膳所(ぜぜ)藩


 慶長5(1600)年9月、関ヶ原の合戦に先立って、近江国の大津城では城主の京極高次が東軍に加担して西軍の大軍を迎え撃っていた。大津城の城兵はわずか3000、西軍1万5000の大軍の前に籠城7日にして開城・退去を余儀なくされた。しかし9月15日、関ヶ原にて東軍主力が圧勝し、20日には勢いに乗る徳川家康が大津城に乗り込んできた。

 籠城戦で痛めつけられた大津城の修復には戸田左門一西(かずあき)があてられた。戸田氏は松平清康(徳川家康の祖父)からの譜代の臣で、一西は天正18(1590)年から武蔵国鯨井田に五千石を領していた。関ヶ原の合戦に際しては中仙道を進む徳川秀忠の軍に属し、信濃国上田城の真田昌幸を攻撃して時間を潰す秀忠に、真田を無視すべきことを進言した。結局秀忠軍は上田城を落とせず関ヶ原の合戦にも間に合わなかったため、この話を聞いた家康は一西の領地がもっと多ければ秀忠も諫言をいれたであろうと五千石を加増していた。

 ところで大津は徳川家の直轄領として代官所が設置され、大津城は慶長6(1601)年6月頃には廃城される運びとなった。大津城はすぐ近くに山が迫っていてその頂きから城内を俯瞰出来ることから軍事的に不利とみなされたとか、大津の経済力に注目し経済都市としての機能を優先させるために城を除去することにした、とか説明されている。

 かわって城が築かれたのが、大津からすぐ東に位置する(現在は大津市域)膳所崎である。膳所崎は琵琶湖南端の西岸、琵琶湖から瀬田川が流れ出す地点の少し北に位置し、瀬田の唐橋にも隣接する交通の要衝であった。築城には諸国の大名が参加し、縄張りは築城の名手といわれた藤堂高虎が担当した。徳川家康が天下を握ってから築城を命じた最初の城がこの「膳所城」である。築城は時は慶長6(1601)年もしくはその翌年であったという。構造は本丸と二の丸が琵琶湖に突き出た水城で、天守閣は4層もしくは3層であった。

 そして、それまで大津城の修復にあたっていた戸田一西が近江国滋賀郡・栗太郡にて改めて三万石を与えられ、新築中の膳所城に初代城主として入ってきた。これが「膳所藩」の始まりである。「藩」という呼称が正式に用いられるのは明治元(1868)年のことであるが、本稿では慣例に従い過去に遡って「膳所藩」と呼ぶこととする。

 さて初代膳所藩主 戸田一西の業績としては、以前の領地武蔵国鯨井田から紅蜆(しじみ)を瀬田川に移植したことが知られているが、膳所に入って間もない慶長8(1603)年に落馬がもとで亡くなった。一西の死後、子の氏鉄(うじかね)が跡を継ぐが元和3(1617)年に摂津国尼崎に移され、かわって本多縫殿助康俊が膳所城に入ってきた。

   

   歴代藩主

 

 本多康俊もやはり古くからの徳川家譜代の臣で、もともとは酒井忠次の次男として生まれ、本多忠次の養子となった人物である。三河国西尾にて2万石を領したあと膳所に入り、4年後に亡くなった。この人物は「大坂夏の陣」で玉造口から大坂城一番乗りを果たしている。

 康俊の子の俊次は三河国西尾に戻され、かわって康俊の妻の弟である菅沼織部正定芳が膳所にやってくる。もちろん彼も譜代の臣、以前の領地は伊勢国長島2万石であった。定芳は寛永11(1634)年まて膳所城主をつとめるが丹波国亀山に国替えとなり、かわって石川主殿頭忠総が下総国佐倉7万石から膳所へと移ってくる。

 石川忠総も譜代の臣、大久保忠隣の次男として生まれ、慶長14(1609)年に父が改易(領地没収)された際に謹慎させられたが既に石川家に養子に入っていたことから許されたという人物である。膳所城主として領したのは7万石であった。それまでの膳所城主といえばどれも3万石であったのが、一挙に倍以上に増えたことになる。

