モロッコの歴史 前編その3

   マリーン朝   目次に戻る

 ムワッヒド朝の領土はアルジェリアの「ザイヤーン朝」、チュニジアの「ハフス朝」、アンダルスの「ナスル朝」、そしてモロッコの「マリーン朝」によって分割された。マリーン族はもともとアルジェリアに住んでいたがアラブ系遊牧民に押されてモロッコ東部に移り住んできたという人々で、軽い武器を用いた機動的な騎馬戦術に長け、ムラービト・ムワッヒドと違って特別に宗教的なイデオロギーに訴えることはなかった(信仰がなかった訳ではありません)。それから彼らは自身はベルベル系であったがアラブ人を優遇する政策をとり、そのせいでモロッコに住むベルベル人のアラブ化が急速に進展した。現在のモロッコにおいてはベルベル人よりアラブ人の方が数が多いが、これが確定したのがこの頃であったようである。

 1299年、マリーン軍はザイヤーン領へと侵攻し、その町の大半を占領した。敵の首都トレムサーンだけは8年間包囲しても落とせなかったのだが、結果的にザイヤーン朝もその東のハフス朝も服属を申し出てきた。しかしアンダルスに対しては、現地のナスル朝がその時その時の状況でキリスト教諸国と敵対したり和睦したりしたため、あまり勢力を伸ばせなかった。というより、マリーン朝自身さほどアンダルスに野心を持たず、しばしばナスル朝と同盟してキリスト教徒との戦いに出陣する(ナスル朝とキリスト教諸国が同盟してマリーン朝に戦いを挑んでくることもあった)ことはあっても、それは勢力拡大のためというより国内の諸勢力(マリーン朝の宗教色が薄いことに不満を持つ人が多かった)を「ジハード」のお題目で結束させることが目的であったとされている。

 文化面はなかなか盛況であった。1304年にモロッコのタンジールに生まれた大旅行家イブン・バットゥータは世界中をまわった後にマリーン朝の首都フェズで『都会の珍奇さと旅路の異聞に興味を持つ人々への賜物』、通称『三大陸周遊記』を執筆し、政治家にして学者のイブン・ハルドゥーンはマリーン朝の宮廷に仕えつつ『歴史序説』を執筆した。アンダルスのナスル朝がイスラム文化の芸術的頂点とされる「アル・ハンブラ宮殿」を築いていたのもこの頃である。しかし、同時期のヨーロッパが人口の激増期であったのに対してモロッコのそれは減少する一方であり、これを観察したイブン・ハルドゥーンは「これが文明の衰退と滅亡の決定的要因のひとつ」であると分析した。理由がはっきりしない(とりあえずペストの流行があったが、それだけではないらしい)のだが、人口が多かった時期の3分の1ほどまで減ってしまったとされている。経済的には、サハラ以北と以南をつなぐ交易路が東方(エジプトから南西に向かうルート)に移ってしまい、モロッコ経済はかなりの打撃を受けた。

   セウタ失陥   目次に戻る

 イベリア半島では、去る1230年にカスティーリアとレオンが再び統合され、単一の「カスティーリア王国」となった。アラゴンは12世紀第4四半期から13世紀初頭にかけてレコンキスタを中断してフランス方面に進出しようとしたが失敗したため、矛先を転じてレコンキスタを再開した。まず1229年に地中海のマジョルカ島を占領、ついで1238年にバレンシアを占領した。しかしアラゴンはそこからイタリア方面への進出をはかるようになり(82年にシチリア島を、92年にサルディニア島を占領)、レコンキスタには熱意を示さなくなった。ちなみにアラゴン軍の主力は「アルモガバルス」と呼ばれる傭兵隊で、これはマリーン朝にも雇われていた。

 ナバーラはイベリア半島の北端に位置していたためこの頃にはレコンキスタと関係なくなっており(イスラム勢力と国境を接しなくなっていた)、従ってレコンキスタの先頭に立つのはポルトガルとカスティーリアということになる。カスティーリア軍は1236年にコルドバを、43年にムルシアを、44年にハエンを占領するが、しかし領土を増やせば増やすほどそこに住むイスラム教徒をどう扱うかが問題になる。果たして64年にはイスラム教徒の反乱が起こり、これの鎮圧には成功した(註1)もののレコンキスタにはしばらくブレーキをかけざるを得なくなった。ポルトガルは1249年にファロを占領した時点でイスラム勢力と国境を接しなくなった。しかし、この数十年間に急速に進んだレコンキスタのおかげで、地中海と大西洋を連結する航路が開設されるに至る。

