トンブクトゥ

 トンブクトゥの町は現在のマリ共和国の中部、ニジェール河の中流北岸に位置している。この地域は北のサハラ砂漠と南の熱帯雨林地帯の境にあたり、北アフリカから馬・織物・武器等が、森林地帯から金・奴隷が、サハラの塩山から塩が運ばれてくる交易の中継地点として古くから栄えてきた。このあたりで活動する商人は「ワンガラ」と呼ばれ、そのネットワークはいくらか形をかえつつも現在も生き続けているという。トンブクトゥが建設されたのは12世紀のはじめ頃なのだが、本稿ではもっと時代を遡ったところから話を始めることにする。

 サハラ砂漠の南縁部のことを「スーダン(黒人の国)」と呼ぶ。これは現在のスーダン共和国だけではなく、紅海沿岸から大西洋沿岸部まで全部ひっくるめてそう呼び、スーダン共和国と区別する際には「歴史的スーダン」と表記することもある。そのうちの、本稿の舞台となる「西スーダン」で最初に強大化した国家が「ガーナ帝国」である。4世紀頃に成立したこの国は現在のモーリタニア共和国南部からマリ共和国西部のあたりに所在し(現在の「ガーナ共和国」とは位置が違い、国としての連続性もない)、最初はベルベル人(註1)によって支配されていたがやがて黒人にとってかわられた。この地域は現在では乾燥帯だが、7〜12世紀頃は湿潤で緑に恵まれていたという。

註1 北西アフリカに居住するコーカソイド(白人)の人々。

 ガーナの特産品はセネガル河やニジェール河の上流で産出される砂金であった。金はサハラの北側の諸国で求められており、ガーナ側では塩を欲しがったことから、サハラを縦断する塩金交易が時代の進行とともに盛んになった。ガーナ帝国は金の生産と輸出を管理することで金価格を統制し、交易に税を課すことで大いに潤った。金・塩以外にも馬・装飾品・奴隷・ゴム・インディゴ等々の様々な商品が扱われ、9世紀頃には交易ルートを通じてイスラム教が入ってきた。帝国の首都クンビ・サレは2つの区画があり、片方はイスラム教徒、片方は伝統的な土着宗教(精霊信仰)の信徒(ガーナ皇帝を含む)が暮らしていたという。イスラム教を持ち込んだのはベルベル系ザナータ族の商人たちだが、彼らはイスラムの中では穏健なハワリージュ派という教派を奉じており、ガーナの人々に自分の信仰を押し付けるようなことはしなかった。

 11世紀の後半、ガーナは金を狙うモロッコのムラービト朝によって侵略され、クンビ・サレは1077年に陥落した(註2)。ムラービト朝の奉じていたイスラム教スンナ派(の一派であるマーリク派)はザナータ族のハワーリジュ派と違って戦闘的な布教を掲げており、ガーナにも是非「正統派イスラム」の教えを広めたいと考えていた。とはいってもこの地域におけるムラービト朝の勢力は10年後には早々と後退し、ガーナも独立を回復するが、(ガーナは)以前ほどの力は持ち得なくなっていた。12世紀の西スーダンの様子はよくわからないが、本稿のタイトルとなっているトンブクトゥの町は伝説によれば1100年頃に建設されたという。

註2 モロッコ側の動静については当サイト内の「モロッコの歴史」を参照のこと。


 さらに時代がくだって13世紀、マンディンゴ族のスンディアタが「マリ帝国」を建設し、かつてのガーナ帝国の領域を制圧した。スンディアタは「グバラ(大会議)」によって世襲の「マンサ」たることを宣言した。マンサとは「王の中の王」、もしくは「皇帝」の意である。この国では鍛冶・織物といった工芸を特定の氏族のみが専門的に扱い、結婚もその氏族の中のみで行うという社会体制が採用されていた。農業や狩猟は農民だけでなく貴族階級の者も従事していたが、漁業はそれ専門の集団が行い、金の産地の付近に住む人々はその採掘に専従した。宗教的にはマンサは祖先伝来の精霊信仰の神官でもあり、雨を支配する能力を備えていたのだが、旱魃で困っている時にイスラムの導師の力添えで雨を降らせることが出来たためイスラムに改宗したという。

