山形県の変遷

 江戸時代末、現在の山形県域には、米沢・新庄・上山・天童・荘内・松山・山形・長瀞の8藩及び幕領・他藩の飛び地が分立していた。このうち新庄藩以外は戊辰戦争において新政府に敗れ、それら諸藩に対する処分がその後の現山形県域における県の変遷へと連続することになる。また、新政府は広大な出羽国の施政の能率化のため、明治元年12月7日をもって出羽一国を羽前・羽後の2国に分割したが、これはほぼ現在の山形・秋田の県域に相当するものである。

 新政府はまず幕府の旧領や佐幕派諸藩から削った領地を直轄地として支配する民政局を設置した。現在の山形県域では明治元年9月29日に酒田に民政局が置かれた。戊辰戦争の際に現山形地域の中で最も激しく戦った荘内藩は12月24日に会津若松への転封が命じられ、庄内地方の統治権は酒田民政局の管轄に移るものとされた。荘内藩は藩士や酒田の大地主本間家、農民等による嘆願により転封を阻止しようとした。明治2年7月22日、荘内藩の転封は正式に取り止めとなり、9月には藩名を「大泉藩」に改称した。石高は12万石である。この大泉藩(旧荘内藩)の動向はその後数年間のこの地域の動きを知る上でのひとつのキーポイントとなる。

 一方の酒田民政局は同年7月20日に「第一次酒田県」に改変された。管轄は周辺の旧幕領や旧佐幕派諸藩から削って集めた24万石である。その中には荘内(大泉)藩から削った領地もかなりあり、日本一の大地主かつ荘内(大泉)藩の特権商人であった本間家(註1)の所在地も含まれていた。

 註1 戊辰戦争の時、荘内藩は本間家に買わせた武器を用いて局地的に有利な戦闘を展開した。

 しかし……まだ廃藩置県の前なのに第一次酒田「県」とは何ぞやというと、新政府は去る慶応4年閏4月の「政体書」によって政府直轄地に府県を置き諸藩はそのままとする「府藩県三治制」を制定していたのである。

 第一次酒田県においては旧荘内領部分の大泉藩(旧荘内藩)への復帰運動が盛んであった。ただしこれは旧主を慕っての行動というより、県の施政が藩のそれよりも強圧的ととられたからである。特にそれまでの米の流通を無視する東京廻米政策に対する不満等が爆発した民衆運動「天狗騒動」は県政を甚だしく混乱せしめた。

 ところで江戸時代の藩の領地とは1ケ所だけでなく、各地に飛び地が分散する例が多かった。維新後、藩の方にも領地を1ケ所にまとめて欲しいという希望があり、新政府は諸藩の飛び地を政府直轄地として回収し、かわりに代地として旧幕領や佐幕藩領を与えるという方針を考えた。

 明治3年5月8日、村山地方にあった4藩の飛び地、及び山形藩領・大網藩(長瀞藩から改称)領が政府直轄地となった(山形藩は近江に、大網藩は上総に移転)。この地域には同年9月28日に「第一次山形県」が設置され、「天狗騒動」を鎮められない第一次酒田県もこれに吸収された。

 明治4年7月14日、「廃藩置県」が断行され、現山形県域には第一次山形県の他に大泉・米沢・新庄・上山・天童・松嶺(註2)の6県が並び立つこととなった。このうちまず財政難の天童県が同年8月28日に第一次山形県に合併し、全国的な府県統廃合(改地府県)の行われた11月2日には新庄・上山両県がこれも第一次山形県に合併して「第二次山形県」を形成した。それとは別に同日、大泉県と松嶺県が合併して「第二次酒田県」を形成し、米沢県は「置賜県」に改称した。これにて現山形県域は「第二次山形県」「第二次酒田県」「置賜県」の3県のみに整理されたことになる。

 註2 松山藩が6月24日に「松嶺藩」に改称していた。

 ただし、旧第一次山形県管轄地のうち飛び地になっていた酒田地方はこのとき第二次酒田県に移された(註3)。酒田地方では第一次酒田県を苦しめた民衆運動「天狗騒動」がまだ続いていたが、第一次山形県ではこれを鎮めるだけの行政・軍事力が足りず、この始末を第二次酒田県につけさせようとしたのである。

