ガダルカナル
1941年12月8日に始まった「太平洋戦争」は、日本軍の快進撃によってその幕を開けた。マレー、シンガポール、ヒィリピン、蘭印(インドネシア)はあっという間もなく日本軍の手に落ちた。しかし日本国民が相次ぐ勝報に驚喜出来たのは、実はアメリカがその全力を出し切っていないという事実があったればこそであった。そもそもアメリカの基本戦略は、先にヨーロッパでドイツを叩き、そちらが一段落してから日本を叩くというところにあった。
しかしながら42年6月4〜5日に行われた「ミッドウェー海戦」がアメリカ艦隊の大勝に終わったこと等から、アメリカ軍の中にも、日本軍に対し積極的な反抗を行うべきとの意見が浮上してきた。ひとまず日本軍の拠点ニューブリテン島のラバウルに侵攻するためにソロモン諸島を押さえることが考えられ、7月2日をもってソロモン諸島攻略「ウォッチタワー」作戦が承認されるに至ったのである。投入予定兵力は、この頃のアメリカ軍で唯一ある程度の戦闘準備が整っている水陸両用部隊(陸海空が連携し島嶼部への侵攻に特化した兵力)である第1海兵師団に決定された。
日本軍の側でもソロモン諸島に注目していた。アメリカ軍の反抗拠点となることが予測されるオーストラリアとアメリカ本国との連絡を断つため、フィジー、サモア、ニューカレドニアの島々を制圧する「FS作戦」が立案されていたのだが、そのための作戦拠点としてソロモン諸島に飛行場を建設することが考えられたのである。そのソロモン諸島の首府はツラギに所在したが、日本海軍はその南方のガダルカナル島を飛行場建設に適切と判断し、7月初めには現地に設営隊を送って造成を開始した。
その作業はすぐにアメリカ側の知るところとなった。ソロモン諸島攻略「ウォッチタワー」作戦の重点はガダルカナルに置かれることとなり、かねて投入予定の第1海兵師団もフィジー諸島にて上陸演習を行った。問題の飛行場は8月5日にほぼ完成しており(飛行機の到着は8月16日に予定であった)、アメリカ側は現地の日本軍の兵力を約5000と見積もった。実際には日本軍は労務者を含めてもわずか2000名だったのだが、アレクサンダー・A・バンデクリフト少将率いる第1海兵師団は実に1万9000もの兵力を揃えていた。それを運ぶ輸送船団は空母3隻・戦艦1隻を含む強力な艦隊に護衛されていた。
かくして1942年8月7日午前6時14分、アメリカ艦隊のうち巡洋艦3隻・駆逐艦4隻がガダルカナルへの艦砲射撃を開始した。6時51分、上陸目標地点の800メートル沖合に到達した輸送船団から、海兵たちが上陸用舟艇への移乗を開始した。空からは85機の空母艦載機が日本軍施設への爆撃を繰り返した。在島の日本軍600と労務者1400は島の内陸へと退避したため、上陸は完全に無血で行われた。ほぼ同時に行われたツラギへの上陸はかなりの抵抗を受けたものの、やはりどうということもなく占領に成功した。海兵隊の占領したガダルカナルの飛行場は先のミッドウェー海戦で戦死した海兵隊の急降下爆撃機隊長の名を取って「ヘンダーソン基地」と命名された。
翌8日、米輸送船団が600海里も離れたラバウル基地から飛来した日本軍機44機(戦闘機17機・攻撃機27機)の攻撃を受けた。本当なら艦艇に対する航空攻撃は雷撃か急降下爆撃がよいのだがこの時は水平爆撃だったことから艦艇の損害は軽微であったが、日本側の戦闘機が強くて迎撃にあがった米側戦闘機が11機も撃墜された。それらをかんがみ、護衛艦隊の第61機動部隊を率いるフレッチャー提督は独自の判断で空母を退避させた。しかし護衛艦隊の全部が下がった訳ではなく、クラッチレー提督の率いる米豪混成の巡洋艦6隻・駆逐艦6隻がそのまま現地にとどまって上陸軍を援護した(物資の陸揚げ作業にまだ時間がかかるため、輸送船団ももうしばらく現地にとどまる)。
その日の午後11時30分、米軍上陸の報を受けた三川軍一中将指揮下の第8艦隊(重巡洋艦5隻・軽巡洋艦2隻・駆逐艦1隻)がガダルカナル島沖のクラッチレー艦隊に奇襲的夜戦をかけた。日本軍の反応は迅速で、第8艦隊は米軍上陸の始まった7日当日の午後2時30分に既にラバウルを出撃していた。クラッチレー艦隊は全く無警戒の所を偵察機の吊光投弾と艦艇の探照灯に照らし出され、53分間の戦闘で、魚雷と主砲による猛攻によって重巡洋艦4隻が沈没、他に巡洋艦1隻と駆逐艦2隻が大破するという大打撃を被った。この「サボ島沖海戦(第1次ソロモン海戦)」(註1)はアメリカ海軍にとって初の夜戦であり、同時に建軍以来最大の敗北であったともされている。