 忠総は慶安3(1650)年に亡くなり、その子の憲之は伊勢国亀山に移された。そして膳所には元和3年から7年まで膳所城主だった本多康俊の子の俊次が戻ってきた。石高は7万石である。この俊次の子孫が明治に至るまでの代々の膳所城主をつとめることとなるのである。家臣団は、俊次が連れてきた、主に三河出身の者が多く、戸田氏や菅沼氏が国替えの際に残していった者や江戸から呼ばれた者もいた。領民に対しては他領の者と婚姻するべからずといった触れが出されている。寛文2(1662)年には大地震が発生して膳所城が破損し、本丸を中心とする大改装が行われている。ところで俊次の三男の忠顕(ただあき)とその妻子、十男の鎮俊(しずとし)は実はキリシタンで、生涯捨て扶持をもらって田舎に隠されていたという伝説がある。

 寛文4(1664)年、70歳となった俊次が隠居し、子の康将(やすまさ)があとを継いで2代藩主となった。康将は延宝7(1679)年に隠居し、甥の康慶(やすよし)が3代藩主となった。この時、康慶の弟の忠恒が1万石を貰って分家したため、膳所城主の領地は6万石となった。ただしそれは各地に分散しており、具体的な内訳は近江国の栗田郡のうち69ヶ村と、膳所城のある滋賀郡の20ヶ村、飛び地として近江の各地の20ヶ村と河内国に28ヶ村であった。康慶の代、膳所城中大手門の構造が幕府の規定に違反しているとの問題が持ち上がった。幕府から調査の役人が入ったが、膳所側は中大手門への道の途中に犬の血を塗った皮を被せた大石を置き、これは今朝しとめた鹿であって道が血で汚れていると偽って他の道を通らせた。結果はお咎めなしで、この出来事から膳所城は「石鹿城」と呼ばれるようになったという。もうひとつ余談、康慶が描かせた膳所藩の陣立て屏風というのが残っていて、そこには忍者も描かれている。膳所藩の忍者は甲賀者だったと考えられている。

 康慶は正徳4(1714)年に隠居し、子の康命(やすのぶ)が4代藩主となった。しかし康命は5年で亡くなり、かわって弟の康敏が5代藩主となった。彼の代には藩の儒学者 寒川辰清が全101巻に及ぶ詳細な地誌『近江輿地志略』を著している。5代康敏の治世は28年続くが子がなく、康慶の代に分家した忠恒の孫の忠邦を康桓(やすたけ)と名乗らせて養子にした。延享4(1747)年、康桓が6代藩主となった。

 ここで膳所藩の機構をみてみよう。まず家老が5人、それを補佐する中老が1人か2人、家老の中から特に選ばれて藩主の相談役となる側用人が1人いた。監察・刑事・寺社を管理する大目付が2人、財政を管理する勝手方大元締が1人である。領民(農民)を監督する郡奉行が3人、膳所の城下町を監督する町奉行が1人、藩主を警護する馬廻組が6組、江戸屋敷の留守居役(責任者)が2人、京(京都)屋敷の留守居役が1人であった。藩主が「参勤交代」で領国と江戸屋敷を行き来するのは他藩と同じだが、膳所藩はあと京都の火消しという任務も持っており、京屋敷(祇園にあった)がその拠点であった。膳所城下町は貞享2(1685)年の段階で930戸、武家と町人が半々で人口は3000と少し、琵琶湖の西岸に南北に細長い町並みを持っていた。すぐ西にある大津町(幕府直轄領)が同じ頃に1万8000の人口を持っていたのとくらべると、かなりこぶりであった。

 明和2(1765)年、6代康桓にかわり末弟の康政が7代藩主となった。実は康桓には息子がいたのだが、その子は病弱であるとして弟にあとを継がせたのである。しかし折角の康政は藩主になって間もなく重病に倒れその年のうちに病死、やむなく出羽鶴岡城主の酒井家の五男が養子として迎えられた。これが8代藩主の康伴(やすとも)である。しかし彼も6年後の明和8(1771)年に早々と亡くなり、その子で9代目の康匡(やすただ)も天明元(1781)年に25歳で亡くなった。

