モロッコの歴史 後編その5

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 さて、フランス領モロッコにおいては道路・港湾・鉄道・学校・病院の建設が推進され、アラブ人とベルベル人を分離して統治するといった政策が行われた。フランス人の入植も行われ、その数は最終的には10万ほどに達した。21年にはフェズからラバトに遷都になった。現在(21世紀)のモロッコ王国もラバトを首都としている(ただし最大の都市はカサブランカ)。第一次世界大戦の際には大勢のアラブ人・ベルベル人がフランス軍の一員としてヨーロッパ戦線へと出征し、フランス本国での労働力不足を補うための徴用も行われた。

 1927年、18歳の青年シディ・ムハンマド・ブン・ユースフが新しいスルタンとなった。通常彼のことを「ムハンマド5世」と呼んでいる。彼は30年、フランスの強要により「ベルベル勅令」を発布させられた。これはアラブ人とベルベル人の徹底的な分離を目指すもので、ベルベル人は重点的にフランス語を教え込まれ、イスラム法による裁判を廃止されたうえにキリスト教への改宗を奨励された。つまりフランスはベルベル人を「優遇」することによってアラブ人との仲を裂くつもりでいたのだが、ベルベル人の側はこの政策を「民族固有の文化の否定」と受け取り、アラブ人と一緒に反対運動を展開した。本稿ではこの辺でベルベル人とアラブ人の区別をやめ、両者をあわせて「モロッコ人」と表記することにする。

 モロッコ人たちは33年に「国民行動連合」を組織し、フランス政府との話し合いによって政治的権利を拡大しようとした。彼らはフランス本国の社会党と連携しようとしたが、社会党側は国民行動連合の中枢が富裕層であったことを嫌って(社会党は労働者の味方)この話にのってこなかった。国民行動連合は37年には分裂、フランス当局の弾圧によって勢力を失った。

 スペインは31年に王制から共和制に移行し、その後成立した左翼系の政権がモロッコ人の権利擁護に理解を示していた。そして36年7月に右派のフランコ将軍が反乱を起こして「スペイン戦争」が始る訳なのだが、モロッコ人たちは政府側に加担することで独立を回復しようとした。しかし政府側は、もしここでスペイン領モロッコの独立を認めてしまうとフランスが怒るのではないかと考えてモロッコ人からの共闘の申し出を断った。対してフランコ軍はモロッコ人の権利拡大を約束したため、モロッコ人たちはフランコ軍の一員としてこの戦争を戦ったのであった。

 39年に始る「第二次世界大戦」に際してはスペインは中立を維持、フランス本国はドイツ軍の前に敗退した。フランスの海外植民地は本国に成立したドイツの傀儡政権「ヴィシー政府」に従う派と対独徹底抗戦を唱えるド・ゴール准将がイギリスで結成した「自由フランス」に従う派に分裂した。モロッコは前者である(註1)。ドイツはヴィシー政府を通じてモロッコに住むユダヤ人を迫害しようとしたが、これはムハンマド5世によって拒絶された。

註1 詳しくは当サイト内の「ド・ゴール伝」を参照のこと。


 42年11月、モロッコとアルジェリア(これもヴィシー派)に米英軍が上陸、現地のフランス植民地軍はこれに短期間抵抗したのみで休戦した。それどころか、思い切って本国のヴィシー政府と袂を別ち、以後は米英軍に加担してドイツと戦うことにした。このような動きの中にフランスの植民地支配の弱体化を見てとったムハンマド5世は43年6月、アメリカ大統領ルーズベルトと会見してモロッコ独立への支援を要請……この時はよい返事を貰えなかったが、現在のモロッコは北アフリカで一番の親米国である……し、同年末には国民行動連合の流れを組む独立運動組織「イスティクラール(独立)党」が結成された。それから、国際管理地域のタンジールにはスペイン軍が進駐していたが、大戦終結にともなって撤収した。

   独立の回復   目次に戻る

 大戦終結後の47年、ムハンマド5世は公然と「フランス無視」を呼びかけた。イスティクラール党も独立運動を活発化し、国際連合に働きかけたりした。これに対しフランス政府はモロッコ人にもフランス人入植者にも参政権を与え、その上で後者を優遇するという構想を持ち出した。しかしこんな半端な改革にモロッコ人が満足する筈がなく、フランス人入植者もモロッコ人の権利拡大を嫌って反対した。フランス当局は52年にイスティクラール党の幹部多数を逮捕、ムハンマド5世を退位に追いやってその息子ムーラーイ・アラファを擁立した。

 しかしムハンマドを追放したことはかえってその人気を高める結果を生んだ。フランス商品ボイコットや街頭デモが頻発し、山岳地帯ではゲリラ戦まで発生した。反フランス運動の有力な拠点となったのは国際管理地タンジールで、ここは各国の利害が入り乱れていた関係で行政・司法のシステムが煩雑だった(抜け穴だらけだった)ことから非合法活動の拠点として最適であった。