 註3 でなきゃ第二次「酒田県」とは言わない。

 何故ならば、第二次酒田県の枢要を握るのは旧荘内藩(旧大泉県)の士族たちであり、その結束・武力は極めて強固なものであったからである。この頃の地方長官は原則として他地方出身者が任命されていたが、第二次酒田県と鹿児島県のみは全くの例外として地元出身者が着任した。結果、天狗騒動は明治5年2月をもって鎮圧された。荘内の士族たちは旧出羽一国の統一も夢ではないと考えた。既に県官は荘内士族のみに独占され、「恐悦々々、百万石より之愉快ニ御座候」という有り様である。

 ところが……第二次酒田県は政府の指令を無視し、その後の政府による年貢の金納許可の話も隠して従来の年貢取り立てを行ったことから再び民衆運動が勃発した。収穫した米を自由に売り買いした上で金で納税した方が農民にとって得なのである。今回の運動は雑税廃止といった要求も合わさってさらに大規模な「ワッパ騒動」に展開した。運動に勝利すると「曲ワッパ(弁当箱)」に一杯の年貢米金が返還される、と農民たちが騒いだことがこの名称を生んだという。

 特に明治7年9月には田川郡の農民1万数千人が蜂起するという大騒動が起こり、県は運動の指導者多数を逮捕したが、その後も農民たちは代表を立てて東京の政府に直訴するといった行動をやめなかった。政府内では参議 大隈重信が早くから酒田に密偵を放ってその内状を探っていたが、ワッパ騒動に対しては鎮圧の態度を示し、薩摩人 三島通庸を県令として送り込んでこれを押え込もうとした(薩摩人6人を従えて着任)。三島はワッパ騒動の農民たちに対し極めて強圧的な態度をとることによって荘内士族と妥協しようとした。荘内士族は西郷隆盛と仲が良かったが、この機会に自分(三島)の属する大久保利通の派へと取り込もうとしたのである(山形県史4)。それと平行して、それまで導入の遅れていた地租改正や学制も進められた。明治8年8月31日、第二次酒田県は「鶴岡県」に改称して県庁も鶴岡に移した。

 話が前後するが……明治5年8月、「学制」が発布されて小学校の設置が決められた。置賜県ではそれ以前から独自の学制改革を進めて独自の小学校を設置していたことから中央の学制は無視してしまったといわれ、第二次山形県では少し遅れて9月に最初の小学校開設、第二次酒田県ではなんと明治7年3月まで学制そのものを無視して小学校もつくらなかった。

 明治6年7月の「地租改正条例」のための大規模な土地調査は第二次山形県ではすぐに始まった(それ以前から始めていた)が、置賜県では遅れて翌7年4月から開始した。第二次酒田県ではワッパ騒動の影響もあってさらに遅れ、中央から県内を巡察しにきた大江卓の指摘等を受けつつ、鶴岡県と改称した8年からようやく着手した。

 そして明治9年8月21日、府県の大廃合によって3県が合併し、ここに第三次山形県、すなわち現在の山形県が誕生した。(註4)や石高は105万石余、初代県令は先の鶴岡県令 三島通庸、そして県庁は山形。鶴岡は旧荘内藩(14万石)、置賜は旧米沢藩(15万石)の影響力が強かったのとくらべ、第二次山形県はもともと2?6万石の小藩の寄せ集めにすぎず、早くから政府の威令が届いていたこと、さらに地理的にも鶴岡と米沢の中間に位置していたことが県庁選考の理由であろう。また、この時の府県統廃合には地元の旧士族が県職員を独占する県の廃止という目的が強く、鶴岡県の廃止は実にその意にかなったものであった。荘内士族が願った出羽一国支配は果たされなかったが、かわりに新政府の上からの施策によって羽前一国と羽後飽海郡の統一がなされたのである。

 註4 ところで「ワッパ騒動」に対する処置は東京の政府内部でも意見が分かれ、裁判の結果農民側が勝利した。第二次酒田県時代の県官数人が実刑判決を受け60万円あまりが還付されたが、その金の6割は県に対する献納金・学校金として天引きされ、主に土木工事に使われた。騒動に参加した農民は残りの金の分配をめぐって分裂、解体した。 

『山形県史4』 山形県編纂兼発行 1984年

『山形県の百年』 岩本由輝著 山川出版社 1985年

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