 10代藩主となったのは、6代康桓の子でありながら病弱のため藩主になれなかった忠薫(ただしげ)の子の康完(やすさだ)13歳であった。彼は文化3(1806)年に38歳で亡くなるまで25年間藩主の座に留まることとなる。こうころころと当主が亡くなり幼少の人が藩主になったり他家から養子がとられたりしている以上、誰を藩主にするかの舞台裏の抗争は当然行われていたと考えられている。それと関係あるのかないのかは分からないが、膳所藩における大規模な内紛として知られているのが以下に述べる「御為一件」である。

   

   御為一件

 康匡の代、家老の本多豊昌とその腹心の鈴木時敬・名和朝諸(ともつら)が権力を握って財政を混乱させていた。彼等は一旦失脚し、かわって中老に抜擢された儒学者 中根善右衛門之紀による財政改革が進められることとなった。ところがこの改革は増税を伴うものであったため、天明元(1781)年、久保江村の善五郎という者が中根之紀の罷免と以前失脚した名和朝諸の復職を要求する一揆を起こし、その要求通り中根が失脚、名和が復職するという事件が出来した。一揆の首謀者であった善五郎は取り調べ中に自殺し、それ以外の一揆の徒は罪を問われず、それどころか一揆参加者の多くは一揆の目的についてよく知らなかったともいう。

 康完の代、名和朝諸は鈴木時敬と共に家老となり、前者は藩主の姓をもらって本多内匠を名乗った。本多内匠と鈴木時敬は藩主が江戸にいる間に奢侈に耽って藩の財政を傾けさせた。その話を聞いた藩主は本多久武なる人物を起用して本多内匠等を退けようとしたが、久武は内匠等を恐れて任務を果たすことが出来ず、藩政は著しく混乱した。

 寛政11(1799)年、膳所藩の混乱を耳にした幕府が乗り出してきた。幕府は膳所藩主の遠縁にあたる本多修理を送り込んで藩政立て直しをはかり、本多内匠・鈴木時敬らは隠居のうえ知行(領地)を削られることとなった。以上が「御為一件」である。

   

   幕末の膳所藩

 文化3(1806)年、10代藩主康完が亡くなり、弟の康禎(やすさだ)が11代藩主となった。この頃日本の周囲に諸外国の船舶が出没し、幕府から武備充実の命が出されたが、膳所藩では(康完の代に)藩校「尊義堂」を創設して藩士を鍛錬し、大砲を鋳造した。大砲には「都の春」「蜻蛉」といった名前が付けられていた。大砲の発射音は京都市中にまで轟いたという。天保8(1837)年に大坂で起こった「大塩平八郎の乱」に兵を送り出している。康禎は41年間に渡って藩主をつとめて弘化4(1847)年に隠居、子の12代康融(やすあき)の代にアメリカのペリーが浦賀に来航して鎖国が破られた。膳所藩も有無を言わさず幕末の動乱に巻き込まれることとなる。

 ペリー来航に際し、膳所藩は京都の七口の警備に藩兵を送り出し、江戸にも20人の藩士を派遣した。安政元(1854)年にロシア艦が大坂湾に来航した際には、何十年も前に鋳造した大砲「都の春」を引っぱり出して淀川沿いの警備にあたっている。幕府から広く諸大名に対して開国するか否かについて意見が聞かれたが、膳所藩は開国に反対し、海防をすすめるべきとの建白書をしたためている(それが提出されたかどうかは不明)。

 安政3(1856)年、康融が隠居、その弟の康穣(やすしげ)が13代、最後の藩主となった。ちなみに母は薩摩国の島津家の出身である。この頃は全国で外国人を武力で打ち払うべしとの「攘夷」論が盛んになっていた。文久3(1863)年、将軍家茂が朝廷に攘夷を約束しながらその実現を躊躇い、しびれを切らした長州藩が馬関にて外国船を砲撃するとの事件が出来した。膳所藩は九州・中国地方に藩士を送って諸藩の情勢を調査し、藩主康穣の口から幕府へと攘夷の即時決行を進言した。攘夷は朝廷の強く要求するところであったから、そちらに組する者は「尊攘(尊王攘夷)派」である。

