< ゲッティンゲンの七教授事件

ゲッティンゲンの七教授事件

 現在のイギリス王家は1714年にドイツのハノーヴァー選帝侯から迎えられたジョージ1世をその直接の祖としている。ジョージは17世紀中頃のイギリス国王ジェイムズ1世の曾孫にあたる人物ではあるが、もはや英語の話せない完全なドイツ人と化しており、政治に関与したがらなかったことがイギリス議会政治の発展に寄与したことは有名な話である。

 その一方、ハノーヴァーの王位はそのままイギリス王の兼任するところとなっていたが、その120年後の1837年、国王ウィリアム4世の姪のヴィクトリアがイギリス王位を、同じく弟のカンバーランド公アーネスト・オーガスタがハノーヴァー王位をそれぞれ相続することが取り決められた。これは、ハノーヴァー側の相続法が女子の継承権を認めていなかったからである。

 ハノーヴァーでは早くも1819年に憲法を制定し、33年には農民に選挙権を与える等の進歩的な改革が行われていたが、カンバーランド公は現地に入る(37年)や憲法を廃止し、国家財産を私用にまわす等の暴政を行った。実は彼には多額の借金があり、その返済をハノーヴァー国民に押し付けようと考えたのであった。

 また彼は、33年憲法に対する官公吏の宣誓を撤廃させようとした。これに抵抗したのがゲッティンゲン大学の七教授である。歴史学のダールマン、法律学のアルブレヒト、文献学のグリム兄弟、文学史家のゲルヴィヌス、ヘブライ語学のエーヴァルト、物理学のヴェーバーは「王(カンバーランド公)が恣まに現憲法に対する官公吏の宣誓を撤廃せしは、其処置全然不当なり。我等は此の神聖なる宣誓を破棄するが如き軽佻の態度を執ることを欲せず。乃ちここに確然として旧宣誓を保持するの要ありと信ず」。ゲッティンゲン大学は国立大学で国王が学長を兼ね、教授は公務員であった。国王は激怒し、法律もなにもなしに七教授を免職し、特に事件の首謀者と疑われたヤーコプ・グリムら三教授を3日以内の国外退去処分、他の四教授を免職とした。「金さえ払えば、大学教授でも、ダンサーでも手に入る」。これが「ゲッティンゲンの七教授事件」である。 当時のゲッティンゲンの大学生900人のうち800人が七教授の抗議書の写しをとって国外に広め、このとき行われたデモでは軍隊の弾圧によって50名の逮捕者が出たという。

 学生たちは三教授を国境まで見送って別れを惜しみ、全ドイツの世論は七教授の側に集まった。グリムの「首になっても、得るところ多く、失うものは少ない」との言葉どおり、七教授はドイツ中の大学から熱烈な招聘を受け、その名声は長く記憶されることとなったのである。

おわり   



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