メロヴィング朝年代記


 「フランク族」とは「自由にして勇敢なる者」の意である。3世紀中頃の彼等は大きく2群にわかれ、1群はライン河下流域に住んで「サリ(塩の意)支族」、1群はライン河中流域に住んで「ブアリ(河の人の意)支族」と呼ばれていた。

 彼等の一部はローマ帝国軍に雇われて主にライン河東岸の警備にあたっていたが、5世紀頃に現在のベルギーから北フランスにかけて勢力を拡大し、各地にいくつかの小王国を建設した。

 伝説によれば、現在の北フランス地域に初めて地歩を固めたフランクの王はファラモンなる人物であったとされるが、その実在には疑問がもたれ、その子でサリ系フランク人の王となったクロディオン、さらにその子メロヴィクあたが記録で確認出来るフランク最古の王であるとされている。メロヴィクの子孫が継承した王朝がつまり「メロヴィング朝」である。メロヴィクの母はある夏の日に海神ネプチューンに襲われたことがあり、つまりメロヴィクはネプチューンの子である可能性があるという伝説が伝えられている。

   

   フン族の侵入

 当時、つまり5世紀中頃のヨーロッパは民族大移動の真只中である。フランク族の一部が北フランス地域に入り込んだのもその動きのひとつであるが、彼等はどちらかといえば大人しく、メロヴィク王も、ローマ元老院議員アエティウスに雇われて、現在のパリ地方に駐留していた。

 ところでその「民族大移動」の直接のきっかけとなったのは、中央アジアから黒海北岸へと侵入してきた「フン族」が、そこにいた東ゴート族・西ゴート族を圧迫したことによるのはよく知られた話であるが、その後のフン族は南ロシアからハンガリーにかけて勢力を保ちつつも国力振るわず、その一部はゴート族に降ってその下働きに甘んずる有り様だったという。

 しかしながら西暦432年、ルーア王なる人物が立つ頃からようやくフンの国勢も盛り返すこととなる。彼は在位期間わずか1年ながら、東ローマ帝国にたびたび侵入してその皇帝に毎年多額の貢ぎ物を約束させ、西ローマ帝国からはパンノニアその他の地を割譲せしめることに成功した。

 そのルーアの甥が有名なアッチラである。アッチラ即位の数年後、たまたま東西のローマ帝国が共同で北アフリカのヴァンダル王国を攻略せんとの準備を整え、その連合軍がまさにシチリア島の港から出発しようとしていた。これを受けたヴァンダル王ガイセリックは大急ぎでアッチラの元に密使を送り、東西ローマの後方を突いてもらおうと考えた。

 アッチラは直ちに大軍を率いて東ローマに侵入し、3度戦って3度大勝、屈辱的な講和を飲ませて今度は西ローマ帝国領へと兵を進めた。第一の目標はガリア(現在のフランス)である。

 当時のガリアは一応西ローマ帝国領ではあるが、フランク族をはじめ西ゴート族、ブルグント族、アーモリカ族、サクソン族等々のゲルマン系諸族が入乱れていた。この中の西ゴート族の王テオドリックは前述のヴァンダル王ガイセリックに娘を殺された遺恨から、西ローマ帝国に船を借りてヴァンダル王国を攻めようとしており、ガイセリックの方はここでもアッチラを頼って西ゴート・西ローマの矛先をかわそうとしていた。フランク族では王位を巡る争いが起こっており、西ローマを後ろ楯とする弟メロヴィクが兄を追い落とし、敗れた兄はやはりアッチラを頼っていた。西ローマ侵攻をはかるアッチラ軍がまずガリアに進んだのは主としてこれらの理由による。

   

   カタラウヌムの戦い

 451年春、50万の大軍を率いるアッチラがハンガリーを出陣、チューリンゲンヴァルトの森林で木材を伐り出して筏を作ってライン河を押し渡り、トングル、メッツ、ランスを劫掠しつつセーヌ川を渡河、ロアール川の線にまで到達した。ロアール川の南は西ゴート族の勢力圏である。