註1 ここでイスラム教徒(優れた農業・灌漑技術を持っていた)多数を追放したが、そのせいで経済的なしこりが残った。


 時代が進んで1325年、カスティーリア国王としてアルフォンソ11世が即位、レコンキスタに本腰を入れ直した。ナスル朝はマリーン朝に応援を頼み、これに応えたマリーン朝は「アッラーのための聖戦に起て。海峡の彼方の兄弟たちを救え」と援軍を送り込んできたが、40年に起こった「サラードの戦い」はナスル・マリーン連合軍の敗退に終わった。これ以降のマリーン朝は衰退期に入り、アンダルスに大軍を送ることは二度となくなってしまうのであるが、カスティーリアの方もその後はペストの流行と王位継承問題でゴタゴタし、さらにアラゴンと対立したことで身動きがとれなくなった。一息ついたナスル朝はアル・ハンブラ宮殿の増改築に力を入れ、有名な「裁きの門」や「ライオンの中庭」を建設した。まぁ文化の爛熟期というのはえてして政治的には衰退期なのだが、キリスト教諸国はそれから100年以上の間、ナスル朝に対して本気で攻勢を仕掛けようとはしなくなる。ヨーロッパ全域は14世紀の中頃からペストの大流行に見舞われ、人口が激減した。

 ところが1415年、ポルトガル軍がナスル朝を飛び越えてモロッコ本土に上陸、その北端に近いセウタを占領した。このセウタの経営をポルトガル王ジョアン1世から任されたのがかの有名な「航海王子」エンリケである。セウタ占領は、それから数百年に渡って続くヨーロッパ諸国の世界侵略の第一歩であったとされている。少し詳しく書くと、ポルトガルは14世紀の後半からカスティーリアと争っていたのだが、これは1411年に結ばれた講和条約によって終結したため騎士たちの闘志を持て余しており、そのはけ口としてエンリケの進言に基づきセウタ攻略を決めたのだという。エンリケの父のジョアン1世国王は大規模な馬上試合の開催で騎士たちの闘志を発散させるつもりでいたのだが、エンリケの「馬上試合など、金が出て行く一方ではないか(しかしセウタをとれば金が入ってくる)」という説得に負けたといわれている。

 まぁそういう伝説はともかくとして、13世紀半ばに開設された地中海と大西洋をつなぐ航路はポルトガル首都リスボンを経由地として北海にまで連結するようになっていたから、セウタの占領によって、さらにモロッコ〜サハラ以南の交易路とも連結したいとも考えられた。しかもセウタはジブラルタル海峡に面する港湾であり、つまりモロッコの地中海沿岸部と大西洋沿岸部を結びつける要衝中の要衝である。それにポルトガルは14世紀のペストの大流行で人口(労働力)が激減したせいで騎士たちも経済的に困窮し、特に親の遺産もろくに貰えない次男や三男が海外への雄飛を熱望していたのである。

 その頃のマリーン朝は建国以来百数十年が過ぎ、無能な君主が続いて国内各地に反乱が相次ぎ、ポルトガルの攻勢に対してうまく反撃出来なかった。先に服属させていたザイヤーン朝もハフス朝も独立を回復し、宗教界ではシャリーフ(予言者ムハンマドの子孫)崇拝が高まってきた。これは具体的には昔のイドリース朝の末裔を担ぐ運動であり、異教徒ポルトガルの攻勢に対処出来ないマリーン朝に対する民衆の不満を背景としていた。かくして1465年、イドリース派に率いられた首都フェズの民衆がマリーン朝最後の君主アブド・アル・ハックを捕え、斬首刑に処したのであった。