註1 以下、「 」内は米軍側呼称、その中の( )内は日本側呼称である。
ところが、クラッチレー艦隊が壊滅して、米軍輸送船団が丸腰で放り出されてしまったにもかかわらず、三川中将は何故かそれ以上の攻撃を中止して引き揚げてしまった。その理由については色々いわれているが、翌朝の米軍による航空攻撃を恐れたというのが妥当な線である。その一方で三川中将は今回の海戦に先立ち、輸送船3隻をもって約500人の海軍陸戦隊をガダルカナルに上陸させる心積もりであったが、米軍の上陸部隊が存外に強力なことが判明したため8日正午には計画を取りやめていた。
とにかく、アメリカ海兵隊は9日昼には物資の陸揚げをとりあえず終了した。ブルドーザーやパワー・シャベルを用いての飛行場の整備も順調に進み、20日には航空隊の第一陣としてドーントレス急降下爆撃機12機が到着して守りを固めたのであった。
一方、日本の大本営にとって、アメリカ海兵隊によるガダルカナル上陸は全く寝耳に水であった。特に陸軍は、海軍が現地に飛行場を造っていたことを知らされておらず、多くの者は「ガ島」の位置すら知っていなかった。そもそも日本では、米軍の反抗は43年中期以降であるとの先入観が濃厚であり、特にミッドウェー海戦の大敗について詳しく知らなかった陸軍の驚きは一様ではなかった。とはいえ上陸の始まった7日の時点ではまだ大本営の情勢判断は「敵の戦備及び空母勢力より見て今次の反抗は偵察上陸の範囲を出ないと思われる」「米軍全般の反抗態勢が未だ整備されていない状況より判断して、我が陸海軍部隊を以てする両島(ガダルカナルとツラギ)の奪回はさして難事でない」としていた。
しかしながら「若しガダルカナルの飛行場が敵に使用されるならば日本軍爾後の作戦は甚大な影響を受けることになるので奪回作戦は即決を旨として急速に行ふ必要がある」とも考えられたので、旭川第28聯隊を基幹とする「一木支隊」を急遽ガダルカナルへと派遣することとし、ひとまず支隊主力の歩兵1個大隊及び工兵1個中隊からなる先遣隊900人を駆逐艦6隻によって現地(ヘンダーソン基地の東30キロの地点)に上陸せしめた(18日夜)。「ガダルカナルに上陸した敵はその兵力約2000で戦意旺盛ならず、ツラギに向かい逐次後退中である。又、米軍のガダルカナル島上陸の目的は単に飛行場の破壊にある」との駐ソ日本大使館附陸軍武官からの情報を信じた支隊先遣隊は後続部隊の到着を待たずに進撃を開始した。8日の第1次ソロモン海戦で海軍が大勝したことも楽観モードに拍車をかけていた。日本軍はさらに川口清健少将の歩兵第35旅団を投入する計画を立てた。しかしながら天候が不順なため、ヘンダーソン基地への航空攻撃はなかなか実施出来なかった。
海兵隊の方は無線傍受により、早くも17日の段階で一木支隊の行動を掴んでいた。19日午後、一木支隊の尖兵小隊34名が海兵隊80名に包囲され、ほとんど全滅した。海兵隊は日本兵の装備からその戦力をおしはかり、充分の防備態勢を整えた。21日午前2時40分、支隊の指揮官一木清直大佐が攻撃開始を命令した。支隊の装備はかなりよく火炎放射器まで持っていたが、まさか敵軍が1万もいるとは想像していなかった。日本軍は米軍陣地の東を流れるイル川の東岸から迫撃砲を撃ち込み、軽機関銃の援護のもとに約500名が突撃を敢行した。しかし海兵隊の反撃は激烈で、暗闇の中を進もうとした日本兵は照明弾で照らし出され、海兵の撃ちまくる小銃や機関銃にバタバタと倒されていった。日本軍は一旦退却した。
午前5時、再び日本軍の攻撃が始まった。今回は防備の手薄な海岸沿いの陣地に向かって突進したが、海兵隊は今度も落ち着いて応戦し、反対に陣地から出撃して日本軍を蹴散らした。この前日にヘンダーソン基地に到着したばかりの飛行機も機銃掃射を行い、戦車6輛が日本兵の死体を踏みつぶして前進した。12時間に渡った戦闘の結果、日本軍は800名が戦死、15名が捕虜となり、一木大佐も自決した。海兵隊の戦死者はわずか43名、負傷者は75名であった。日本軍は海兵隊の凄まじい銃火が信じられず、海兵隊は追いつめられると手榴弾で自爆する日本兵が信じられなかった。