 西ローマ帝国は直ちに元老院議員アエティウスを司令官とする軍勢を南ガリアへと送り、西ゴート王テオドリックのもとにも援軍を求める使者が飛ばされた。使者アヴィタスの熱弁に動かされたテオドリックはアッチラとの戦いを決意し、それまで様子を見ていたガリア各地のゲルマン諸族も続々とアエティウスのもとに馳せ参じてきた。

 この頃アッチラ軍はオルレアンの包囲にかかっていたが、守勢はよくこれを防ぎ、さらに遠くから西ローマ・ゲルマン諸族連合軍の巻き上げる砂塵を見るに及んで、(食糧も少なくなってきたので)いったん北方へとひきあげることにした。しかし西ローマ軍の追撃は急で、退却するアッチラ軍のしんがりを守るゲピド族の部隊が西ローマ軍先鋒フランク族部隊の攻撃を防ぎきれなくなったため、やむなくアッチラも決戦を決意し、一転してカタラウヌムの地に陣を張った。

 戦いは午後3時頃に始まった。戦いの火蓋をきったのはアッチラ軍の投げ槍で、続いてアッチラ直属の騎兵隊が西ローマ軍中央のアラン族を突破、そのまま右翼西ゴート族の側面へと殺到して、西ゴート王テオドリックを討ち取った。これを見たテオドリックの子トリスマンドが駆けつけ、敵地に入りすぎたアッチラ軍を一時は撃退したが、今度はトリスマンドの方が深入りしすぎ、返り討ちにあって命からがら味方の陣に逃げ込む始末。この日1日で両軍の死者は16万2000人にものぼったという。

 翌日、西ゴート族は前日戦死したテオドックの死骸を探し出して陣中にて葬儀を行い、直ちに息子トリスマンドの即位を宣言した。トリスマンドは西ローマ軍司令官アエティウスの陣営を訪れて父の弔い合戦を主張したが……しかし西ローマ帝国としては、ここでアッチラ軍を破ったところで、西ゴート族に調子に乗られすぎても困る。幸いアッチラ軍の方も損害が多くて当分は動けないだろう……。こう考えたアエティウスは、「まず新王として国内を固めるべき」とトスマンドを説得し、他のゲルマン諸族にも帰国をすすめた。結果、アエティウスの案が採用された。

 アッチラの方は敵軍の退却の様子を見て、最初は計略と考えて防備を固めたていたが、やがて彼も態勢立て直しのために引き上げることにした。この時アエティウスの命を受け、退却するアッチラ軍の後方を脅かしつつその監視にあたったのはフランク族であったといい、アッチラ軍が放棄していった占領地はそのままフランクの支配地に組み込まれたという。

   

   クローヴィス登場

 5世紀後半、フランク族の王でこの文章の冒頭に登場したメロヴィクの子キルデリクスは現在のベルギーのトゥールネ地方を支配していた。キルデリクスは若い頃ビザンティン帝国に滞在したことがあり、彼の妻でクローヴィスの母であるバシナはビザンティン帝国出身であったという。キルデリクスは西ローマ帝国の同盟者として、敵対する諸部族と激しく戦った。彼の墓は1653年に発見されている。

 キルデリクスの跡継ぎクローヴィスは即位当時まだ16歳、支配地域の南にはシャグリウスなる人物が「ローマ人の王」を名乗って勢力を張っていた。ちなみに西ローマ帝国はクローヴィス即位の5年前に滅亡している。

 486年、21歳のクローヴィスはシャグリウスの本拠地ソワソンを攻めてこれを占領、パリ・ルーアン・ランスといった北ガリアの諸都市をその手中におさめた。シャグリウスは学問には優れていたが戦争はさっぱりであった。クローヴィスは都をソワソンに移し、その領国は490年にはロアール川の流域に達した。

 当時のガリアには、既にキリスト教が広く布教されていた。しかし、ゲルマン民族が侵入してくる以前からガリアに住んでいたローマ系住民がアタナシウス派キリスト教(カトリック)を信じていたのに対し、西ゴート・ブルグントといったゲルマン諸族はアリウス派という異端(とされた)のキリスト教を信じていた。という訳で、ローマ系住民とゲルマン系住民は決してうちとけることがなかったのだが……フランク族はアリウス派どころか、キリスト教とは縁もゆかりもないゲルマン古来の多神教の世界に生きていた。