 14世紀に入るとこの国はマンサ・ムーサの統治下に最盛期を迎え、現在のマリ共和国・セネガル共和国・ギニア共和国のあたりを支配する大国(註3)へと成長する。その繁栄の源はトンブクトゥやジェンネといった交易都市で扱う金や塩であり、特に、以前よりも安値で塩を買えるようになったことがマリの繁栄に大きく寄与した。塩の交易路はもともとモロッコのムラービト朝によって押さえられていたが、12世紀に(モロッコで)新たに成立したムワッヒド朝はムラービトほどにはサハラ方面に関心を示すことがなく、黒人の商人たちが北方へと進出して自由に塩を買えるようになったのである。さらに、(マリの支配地域で)新たに銅鉱が開発され、綿織物の生産も盛んになった。どちらもガーナ時代にはなかった(少なくとも大したものではなかった)ものである。サハラの北の商人たちはマリ側の経済攻勢に対抗するために商品を多様化し、ヨーロッパ製の絹や羊毛製品を持ち込んだ。トンブクトゥの市場では(イタリアの)ヴェネツィア製の服が高値で売れていたという。

註3 ムーサの先代のマンサは2000隻の船団を率いて海に乗り出し、そのまま帰らなかったという伝説がある。

 イスラムの聖地メッカへの巡礼も盛んに行われた。西スーダンからの黒人たちの巡礼は記録に残る限りでは11世紀から始まっており、数千人規模の巡礼団を組んでメッカに向かっていたようである。特に有名なのは1324年にマンサ・ムーサが行った巡礼で、その際にあまりに大量の金をばらまいたことから金相場を下落させてしまった、という有名なエピソードがある。供の数は1万とも2万ともされる大規模なもの(その多くは奴隷)で、巡礼に行った先ではムーサの名声はすこぶる高まった訳ではあるが、マリの人々には無駄遣いにしか見えなかったようである。ともあれ、その旅から帰ってきたムーサはトンブクトゥの町にモスクを建設し、そのことでトンブクトゥの都市としての名声が著しく高まったとされている。1353年にはアラブの大旅行家イヴン・バットゥータがこの地を訪れ、治安がよいことを褒め讃えている。その背景となるマリの軍隊は10万人にも達し、うち1万人は騎兵で王の直接指揮下にあり、アラブ馬を用いていたという(アラブ馬1頭と奴隷8〜20人が交換出来たという)。歩兵は下級貴族が指揮していた。

 サハラ越えの交易は年中やっていた訳ではなく、基本的に冬に行われた。マリ帝国の領域の外では遊牧民がキャラバンに対する略奪を繰り返しており、それに対処するための費用(傭兵の雇傭)は交易収入の半分ほどもかかった。遊牧民は略奪のかわりにラクダ1頭ごとの通行税を要求することもあり、商人たちはなかなか苦労が絶えなかったが、それでも交易を通じて巨万の富を手にする者が多くいた。富といえば、サハラの北と南では金の取り扱いに大きな差異があった。北の諸国では金は貨幣として流通していたが、マリにおいては金は基本的に交易品や贈答品であり、貨幣としては宝貝・布・塩・銅が用いられていた。

 マリ帝国は15世紀に入る頃から内紛に苦しむようになり、外敵の侵入もあって次第に衰えていった。かわって、それまでマリ帝国に服属していたスンニ・アリという人物に率いられた「ソンガイ帝国」が勢力を拡大、1468年にトンブクトゥを、72年にジェンヌを占領した。マリ帝国は岩塩の交易ルートとしてニジェール河の水運の開拓を進めていたのだが、マリ帝国(の支配層)は水に慣れておらず、そこを、漁労や稲作の民で水に馴染んで育ったソンガイに乗っ取られてしまったのであった(マリはその後も17世紀頃まで細々と存続した)。マリ帝国がその領内の人々を比較的ゆるやかに支配していたのに対し、ソンガイ帝国は中央集権的な国家体制を建設した。

 ただ、スンニ・アリは宗教的には土着宗教(精霊信仰)とイスラムの教えが混合したものを信じていたのだが、それに対する純イスラム側の反発が激しく(スンニ・アリの側もイスラム法学者を弾圧して殺したりした)、スンニ・アリの息子のバルの代に至って彼の帝国は純イスラム派の将軍ムハンマドによって乗っ取られてしまった。そんな揉め事はあったがソンガイ帝国の版図はマリ帝国のそれより大きなものとなり、現在のマリ共和国からニジェール共和国の西部、ナイジェリアの北西部にまで及ぶに至った。ムハンマドは聖地メッカに巡礼したこともある。彼の軍隊の主力はまず騎兵隊、それから歩兵隊、ニジェール河の河川艦隊といった部隊があり、艦隊は2000隻のカヌーからなっていたという。帝国の財源は臣民にかける各種の税、交易から得る関税、定期的に周辺の諸部族にしかける戦争で得る略奪品といったものからなっていた。