 膳所藩は京都近くに位置し京の火消しや御所警護にあたっていたことから尊攘派の勢力がかなり強かった。しかし徳川譜代の藩として、攘夷に慎重な幕府(註1)を支持する「佐幕派」も当然存在した。藩主の康穣は状況によっては攘夷を唱えていたが、個人的には西洋の科学技術に強い興味を示し、銀時計を購入してお側の小姓に常に持たせていたというエピソードがある。

 註1 西洋諸国の実力を詳しく知っているため、基本的に攘夷に反対。そこで尊攘派を抑えるために朝廷の権威を利用しようと将軍家茂と孝明天皇の妹 和宮を結婚させる「公武合体」を考え出したのだが、そこで天皇から結婚の条件として攘夷を約束させられ、非常に苦しい立場に追い込まれたのである。

 それはともかく、膳所藩の外では……特に長州藩の尊攘派が攘夷に不熱心な幕府を倒すことまで口にし出したことが、攘夷に熱心でも討幕まで考えていない孝明天皇を警戒させていた。同年8月、長州藩とそれに組する公家たちが京都から追放される「8月16日の政変」が起こり、幕府による尊攘派弾圧が激化した。

 膳所藩でも尊攘派と佐幕派の対立が激しくなってきていたが、どちらかというと佐幕派が優勢であった。尊攘派の榊原専蔵その他は藩主康穣に謁見し、藩主からもう一度幕府に攘夷を進言すること、容れられなければ藩が独自に攘夷を決行すべきことを訴えたが要領をえなかった。榊原は藩論を一挙に覆すべく9月25日に家老 村松猪右衛門を襲撃したが取り逃がし、禁固に処せられた。この事件で藩論の大勢が動くことはなかったが、尊攘派藩士の中には脱藩する者も現れた。この頃は幕府による尊攘派弾圧に対抗して各地の尊攘派が討幕の兵を挙げていたが、同年10月に但馬国生野で尊攘派公卿 沢宣嘉らが起こした「生野の変」には膳所藩脱藩の本多素行が加わっている。

 このような膳所藩内部の抗争は幕府にも伝わっており、京都所司代(註2)、京都守護職(註3)、さらには新撰組から膳所藩に密偵が送られたと言われている。

 註2 朝廷の監視を主な職務とする幕府の役職。

 註3 幕末の京都における尊攘派の活動を憂慮した幕府が文久2(1862)年に設置した役職。京都所司代・大坂城代・京都近くの大名までを指揮する権限を持つ。

 元治元(1864)年、昨年の「8月16日の政変」で京を逐われた長州藩の尊攘派が軍勢を率いて京都にのぼってきた。佐幕派で京都を守護する会津藩・桑名藩等と一触即発の状態となるが、この時、御所警備の一翼を担って太秦に駐屯していた膳所藩の軍勢が長州藩の嘆願書を取次いでいる。さらに藩主の康穣が京都所司代に対して「とにかく攘夷の早期実現」を進言したがいれられなかった。7月17日、長州藩と佐幕派の会津藩・桑名藩とが戦闘を開始して世に言う「禁門の変」が勃発するが、膳所軍は長州軍と行き会ってもあえて戦わなかったという。ただ、脱藩して長州軍に投じた膳所藩士もおり、粟屋達道という人物が堺町御門内で戦死している。(膳所藩も本当に何もしなかった訳でもなく、京都近くにいた長州藩士を捕えて幕府に引き渡したりしている)

 結局長州軍は敗退したが、事態を重くみた幕府は長州征伐を決定し、将軍家茂みずからその指揮をとることとした。そして、その家茂が膳所城にて一泊するとの通達が膳所藩に寄せられた。期日は慶応元(1865)年閏5月17日であった。

   

   十一藩士処刑

 ところがその直前、京都守護職 松平容保から「膳所藩士 保田信解その他が長州藩と通じて不穏の企てをしており、将軍の膳所宿泊は見合わせる」との通達が舞い込んできた。これは直接的には藩内の佐幕派の1人 上阪三郎衛門が京都守護職の家臣に藩内での尊攘派の謀議の噂(将軍暗殺用の釣り天井を用意していたという)を伝えたことに起因しているが、事の真偽は不明である。幕府の方は先の「禁門の変」に際して膳所藩が長州軍と真面目に戦わなかったことから膳所藩を疑っていたとも言われるが、少なくとも表向きには今回の予定変更は膳所よりも大津の方が宿泊の便がよいからだと説明した。

