山形市の変遷

 明治以降の山形市域の変遷に対し歴史地理学的考察を試みるものとする。

 山形県で区制が布かれたのは明治4年8月2日といわれている。ただしこの時区制を導入したのは村山・置賜2郡のみで併せて32区、内現在の山形市域に関わるのは村山郡内の第1〜12区であり、それぞれ8〜20の町村を統合した。ただし旧山形城三の丸内の士族屋敷を「郭内」として特別扱いし、それのみで一区とした。そして明治5年4月9日に従来の村役人が廃されて戸長が置かれ、同年10月には区長の統べる大区、その下に副区長の統べる小区、その下に戸長の統べる町村という3段階に整理された。現在の山形市域は第一大区の大部分 ( 小八区を除く ) 、第二大区の小四区、小五区であり、全部で11の小区が存在した。ただし明治7年1月29日には郭内を「香澄町」と名称変えして第一大区二小区と合併させ新しい小一区とした。官地であったこの地に払い下げの話が進行したからという。また、明治9年には第一大区の第一から第三の小区、つまり旧城下の山形町方33町で若干の統廃合が行われて31町となっている。この時期全国で行われた町村合併に対応するのであろうが大したものではない。

 明治9年10月5日、この年8月に現在の山形県域が統一されたのに伴い、全県の区画が10大区・100小区に整理された。山形市域を含む地域に関しては、それまでの第一、第二大区と第三大区の第一と二の小区を併せて第一大区に改め、その内部は15の小区に区画された。その責任者は大区に区長、小区に戸長、その下の町村は、町方では町方係り、在方では村長と呼ばれた。第一大区で注目すべきことは、旧山形城下を引き継ぐ第一から第三の小区が3区共通の事務所を持っていたということであり、これは旧城下のまとまりを引き継ぐもので、さらに後の山形市の萌芽でもあるともいえよう。

 しかし、旧城下は別として、機械的にすぎる大区小区制はすぐに修正され、明治11年7月22日の郡区町村編成法の公布をみる。山形県全体では10大区を11郡に、山形市周辺では第一から第三の大区を東西南北の村山郡へと再編した。旧山形城下町は南村山郡に入り、その郡は37町85村人口約6万を統べた。一説によると町は36であったといい、山形が31、上山が5であったという。後に市制を布く上山を除けば県都である「山形町方」の地位は飛び抜けており、最初は町方のみ、その後は周辺の村を引き込んで発展・拡大することになる。

 南村山郡役所は旧第一大区々役所を引き継ぎ、その所在地は旧小二区旅篭町であった。郡の長官は郡長、各町村に1名の戸長と筆生がいた。ただし百戸に満たない町村は複数で1人の戸長をたてることとした。つまり連合戸長役場制である。戸長は民選であったが官によって覆されることもあり、連合戸長の選挙結果に不満な町村が分離することもあった。「山形町方」である山形31町では明治12年に19戸長役場であったのが同17年には6戸長役場に統廃合されているが、その中でも分離がおこっている。ただ、旧郭内である香澄町のみは最後まで単独で戸長をたてており、この点やはり旧城下町の伝統が残っていた。また、各村には人民総代がおかれた。

 ところが明治17年戸長は官選となり、連合で戸長をたてるべき町村も五百戸未満のものへと拡大された。前述の山形31町の戸長役場統合もそれに対応している。

 明治21年4月17日、市制・町村制が公布され、翌年4月1日の試行によって町方31町からなる山形市が誕生した。市庁舎は旧南村山郡役所のそれを譲り受けた。市域は江戸時代の山形町方33町から31町への統廃合があったが、基本的に旧城下町の範囲を引き継ぐものであり、それが大区小区制の時代にも崩れなかったことは注目に値する。昭和3年9月、山形市に都市計画法が適用され、同6年に隣接する東沢村の大字小白川を合併した。ここは戦国大名最上氏の城下の一部であったのが江戸期の山形藩の小型化に伴い農村化していたもので、それが明治以降急速に都市化していたのであり、この合併を受けた山形市はその面積を5%程増しこそすれ、その城下町以来の商工業中心の性格には変化がなかったと思われる。しかしそれに変化をきたすのは、昭和18年の鈴川・千歳村の合併であり、軍需工場の宿舎建設地として考えられた両村の合併を受けた市の面積は倍近くに膨らんだ。

 これをさらに激変させるのが昭和28年9月1日公布の町村合併促進法である。山形市はすでに人口10万を超えていたのでこの法の適用外であったが独自の立場で政策し、まず市と学校組合を結成していた椹沢・飯塚村を翌年合併した。翌30年、東・南村山郡内の10ヵ村が合併されて第1次合併が成立したのであるが、農村の大量合併により、山形市の商工業都市としての枠組みは崩れた。その他の各村の合併は各々の利害から混乱を極めたが、さらに大曾根村、分村の末片方が市と合併した山寺村、促進法の失効後「新市町村建設促進法」に基づく知事勧告まで受けてさらに4ヵ村が合併し、以上3年間に18ヵ村を合併した山形市は、市制施行から67年にして面積ほぽ20倍に拡大した。市と合併したのは村だけで町はひとつもなく、かつての城下町を受け継ぐ山形市は商工業都市から周辺の農村を包含する形へと変貌し、農家の割合は市制施行時から倍に増えていた。しかしこれは同時に、地方財政の確立という町村合併促進法導入の動機から考えて、周辺の小村が山形市という商工業の中心地に頼ったともいえる。いずれにせよ山形市が近世城下町から本質的な変化を遂げるのは、実に第二次世界大戦終結以降の話なのである。

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