 クローヴィスの妃クロティルドはアリウス派を奉じるブルグント族の王女でありながら熱心なアタナシウス派の信徒であった。496年、クローヴィスがチューリンゲン・アラマン両国の討伐に出陣するに際し、彼は「もし戦場にてゲルマンの神々が我を助けず、代わりにキリスト教の神が我を助けることあらば、我はキリスト教に改宗する」とクロティルドに約束した。

 結果はクロチルダの望み通りになった。ストラスブールの戦いにおいてフランク軍はアラマン軍の突進の前に危機的状況に陥ったが、クロチルダとの約束を思い出したクローヴィスは一心にイエス・キリストに祈り、きわどいところで勝利を得ることが出来たのである。

 そしてその年のクリスマス、クローヴィスと配下のフランク族3000人はランス大司教レミギウスの手によって洗礼を受けた。これの持つ意味は大きかった。以降のフランク族はアタナシウス派キリスト教徒として、ガリア全土のローマ系住民、そしてその心を束ねるローマ教会の強力なバックアップを受け、アリウス派のゲルマン諸族を圧倒するに至るのである。

 とはいえ、この時点ではクローヴィスはまだフランク諸国の中の1国の王にすぎず、同じフランク族といえどもまだクローヴィスの風下に立つことをいさぎよしとしない者もいた。その1人ケルンのシゲベルトは特に強硬にクローヴィスに刃向かっていたが、510年、クローヴィスは密かにシゲベルトの子フロデリヒをそそのかして父を殺させ、ついで刺客を放ってフロデリヒも殺してその領地を奪った。

 その少し前の507年にはロアール川を越えて西ゴート族を攻め、ポワティエ近郊のヴィエにて国王アラリック2世の率いる西ゴート軍を大破、中・南部ガリアをほぼ制圧した。この頃の西ゴート族は現在のフランス南部からスペインにかけてを支配していたが、現スペイン地域の住民(アタナシウス派)にアリウス派を強要していたことからその反乱に苦しみ、北から攻め込んできたクローヴィス軍に有効に対処することが出来なかったのである。ただ、新しく西ゴートから奪った地域の住民は(その後も西ゴートの支配に留まり続けるスペイン地域の住民と違い)西ゴートのアリウス派に不満を抱いてはいたものの、彼等(西ゴート)がローマ文化・法に好意的であったことをよしとし、アタナシウス派といえど「野蛮な」フランク人にはなかなか従おうとしなかった。

 こうしてライン河の東岸から現在のベルギー・フランスの大部分を支配する「メロヴィング朝フランク王国」の基礎を築いたクローヴィスは、公的には東ローマ帝国から「執政官」に任じられ、国内にては「サリカ法典」の編纂に努力しつつ、511年に45歳で亡くなったのであった。

   

   クローヴィスの子たち

 クローヴィスの死後、メロヴィング朝フランク王国は4人の息子たちによって分割相続された。上からランスを治めるテウデリク、オルレアンを治めるクロドミール、パリを治めるキルデベルト、ソワソンを治めるクロタールである。

 うち、テウデリクとクロタールは東方のチューリンゲン族を討ち、それとは別に3人がブルグント族を攻略したが、苦戦の末にクロドミールが戦死、534年に再びキルデベルトとクロタールがブルグントを攻めてようやくこれを配下におさめた(その後もしょっちゅう叛くのだが)。その前年、テウデリクが死んでその子テウデベルトが跡を継ぎ、彼は536年にはイタリアの東ゴート王国領へと攻め込んだ。これは東ローマ皇帝ユスティニアヌスの要請によるもので、東西に敵(フランクと東ローマ)を受けた東ゴートはやむなく王国北西部を割譲する条件でテウデベルトと講和した。

 しかしそのテウデベルトも548年に、その子テウドヴァルドも555年に(子なくして)亡くなり、テウドヴァルドから見れば大叔父にあたるキルデベルトも558年に子のないまま死亡、クローヴィスの家系で残った男は、既に戦死した(クローヴィスの)次男クロドミールの3人の子と、4男クロタールのみとなった。

 クロタールはクロドミールの子供たちのもとに剣と鋏を贈り、剣をもって自決するか、鋏をもって髪を切る(出家する)のかを選ばせ、2人は自決、1人は髪を切った。かくしてクロタール1人が父王クローヴィスの遺領を全て引き継ぐに至ったのである。