 やむなく膳所藩は名前のあがっていた保田信解ら数十名を投獄した。幕府に予定どおり膳所城に来泊するよう懇願したが容れられなかった。将軍の一行が膳所領内を通った時は極めて警戒厳重で、将軍の駕篭が行列のどこにあるかすら分からなかったという。

 投獄された者の取り調べが行われた。事は藩の存亡に関わることであり、とりあえず彼等が「先に脱藩して長州藩に投じていた人々と密通していた」との罪状で処分することとなる。かくして主な容疑者11人のうち身分の高い保田信解・阿閉権之丞・田河藤馬之丞・槇島錠之助の4人が切腹、身分の低い森喜右エ門・高橋作也・高橋雄太郎・増田仁右エ門・関元吉・深栖俊助・渡辺宗助の7人が斬首に処せられた。この11人は「藩のため」と、特に抵抗はしなかった。介錯人の1人はこの事を深く気にやみ、早くに亡くなったという。

   

   新政府の発足

 その後、幕府による長州征伐は失敗に終わった(註4)。勢いに乗った長州藩と、さらに薩摩藩(註5)や一部の公家が完全な討幕を計画するが、それより先の慶応3(1867)年10月14日、幕府が「大政奉還」を発して政権を朝廷に返してしまった。ただしこの時点では朝廷に政治を行う能力はないと考えられており、徳川家を含む大名家の会議が政権をとるというのが幕府側の思惑であった。しかしその「列公会議」に参加すべく京都に集まったのはたったの16人であり、しかもその大半が膳所藩主をはじめとする京都周辺の小大名で、それ以外は様子をながめるという案配であった。

 註4 長州軍には膳所脱藩の澤島正會と村田宗武が参加しており、前者は戦病死、後者は味方が退却した際に居残って割腹自殺した。

 註5 薩摩藩は最初は長州藩と敵対していたが、慶応2(1866)年に長州藩と同盟を結び、討幕へとすすんでいた。

 12月9日、「王政復古の大号令」が発せられ、朝廷が政治を行うことが明確に宣言された。これは反幕府の公家や薩摩藩士によって計画されたもので、政権から完全に徳川家を閉め出そうとの動きである。旧幕府の勢力は京都から撤収し、新政府は従来の京都町奉行所にかわって「京都市中取締役」を設置、膳所・篠山・亀山の3藩をこの職にあてた。こうして膳所藩は完全に新政府の側に組み込まれた。しかし徳川家は政権参加を諦めた訳ではなく、新政府としてはこれを武力で潰す必要に迫られた。そこで薩摩藩士が江戸にて挑発行為を繰り返し、それに激怒した旧幕府が京都へと軍勢を送り込んできた。

 慶応4(1868)年正月、旧幕府軍と長州・薩摩軍とが鳥羽伏見にて衝突、後者が勝利した。膳所藩は旧幕府軍に参加していた桑名藩領の接収に先鋒として参加(藩兵199人を送る)し、その後の「戊辰戦争」に際しては北陸に転戦したが詳細は不明、総計507人が出陣して2人が戦死したという。この間の3月7日、膳所藩に隣接する旧幕府直轄領を統治していた大津代官所が廃止されて「大津裁判所」が設置されている。この裁判所とは現在のものと異なり行政一般をもその職掌としており、去る3月3日には京都においても京都市中取締役が「京都裁判所」に改称されている。同年閏4月下旬にはそれぞれ「大津県」「京都府」に置き換えられた。まだ廃藩置県の前の話であり、新政府直轄領としての「府県」と従来の藩(註6)とが並立する「府藩県三治制」の発足であった。

 註6 「藩」とは慣例としての呼称であり、これより以前に公式に用いられたことはない。「府県」の設置を定めた「政体書」で初めて公式の呼称となった。

   

