地や船舶に大打撃を与えた。日本軍は44年末から仏印駐屯軍の強化を開始し、中国戦線やビルマ戦線で行動中の師団3個をそちらに移動させた。
45年2月1日、最高戦争指導会議において遂に仏印処理が決定された。これはあくまで日仏両国による仏印共同防衛を全うするためのものであり、仏印軍・警察は全て再編成のうえ日本の指揮下に入るべきこと(註12)、仏印の全機能は日本に全面的に協力すべきこと、それらの要求に関して期限内に全面的受諾なき場合は武力を用いること……。天皇に対しては、仏印政庁がド・ゴール及び米英と密かに通じている可能性が高いこと(註13)、戦略上の要衝である仏印の防衛は日本の戦争遂行にとって極めて重要であること、きちんと事前に外交措置をとること、この「仏印処理」の結果として当然原住民による独立運動が活発化するであろうが日本としてはこれを支援しつつも独立承認についてはとりあえず情勢をみて判断する……と、いったことが説明された。ひとつ気になるのは、前年12月にド・ゴールの臨時政府がソ連と同盟を結び、今のところ日本に対しては中立を守っているソ連が仏印処理に関して何か言ってこないかということであるが、そちらにも本件に関する日本側の非侵略性を説明することが強調された。
註12 仏印軍はそれまで日本軍の指揮下で行動したことはない。両軍はあくまで「共同防衛」を想定しており、しかも両軍共同による戦闘は結局一度も発生しなかった(イギリス潜水艦を共同で攻撃する作戦はあったが戦闘に至らず)。仏印軍による対日協力の具体例は、防空等に関する情報交換以外には、せいぜいアメリカ軍が敷設した機雷をフランス籍船舶を守るために除去したり、仏印内での日本軍の移動に(監視目的で)連絡将校を付き添わせたり、謀略放送のために短期間だけラジオ局を貸したり、という程度である。仏印軍は演習を完全に自由に行い、中国国境の警備も完全に任されていた。しかし仲が良かった訳ではなく、高級指揮官以外が交歓することはなかった。(第二次世界大戦とフランス領インドシナ)
註13 これは正しかった。仏印総督ドクーはもともとはド・ゴールを罵っていたが大戦全体の戦局がかわるとこれと通じた。仏印軍の幹部のうちモルダン将軍が44年9月の段階で極秘にド・ゴールの臨時政府のインドシナ代表という地位に任命されており、総督ドクーはかような動きを秘匿するために対日協力を装うことになっていた(戦史叢書シッタン・明号作戦)。
仏印の原住民の中には日本に頼ることで独立の実現をはかる空気が見られたが、仏印政庁はこれを弾圧する(そんなことが出来る程度の主権はあったということ)とともに、44年に本国の首都パリがドイツ軍から解放されるとこれを祝いたいと日本側に通告したりした(戦史叢書シッタン・明号作戦)。駐屯経費負担にも抵抗し(註14)、これらは日本側の疑念を招くに充分であった。また、日本の現地軍司令官の土橋中将個人の目からみても仏印政庁首脳にはもはや日本と積極的に協力する意志はなかった(これは当然のことだが)。現地にはド・ゴール派の工作員が潜入し、仏印軍も対日戦を意図した訓練を始めたとの情報が入ってきていた。仏印軍の戦力は約9万だがうち原住民の部隊が7万、残り2万も外人部隊を含んだ数であり、航空機はわずかに20機強、海軍は極東艦隊が巡洋艦・駆逐艦・砲艦あわせて約10隻、それからインドシナ艦隊の小型艦数隻であった。対して仏印駐屯の日本軍は5個師団と2個旅団であったがどれも定数に届かず兵員はせいぜい4万弱である。ただし、仏印軍の特に原住民部隊は訓練悪く、装備も旧式であった。仏印政庁は以前はラジオを通じてド・ゴールを罵っていたが最近では態度を変えており、そのことで特に日本から制裁等を受けなかったことからその後の見通しについてかなり楽観的だったと言われている。実は日本が実力行使の準備をしているとの情報も掴んでいたしそれなりの準備もしていたのだが、先手を打つとか交渉で時間を稼ぐとかの有効な措置は何故かなされなかった(後述)。その一方でド・ゴールはむしろ日本軍との戦闘を望んでおり、フランス人が仏印の守護のために血を流したという事実をつくることによって大戦終結後もこの地域の植民地支配を正当化する意向であったという(戦史叢書シッタン・明号作戦)(註15)。
註14 45年になると急に渋りだした。日本側の要求が増したからでもあるが(第二次世界大戦とフランス領インドシナ)。
註15 同書によればド・ゴールは手持ちの部隊を仏印に送るつもりでいたのだが、アメリカの支持を得られなくて頓挫したのだという。