 クロタール1世の在位期間(クローヴィスの死の際にその領地の一部を相続した時から数えると)は50年の長きに渡り、外にあっては東ゴート族やブルグント族を討ち、内にあっては広大な領地の巡回にと時を費やした。当時の国家は後世の絶対君主のような整備された官僚機構を持たず、各地に散らばる王領地を確実に治めるためには、決して1カ所にとどまることなく、自分の目と手で各領地をおさえる必要があったのである。

 しかも上に見るごとく、フランク王国は、国王が死ぬごとにその息子たちによって分割相続されていた。これは昔からのフランク族の習慣であり、クロタール1世の息子たちもまた当然のごとくその権利を主張することとなる。

     

   ブルンヒルドとガルスヴィント

 さて、クロタール1世は561年に亡くなるが、その末子キルペリクは葬儀の後、大急ぎで父王の財宝の倉庫があったブレーヌを占領し、更にパリの町へと兵を動かした。もっとも当時のパリは現在のそれとは異なり、ほとんど全部シテ島(セーヌ川の中洲)の中に収まっており、かつてのローマ皇帝ユリアヌスが築いた宮殿のみがセーヌ川の南岸にはみだしていたのだが……とにかくキルペリクの勝手な行動に他の兄弟も黙っていない。彼等は対キルペリクの大連合軍を結成し、弟に相続のやり直しを承諾させた。

 結果、長男カリベルトがパリを、次男グントラムがオルレアンを、三男シギベルトがランスを、そして四男キルペリクがソワソンをそれぞれ改めて相続しなおすとこが決定された。

 しかし、というかもちろん、騒ぎはこれだけではおさまらない。まず今回の裁定に不満なキルペリクが、兄シギベルトがゲルマニアに遠征している隙を突いてその所領ランスを強奪し、急を聞いて引き返してきたシギベルトの軍勢が逆にキルペリク軍を撃ち破るという事件が起こった。

 この時はあっさりと和睦が成立したが、どうも、メロヴィング朝の王族たちは、(キリスト教的な)倫理観に欠けるところが大であった。彼等兄弟は多くの女性をとっかえひっかえし、女性たちもまた王族の寵愛を得んがための陰謀をめぐらすことを日課としていた。

 その中で、三男のシギベルトのみは妻ブルンヒルドへの愛を貫いていた。彼女ブルンヒルドは西ゴート王アタナギルドの末娘という高貴の生まれであり、当代随一の才色兼備をうたわれていた。ブルンヒルドの噂を聞いたキルペリクは再び兄シギベルトへの対抗意識を燃え立たせ、ブルンヒルドの姉ガルスヴィントと結婚しようと考えた。

 ガルスヴィント本人とその母ゴイスヴィントはキルペリクの放埒な女性関係を嫌っていたが、父の西ゴート王はこの縁談に乗り気であった。西ゴート王国の北に位置するフランクは決して無視できる勢力ではなく、先のシギベルトとブルンヒルドの結婚に続き、さらにキルペリクと婚姻関係を結ぶことは、決して損な話ではないと思われたのである。

 ちょうどその頃、フランク王家の長男カリベルトが亡くなった。その妻テオデギルドはカリベルトの弟グントラムとの再婚を望んだが、グントラムは持参金をもってやってきた兄嫁を修道院に放り込み、持参金の財宝だけをものにしてしまった。

 他の兄弟、シギベルトとキルペリクは兄嫁とその持参金の扱いには文句を言わなかったが、しかし亡兄カリベルトの遺領の分割には大いに口を出した。カリベルトには跡継ぎがいなかったのである。

 話し合いの結果、キルペリクは西ゴートに隣接する地方を獲得した。西ゴート王は新たな隣人となったキルペリクとの婚姻の必要性を改めて痛感した。その一方で何としてもガルスヴィントと結婚したいキルペリクは、結婚の見返りとして、今回手に入れた領地のうち、リモージュ・ボルドー等をガルスヴィント個人の領地にすると約束した。これらの地域は本来西ゴート族の勢力圏であり、クローヴィスの時代にフランクによって占領されていたのである。

   