23日、日本側第2及び第3艦隊が出撃した。日本軍は別働隊(空母1隻・重巡洋艦1隻・駆逐艦2隻)をもってヘンダーソン基地に陽動をかけ、アメリカ艦隊が出てきたところを主力の空母2隻でもって叩くとの作戦を立てた。それと、一木支隊壊滅の報を考慮し、ガ島に一木支隊の後続部隊と川口支隊(後述)を上陸させるための輸送船団を派遣した。米軍はこれを察知し、空母3隻を主力とするフレッチャー提督の第61機動部隊を差し向けた。日本輸送船団はすぐに米偵察機に発見されたために一旦撤収したが、米軍の方も、敵輸送船団があっさり逃げたこと、日本空母はまだ遠方にいるという誤報を受けて空母のうち「ワスプ」を補給に下がらせた。
24日、別働隊の空母「龍譲」から飛び立った艦載機がヘンダーソン飛行場を攻撃し、米軍の側でも偵察機を飛ばして別働隊の存在を確認した。米艦隊のフレッチャー提督は日本側の作戦に嵌ってこれを日本艦隊主力と誤認、艦載機を出撃させ、午後3時すぎに空母「龍譲」を撃沈した。そして米空母艦隊は艦載機の主力が出撃して手薄になったところを日本側偵察機に発見され、空母「瑞鶴」「翔鶴」の艦載機の猛攻を受けて空母「エンタープライズ」が大破した。もっとも、米艦隊にはまだ援護のF4F戦闘機53機が残っており、護衛の戦艦「ノースカロライナ」の対空砲火と相まって日本機20機を撃墜した(自爆を含む)。これが「東部ソロモン海戦(第2次ソロモン海戦)」である。戦闘の経過は日本側の思惑通りに進んだがアメリカ空母は沈まず、艦艇と飛行機の損失は日本軍の方が多かった。一方、先に一旦撤収していた日本側の輸送船団は再びガ島に向かおうとしたがヘンダーソン基地の航空隊の爆撃を受けて、また撤収を余儀なくされた。トータルで言えばアメリカ軍の勝利である。
ガ島上空ではラバウル基地から飛来する日本機とヘンダーソン基地の米軍機との一大消耗戦が始まっていた、この時点における日本軍の基地航空戦力は戦闘機19機・攻撃機29機・飛行艇4機のみであった。日本軍は航空戦力の増強につとめると共に、先日の第2次ソロモン海戦でのガ島上陸失敗にかんがみて、輸送船団による大規模揚陸を断念して高速艦艇による小規模逐次輸送に切り替えることにしたが、おかげで重兵器や大量の糧食を輸送するのが困難になってしまった。このやり方を日本軍は「ネズミ輸送」、米軍は「東京急行」と呼んだ。
28日、駆逐艦による上陸作戦が開始され、この日の上陸はヘンダーソン基地航空隊の妨害にあって果たせなかったが、翌29日には新たに建設されたブカ飛行場から飛来した戦闘機隊の援護のもとに順調に仕事を進め、9月7日までに上陸部隊5400名の揚陸を完了した。この部隊「川口支隊」は旭川・仙台・久留米・博多の4大隊からなる日本軍でも最精鋭の部隊であった。米軍の側は去る31日に空母「サラトガ」が潜水艦の魚雷攻撃により大破し、修理のため3ヶ月間使用不能という打撃を被った。
川口清健少将は一木支隊が海岸線を進撃して敵の堅陣にもろにぶち当たったことを考慮し、内陸の人跡未踏のジャングルを通って飛行場の南方から奇襲攻撃をかけるとの作戦を立てた。「一夜のうちに敵を突き殺し、蹴飛ばして払暁までに海岸線に突入すべし」。機械力のない支隊によるジャングルの進撃は困難を極め、しかもまだ敵海兵隊の正確な戦力を掴めず、5日の時点でも敵兵力は約5000と見積もっていた。実際には飛行場周辺の海兵は一木支隊を迎え撃った時点で1万1000、この時はさらに増えて1万7000となっていたのだが。……本当をいうと、海兵隊の方も補給には難儀しており、食事は1日2回、弾薬も不十分であった(少なくとも海兵隊の指揮官バンデクリフト少将はそう認識していた。日本軍から見ると信じがたい物量なのだが)。日本軍がもっと多くの兵力で攻めればどうなったかわからなかった。その点、ガ島に侵攻した海兵隊が真っ先に飛行場を占領して優勢な制空権を確保したのは正解だった。