 トンブクトゥの都市としての隆盛が頂点に達したのはこのソンガイ時代で、人口約8万を数え、特に学問の都としてその名声を轟かしていた。イスラムの学校は100を数え、大学も存在して最盛期には2万5000もの学生を抱えていたという。この大学の建物のひとつは現在も「サンコーレ・モスク」と呼ばれて世界文化遺産のひとつに数えられている。トンブクトゥの大学は西洋のそれのような組織はなく、教師は無給であったが、生活必需品は支給されていた。学習課程には2段階あってまずはコーランの読解と暗唱、ついで各種の高等教育であり、後者ではコーランの解釈・イスラム神学・文法・修辞学・論理学・地理学・歴史学・天文学・占星術といった事柄が学ばれた。トンブクトゥの町で扱われる商品で一番の利益をあげていたのはサハラの北から輸入される書籍であったという。

 ただ、 その頃のサハラ以南ではイスラム教はまだ都市居住の貴族や商人にしか広まっておらず、地方の人々は祖先伝来の土着宗教をそのまま信じていた。大学で学ばれるような高級な学問はごく限られたエリート以外には必要が無く、16世紀の後半に入って帝国が内紛や天災によって衰退していくとともに学問の方も衰えて行くことになる。

 16世紀の末、サハラの塩山の支配権を巡ってサード朝モロッコとの紛争が持ち上がった。当時のサード朝は東からオスマン・トルコ帝国に、北からスペインに脅やかされており、特にオスマン帝国はサハラに入り込んで西スーダンとの交易ルートを奪取しようとしていた。サード朝の王マンスールはスペインと友好関係を結んでオスマン帝国に対抗するという道を選択し、サハラ交易ルートをオスマン帝国に掌握されてしまう前に自分が制圧しようと、1590年に4000の兵士からなるソンガイ遠征軍を組織したのであった。

 このサード軍の主力は実はスペイン人であった。というのは、この108年前の1492年に、イベリア半島におけるイスラム教徒の拠点だったグラナダ市がスペインの攻撃によって陥落しており、その時モロッコに逃れてきたイスラム教徒スペイン人の子孫の入植先としてサハラ以南が注目されたのである。

 スペイン人部隊はすべて鉄砲隊に組織されており、さらに大砲を10門もっていた。1590年の12月にソンガイを目指してモロッコのマラケシュ市を出陣したサード軍は翌年3月までかかったサハラ越えで4分の3の人員を失ったものの、鉄砲というものを初めて見たソンガイ軍をあっという間もなく蹴散らすことに成功した。ソンガイ側では数年前から帝位を巡る内紛が起こっており、その一派はサード軍を喜んで迎え入れる有り様であった。かくしてソンガイ帝国は滅亡し、トンブクトゥ等の交易都市はサード朝の支配下に組み込まれ、毎年1トンもの黄金を貢ぎ物として差し出すこととなった。それまでのソンガイ帝国の支配地域のうちの現ナイジェリア北西部にはハウサ族の諸王国が成立し、サハラ交易の中心地はそちらへと移っていった。

 トンブクトゥにはサード朝の派遣するパシャ(総督)が置かれたが、サード本国はこの後すぐに内紛で衰えてしまい、トンブクトゥのパシャは現地の入植者が自分で選ぶこととなった。支配階級を形成したモロッコ人やスペイン人は黒人との混血を繰り返し、その一方でモロッコ・スペインの文化を現地の文化と融合させていった。

 しかし、経済や工芸は次第に衰退していった。サハラ交易路が東のハウサ諸王国方面に逸れてしまったうえに、トンブクトゥの南側の地域(トーゴやベニン、ナイジェリア南西部)に住む諸部族が、海上ルートでやってきたヨーロッパ人を相手に(サハラ交易路を介さずに)奴隷貿易を行うようになったからである(註4)。ヨーロッパ諸国による奴隷貿易は15世紀の中頃から始まっており、これは最初は小規模なものであったが、16世紀に入る頃からアメリカの植民地の農園労働者として大量の奴隷が入り用となってきた。奴隷と一緒に、それまでトンブクトゥ等の内陸の交易都市を通って北に運ばれていた金や象牙、香辛料が海路で輸出されるようになり、かわりに輸入されたヨーロッパ製の安価な工業製品がアフリカの地元産業を圧倒してしまうのである。