   ガルスヴィントの死

 ガルスヴィントは相変わらずキルペリクを嫌っていたが、キルペリクはそれまでの女性関係を全て清算することを約束して、ようやく正式の結婚へと漕ぎ着けた。ガルスヴィントはおいおい泣きながら母との別れを惜しみつつ、西ゴートの首都トレドを出発して北の方フランクへと旅立っていったのであった。

 ところで、キルペリクがガルスヴィントとの結婚を望んだのは、ひとえにその高貴の血筋を尊ぶが故のことであった。ところがガルスヴィントは妹ブルンヒルドほどには美しくなく、しかも結婚した時点で既に35歳であった。おまけにキルペリクが以前から囲っていた側妾には、ガルスヴィントより美しい女性が何人もいた。という訳で、あっという間もなくキルペリクはガルスヴィントに飽きてしまった。

 傷付いたガルスヴィントは実家に帰ると言い出した。ここで彼女は間違いをおかした。もし国に帰してくれるなら、結婚の時に持ってきた持参金を置いていってもいいと言い出したのだ。これを聞いたキルペリクはかえって疑心暗鬼にとらわれ、寝ていたガルスヴィントを扼殺してしまった。キルペリクは当時のとある聖職者に「当代のネロでありヘロデである」と呼ばれている。

   

   兄弟の争い

 ガルスヴィントの死は、彼女の妹ブルンヒルドを激怒させた。彼女は夫シギベルトを動かしてキルペリクに対する復讐戦の準備を進めたが、すんでのところでシギベルトとキルペリクの兄グントラムが調停に乗り出してきた。

 フランクの慣習法によれば、殺人に対する償いは「人命金(ヴェアゲルド)」なる罰金によってなされ、支払いが済めば犯人は一切の復讐を免れることが出来るとされていた。例えば被害者が奴隷の場合は金貨15〜35枚、地主で100枚、貴族で600枚であるが、王族についてはこれといった決りがなかったため、とりあえずガルスヴィントの領地であったボルドー・リモージュ等をブルンヒルドに引き渡すということでケリをつけた。

 当然キルペリクは裁定に不満であり、5年後の573年、軍勢を動かしてシギベルトの領地トゥールを占領した。シギベルトはグントラムに救援を求め、グントラムは武将ムモルスを派遣してトゥールを奪い返してやった。トゥールから追い払われたキルペリク軍の大将はキルペリクの息子クローヴィスであったが、彼は今度はブルンヒルドの領地ボルドーを占領してそちらに居座ることにした。

 しかしクローヴィスはシギベルトの武将シウグルフスと戦って再び敗れたため、キルペリクは別の息子テウデベルトに軍勢を与えて今度はポワティエを攻略せしめた。テウデベルトはシギベルト軍を大破し、その領域を無茶苦茶に荒しまわった。

 怒ったシギベルトはライン河東岸(つまり現ドイツ)の諸部族まで結集した大軍団を編成し、セーヌ川を挟んでキルペリク軍と睨み合った。ここでグントラムもシギベルト軍に合流したため、やむなくキルペリクは領地の一部を引き渡す条件で講和を取り付けたが、しかしこの時は戦いらしい戦いがなかったため、略奪めあてでシギベルト軍に従っていたライン河東岸の諸部族が怒りだし、帰りの道々、各地の町を略奪しつつ東へとひきあげていった。

 まずいことに、彼等の帰り道にはグントラムの領地も入っていた。自分の領地を荒されて怒ったグントラムはシギベルトと縁を切ってキルペリクと同盟した。これを見たシギベルトも再びライン河東岸の諸族を呼び集めてキルペリク・グントラム連合に対抗した。

 シギベルトはパリに本陣を構えてまずキルペリクの子テウデベルトを討ち取り、それを見たグントラムがまたも寝返ってシギベルトと手をつないだ。教会がシギベルトとキルペリクの仲を取り持とうとしたが、キルペリクを姉ガルスヴィントの仇と狙うブルンヒルド(シギベルトの妃)によって潰された。

 こうしてトゥールネの城に追いつめられたキルペリクはもはやこれまでと諦めかけていたが、その妃フレデグンドはしぶとく反撃の機会をうかがい、刺客を放ってシギベルトを暗殺しようと企んだ。