12日夜、支隊主力が飛行場近くに到達し、ただちに夜襲を開始した。この時は地理不案内のために不成功に終わったが、翌13日の夜に行われた総攻撃は相当の戦果をあげた。激戦地となった「血染めの稜線(日本側呼称ムカデ高地)」では、「バンザイ!」「マリーン・ユー・ダイ!」と叫んで突進する日本兵が海兵隊の第2線陣地まで突入した。海兵には陣地を捨てて後退する者が続出したが、指揮官たちの「貴様たちになくて敵にあるのはガッツだけだ!」「お前たちは永遠に生きたくはないのか!」との激励もあって結局は日本軍を退けた。海兵が迫撃砲を2000発も撃ったのに対して、川口支隊が戦闘に使用出来た火砲は山砲1門に迫撃砲2門のみであったという。また、夜間のジャングル内で部隊間の連絡が困難であったこと等から川口支隊の4個大隊のうち1個大隊はほとんど戦闘に参加出来なかった。払暁、川口少将は攻撃中止を命令した。支隊の損害は戦死者633名、負傷者505名、行方不明75名であり、海兵隊の損害は戦死者31名、負傷者は103名であった。川口支隊は再度の総攻撃を断念して退却に移ったが、食糧は飛行場の物資を分捕るつもりでいたのでたちまち底を尽き、熱帯の川でワニを獲って食べる有り様となった。「ガ島」は「餓島」と化した。
15日、川口支隊の攻撃失敗に接した日本の大本営は今度は第2師団1万7500名と火砲176門をもって再度の、それも正面からの総攻撃を立案した。軽装で険しいジャングルから奇襲するのではなく、ある程度動きやすい海岸線を進撃して強力な火砲の援護のもとに攻撃しようというのである。一方ガ島の海兵隊にはさらに海兵第7聯隊4000名が到着して守りを固めていたが、海では空母「ワスプ」が潜水艦の魚雷攻撃によって沈没し、米軍の南西太平洋における作戦可能な空母は「ホーネット」1隻のみとなってしまった。
ラバウル等の基地から数百キロの距離を経て飛来する日本機とこれを迎え撃つヘンダーソン基地の米軍機の空戦も、文字通り連日に渡って続けられていた。米軍のP40、P39、P400戦闘機で日本軍の零戦に立ち向かうのは相当に辛く、新型のF4Fでも腕が互角なら零戦の方に軍配が上がる有り様であったが、とにかく米軍機は数が多くて補給が整っており、逆に日本機はじりじりと消耗を強いられていった。米軍は海上ではなかなか優勢になれなかったが、ヘンダーソン基地航空隊の存在はそれを補ってあまりあるものであった。
10月3〜9日の夜、とりあえず駆逐艦の輸送によって日本側の第2師団先遣隊が上陸を果たした。しかし重兵器の揚陸は駆逐艦では無理なので本格的な輸送船団の投入が望まれ、基地航空隊による爆撃と艦隊の艦砲射撃によってヘンダーソン基地を無力化することが考えられた。
11日夜、五藤存知少将率いる第6戦隊(重巡洋艦3隻・駆逐艦2隻)がヘンダーソン基地への艦砲射撃を期してガ島近海へと突入した。ここにはスコット少将の率いる重巡洋艦2隻・軽巡洋艦2隻・駆逐艦3隻がいて単縦陣を布き、重巡3隻の縦陣の両側に駆逐艦を配した日本艦隊に対してT字を描くという絶好の位置を占めていた。しかも米艦隊の方がレーダーによって先に敵艦隊の影を捉えることに成功した、ところが米艦隊にとっては日本艦隊の到来は予測外のことであり、艦ごとにレーダーの性能の差があったことから日本艦隊発見の報が米旗艦に届くのに15分もかかってしまい、その間に陣形が大幅に乱れてしまった。とはいえ23時46分に開始された戦闘は完全にアメリカ側の奇襲となり、この海戦で初めて用いられたレーダー射撃によって日本側の重巡1隻と駆逐艦1隻を仕留めることに成功した(正確にはその重巡「古鷹」は大火災のため自沈)。さらに日本側の旗艦「青葉」に戦死者180名という大損害を与えて司令官五藤少将を戦死させた。夜戦を得意とする日本艦隊に対してレーダーによる無照射射撃の有効性が実証された訳だが、米軍も序盤に陣形が乱れたことが祟って思った程の戦果があげられず、逆に日本艦隊の冷静な反撃にあって駆逐艦1隻が撃沈されてしまった。これが「エスペランス岬沖夜戦(サボ島沖夜戦)」である。
13日夜、戦艦「金剛」「榛名」が、14日には重巡洋艦「鳥海」「衣笠」が、15日には「妙高」「摩耶」がガ島沖に突入してヘンダーソン基地を砲撃した。特に13日のいわゆる「戦艦の殴り込み」では焼夷弾等を1000発も撃ち込こんで飛行場を火の海と化さしめ、米軍の使用可能航空機を90機から42機にまでうち減らした。おかげで14日の日本軍第2師団後続部隊兵員の揚陸作戦はうまくいった。しかし火砲等の重い物資の揚陸作業にはまだ時間がかかる。