   廃藩置県へ

 明治2(1869)年2月、膳所藩主 本多康穣は「版籍奉還」を申し出た。土地(版)と人民(籍)を朝廷に返還し、藩主は改めて「知藩事」に任命してもらうという行動である。これが全国的に行われたのはこの年の6月で、膳所の藩主もその時に正式に知藩事に任命された。

 8月、膳所藩は藩士の等級・家禄(給与)を再編成し、家臣団を一門・士族・卒の3級にわけて、それぞれ一律に、一門には25石、士族には12石、卒には6石の家禄を与えるとの改革「均禄法」を行った。もともと膳所藩は領内の大部分が農村であって特に目立つ産業もなく、近年の戊辰戦争の戦費が極度に藩財政を圧迫していた。年貢米の取り立てにも限度がある以上、財政改革は家臣団の給与削減へと向かうしかないのである。

 10月には榊原専蔵という人物が膳所藩の権大参事となった。彼は6年前の文久3(1863)年9月25日に家老 村松猪右衛門を襲撃し、当時の藩論を尊王攘夷に染めあげようとした人物である。彼はこの事件で禁固に処せられたが後に脱藩、尊攘派志士として各地をまわってこの年に膳所に帰ってきたのである。ちなみに彼はかつて自分の手で殺そうとした村松猪右衛門を推薦して大参事につけている。

 明治3(1870)年、去る慶応元(1865)年に処刑された11藩士の名誉が回復され、遺族が呼び戻されて復職した。逆に、直接的に11藩士を陥れたとされている上阪三郎衛門が処分されている。上阪は膳所藩の弓術師範であり、佐幕派の代表であった会津の藩士とも付き合いがあったという。

 この年4月、膳所藩は全国に先駆けて廃城願いを行った。膳所城は琵琶湖に突き出した水城であっ維持費がかさみ、近代戦にも不向きであるとの理由であった。天守閣から石垣まで1200両で売り払ったと言われ、建物のいくつかは城下の神社に移築されて現在に至っている。廃城の際には伊藤久斉という藩士が悲嘆のあまり発狂したという話がある。伊藤は物乞いになってしまうが膳所町民の尊敬を受け続け、大正10年に70歳で亡くなった時には町費で葬式が出されたという。その一方で、膳所の城跡にはなにがしかの埋蔵金があるとの噂を聞いて探し回る人もいたという。

 話を戻して11月、「帰農法」が発され、家臣が家禄(この時点では慰労扶持といった)を返上して農業や商業に転職するならば一時金や土地を与えるとの方針がくだされた。結果、翌年末までに膳所の士族・卒700戸のうち9割以上がこれを受けるとの申し出を行った。

 明治4(1871)年7月14日、遂に「廃藩置県」が断行され、膳所藩は廃止となった。かわりに「膳所県」が発足して旧膳所知藩事の本多康穣がそのまま県知事に任命されたが、同年11月22日には大津県に統合されて完全に本多家の手を離れ、康穣はその後子爵となった。初代膳所城主戸田左門一西から数えて270年、本多家の初代俊次から数えれば221年続いた膳所藩の終焉である。

 最後の膳所藩主 本多康穣が亡くなったのは明治45(1912)年2月28日、享年79歳であった。膳所県知事の職をとかれた後は東京に住み、神道本局の管長をつとめつつ藩主時代から好きだった機械いじりに没頭していたという。

                                 

おわり   

   

   参考文献

『膳所勤王烈士』 膳所尋常高等小学校郷土研究部編集並発行 1936年

『大津市史 上巻』 大津市役所編集兼発行 1942年

『幕末に於ける膳所藩烈士詳伝』 竹内将人編 立葵会 1975年

『膳所藩の武道』 竹内将人編 立葵会 1975年

『膳所藩名士列伝』 竹内将人編 立葵会 1979年

『膳所の昔ばなし』 竹内将人編 立葵会 1980年

『新修大津市史3』 大津市役所 1980年

『新修大津市史4』 大津市役所 1981年

『大津の城』 大津市史編纂室企画編集 大津市役所 1985年

『三百藩藩主人名事典3』 藩主人名事典編纂委員会 新人物往来社 1987年

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