 そして2人の刺客、ハレギゼルスとシギラは毒を塗った短剣「スクラマサックス」を手にトゥールネ城を抜け出し、たまたま宴会を開いていたシギベルトを見事刺し殺したのである。

   

   ブルンヒルドとメロヴィク

 もちろん刺客はその場で八つ裂きにされたものの、それまでトゥールネの城で死を待っていたキルペリクの勢力が一気に盛りかえし、大軍を率いてパリへと進撃した。この時パリにいたブルンヒルド(シギベルトの妃)は亡夫の領地に無事に帰りつく自信がなく、とりあえず息子キルデベルトのみを領地に落すことにした。こうして唯1人の下僕に守られた5歳のキルデベルトは亡父の領地メッツへと帰りつき、現地の貴族や司教たちによって「アウストラシア王キルデベルト2世」として推戴された。

 パリに残ったブルンヒルドの方はそのままキルペリクに捕われてしまったが……しかし彼女はまだ28歳、容色決して衰えず、その高貴の血筋と深い教養でもって、たちまちキルペリクの息子メロヴィクを虜にしてしまった。そしてある時アウストラシアとの戦いに出陣したメロヴィクは、こともあろうに自分の軍勢をほったらかしにして幽閉中のブルンヒルドに会いに行き、そのまま結婚してしまったのである。

 当然キルペリクは怒り狂ったが、息子の決意をどうしても覆すことが出来なかった。が、ちょうどその時ブルンヒルドの息子キルデベルト2世を奉じるアウストラシアから使者が訪れ、ブルンヒルドの身柄引き渡しを要求してきた。

 これを幸い、キルペリクは厄介払いとばかりにブルンヒルドの帰国を許し、ブルンヒルドも大喜びでアウストラシアへと帰っていった。一方メロヴィクはブルンヒルドに出ていかれ、怒りもさめやらぬ父王からは王族としての特権を全て奪われた上に無理矢理出家させられた。

 しかしメロヴィクは父の監視の目を逃れ、トゥールのサン・マルタン修道院に引き蘢ってしまった。キルペリクの後妻、つまりメロヴィクの継母にあたるフレデグンドは何としてもメロヴィクを亡き者にしようとしたが、キルペリクの方は、メロヴィクがブルンヒルドと手を組んで自分に刃向かってくる可能性の方を恐れて手をだしかねた。

 しかし、実はブルンヒルドの方も身動きのとれない状況であった。彼女の帰国は、幼王キルデベルト2世を担いで好き放題しようと考えていた一部の貴族たちとの軋轢を生み、ブルンヒルドがもしメロヴィクを迎え入れればそれだけ彼女の勢力が増大するとあっては、貴族たちはメロヴィクとの連合には絶対反対であった。

 という訳でメロヴィクは継母フレデグンドの刺客に追われ、ブルンヒルドを頼ることも出来ず、あちこちさまよった挙げ句に結局刺客の手にかかって果てた。その際にはメロヴィクの従者たちも、ある者は車裂きの刑に処せられ、ある者は生きたまま両手両足鼻耳を切断されたのだった。

 584年、キルペリクが亡くなり、妻のフレデグンドと子のクロタール2世の勢力は縮小した。かわってクロタール1世の息子たち(カリベルト・シギベルト・グントラム・キルペリク)の中で唯一存命のグントラムが勢いづく。ただし彼は子供がいなかったので甥のキルデベルト2世(ブルンヒルドの息子)を養子とした。592年にグントラムが亡くなり跡継ぎのキルデベルト2世が勢いづくかと思われたが彼は20歳で亡くなり、その所領は彼の2人の王子テウデベルト2世とテウデリク2世によって分割された。もちろん彼等は幼児なので、祖母のブルンヒルドが摂政として実権を握ることになる。

 ブルンヒルドはローマ帝国式の中央集権政治を導入しようとしたことから国内の貴族たちの反発を招いてしまい、彼女の王国は以後12年に渡る内乱へと突入した。彼女の孫である2人の国王も相争い、1人は殺され、もう1人も死没する。