米軍も必死である。死に物狂いで滑走路の穴を塞ぎ、破壊された飛行機の残骸から燃料を抜き取り、無事な機体を発進させて日本軍の揚陸作業を妨害する。空母艦載機も駆け付け、15日には日本側の輸送船6隻のうち4隻を大破炎上させた(別に1隻が砂浜に乗り上げる)。
結局、日本軍第2師団の兵員は全部上陸したものの、食糧は予定の半分、弾薬は9割近くが失われた。17日夜には日本軍は夜間駆逐艦輸送に切り替え、いくらかの物資を補給した。とはいえ、特に火砲は176門予定のところをわずか38門しか陸揚げ出来なかった。
これでは正面からの総攻撃など到底おぼつかない。しかも、問題は補給だけではなかった。去る7日には川口支隊の残存兵力が守備していたマタニカウ川右岸の陣地が海兵隊に奪取され、日本軍はヘンダーソン基地への正面攻撃のための有力な拠点を失うに至っていた。大本営から派遣されてきた参謀辻政信中佐等はかような戦況や現地の深刻な物資不足を目の当たりにし、作戦の大幅な変更を決定した。当初予定の海岸線に沿っての進撃では敵の強力な火砲に身を晒す危険があり、やはり(前回の川口支隊と同じように)内陸の人跡未踏のジャングルを通って奇襲をかけるしかない。右翼隊長に任じられていた川口少将は以上の作戦計画を詳しく聞いて、自分が失敗した地点からの攻撃が予定されていることを知り計画変更を具申したが容れられず罷免となった。
ジャングル内の前進は例によって困難極まりなかった。大砲は普通なら馬や車両でひっぱるのにどちらもないので分解して人間が担ぐしかなかった。そして24日夜、ようやく日本軍の総攻撃が始まった。ジャングル内を前進してきたのは正解で、海兵隊はそちらからの攻撃を予期していなかったが、日本軍は今回も地理不案内のため、各部隊の連携がとれないままバラバラに攻撃をかけては撃退された。特に川口少将罷免で攻撃寸前になって隊長が変わった右翼隊の混乱は著しく、全体としてどのような行動をとったかも定かでない。一度師団司令部に飛行場占領を意味する電文「バンザイ」がもたらされて幕僚一同を大喜びさせたがこれは誤報であった。翌25日の朝が開けると米軍機による空からの攻撃が開始され、日本軍では左翼隊を指揮する那須少将以下多数の高級指揮官が死傷して攻撃が頓挫した。日本側のブイン飛行場から飛び立った零戦9機は「陸軍部隊の占領した飛行場に着陸・進出せよ」との命令を受けていたのだが、飛行場上空に達してもそこからは敵のF4F戦闘機が舞い上がってくるばかりであった。総攻撃を中止してジャングル内を後退する日本軍をエバンズ・カールソン少佐の突撃大隊「ガン・ホー」が追撃し、以後50日に渡ってゲリラ戦を繰り返して日本兵448名を殺した。
話を海にうつす。ちょうどこの頃、去る8月24日の東部ソロモン海戦で大破していた空母「エンタープライズ」が護衛の戦艦「サウスダコタ」を伴って戦線復帰を果たし、それまで(空母としては)唯1隻で頑張っていた「ホーネット」に合流した。25日、ハワイのラジオ放送が「明日(10月26日)の光輝ある米国海軍記念日に当たり、我が海軍は最大の贈り物を国民の皆様に捧げるでしょう」と放送した。米軍の南太平洋戦域最高指揮官ハルゼー中将は「ブル(雄牛)」という綽名に相応しく、日本艦隊の行動するガダルカナル島北東海域に進出して敵艦隊を叩けとの命令を下していた。戦力は空母2隻・戦艦2隻・巡洋艦9隻・駆逐艦21隻である。とはいえこの日に空母を出撃した米軍機29機は日本艦隊を発見出来ず、帰艦する時に夜になってしまったことから着艦に失敗して7機を失うというヘマをした。この頃ガ島近くにいた日本艦隊は南雲忠一中将の指揮下に空母5隻・戦艦4隻・重巡洋艦8隻・軽巡洋艦2隻・駆逐艦24隻という大部隊で、こちらはこの時実行中の第2師団による総攻撃が成功し次第南進して米艦隊を叩けとの命令を受けていた。こちらにもミスがあり、空母「飛鷹」が故障のため帰還を余儀なくされた。
