ワーテルロー
「諸君等ある限り、フランスが戦って負けることはないであろう」。1814年4月20日、離別の涙を流す近衛兵に別れを告げ、フランス皇帝ナポレオン1世はエルバ島へと向うべくフォンテンブロー宮殿を出立した。かつてヨーロッパ全土を制覇した偉大なる皇帝は2年前の「ロシア遠征」に敗れて以来苦戦を続け、この年3月31日をもってロシア・プロイセン・オーストリア連合軍のパリ入城を許していた。今回のエルバ行きは実質的な島流しであり、列強諸国の首脳たちは皇帝の退場を喜びつつ新秩序の建設を胸に秘めて講和会議のテーブルへと着席したのであった。
ところが、ナポレオンはまだ諦めていなかった。彼は配流先のエルバ島からフランス本国へのアンテナを張り巡らし、敗者復活戦の機会を窺い続けた。ナポレオン没落後のフランスでは、革命で刑死したルイ16世の弟ルイ18世が復活を果たしていたが、その統治の評判は時間の経過と共に急落していった。国境地帯の要塞を手放したのはまだよいとして、ナポレオン時代の将校の4分の3が任務を解かれて半額給での生活を強制され、皇帝とともに多くの戦場を駆け巡った古参兵たちは、ルイ18世の威を借る王党派の迫害に甘んじなければならなかった。
9月からオーストリアの首都で始まった諸国の講和会議「ウィーン会議」は、各国の王家に繋がる者が15人、諸侯が200人、それと同数の公式代表が出席する大掛かりなものであった。この会議は……実際にはそうでもなかったらしいが……様々な交渉ごとがダラダラと続き、「会議は踊る」と呼ばれる舞踏会ばかりが賑々しく行われる有り様だが、ルイ18世の委任を受ける外相タレーランは正しく現状を見据えていた。「ナポレオンは退屈しているに違いない」。
皇帝をエルバ島よりもっと遠くに移すべきである……。その一方で、ナポレオンの耳には皇帝の帰還を求めるフランス人の声が頻々と届いてくる。ルイ18世の取巻きの貴族たちはフランス大革命によって失われた特権を取り戻すことばかりに熱心で、さらにナポレオンに払うと約束していた年金を停止し、彼の暗殺までをも企んだ。15年2月中旬、エルバ島を訪れた元副知事シャプロンが皇帝に訴える。「人心は不平たらたらで激怒しておりますから、ほんの一部の動きがあっても必ず全体的な暴動となり、それが初日から一挙に爆発しても誰1人として驚きはしないでしょう。私は国民も軍も陛下を解放者としてお迎えし、熱狂的に陛下に味方すると確信しております」。
「私はフランスがこれから置かれる危機の状態を予測はしていたが、事態がそこまで進んでいたとは思わなかった。2度と政治問題に口出ししないつもりだったが、君の話を聞いて決心がかわったよ。フランスの不幸を招いた因は私だから、私がその償いをする必要があるな」。皇帝の決意は固まった。妹ポーリーヌの宝石類を処分して軍資金を調達する。
そのうちに、監視委員のキャンベル大佐がイタリアのリヴォルノに休暇に出かけるという絶好のチャンスが訪れた。2月24日、ナポレオンは配下の兵士たちに出帆の準備を命じ、入港中の船全てを抑留した。そして密かに用意した小型艦「アンコンスタン」他7隻に1000の兵士とともに乗り組み、極秘裡にエルバ島を脱出したのが26日の深夜のことである。
3月1日、ナポレオンは南フランスのカンヌに近いサン・ジュアン湾に上陸した。「フランス国民よ、私は流謫の地で諸子の嘆きと願いを聞いた。諸子が要求するのは自ら選ぶ政府であり、それだけが正統的なものである。私は海を渡り、諸子の権利でもある私の権利を取り戻しにやってきた」「勝利は突撃の歩調で前進するであろう。鷲は国旗とともに、鐘楼から鐘楼へとノートル・ダム寺院にまで飛んでゆくであろう」。上陸地点の地元民の反応はいまいちで、王党派の多い地方を避ける形でパリへの進撃を開始する。
3月7日、グルノーブルから20キロのラ・ミュールにて、マルシャン将軍率いる王党派部隊がナポレオンをさえぎろうとする。しかしただ1人進み出た皇帝は「兵士諸君、余だ! 諸君の中に、皇帝を殺したいと思う者がいれば、殺せるぞ、余はここにいる!」するとたちまち「皇帝万歳!」。続いてグルノーブル市の部隊も歓呼で皇帝を迎え入れた。ようやく勢いを掴んだナポレオン。「グルノーブルまでは余は冒険家だった。グルノーブルで再び君主になった」。
こんな調子で、ルイ18世の派遣するナポレオン討伐軍は全て寝返りをうつ。グルノーブルからリヨンへ、さらにパリへ、まだ1発も撃っていない。恐慌状態に陥ったルイ18世は、最後の切り札ネイ元帥を起用する。ネイは本来ナポレオン配下の勇将だが、皇帝がエルバ島に流された後はルイ18世に仕えていた。「奴を捕えて、鉄の檻に入れて国王の御前につれてまいります」。