註4 この「海上ルート」が開けたのは15世紀の前半である。現在の西サハラの沖合は常に北風が吹いていることから帆船では南下は出来ても北上は不可能であったのだが、1430年頃になると航海術や船の性能が進歩し、逆風でも進むことが可能となった。


 ただ、当時のヨーロッパ諸国は西アフリカ大西洋沿岸部の各地に交易のための植民地を建設していはいたが、その規模(植民地の大きさ)はごく小さなもので、内陸部にはなかなか入り込もうとしなかった(註5)。これは現地の黒人の諸国がかなり強固な国家体制を築いていた(註6)のと、当時の白人の医学知識ではアフリカの風土病に太刀打ち出来なかったからである。ところが18世紀の後半になると、ヨーロッパにおいてはアフリカに関する学術的な興味が強まるようになり、まず1788〜97年にかけてイギリスの「アフリカ協会」によって数次に渡るニジェール河の探索が行われた。この試みは最初は現地民に阻まれたり砂漠を越えられなかったり熱病にやられたりで失敗続きであったが、96年に探検を行ったマンゴ・パークがニジェール河到達に成功、その記録『アフリカ内陸地方への旅』は大ヒットを記録した。その後も大西洋沿岸からガンビア川を遡るルートや地中海沿岸のリビアのトリポリからイスラム商人の交易路を進んでサハラを縦断するルートによる探検が繰り返されたが、1816年に行われた探検は、100人規模の探検隊が風土病や現地民との戦いで全滅するという悲劇に見舞われた。

註5 ここで言っているのは、国家による植民地化の試みのこと。個々のヨーロッパ人が商売目的で内陸に入り込むことは14世紀からあった。16世紀のはじめ頃にソンガイ帝国を訪れて現地の王女と結婚したフランス人もいる。

註6 西アフリカ沿岸部の黒人諸国は奴隷を売った金で鉄砲を入手し、その威力で近隣部族を支配した。

 その年、前述のマンゴ・パークの本を読んで刺激を受けたフランスの青年ルネ・カイエがアフリカへの冒険旅行に出発した。当時のフランスはアフリカ大陸西端のセネガルに小さな植民地を持っており(詳しくは後述)、カイエ……パン屋の息子として生まれて早くに孤児となった……はそこに駐留する軍人の供として内陸に踏み込んだ後、イギリス植民地のシエラレオネで働いて小金を溜め込んだ。そして28年、イスラム教徒に変装したカイエは現在のギニアから東進するルートでトンブクトゥに到達した。トンブクトゥの存在はイスラム教徒の書いた文献を通じて古くからヨーロッパにも知られており、マリ時代のイメージで「黄金境」と呼ばれていた。しかし実際に現地に足を踏み入れたカイエは町の人口を約1万と見積もり、活気がないのにがっかりした。それでもカイエはトンブクトゥを訪問した最初のヨーロッパ人であったので、フランス地理学協会から「トンブクトゥ発見の功績」により賞金1万フランを貰うことが出来た。

 カイエがやって来た頃、トンブクトゥの周辺はセフ・アフマドゥという人物の率いる軍勢によって席巻されていた。セフ・アフマドゥはこの頃サハラ以南を席巻していたジハード(イスラムの聖戦)の指導者である。その「聖戦」とは、まだイスラムを信じていない人々を無理矢理にでも改宗させる武力闘争であった。それまでのサハラ以南におけるイスラム教の布教は交易路を握る商人やそれと結びついた聖職者(主にサハラの北からやってきた人々)によって行われていたのが、今度のジハードはフルベ族という西アフリカの内陸部に散らばって生活していた土着の遊牧民によって行われたことにその特色がある(このジハードは複数のフルベ集団によってバラバラに遂行されており、セフ・アフマドゥはその一派の指導者にすぎない)。その背景にはモロッコ・スペイン系の支配者によって奴隷として売り買いされていた黒人の不満があり、それ故にジハードの矛先は旧来のイスラム指導層にも向いていた。そんな訳で、伝統と格式あるイスラム都市であったトンブクトゥもセフ・アフマドゥによって占領されてしまうのであった。