 54年11月には隣のフランス植民地アルジェリアで大規模な反乱が起こったことからフランス政府はムハンマド5世の復位を認め、近日中の独立を約束した。アルジェリアにはフランス人の入植者が100万もいたためそう簡単に現地民(アラブ人とベルベル人)の独立を認めることは出来なかった(註2)が、モロッコでは入植者が比較的に少ないことから思い切った譲歩が可能だったのである。それにフランスとしては実のところ、経済面の権益さえ守ることが出来るなら独立ぐらいどうという問題ではなかった。フランスは現在(21世紀)でもモロッコの最大の貿易相手国であり、経済・技術協力や人的交流において緊密な関係を維持している。

註2 詳しくは当サイト内の「ド・ゴール伝」を参照のこと。


 そして56年3月2日の独立協定調印。モロッコは44年ぶりに主権を回復した。同年4月7日にはスペイン領の主権も独立モロッコのものとなり、タンジールも同年10月をもって返還された。ただし西サハラとモロッコ南部大西洋岸のイフニ、地中海岸のセウタとメリリャについてはスペイン領として残された。このうちの西サハラとイフニについては……詳しくは別稿をお読みいただくとして……結局スペインの手を離れ、セウタとメリリャ、あと小島いくつかだけが今現在もスペイン領となっている。(セウタとメリリャは「歴史的にスペイン固有の領土」とされている)

   独立後   目次に戻る

 独立達成後、フランス人入植者は引き続き残留したが、フランス・スペインの駐留軍は61年には撤収した。「スルタン」は「国王」に改称され、イスティクラール党のアフマッド・バラフレジが首相となった。この党は都市部の資産家やイスラム的な知識人を主体としていたが、独立達成の前後から労働者階級を主体とする左派の台頭が著しくなり、59年には左派は「人民諸勢力全国同盟」を名乗ってイスティクラール党から分裂した。しかしこの2つの党はどちらもそれほどの勢力ではなく、国王が政界において強い影響力を持ち続けることとなった(地方の地主層が国王を支持した)。

 国王ムハンマド5世は61年に亡くなり、皇太子のハッサン2世が即位した。彼は62年、自ら憲法を制定したが、そこに記された国王の権限はアメリカの大統領なみに強大なものであった。人民諸勢力全国同盟や、その頃エジプトにいた元リーフ共和国大統領アブドゥル・クリムがこの憲法を批判した。ハッサンは軍と警察を杖とする独裁政治を行い、人民諸勢力全国同盟のみならずイスティクラール党をも弾圧しつつ人気取りの土地改革や汚職追放を唱えたが中途半端となった。

 65年には反国王デモが起こり、国王は戒厳令・憲法停止に訴えた。しかしその時点では反国王派が結束していなかったことから特にハッサン2世の権力が揺らぐことはなく、70年には新憲法を制定、続く総選挙でも主要政党がボイコットしたのに助けられて国王派が多数をとった。

 71年7月10日午後2時、近衛師団司令官モハメド・メドブー将軍と士官学校校長アバブー大佐に指揮された士官候補生1400名が反乱を起こし、首都ラバトから26キロ離れたスキラト宮殿で開催されていたハッサン2世の誕生パーティーを襲撃した。反乱軍はハッサン2世と皇太子、軍の要人多数の捕縛に成功し、さらに別働隊がラバトの要所を制圧した。メドブー将軍はハッサン2世に退位を要求したが拒絶された。本来ならそこで(ハッサン2世を)殺すべきだったのだが、メドブーは何故かアバブー大佐に後事に託してラバトに向かった。アバブー大佐はメドブーに裏切られたのではないのかとの疑心暗鬼に陥り、部下たちにハッサン2世を殺せと命じて自身もラバトに向かった。反乱軍の士官候補生たちは宮殿突入の際に「国王を謀反人から救うのだ」と虚偽の説明をされていたため、どうすればいいのか分からなくなった。

 ハッサン2世は速やかに外部との連絡を回復し、内相ウフキル将軍に命じてラバトの反乱軍別働隊を包囲させた。別働隊は反乱を始めてから数時間後には志気を喪失して解散し始めた。結局、メドブー将軍はアバブー大佐によって射殺され、アバブーも撃ち殺されるという結末でこの日の反乱騒ぎは終結したのであった。とはいえこの事件に衝撃を受けたハッサン2世は憲法を改正して若干の民主化に着手した。

 ところが翌72年8月16日、今度はハッサン2世を乗せて飛んでいたボーイング727型機をモロッコ空軍機が銃撃するという事件が発生した。国王機のパイロットは死亡、ハッサン2世は自ら操縦桿を握って何とか逃走に成功した。衝撃的だったのは、今回の謀反の首謀者が前回の反乱の時にハッサン2世を助けたウフキル将軍(この時点では参謀総長)だったことである(ウフキルは自決)。

 2度に渡る謀反に危機感を募らせたハッサン2世は反国王派を徹底的に弾圧するとともに、フランス人入植者の所有する農地を国有化して一般のモロッコ人に分配することで人気を回復しようとした。しかしフランス人たちはこの政策が実施されるより前に農地を売り払ってしまった(これは違法なのだが、何故か処罰されなかった)ため、ほとんど効果が出なかった。モロッコ人で広大な農地を持っている者は独立以来一環して王制を支持してくれているため、彼らから土地を取り上げるなどは論外であった。そこでハッサン2世は、他国に対して強硬な態度をとるという形で民衆の人気を掴もうとするのだが、それについては別稿で述べる。


                                   おわり
 

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