   ワッタース朝   目次に戻る

 しかし旧イドリース系の政権は6年しか続かなかった。71年にはマリーン族に連なるワッタース家が政権を握り「ワッタース朝」を建国した。ここでいきなり話がそれるが、当時はいわゆる「大航海時代」の序盤で、その先頭を突き進むポルトガル艦隊は去る1418年にマデイラ島に、27年にアゾレス諸島に到達、34年にはアフリカ大陸西岸北緯26度のボジャドール岬の南へと進出していた。アフリカ西岸のそのあたりは常に北風が吹いていることから帆船では南下は出来ても北上は出来ず、特にボジャドール岬より南に入った船は絶対に帰ってこられないと信じられていた。モロッコとサハラ以南の交易が常に砂漠越えのルートで行われていたのはそのせいなのだが、1430年頃には造船・航海術が進歩して逆風でも進むことが可能となったのである。

 1469年、カスティーリア女王イザベラとアラゴン国王フェルナンドが結婚して「スペイン」の原型(註2)が出来上がり、この夫婦が長いこと中断していたレコンキスタを再開した(それまでにも小競り合いぐらいはあった)。ナスル朝はもはや面積3万平方キロに人口30万程度の弱小国にすぎず、食料の自給も出来なくなっていた。そして1492年、スペイン軍がナスル朝の首都グラナダ市に入城、711年から800年近く続いたイスラム教徒によるアンダルス支配をここに閉幕させたのであった。ちなみにイベリア半島のキリスト教国はこの時点ではスペイン・ポルトガル・ナバーラの3ヶ国があったのだが、そのうちのナバーラ王国は(昔はイベリア北部の覇者だった時代もあるのだが)この頃はすっかり衰えており(スペイン・ポルトガルの発展から取り残されており)、1512年にスペインに併合されることになる。

註2 イザベラとフェルナンドはあわせて「カトリック両王」と呼ばれていた。「スペイン王」という呼称は彼等の次の代からのもの。


 ナスル朝の滅亡により、その最後の君主アブー・アブドゥッラーをはじめとするアンダルスのイスラム教徒が大量にワッタース朝支配下のモロッコに亡命してきた(註3)。ワッタース朝はこれを助けてイベリア半島に反攻に出るかというとそうでもなく、むしろポルトガル海軍にモロッコ各地の港湾を奪われる有り様である。その1つアガディールはジョアンノ・ロペス・デ・セケイラという釣り好きの騎士が「モロッコの南岸は魚が多い」という噂を聞いて、釣り仲間を集めて私的に征服したのだという(後にポルトガル王に売却)。


註3 スペインの支配下に落ちたイスラム教徒は最初は信仰の自由を認められていたが、16世紀に入るとキリスト教への改宗を強制された。さらにユダヤ人も改宗を命じられたため、その多くがモロッコへと亡命してきた。

 さらにスペインの海軍もモロッコに進出し、1497年にはメリリャを占領した。スペイン・ポルトガルの攻勢に対処する能力がないワッタース朝にかわって、各地に発生した「同胞団」と呼ばれる宗教的自治組織が個々にキリスト教徒に抗戦した(その中で最有力だったのが後述する「ベニ・サード族」を中心とする同胞団)。この辺の事情をもう少し詳しく説明すると……、同胞団というのは実はマリーン朝の末期からモロッコの各地に割拠しており(マリーン朝の最後の君主を殺したのも同胞団のひとつ)、ワッタース朝がそれらをしっかり統御出来ずにいた隙をスペイン・ポルトガルに狙われたのであった。

 東のザイヤーン朝もハフス朝も衰えていた。両国の沿岸部の各地にはアンダルスから逃れてきた集団が一種の独立共和国を建設し、海軍を組織してキリスト教諸国の船舶や港湾を攻撃した。このいわゆる「バルバリア海賊」がスペイン海軍に叩かれると、東地中海の大海賊「バルバロッサ兄弟」がバルバリア側の救援にやってくるという混乱状態が続く。そして結局、現在のアルジェリアからリビアに至る広大な地域はバルバロッサ兄弟を懐柔した中東のトルコ系イスラム国家「オスマン・トルコ帝国」(註4)によって征服されてしまうのである(16世紀の半ばから後半)。