そして26日朝、日本側偵察機が米空母を発見し、午前7時25分をもって第1次攻撃隊67機を出撃させた。米偵察機もほぼ同時に日本艦隊を発見し、帰りがけに空母「瑞鳳」に爆弾を喰らわせたが損傷は軽微であった。かくして「サンタクルーズ諸島海戦(南太平洋海戦)」が始まった。先の偵察機の通報を受けた米空母が7時30分に攻撃隊を出撃させた。両軍がほとんど同時に出撃した訳で、8時半頃、日米双方の攻撃隊の一部が偶然にも接触して空戦を交わすという一幕があった。この空戦では日本機4機、米軍機8機の損害が出たが、機銃弾を撃ち尽くした一部の日本戦闘機がやむを得ず帰投したため、以下に述べる日本軍の攻撃は援護戦闘機の不足によって損害が増えてしまった。
8時55分、日本側攻撃隊が空母「ホーネット」を発見した。日本機は米戦闘機の迎撃と猛烈な対空砲火に次々と撃ち落とされながらも「ホーネット」に爆弾6発と魚雷2本命中という致命傷を喰らわせた。約1時間後、日本側第2次攻撃隊48機が米艦隊に襲いかかり、先の攻撃の際にはスコールに隠れていた空母「エンタープライズ」に爆弾3発を命中させた。しかし護衛の戦艦「サウスダコタ」の新型40ミリ4連装機銃の猛撃の前に、致命傷を与えることの出来ないままの撤収を余儀なくされた。日本軍は第1次・第2次攻撃あわせて45機を失った。次に、主力とは別行動をとっていた空母「隼鷹」から出撃した29機が米艦隊を攻撃したが空母・戦艦・巡洋艦それぞれ1隻に損傷を与えたにとどまった(9機を失った)。
9時27分、アメリカ側の攻撃隊が日本艦隊に攻撃をかけた。米軍の攻撃隊73機は直援の零戦隊の迎撃を突破しつつ空母「翔鶴」に爆弾4発、同じく空母「瑞鳳」に爆弾2発を命中させて飛行機発着不能とした。このあと米艦隊攻撃から帰ってきた「翔鶴」搭載機は母艦に着艦出来ずに「瑞鶴」に着艦したが、収容機数に限度があるので損傷機を海中投棄する羽目となった。しかし米軍の攻撃隊も甚大な損害を被っており、先に大破して曳航されていた「ホーネット」も、また攻撃をかけてきた日本機によってさらに叩かれた。米軍は廃船同様になった「ホーネット」を味方の魚雷で沈めようとしたが、そこに日本艦隊がやってきたことから放置となった。日本艦隊はこの年4月に「東京初空襲」を行ったこの空母を拿捕しようとしたが大火災で手がつけられず、やむなく魚雷で始末した。
27日アメリカのラジオは「この日ほど悲惨な海軍記念日を迎えたことはアメリカ海軍創設以来初めてのことである」と放送したが、現実には日本艦隊も空母「翔鶴」「瑞鳳」が損傷を被り、使用可能な航空機が100機程度にまで落ち込んでいた。双方の正確な損害は、アメリカ側が空母「ホーネット」と駆逐艦「ポーター」が沈没、他に戦艦1隻・巡洋艦1隻・駆逐艦2隻が損傷、飛行機74機を失っていたのに対し、日本側は沈没こそないものの上記の空母2隻以外にも重巡洋艦1隻と駆逐艦2隻が損傷を受け、飛行機92機と多くのベテラン・パイロットを失っていた。損害が同等ならば、工業力とパイロット養成において日本を凌駕するアメリカがいずれ圧倒的な優勢に立ってくることは明らかであった。
日本軍は海戦ではそれなりの戦果をあげたが、陸上では第2師団の攻撃が失敗したことは大きな痛手であった。基地航空戦力は、ヘンダーソン基地の米軍機70〜80機に対してラバウル等に展開する日本機が戦闘機55〜70機、攻撃機55〜70機を揃えていたが、そこからヘンダーソン基地まで極めて遠いことから有効な攻撃が出来なかった。そこで日本の大本営は、新たに第38師団及び第59師団、あわせて兵員3万と火砲300門を投入して態勢の挽回をはかることとした。
かくして11月12日、第38師団主力を載せた輸送船11隻と護衛の駆逐艦12隻がショートランド基地を出撃した。ラバウルの基地航空兵力が空から、艦隊が海から艦砲でヘンダーソン基地を無力化し、その間に第38師団を上陸させるという作戦である。とはいえ使用可能な空母は「隼鷹」「飛鷹」の2隻のみで、他は修理中であった。
一方アメリカ側も日本軍の反抗を予測し、キンケイド少将の第16機動部隊に出撃命令を下し、サンタクルーズ諸島海戦の傷の癒えた空母「エンタープライズ」と戦艦2隻を繰り出した。またそれとは別に、海兵隊と陸軍あわせて約6000名を載せた輸送船団を11〜12日にかけてガ島へと上陸させることに成功した。この船団はターナー少将の支援部隊20隻に護衛されており、揚陸作業を察知して空母「隼鷹」から殺到してきた日本側攻撃隊33機を猛烈な対空砲火で退けた。ターナー少将は日本艦隊によるヘンダーソン基地砲撃を予知し、とりあえず自分は輸送船団と支援部隊の半分を連れて退避して、ガ島近海にはキャラハン少将の率いる巡洋艦5隻と駆逐艦8隻を残してヘンダーソン基地の守りとした。キンケイド少将の空母1隻・戦艦2隻他の部隊ももうじき到着する予定である。