そして3月9日、日本軍による仏印武力処理「明号作戦」断行の日が到来した。事前の外交措置として仏印総督ドクーに日本側の要求を渡す(米の供与に関する協定調印式の席上)のがその日の午後7時、部隊が行動を起こすのが10時の予定だから回答までに3時間の猶予が与えられていた。そして……仏印政庁側の連絡担当が9時55分に総督ドクーの返答を持って軍司令部の建物に飛び込んできた(日本側は遅れても5分だけ待ってやるつもりでいた)が、何故かそのまま迷子になり、そのうちに現場で戦闘が始まってしまった。日本側は「総督は拒絶した」ことにしてそのまま作戦を強行することにした。総督の回答が正確にどのようなものだったかは不明である(戦史叢書シッタン・明号作戦)。総督ドクー本人は総督官邸にて政庁・軍幹部と対策を協議中に包囲され軟禁された。実はその前日、仏印軍の師団長の1人サバチエ少将がハノイ市にて日本軍が物資の買いだめに走っていることや市中の噂から日本軍の実力行使が近日に迫ったことを予測していたのだが、仏印軍首脳部はそれについての意見の一致をみず、そのうちに手遅れになってしまったのである(前掲書)。
現地の部隊は正規の命令が届く(仏印政庁側の態度が明らかになる)前に「通信状況が良好でない」等の理由で戦闘を開始してしまっていた。南部仏印では大した抵抗はなかったが北・中部仏印ではかなりの戦闘が発生した。この地域の仏印軍を指揮していたのが前述のサバチエ将軍だったからである。激戦として知られているのはランソン地区の戦いである。ランソンに向かった日本軍は歩兵第225聯隊を主力とする1500人、ランソン要塞に籠る仏印軍はその4倍で、日本軍の砲爆撃にもひるまなかったが、日本軍は敵陣地の絶壁に8メートルの大梯子をかけて銃火の中を駆けあがるという勇猛さでもってこれを占領した。この戦闘における歩兵第225聯隊の戦死者は122人であった。戦後の(日本軍の戦犯を裁く)軍事裁判によればランソンで降伏した仏印軍のうち300人が日本軍によって処刑された(ランソン事件)とされ、その裁判の結果日本軍の指揮官4人が死刑となっている。
ユエではそれまでフランスの傀儡にされていたアンナン国王のバオダイが日本軍の手に落ちた。日本軍は「フランスの植民地支配はいっさい終わった」と説明し、バオダイは涙をもってこれに答えたという。11日、アンナンはフランスからの独立を宣言した(月末、国名をアンナンから「ベトナム」に改称)。カンボジア国王シアヌークは行方が分からなかったが11日に王宮内の寺院に隠れていたところを発見され、13日をもって独立を宣言することになった。辺境に位置するルアンプラバン(ラオス)の国王は20日になってやっと到着した日本領事から事の次第を聞いたがなかなか言うことを聞かず、4月上旬に進駐してきた日本軍部隊をみてようやく独立宣言に踏み切った。もちろんこれらの国は日本の傀儡で、例えばベトナムは独自の軍事外交権も財政権も持っていなかった(東南アジア史1)(註16)。これらの地域では原住民の一部がこの機にフランス人(約5万人いた)を襲ったために日本軍が後者を警備する光景がみられ(戦史叢書シッタン・明号作戦)、その一方で共産主義者の一団があくまで日本軍に抵抗しようとした(後述)。
註16 ただし、日本軍もそれらに軍事力を持たせようとはした(後述)。それから、早速ベトナムとカンボジアが領土問題を起こした。それについて日本側は「国際会議」を8月15日に開くとの予定を立てた。それから『東南アジア現代史3』によれば、バオダイ政府が8月までに得た予算は仏印日本軍の予算の1割程度であったという。
日本政府は3月10日、「戦局ノ推移ト共ニ仏蘭西出先官憲ノ態度ハ漸次変更ヲ来シ米英ノ印度支那攻撃ニ対シ共同防衛ノ身ヲ示ササルニ至レリ」と声明した。仏印軍の一部及び共産主義者(ベトミン)が奥地に逃れて抵抗を続けたが、捕捉が困難なことから日本軍は5月には作戦を一旦終了とした(戦闘をやめた訳ではない)。仏印軍の一部はサバチエ将軍(註17)の指揮下に中国領に逃れたものの大きな戦闘行為は起こせなくなっていたが、ベトミンは3月8日の時点で日本軍の計画を掴んでおり、(それ以前からゲリラ戦をやっていたが)10日に改めて「人民解放軍」の設立を決議して日本軍に戦いを挑んできた。6月には日本軍による大規模なベトミン討伐が行われた。
註17 敗走中にド・ゴールの臨時政府により少将から中将に昇進した。