註4 13世紀の末に現トルコ共和国の西部に建国された国。


 そのオスマン帝国は去る1453年に東ローマ帝国を滅ぼしてバルカン半島全域を席巻、1517年にはエジプトを征服し(註5)。ヨーロッパ・アジア・アフリカの3大陸にまたがる超大国として周囲のキリスト教国もイスラム国も震え上がらせる勢いを示していた。しかし、その手はモロッコまでは届かなかった。地理的に遠過ぎたのと、新たにモロッコの歴史に現れる「ベニ・サード族」が抵抗したからである。

註5 エジプトでは1171年にファーティマ朝が滅んでスンナ派の「アイユーブ朝」が立ち、さらに1250年に「マムルーク朝」が出来ていた。これが1517年に至ってオスマン帝国に滅ぼされたのである。それから、アッバース朝のカリフを保護していたセルジューク朝は12世紀には分裂・衰退し、カリフはその後も周辺諸国に位を与えたりすることで生きながらえていた(日本の戦国時代の足利将軍や天皇のような感じだが、それらよりは実権があったようである)が、1258年に中央アジアから遠征してきた「モンゴル帝国」によって滅ぼされた。その一族はマムルーク朝に保護されたのだが、これもオスマン帝国に拉致されて完全に潰え去ったのであった。


   サード朝   目次に戻る

 ベニ・サード族は本当か嘘かは知らないがシャリーフ(予言者ムハンマドの末裔)の家柄であり、その宗教的エネルギーを背景として16世紀の初頭から勢力を拡大した部族である。彼らは1541年にはポルトガルがモロッコに持っている拠点のひとつアガディールを、1548年にはサフイを奪取し、このようなキリスト教徒との戦いを通じて各地の同胞団の信望を集めた。ポルトガル海軍は去る1488年にアフリカ大陸南端の喜望峰に到達、98年にはインドに到達、1500年には南アメリカのブラジルにも到達し、アフリカ・アジア・アメリカの3つの大陸の各地に要塞や商館を建設して交易網を張り巡らしていたのだが、本国の人口が100〜150万ぐらいしかないのに調子に乗りすぎた無理が祟って経済的に行き詰まるようになっていた(註6)

註6 世界中に建設した要塞や商館、通商網を守るための艦隊の維持費が莫大なものであった上に、国王が海外貿易を独占したせいでお役所仕事になってしまい(商才の乏しい貴族を商館長に任命したりした)、その利益は貴族の贅沢や土地の購入にばかり浪費されて民間の産業が育たなかった。


 ベニ・サード族は1549年にワッタース朝の首都フェズを攻撃、占領するが、ワッターズ側はオスマン帝国の後援を得て反撃に転じてきた。しかしモロッコの一般大衆はオスマン帝国を非常に恐れていてワッタース朝の復権を歓迎せず、そのおかげでベニ・サード族は54年にはワッタースを完全に滅ぼすことに成功した。

 こうして成立するのが「サード朝」であるが、この王朝の権勢が強まるにつれて、それまでベニ・サード族を助けていた同胞団のうち複数が嫉妬を感じて離反するようになった。そこでサード朝は同胞団同士の抗争を焚き付け、共倒れに追い込むことに成功した。(といっても同胞団を消滅させた訳ではありません)

 その頃ポルトガルにかわって躍進していたのがスペインである。時間を遡って説明すると、ポルトガルがセウタを占領して世界進出の第一歩を記した1415年の時点ではスペインはまだカスティーリアとアラゴンに分かれていた訳だが、そのうちのカスティーリアは内紛に苦しみ、アラゴンはペストの流行で活気を無くしていた。ところがカスティーリアは15世紀の中頃には羊毛やオリープ油の生産が盛んになって景気が良くなり、政治的にも安定してきた。対してアラゴンはポルトガルやカスティーリアの経済攻勢に押されてさらに沈滞した。両国の君主が結婚したのが1469年、「レコンキスタ」を完了したのが1492年というのは既に述べた通りである。

 そんな具合に国内での経済活動やレコンキスタにかまけていて海外進出が遅れたスペインも、1492年にコロンブスの艦隊を送り出して西インド諸島に到達したのを皮切りに新大陸アメリカの植民地化に乗り出し、1518年にはメキシコのアステカ王国を、31年にはペルーのインカ帝国を滅ぼして莫大な金銀を入手した。地中海では71年に「レパントの海戦」でオスマン帝国艦隊を破っている。