12日夜、日本側の戦艦2隻・軽巡洋艦1隻・駆逐艦11隻がガ島沖に突入した。ここにいた米艦隊は先のキャラハン少将の艦隊のみで、キンケイド少将の第16機動部隊はまだ到着していなかった。10月11日の「エスペランス岬沖海戦」と同じく、今回もアメリカ側のレーダーが先に敵艦隊を捉えていたが、レーダーを持たないのにアメリカ艦隊の先頭を進んでいた駆逐艦「カッシング」が夜闇の中を高速で接近してくる日本艦隊の前衛と衝突しかけて針路を変えたことから混乱が発生した。日本軍も夜間でのいきなりの会敵に驚いたことから戦闘は極度の乱戦となった。
日本戦艦「比叡」は近くに寄って来た米巡洋艦「アトランタ」に咄嗟にサーチライトを浴びせて主砲弾を撃ち込み、そちらに乗り込んでいた米艦隊次席指揮官スコット少将を戦死させたが、サーチライトのせいで自艦の姿が浮かび上がって集中砲火を浴びた。それでも「比叡」は目につく敵艦に片端から猛射を加え、別の戦艦「霧島」とともに米旗艦「サンフランシスコ」に大打撃を与えて指揮官キャラハン少将を戦死させた。しかし日本艦隊はここで敵艦隊に遭遇するとは考えておらず、砲弾も対艦用の徹甲弾ではなく飛行場施設を狙うための焼夷弾だったことから、見た目ほど米軍の混乱に乗ずることが出来なかった(やりようによれば全滅させることも不可能ではなかった)。「海戦史上にその類例を見ない」とされる大混戦「第1次ガダルカナル海戦」の結果、日本側は駆逐艦2隻が沈没、戦艦「比叡」が大破し、アメリカ側は巡洋艦2隻と駆逐艦4隻を失った。航行不能となった「比叡」は空母「隼鷹」の艦載機の援護化に置かれたが、翌朝ヘンダーソン基地から出撃してきた米軍機の攻撃にあってさらに爆弾3発と魚雷1本の直撃を受けた。結局日本艦隊による飛行場への砲撃はなされなかったため、第38師団の上陸作戦は予定の13日から14日に延期された。
13日夜、再び日本巡洋艦「鳥海」「衣笠」その他が突入して今度は飛行場に砲弾の雨を降らせたが、やはり巡洋艦では力不足のため米軍の損害は飛行機18機破壊と32機損傷に留まった。「比叡」は自沈した。「比叡」は太平洋戦争で日本海軍が失った最初の戦艦となった。
巡洋艦部隊のヘンダーソン基地攻撃に呼応し、日本軍第38師団を載せて航行中の輸送船団がガ島に迫ったが、ヘンダーソン基地航空隊の空襲を受けた。空襲は13日のまるまる1日続き、護衛の駆逐艦の奮戦も空しく輸送船11隻中6隻が沈没するという打撃(別に1隻が引き返す)を被ったが、護衛の駆逐艦による迅速な救助がなされ、海に投げ出された5000余りの将兵のうち9割が引き揚げられた。そのまましぶとくガダルカナル目指して突き進む。とはいえ別海域で行動中の重巡洋艦「衣笠」が、修理を終えて復帰した米空母「エンタープライズ」の艦載機の攻撃を受け撃沈された。
その日夜、またまた日本艦隊(戦艦1隻・巡洋艦3隻・駆逐艦9隻)がガ島沖に姿をあらわした。今度はアメリカ側も戦艦「ワシントン」「サウスダコタ」に駆逐艦4隻という強力な艦隊を揃えて待ち構えていた。先に発砲したのは米艦隊だが距離が遠すぎて効果がなく、日本側に砲弾を飛行場攻撃用の焼夷弾から対艦用の徹甲弾に変更させる時間的余裕を与えてしまった。まず日本艦隊のうち索敵にあたっていた駆逐艦「綾波」が島を背後にすることで敵艦隊のレーダーと見張りの目をごまかし、自身も命中弾を受けつつも主砲と魚雷で巧みに敵駆逐艦4隻と同時に渡り合って2隻を撃沈した。他の日本艦も順次戦闘に参加して駆逐艦2隻に打撃を与えた。日本艦隊は次に目についた米戦艦「サウスダコタ」にサーチライトを当てて砲門を集中し、幸運にも初弾で相手の射撃指揮系統を破壊したことが手伝って大打撃を与えることに成功した。ところが日本艦隊が「サウスダコタ」砲撃に熱中している隙をついて、それまで暗闇に隠れていたもう1隻の戦艦「ワシントン」が射撃を開始し、日本戦艦「霧島」に7分間で50発の砲弾を叩き込んだ。「霧島」は大損害の上に舵が故障してやがて停止し、やむなく自沈した。序盤で活躍した駆逐艦「綾波」も損傷が激しいことから自沈となり、日本艦隊はやむなくヘンダーソン基地砲撃を中止して退却した。米艦隊も撤収する(これが「第2次ガダルカナル海戦」である。日本側呼称は12日の夜戦とあわせて「第3次ソロモン海戦」)。