 こうして出来たセフ・アフマドゥの国が「マシーナ国」である。この国は5つの州を持ち、州ごとに裁判官・徴税官・軍司令官が置かれ、イスラム法に基づく統治が行われた。しかしセフ・アフマドゥは1842年に亡くなり、彼の残したマシーナ国は1862年には別派のジハードを指揮するアルハジ・ウマールの軍勢によって撃ち破られた。この新国家が「トウコロール国」である。時代はすでに19世紀の後半である。ヨーロッパ諸国による本格的な植民地獲得競争が幕を開けようとしており、トウコロールによるジハードの対象はヨーロッパ人にも向けられることになった。

 この地域に野心を示していたのはフランスである。フランスの西アフリカへの進出は意外に早く、1626年にアフリカ大陸西端のセネガルに最初の拠点を建設、39年から奴隷貿易を開始していた。しかし時代が進んで19世紀の前半になってもその規模は小さなもので、産業といえばゴムや落花生の交易という程度にすぎず、33年間に30人の総督が交替するほどうらびれた植民地であった。ところが1852年にフランス本国でナポレオン3世皇帝が即位、55年にフェイデルブ将軍がセネガルの新総督として乗り込んで来るに及んで植民地にも活気が湧いてくる。フェイデルブは57年に現在のセネガル共和国の首都ダカールを占領(そこにあった現地民の王国の内紛を利用した)し、貿易を振興、内陸部へと探検隊を派遣した。トウコロール国の指導者アルハジ・ウマールは最初はフランス植民地の近くでジハードを起こしたのだが、57年にフランス軍に敗れたために東方に逃れてトンブクトゥ付近に居着いたのであった。

 65年、フェイデルブが退任し、フランスによる植民地拡大の動きは一時的に停滞した。しかしフランス本国が70〜71年の「普仏戦争」でプロイセンに敗れると、その敗戦の屈辱を植民地の拡大で晴らしたいという機運が盛り上がってきた。トウコロールの方では64年に指導者アルハジ・ウマールが亡くなり、その領域は長男のアフマドゥとその弟たちによって分割された。この国はセネガル方面から東に移ってくる際に武力で新しい支配地域を押さえつけており、それだけならまだしも、略奪的に厳しい徴税を行っていたことから地元民の支持が薄かった。

 82年、フランス軍が内陸へと動き出した。その頃のフランス領セネガルの支配地域は現在のセネガル共和国地域のうちのセネガル川(現在のセネガルとモーリタニアの国境)流域と海岸部のみであったのだが、フランス軍はまずセネガル川の南にあった「カイヨル国」を86年までかけて征服し、さらにもっと内陸部に住むソニンケ人の征服にとりかかった。トウコロールのアフマドゥはそのころ弟たちに叛かれ、さらに支配下の民衆にも嫌われていたことからフランスの動きに対処出来るような状態ではなかった。89年、ソニンケ人の抵抗を鎮圧したフランスはいよいよトウコロールへの攻撃を開始した。トウコロール軍は奮戦するも大砲の威力の前に粉砕され、90年には首都セグがフランス軍の手に落ちた。アフマドゥはあちこち逃げ回った末の97年に亡くなった。フランスはアフマドゥの弟アギブの傀儡政権を仕立てたが、彼はフランスの操り人形であることに耐えられなくなって1903年に王位を返上、ここにトウコロール国は消滅した。

 トウコロールの旧地がフランスから独立するのは1960年のことで、国名はかつてこの地域に繁栄した帝国にあやかって「マリ」と名付けられた。トンブクトゥは西アフリカ有数の観光地として現在に至っている。
   


おわり
   

   参考文献

『アフリカ現代史4』 中村弘光著 山川出版社世界現代史 1982年
『アフリカ探険物語』 那須国男著 社会思想社 1986年
『ユネスコ アフリカの歴史 第4巻上』 D・T・ニアス編 宮本正興日本語版責任監修 同朋舎出版
1992年
『アフリカ全史』 那須国男著 第三文明社 1995年
『新書アフリカ史』 宮本正興他編 講談社 1997年
『アフリカの民族と社会』 赤坂賢他著 中央公論社世界の歴史 1999年
『サハラが結ぶ南北交流』 私市正年 山川出版社 2004年

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