   サハラ遠征   目次に戻る

 1576年、サード朝内部でスルタン位(註7)を巡る争いが発生した。第4代スルタンのムハンマド・アル・ムタワッキルが叔父のアブド・アル・マリクに位を奪われたのである。ムタワッキルはポルトガルに支援を要請し、これを受けたポルトガル国王ドン・セバスティアンは自ら1万7000の軍勢を率いてモロッコに渡ってきた。この国王はまだ24歳の若年、幼少期からイエズス会(註8)の強い影響下に育てられて「イスラム教徒征討十字軍」を夢想していた。アブド・アル・マリクもまた自ら軍勢を率いてこれを迎え撃つ。

註7 前にも説明したが「スルタン」とはアラブ語で「権威」「権力」を意味する語で、ヨーロッパ諸国でいう「国王」や「皇帝」に相当し、スンナ派を奉じる国の君主の称号として広く用いられた(オスマン帝国の君主もスルタンを名乗っている)。アッバース朝のカリフが生きていた頃は彼から任命してもらうという手続きを踏むことが多かった。

註8 1534年にイグナチオ・デ・ロヨラやフランシスコ・ザビエル等によって創設されたキリスト教修道会。教育活動や海外での宣教に活躍した。


 8月4日、両軍は「マハザン川の戦い」で激突した。戦いの序盤は数に優るアブド・アル・マリク軍の優勢、中盤には装備に優るポルトガル軍が攻勢に出るが、突っ込みすぎたところで側面から騎馬隊の攻撃を受けて、そのままポルトガル軍の敗北という形で決着がついた。

 ドン・セバスティアンもムタワッキルも戦死した。前者は未婚だったことからポルトガル王位は大叔父のドン・エンリケがとりあえず継承するが、彼にも子供がおらず、結局はドン・セバスティアンの叔母マリアの夫にあたるスペイン国王フェリペ2世がポルトガル国王を兼任することとなった。ポルトガルの海外領土(モロッコではセウタ・マザガン・タンジール・カサブランカ(註9))も全てスペイン領に組み込まれ、これでスペインは「太陽の没することなき大帝国」と呼ばれることとなる。ただ、「マハザン川の戦い」では実は勝者のアブド・アル・マリクも戦死していたのだが、その弟のアフメッドが名君でサード朝の全盛期を演出するに至る。

註9 当サイト管理人が知っているのはこの4つだけですが、他にご存知の方おられましたらご教示願います。


 アフメッドはモロッコ史において「マンスール(勝利者)」と呼ばれている。彼はスペインと友好関係を結びつつオスマン帝国に備えて各地の城塞を整え、1591年にはサハラの南の黒人国家「ソンガイ帝国(註10)」への遠征軍を派遣した。サハラの北と南をつなぐ交易路はマリーン朝時代に東方(エジプトを起点とするルート)に移ってしまったことは既に述べた通りだが、これがオスマン帝国に掌握されつつあったため、いっそのことサハラの南を直接押さえることで交易路を根こそぎ支配しようというのである。ソンガイ帝国は金や奴隷の輸出で栄えていたが、サード軍が持ってきた鉄砲や大砲を存在自体知らなかったので、あっという間に敗北した。

註10 11世紀にムラービト朝と戦った「ガーナ帝国」はやがて消滅し、その跡地には13世紀に「マリ帝国」、15世紀に「ソンガイ帝国」といった黒人帝国が相次いで成立していた。詳しくは当サイト内の「トンブクトゥ」を参照のこと。


 サード軍はソンガイ領のトンブクトゥやガオといった交易都市を占領し、これで交易路のみならず金の産地をも掌握したと思ったが、実際には金はもっと南の地域で産出されており、それらの都市は中継ぎをしていただけであった。期待外れとなったサード軍は占領地域の各都市に守備隊を残して撤収した。それらの都市からは毎年1トンの金がもたらされたが、守備隊はやがて本国から自立し、19世紀初頭に別の黒人国家に飲み込まれるまで存続した。それからソンガイ帝国のはるか東のチャド湖付近にあった「カネム・ボルヌ王国」もサード朝に臣従している。この国はソンガイよりもオスマン帝国の領域に近く、その侵略に脅かされていたのである。文化的には、それまでモロッコになかった「喫煙」の習慣がソンガイから持ち込まれるという効果を産んだ。煙草を吸うのはイスラム的に是か否かという論争がおこっている。

