メキシコ皇帝マクシミリアン
メキシコは1835〜36年の「テキサス独立戦争」と46〜48年の「米墨戦争」で国土の北半分を失い、さらには57年から始まった自由主義派と保守派の内乱「レフォルマ戦争」によって国内が戦場となった。61年の元旦、自由主義派の大統領ファレスがそれまで保守派の支配下にあった首都メキシコシティを占領してとりあえず内乱を終息させた。しかし財政は破綻状態であり、同年6月には向こう2年間の対外債務の利子支払い停止を宣言する羽目となる。このことが債権国を怒らせた。
61年12月、英仏西の3国連合軍がカリブ海の港町ベラクルスを占領してファレスに利子支払いを強要した。これはファレスに反撃しようとした保守派の手引きによるものであった。メキシコを含む中南米はアメリカ合衆国の縄張りなのだが、アメリカはこの頃「南北戦争」の最中であったことから3国軍の動きに文句を言うことが出来なかった。
3国軍のうち英西軍はさっさとファレスとの話をつけて撤収したが、フランス軍……ナポレオン3世の時代である……のみはメキシコを属国化する野心満々で首都メキシコシティへと進撃した。この時は首都の手前のプエプラ市の戦いでファレス軍の前に大敗したが、その後のファレス側はフランス軍の味方についた保守派との戦いに忙殺されてフランス軍を追撃することが出来なかった。
63年、フランス本国から4万もの新手の軍勢が到着、今度は数と火力の力でプエプラ市を包囲・降伏させ、6月10日には首都メキシコシティを占領した。ファレスは北方に逃れた。フランス軍と結ぶ保守派は以前から共和制を廃して君主制を樹立することを目論んでおり、オーストリア皇帝の弟フェルディナント・マクシミリアン大公を「メキシコ皇帝」に擁立することにした。
この話に対し、オーストリア皇帝は日頃あまり仲の良くない弟をていよく追い出せると考えたが、他の親戚たちはほとんど全員が反対した。従姉妹のイギリス女王はメキシコよりもその頃クーデター騒ぎで空位になっていたギリシア王位を継いだ方が良いと述べた(註1)。マクシミリアン本人はかなり悩んだが、フランスに唆されたのと夫人のシャルロッテに説得されたのとで腰をあげ、メキシコの保守派に対して「メキシコ国民の同意」が明示されるなら即位に同意するとした。フランスに対しては、フランスがメキシコ出兵に費やした全額と在メキシコのフランス軍の67年まで(少なくともそれまでメキシコに駐留する)の給料をマクシミリアンが払うことを約束、それと引き換えにメキシコ駐留フランス軍の統帥権を(マクシミリアンが)掌握することとなった。フランスに支払うべき金額は莫大であり、「統帥権はマクシミリアンのもの」とかいっても実質的にはフランス皇帝ナポレオン3世の傀儡ということである。オーストリア皇帝は弟のメキシコ行きを許可する代償として彼のオーストリア皇位継承権を破棄した。それでもマクシミリアンにとってはメキシコは従姉妹の薦めるギリシアよりは魅力的な国に見えたのであった。
註1 当時のギリシアについては当サイト内の「ギリシア近現代史」を参照のこと。
メキシコの保守派は形式的な国民投票を実施して「メキシコ国民の同意」をでっちあげた。これを受けたマクシミリアンは64年5月28日に帆船「ノバラ」号でベラクルス港に上陸、同年6月12日メキシコシティにてメキシコ皇帝に即位した。ヨーロッパ各国がこれを承認する。マクシミリアンは32歳の青年、皇后のシャルロッテはまだ22歳で、首都の民衆はその洗練された立ち居振舞いに驚嘆した。皇帝を護る軍事力はバゼーヌ元帥の率いるフランス軍3万8000に、皇帝の実家のオーストリアと皇后の実家のベルギーからやってきた義勇軍あわせて1万であった。