独立した3国は当然のことながら日本の崩壊は近いと見ており、フランス軍がかえってくる前に日本軍を利用して急いで独自の軍事力を整えようとしたが、日本軍が彼等に与えようとした武器はベトミンの手に落ちてしまい(戦史叢書シッタン・明号作戦)、そのベトミンがとりあえずは日本軍に、大戦終結後はフランス軍に抵抗することとなった。日本軍は人頭税を廃止するといった善政をアピールしたが、仏印では前年の台風の影響で米が不作だった上に数ヶ月前からのアメリカ軍の爆撃によって交通が寸断されていたことから物資の流通機構が壊滅しており、食料の自給の出来ない地域では餓死者が出る惨状となった(戦史叢書シッタン・明号作戦(註18))。フランス側の役人が日本軍に対する抵抗の一環として米を隠匿したとか、華僑の米商人が値段を釣り上げるために隠匿したとか言われている(物語ヴェトナムの歴史)。仏印武力処理以前から日本が仏印政庁を通じて米を強制的に買い付けていたことも大きく響いた(その米がどうなったのかはよくわからない(註19))。雑穀類の畑にジュート麻や唐ゴマといった軍需作物を植えていたことも飢餓に拍車をかけた。5月にはイギリス軍がビルマのラングーンを占領し、さらに北から中国軍の南下が著しくなったことから仏印の日本軍はさらに食料を手許に集めた(東南アジア現代史3(註20))。6月には治水管理が出来なくなった紅河が氾濫した。1945年のインドシナにおける餓死者の総数はベトミンの主張によれば200万人、日本軍の手で独立宣言したバオダイの大臣ファン・ケ・トアイ(後にベトミンに合流)によれば40万人、戦後の賠償交渉での日本側の推定では30万人であったという(註21)。
註18 この本は餓死者の人数はあげていない。救護措置を講じたような記述も見当たらなかった。
註19 日本本土に送るつもりでいたはずだが、この頃には日本側の制海権がほぼ失われたため米は港に山積みになっていた。『第二次世界大戦とフランス領インドシナ』によれば、仏印米の対日輸出量は44年の時点で43年の1割以下に落ちている。飢饉に際してそれらをどうしたか、だが、『戦史叢書シッタン・明号作戦』は輸送手段が米軍の爆撃で破壊されていた(から餓死者が出た)と説明し、『ベトナム“200万人”餓死の記録』によればその後の対英米決戦(西からイギリス軍が迫っている)に必要だった(それは戦史叢書も大筋で認めている)のと、日本人とフランス人がベトミンの温床になりかねない現地民衆は餓えて衰弱するに任せた方がいいと考えたから備蓄米を放出しなかったのだろう(それが最大の原因だろう)、と推定している。それが本当か否かはともかく、ベトミンがこの機会に食料倉庫を奪取するといった活動で民衆の支持拡大を狙ったことは確かである。『戦史叢書シッタン・明号作戦』によれば、仏印日本軍の司令官土橋中将は一般民衆がベトミンに好意的であることを考慮し、バオダイ政府の高官を通じてベトミンと妥協しようとしたという。その案はバオダイの高官(彼は後にベトミンに合流)のところで止まってしまい、そのうちに終戦となったという。
註20 これは、『戦史叢書シッタン・明号作戦』でも日本軍の方針として「できるだけの米を集積して置かねばならない」と明記してある。具体的にどういうことかは書いていないが。
註21 前述のとおりこの飢饉はベトミンの立場を強化する方向へと働いたため、後の社会主義政権では「200万人」という数字に疑いをはさむことは「日本軍国主義とフランス植民地主義の罪科の軽減をはかる陰謀」とみなされた(東南アジア史のなかの日本占領)。これもそうだが他の数字も、いまいち確たる証拠があって言っている訳ではない。
ともあれ、仏印にアメリカ軍が上陸するようなことはなく、8月15日の日本降伏へと立ち至る。ベトナムではベトミンが翌日に独自の臨時政府を樹立、バオダイ政府を吸収して9月2日に改めて独立宣言(註22)、ラオスでは国王がフランス保護権の継続を宣言するが独立派に退けられ9月1日に独立派が改めて独立宣言(註23)、カンボジアはソン・ゴク・タン首相(註24)が10月3日の国民投票の結果を受けて独立継続を打ち出す(註25)こととなるのである。
註22 バオダイは香港に亡命するが、後にフランスによってベトナム国(南ベトナム)元首として擁立される。
註23 しかしフランス軍に圧倒され、そちらの手で国王が擁立される。
註24 彼は大戦中は日本にいたが、3月のシアヌーク国王による独立宣言に際し帰国してその閣僚となって日本軍に協力していた。
註25 しかしフランス軍に退けられ、シアヌーク国王も独立宣言を撤回。
おわり
参考文献
『大東亜戦争全史』 服部卓四郎著 原書房 1965年
『戦史叢書シッタン・明号作戦』 防衛庁防衛研修所戦史室 1969年
『東南アジア現代史3』 石澤良昭他著 山川出版社世界現代史7 1977年
『ベトナム“200万人”餓死の記録 1945年に本占領下で』 早乙女勝元著 大月書店 1993年
『物語ヴェトナムの歴史 一億人国家のダイナミズム』 小倉貞男著 中央公論社 1997年
『東南アジア史1』 石井米男他編 山川出版社新版世界各国史5 1999年
『第二次世界大戦とフランス領インドシナ 「日仏協力」の研究』 立川京一著 彩流社 2000年
『東南アジア史のなかの日本占領』 倉沢愛子編 早稲田大学出版部 2001年