 さて、ソンガイ方面の守備隊が独立状態になったのは、本国から遠いこともさることながら、その本国で1603年マンスールが死んで後継者争いが起こったからでもある。その戦乱は数十年に渡って続いて王族たちが各地に自立し、アラブ遊牧民や山岳部のベルベル人もサード朝の統制を離れて勝手に動き出した。これまでサード朝を支持していた同胞団も、ポルトガル(キリスト教徒)の脅威が消えた以上はサード朝に頭を下げ続けるいわれはないと考えた。もはや群雄割拠の戦国時代である。そもそもサード朝の政府は一ヶ所に定住しておらず、定期的に軍隊を引き連れて支配下の諸地域をまわってはその軍隊を養うための徴税を行うというシステムを用いており、つまりそうやって力を見せつけなければ徴税出来なかった訳で、これは同時期のオスマン帝国やヨーロッパ諸国の整備された中央集権的官僚制と比べれば時代遅れなものであった。

   国際経済の変化   目次に戻る

 ところで、「マハザン川の戦い」のあとスペインの統治下に組み込まれたポルトガルは、経済的にかなり復調していた。スペイン国王フェリペ2世はポルトガルの従来の法律や慣習を尊重してくれたし、両国間の関税が廃止されたおかげもあってポルトガル人の商人は従来のスペイン植民地に進出して成功し、ポルトガル王家が断絶したことはかえって浪費の抑制に繋がっていた。ところがスペインは1588年にイギリスと戦って破れ(註11)、さらに1618年からドイツ方面で始った「三十年戦争」に介入して莫大な戦費を浪費したこと(註12)や、アメリカの植民地からもたらされていた金銀が枯渇してきたことによって危機的な財政難に陥った。そんな訳で増税を求められたポルトガルは1640年をもってスペインに反旗を翻し、独立を回復した。

註11 詳しくは当サイト内の「北米イギリス植民地帝国史」を参照のこと。

註12 詳しくは当サイト内の「三十年戦争」を参照のこと。


 その時、もともとポルトガルが持っていた海外領土も当然一緒にスペインの支配を離れたのだが、モロッコのセウタだけはこれに従わずにスペインに忠誠を誓うことにした。このセウタと、1497年にスペイン軍が占領していたメリリャが後の「スペイン領モロッコ」の起点となり、この2つは21世紀の今現在もスペイン領に留まっている。(17世紀現在のスペインはセウタ・メリリャ以外にもいくつか小さな拠点をモロッコに有していた)

 アフリカ大陸の東岸やアジアの各地にあったポルトガルの城塞や商館の多くは、もうどうやっても維持出来なくなっていた。経費がかかりすぎたうえに、地元の勢力の攻撃に曝されたからである。東アフリカではアラビア半島から南下してきた「オマーン」の海軍に圧倒され(註13)、日本の長崎に置いていた商館は徳川幕府の鎖国政策によって閉鎖の憂き目を見た。しかし、それらと比べればポルトガル本国の近くに位置するブラジルの商館は活況を呈していた。ポルトガル人がブラジルに進出したのは1500年のことで、その時点ではめぼしい産品がなかったことからあまり注目されなかったのだが、16世紀中頃から始ったサトウキビの栽培が大当たりして莫大な利益を生み出したのである。

註13 詳しくは当サイト内の「オマーン・ザンジバルの歴史」を参照のこと。


 そんな訳でポルトガルからブラジルへの移民が急増したが、その儲けを奪取しようとオランダが攻撃をかけてきた。ポルトガルはオランダに対する防戦にくわえてスペインにも備えなければならなかったため、イギリスと同盟することにした。このおかげでオランダとの戦いには勝利したが、1661年にポルトガル王女カタリーナとイギリス国王チャールズ2世が結婚することになり、その際に御祝儀という形でモロッコのポルトガル領タンジールをイギリスにとられてしまった。さらに、ポルトガル領で活動するイギリス商人に(同盟していただいた代償として)様々な特権を認めなければならなくなったため、やがてポルトガルはイギリスの属国のような立場へと転落していくことになる。ちなみにスペインは前述の「三十年戦争」の損害やポルトガルの分離、さらに1635年から59年にかけてフランスと戦って敗れた(註14)ことにより、すっかり落ち目になっていた。かわってフランスが躍進するのだがその辺の詳しい話は本稿では省略する。