以降、日本の戦艦クラスの艦艇がガ島近海に現れることはなくなった。この「第3次ソロモン海戦」のさなか第38師団を載せてガ島を目指していた輸送船団の方はなんとか目的地にたどり着いた(砂浜にのし上げた)が、翌15日朝には米軍の爆撃と砲撃を受け、兵員以外にはわずかの弾薬と米1500俵を陸揚げしたにとどまった。ここまでやってきた輸送船4隻は全部炎上した。
かくしてこの方面の日本側輸送船団は壊滅したが、他の方面の輸送船を引き抜くにも限度があった(後述する)。ガダルカナル在島の日本軍2万7000名への補給は再び駆逐艦や潜水艦による小規模逐次輸送に切り替えられた。しかし潜水艦による輸送は話にならないほど小規模なもので、ロープで繋いだ数百個の物資入りドラム缶を駆逐艦から海に流し、それを地上の部隊がロープで引っ張って受け取るとの方法が考えられた。
30日夜、ドラム缶を満載した日本駆逐艦8隻がガダルカナル沖に到着した。しかしここにはライト少将率いる巡洋艦5隻と駆逐艦4隻が待ち伏せていた。が、この「タサファロンガ海戦(ルンガ沖夜戦)」日本側の指揮官田中少将は米艦隊の攻撃を受けるや直ちに部隊を変針させて魚雷を発射し、味方1隻を失いつつもアメリカ側の巡洋艦1隻と駆逐艦2隻を撃沈して素早く退却した。ドラム缶を島の部隊に引き渡すという肝心の目的に関しては失敗であったが。
在島の日本軍は餓えに苦しみ、さらにマラリア・デング熱・アミーバ赤痢等の病気が蔓延した。餓死者病死者が続出する一方である。一方の米軍は第2次ガダルカナル海戦の勝利後ますます拡充を進め、ヘンダーソン基地も11月末の時点で124機の飛行機を揃えるに至っていた。この頃には新型戦闘機P38が登場し、高速度と重武装で零戦を圧倒し出した。資源の乏しい日本は南方(主に現在のインドネシア。開戦初期に占領)から物資を搬入するための輸送船を多数確保する必要が絶対にあり、消耗の激しいガダルカナルにこれ以上の船舶を投入するのは極めて困難であった。民間の船舶をどれだけ軍用の輸送船として徴用するかで陸軍省と参謀本部が対立して殴り合いの喧嘩まで発生した。ガダルカナルとその周辺を舞台とする日米の大消耗戦は、アメリカ側の勝利によってその幕を閉じようとしていた。12月31日、日本の御前会議はガダルカナルからの撤退を決定した。
こうして1943年2月1〜7日の夜、駆逐艦による撤収「ケ号」作戦が行われ、奇跡的に米軍に気づかれないまま1万2805名の収容に成功した。半年に渡って行われた戦闘における日本軍の戦死者は約2万名、その4分の3が餓死または病死であったともされる。アメリカ軍(海兵隊・陸軍)の死者は約1000名、負傷者4245名であった。ただしアメリカ軍も楽勝だった訳では決してなく、特に海軍は今あげた海兵隊・陸軍の4倍もの犠牲者を支払っていた(陸海空全部あわせると6842名が死亡)。日本海軍が戦艦2隻・小型空母1隻その他あわせて24隻を完全喪失、米海軍が大型空母2隻その他あわせて24隻を完全喪失したが、海戦では概ね日本軍が強かったことを考えると、米軍がまず最初にガ島の飛行場を占領して制空権を確保、日本軍の輸送を徹底的に妨害したこと、そのヘンダーソン飛行場を守る海兵隊が最初から1個師団もの大兵力を揃えていて日本陸軍の攻撃を寄せ付けなかったことが米軍の最終的な勝利につながったのであった。
おわり
参考文献
『大東亜戦争全史』 服部卓四郎著 原書房 1965年
『帝国海軍連合艦隊』 リチャード・ハンブル著 山本親雄訳 サンケイ出版 1985年
『目撃者が語る昭和史7太平洋戦争2』 猪瀬直樹監修 新人物往来社 1989年
『失敗の本質 日本軍の組織論的研究』 野中郁次郎他著 中央公論社 1991年
『アメリカ海兵隊 非営利型組織の自己革新』 野中郁次郎著 中央公論社 1995年
『海戦事典 日米海上決戦ハンドブック』 佐藤和正著 光人社FN文庫 1999年
その他