 そこに、ブルンヒルドの義理の甥にあたるクロタール2世(キルペリクとフレデグンドの子)が攻め込んできた。もはや年老いたブルンヒルドはなんとか迎え撃とうとするがエーヌ河畔の戦いに敗北し、あえなく捕われの身となる。クロタール2世は自分の母フレデグンドと争ったブルンヒルドを散々に罵り晒しものにし、手足を縛って馬の尾につないで引き回して惨殺し、死体を焼き払ってその灰を野にまいてしまったという。

   

   ピピンの登場

 クロタール2世は628年に亡くなり、その遺領は2人の息子によって分割された。しかしすぐに長男ダゴベルトが弟を殺して全ガリア(現フランス)を統一し、メロヴィング朝フランク王国は彼ダゴベルト1世の時代に全盛期を迎えるにいたる。南方ではバスク人の侵入を阻止し、西方ではブルトン人を威圧、東方ではヴェンド人と交戦した。

 ところでダゴベルト1世は父の存命中に既にアウストラシア地域を治めていたが、この分王国では有力貴族の大ピピンなる人物が「宮宰」として権勢を固めつつあった。「宮宰」とは、もともとは内廷の差配職であり、世襲官職ですらなかったが、ピピンの勢力伸張に伴いやがてはフランク王国内部において行政・司法・軍事全般の実権を握るに至る。

 ダゴベルト1世の死後、王国は例によって例の如く長男クローヴィス2世(ネウストリア王)と次男シギベルト3世(アウストラシア王)によって分割された。このうちアウストラシアをおさめるシギベルト3世の宮宰として登場するのが先に名前の出た大ピピンの孫の中ピピンである。

 その頃、ネウストリアにおいてもエブロインなる人物が宮宰として権勢を振るっていた。エブロインは一旦はアウストラシアに攻め込んでランの戦い勝利をおさめるが、680年には中ピピンが放ったと思われる刺客によって暗殺された。687年には軍事的にも中ピピンの率いるアウストラシア軍がネウストリア軍を圧倒する。こうして中ピピンは全フランク王国の唯一の宮宰となり、その後はライン河東岸の諸族の征服、同地へのキリスト教の布教といった事業に尽力した。

 中ピピンの子がカール・マルテル(鉄槌)である。714年に亡くなった中ピピンの正妻の子はみな父よりも早くに死んでおり、とりあえずは6歳になる嫡孫が立てられて宮宰となったが、ネウストリアの貴族たちはこれに従わず、独自の宮宰を立てて反乱をー起こす有り様であった。中ピピンの庶子カールは父の死後、継母ブレクトルードに嫌われて投獄されていたのだが、反乱の渦にまぎれて脱出、軍勢を集めて717年ヴィンシーの戦いにてネウストリアの反乱軍を撃破、翌年にはパリに入城して北ガリアのほぼ全域を手中にした。719年には南ガリアのアキタニア公ウードの軍勢を破り、ライン河東岸の諸族をも制圧する。かくしてカールは全ガリアの支配権をその手におさめるに至ったのである。

       

   イスラム教徒の侵入

 話はかわってこちらは北アフリカ。中ピピンがガリアの制圧に努めていたちょうどその頃、中東からアフリカ北岸にかけての地域は新興イスラム教徒の勢力によって席椦されつつあった。イスラム軍が北アフリカにおける東ローマ帝国の拠点カーセージが攻め落としたのが698年、北西アフリカの原住民であるムーア人・ベルベル人等を完全に服属せしめたのが709年のことである。

 さてイベリア半島の西ゴート王国は、この地に落ち着いて既に200年、そろそろガタがきだす頃合である。最後の西ゴート王であるロデリックは名うての色好みであり、北アフリカ西北端において対イスラムの最前線を守るシウタ城主ジュリアンの娘フロリンダをみそめ、計略をめぐらして彼女を犯してしまった。

 激怒したジュリアンはイスラムの武将ムサに会見を求め、自らイスラム教徒によるイベリア半島遠征の先鋒をつとめるべきことを申し出た。

 かくして711年、ムサの部下タリクに率いられた5000のイスラム兵が初めてイベリア半島の地に姿を現した。タリクの上陸地点は「ジベル・アル・タリク(タリクの峯)」と呼ばれ、後世訛って「ジブラルタル」と呼ばれるのであるが……それはともかく、急を聞いた西ゴート王ロデリックは10万の兵を率いて南進し、ヘレスの野にてイスラム軍と対峙した。