ところが……彼を擁立した保守派の思惑とは異なり、マクシミリアンはかなり自由主義的な思想の持ち主であった。彼はそれがメキシコ人のためになると信じて以前のファレスの政策(教会財産の没収(註2)等)を継承し(この点でマクシミリアンに期待していたローマ教皇を失望させた)、ファレスに対して自分の政府への入閣を呼びかけた。フランス軍の態度が悪かったこともあり、保守派はだんだんマクシミリアンから離れるようになっていった。しかもマクシミリアンは財政困難を理由として即位前にフランスに約束していた諸々の支払いに抵抗したためナポレオン3世までをも失望させる。
註2 ファレスは教会が莫大な土地を所有してその管理を怠っていると考えていた。そこでこれを接収して一般の農民に売却、有効活用しようとしたのである。レフォルマ戦争の最中には教会の全財産の国有化といったことも行っている。ただ、一般の農民に売却といっても彼等はそれを買う金も法律知識も不足していたことから実際には少数の金持ちのみが広大な土地を買い占めるという結果を産んでいた。
ファレスはマクシミリアンからの帰順の呼びかけに頑として応じず、北部の各地でゲリラ戦を続けていた。ファレス軍は一時はメキシコ領の北の端っこまで追い詰められたが、65年に南北戦争を終結させたアメリカ合衆国の支援を受けて勢力を回復した。翌66年、ヨーロッパで起こった「普墺戦争」にてマクシミリアンの実家オーストリアがプロイセンに敗北、プロイセンの強大化を恐れるようになったフランス皇帝はこの年11月からメキシコ駐留軍を順次撤収させることにした。ファレス軍との戦いが続いているのに、マクシミリアンの最大の軍事力が出て行ってしまう。
この話に驚いたマクシミリアンの代理人として皇后シャルロッテがパリに赴きナポレオン3世の説得を試みたが無駄である。そんな時に彼女の父のベルギー国王が亡くなり、在メキシコのベルギー義勇軍もフランス軍に続いて撤収すると言い出した。シャルロッテは各国を説いてまわるが、なんとかオーストリアが新手の義勇軍4000の募集に応じてくれただけである。疲れ果てたシャルロッテは発狂した。
メキシコの戦地ではマクシミリアンが保守派のメキシコ人からなる「皇帝軍」を編成してファレス軍に対抗していた。しかしこれは公称こそ2万1500名を数えていたが実数はその4分の1程度でしかなく、67年2月には頼みのフランス軍が完全に撤収して八方ふさがりとなってしまう。フランス軍はマクシミリアンに一緒に帰るよう勧告したが彼は応じなかった。
その頃にはマクシミリアンの支配地域は首都メキシコシティとあといくつかの都市のみに圧縮されていた。マクシミリアンは皇帝軍とオーストリア義勇軍を率いてケレタロ市に入り、そこに迫ってきたファレス軍をメキシコシティの友軍とで挟み撃ちにしようとした。しかしこの作戦はうまくいかず、ケレタロ市もメキシコシティもファレス軍の包囲下に落ちた。
そのまま包囲72日、ケレタロ市は5月15日をもって陥落した。捕虜となったマクシミリアンは欧州各国から寄せられた助命嘆願もむなしく、軍法会議の結果皇帝軍の将軍2人とともに銃殺されたのであった。享年35歳。不仲であったオーストリア皇帝もさすがに衝撃を受けたという。ナポレオン3世はマクシミリアンを見捨てたことでその威信を大幅に低下させ、61年以来の何の意味も無いメキシコ政策で莫大な予算を費やしたことで彼の帝国もまた傾くことになる。その頃ベルギーのとある城に幽閉されていたシャルロッテが亡くなったのは、夫の死から60年も経った1927年のことである。
おわり
参考文献
『メキシコ革命 近代化のたたかい』 増田義郎著 中公新書 1968年
『ラテン・アメリカと海 近世対日関係外史』 前田正裕著 近代文藝社 1995年
『ラテン・アメリカ史1』 増田義郎・山田睦男編 山川出版社新版世界各国史25 1999年
『ハプスブルク家かく戦えリ ヨーロッパ軍事史の一断面』 久保田正志著 錦正社 2001年
『メキシコの歴史』 国本伊代著 新評論 2002年
『メキシコの100年 1810〜1910 権力者の列伝』 エンリケ・クラウセ著 大垣貴志郎訳 現代企画室 2004年