註14 詳しくは当サイト内の「フロンドの乱」を参照のこと。


 ところでブラジルのサトウキビ農園では大量の労働力を必要としていたが、原住民(インディオ)は農園労働に不向きであったため、「黒人奴隷」の導入がはかられた。奴隷は主に西アフリカの、現在の地名でいうところのトーゴ、ベニン、ナイジェリア、それから中部アフリカのアンゴラといったあたりから船で連れてこられた。「黒人奴隷」というとなんとなく鉄砲を持った白人たちが黒人の村を襲って村人たちを連行してくるようなイメージがあるが、実際には黒人部族に対価(綿布や鉄砲やアルコール)を払って購入するという手続きを踏んでいた。奴隷として売り飛ばされるのは部族間の戦争で捕虜となった者や犯罪者が多かったが、奴隷の需要が高まるにつれて、奴隷を入手するために近所の部族に戦争をしかける部族も現れた。そういう形で強大な国家へと進化したのが「ベニン王国」や「ダホメー王国」といった諸国である。

 で、この地域の黒人たちの経済は、もともとはソンガイ帝国のようなサハラ砂漠の南縁に位置する帝国を経由してモロッコと連結していたのだが、奴隷貿易の儲けに目を奪われた黒人諸国はサハラ経由の交易を縮小していった。サード朝が怒ってなんとかしようと思っても、黒人諸国は奴隷貿易で鉄砲を手に入れているから(17世紀以降の内紛で弱体化してきたサード朝の力では)迂闊に手が出せないという有り様である。

   サレの海賊その1   目次に戻る

 サード朝が衰えている、とはいっても、それは中央政府の話であり、地方勢力には意気軒昂なものがあった。特に活躍したのは大西洋沿岸のサレを拠点とする海賊集団である。モロッコやアルジェリアにはナスル朝滅亡後のアンダルスから大勢のイスラム教徒が亡命してきたこと、アンダルスに残ったイスラム教徒は16世紀に入るとキリスト教への改宗を強要されたことは既に述べた通りだが、さらに17世紀になると改宗した者(「モリスコ」と呼ばれ、隠れイスラム教徒が多かった)までが追放されることになった。そして、30万人にも及んだ追放者の一部がサレに住み着いて海賊化、「ブー・ラカラーク共和国」を名乗って恨み重なるスペインへの報復を開始したのであった。

 海賊たちはスペインのみならず、ポルトガル・フランス・イギリス・アイルランド・アイスランドの港湾や漁村、さらにはアメリカの近海を航行する船舶まで片っ端から襲撃してまわった。獲物はいくらでもあった。上述のような国際経済の変化に伴ってキリスト教諸国と黒人諸国とアメリカの間を行き来する(いわゆる「三角貿易」に従事する)交易船の数が年々増加していたから、それを襲えばいいのである。この時代のキリスト教諸国の海軍力はまだそれほど強力なものではなかった(註15)ためサレの海賊に対して全く手の打ちようがなく、たとえばイギリスは1609年から16年までの間に466隻の船舶を拿捕され、25年の夏にはイギリス南部が集中的に襲われて1000隻の船が破壊されるという大被害を被った。海賊たちは襲撃の際に相手の船の乗組員を拉致し(港湾に上陸してそこの住民を拉致することも多かった)、身代金をとるか奴隷として売りさばくかして大儲けした。

註15 キリスト教諸国がいわゆる大航海時代に全世界に進出出来たのは、侵略する地域の内紛を巧みに利用したり、相手が存在そのものを知らなかった鉄砲を使ったりしたからであり、サレの海賊集団のようなある程度以上の戦備を持つ勢力には苦戦を強いられることが多かった。


 37年にはイギリス艦隊がサレを攻撃、たまたま分裂していた海賊たちの1派と組んでもう1派を壊滅させた。が、数ヶ月後にはイギリス船舶への海賊活動が再開された。スペインでは沿岸部の全地域が海賊の脅威にさらされたため大増税で防備を固めたが、あまり効果がなかった。

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