 イスラム軍は後続部隊まであわせて1万2000、10万の大軍の前に苦戦を強いられた。ところが、先にイスラム軍に降っていたシウタ城主ジュリアンの計略が功を奏し、西ゴート軍の一部が寝返りをうったことから戦いは一転イスラム軍の勝利に終った。西ゴート王ロデリックは逃走中に行方不明、さらに上陸してきた新手のイスラム軍により、イベリア半島は以後数百年に渡ってイスラム教徒の支配下に置かれることとなったのである。

     

   トゥール・ポワティエの戦い

 そして718年、イベリアのイスラム教徒はついにピレネー山脈(現在でもスペインとフランスの国境)を越え、5万の兵をもって南部ガリアの要地ツールーズを包囲した。この時はボルドーからツールーズ側の援軍に駆けつけてきたアキタニア公ウードの奮戦もあって戦いはイスラム軍の敗北に終ったが、それでもイスラム軍の別働隊は一時はロアール川に達しリヨンやベサンソンの町を占領した。

 730年、イスラム軍が再び北上を開始し、今度はアキタニア公ウードの軍を破ってボルドーを占領した。逃れたウードはカールを頼り、アブディル・ラーマン率いるイスラム軍はポワティエに、カール率いるフランク軍はトゥールにそれぞれ布陣して相手の出方を見ることにした。

 対陣8日目、イスラム軍が攻撃を開始した。フランク軍は密集陣を組んでイスラム軍の騎兵突撃をよくしのいだ。カールは一隊を放ってイスラム軍の後ろを突き、そこが乱れたところで全軍に前進を命じて、激戦数時間の末にようやく優勢に立つことが出来た。その晩、イスラム軍は山のような略奪品を残して南方へと退却した。イスラム軍の戦死者35万とはいくらなんでも大袈裟だが、しかし大将アブドィル・ラーマンは戦死、この「トゥール・ポワティエ」において西欧キリスト教社会を救った(これも大袈裟な表現)カールは「カール・マルテル(鉄槌)」の名で称えられることとなったのである。

   

   カロリング朝の開幕

 741年、カール・マルテルが52歳で亡くなった。メロヴィング家のキルペリク3世のもと、カールの長男カールマンがアウストラシアの、次男小ピピンがネウストリアの宮宰となってフランク王国を治めることとなった。カールの死をみたライン東岸の諸族、アキタニア公ウードの子ハナルド、カールの庶子グリフォ等が叛旗を翻したが、カールマンと小ピピンはカールの死後6年を費やしてこれらの反乱を鎮圧した。

 ところが兄カールマンは突如世をはかなんで出家し、弟の小ピピンが全フランク単独の宮宰として君臨するに至る。もはや名ばかりの存在となったメロヴィング家の国王キルデリク3世を追い出すのは時間の問題である。

 小ピピン、ローマ教皇ザカリアスに使者を送って訊ねて曰く、「王の名ありて実なき者と実ありて名なき者と、いずれ真の王たるべき?」もちろん答えは「よろしく王の実権ある者に王の名をあたふべし」。フランク全土の有力諸侯・聖職者を結集した「ソワソン会議」においてもこれに反対する者は1人もなく、かくして751年3月、ついに王位に登った小ピピンが新王朝カロリング朝を開くこととなるのである。ちなみに廃絶となったメロヴィング朝の最後の国王キルデリク3世は出家のうえ聖シシュー修道院に幽閉の身となり、カロリング朝は小ピピンの子カール大帝(シャルルマーニュ)の代に至って全盛期を迎えるのである。

                            

おわり。

   

   参考文献

『通俗世界全史6・7』 中島孤島編述・坪内逍遥監修 早稲田大学出版

『新版フランス史』 井上幸治編 山川出版社 1968年

『蛮族の侵入』 ピエール・リシェ著 久野浩訳 白水社文庫クセジュ 1974年

『メロヴィング王朝史話 上下』 オーギュスタン・ティエリ著 岩波書店 1992年

『世界歴史大系フランス史1』 柴田三千雄他編 山川出版社 1995年

『クローヴィス』 ルネ・ミュソ・グラール著 加納修訳 文庫クセジュ 2000年

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