だが、1812年のロシアからの敗走の際に全軍のしんがりをつとめて「勇者の中の勇者」とうたわれたこの元帥は、「シャロンで余と一緒になるがよい。余は君を、ボロディノ戦(ロシア遠征の激戦地)の翌朝のように迎えよう」との親書を受け取ると、あっさりと皇帝の前にその身を投げ出してしまう(実はそれ以前から連絡をとっていた)。
ルイ18世の宮廷が色を失っている間にも、ナポレオンの軍勢は近付いてくる。もっとも信頼出来る王党派の第6槍騎兵部隊も、ナポレオン軍の前衛と小競り合いを起こした(死人はなし)だけで逃げ帰ってきた。徹底抗戦を唱えるマルモン元帥も、城外退去を主張するマクドナルド元帥も元ナポレオンの配下。彼等には上流階級としての立場があるが、下級の兵士や市民大衆はもはやナポレオンへの期待を隠そうともしない。3月19日夜、ルイ18世は豪雨のなか馬車にのってパリを脱出し、翌日午後9時を期してナポレオンのパリ帰還が実現した。
「皇帝万歳!」「ナポレオンが帰ってきた!」チュイルリー宮殿の階段を登るナポレオンに向い、「帽子をかぶって現れただけで、帝国を征服した男がこれまでにいただろうか?」歓声をはりあげるパリ市民と兵士たち。
しかしそのフランス帝国からは、全ヨーロッパを征服した昔日の面影は薄れつつあった。何よりも人材がいなくなっていた。「勇者の中の勇者」ネイ元帥は戻ってきたが、「最も完全な参謀長」と呼ばれたベルティエ元帥は謎の投身自殺を遂げ、20年も皇帝の手足となって戦いつづけたオージュロー元帥やマルモン元帥は完全に裏切っていた。他にも、年老いて戦場に出ることが出来ない者、一度ルイ18世に忠誠を誓ったことを恥じて自宅から出てこない者もいた。
ウィーンで会議を開いていた諸国首脳のもとにナポレオン脱出の報が届いたのは3月5日である。大混乱する首脳たちに向い、ルイ18世の代理人であるタレーランは急がず慌てず「同盟諸国は、ナポレオン・ボナパルトが市民的ならびに社会的な諸関係の外に身をおいたこと、また、世界平和の敵ならびに攪乱者として、国際的な訴追にふせられたものである」との宣言を発布せしめる。「対仏大同盟」の結成である。総勢60万の大軍団の動員が計画された。
ナポレオンによる講和の呼びかけも空しかった。戦争の準備を急ぐナポレオンが掻き集めた軍勢もまた約60万。国内各地で徴兵反対の暴動が頻発した。大衆はルイ18世が嫌いだからナポレオンの帰還を喜んだのであって、また戦争するとなると話は別である。ともあれナポレオンは60万のうち地方の守備隊要員と予備隊、及びまだ訓練中の新兵を除く21万5000人を野戦軍とした。
対仏同盟軍の兵力は予定を越えて75万にも達した。しかしその軍勢の大半は遠国からフランスに向かってくる途中で、優れた将軍に率いられている訳でもなく行軍速度も緩慢であり、とりあえずナポレオンにとって脅威となるのはパリ市の北240キロほどのベルギー(当時はオランダ領)にいるイギリス軍12万とプロイセン軍13万であった。ナポレオンは野戦軍のうち9万を国境に置き、残り12万を「北部方面軍」として自ら率いベルギー方面に向かうことにした。彼としてはもう少し念入りに戦争準備をしても良かったのだが、イギリス軍とプロイセン軍とが80キロも離れていて各個撃破のチャンスであることやベルギーには親フランス派が多いこと等が考慮されたのである。
ナポレオンがパリを出陣したのは6月12日である。その率いる北部方面軍は5個軍団と騎兵部隊・近衛部隊からなるが、以前ならこういう場面で各軍団の長をつとめていた元帥たちで従軍しているのはとりあえず参謀長のスルト元帥と、4月に新しく元帥に列せられた騎兵指揮官のグルーシー元帥の2人だけである。そもそも元帥たちの大半は一度ルイ18世に忠誠を誓ったという前科があることから部下の兵士にあまり信用されていなかった。元帥の中で唯一ルイ18世に従わなかったダヴー元帥は、恐らくそれ故に陸軍大臣兼パリ総督として首都の守備を任された。それから、参謀長スルト元帥は軍団長としてはフランス軍随一であったが、今の今まで参謀長の仕事は代理で少ししたことがある程度という危なっかしい人事であった。スルトは以前(ナポレオンがエルバ島に流される前)はスペイン戦線でイギリス軍と戦った経験を持ち、今ベルギーにいるイギリス軍を率いるウェリントン公爵の戦いぶりをよく知っていた筈だが、まるで畑違いの参謀長職では経験の活かしようがない。
ナポレオンはさすがに不安を感じたのかネイ元帥も呼び出すことにした。しかしネイは、ルイ18世のもとから劇的に帰ってきた人物をここで使うという政治的効果はあったかもしれないが大軍を動かす器の人ではなかった。
目下、イギリス軍はブリュッセルに、プロイセン軍はナミュールにそれぞれ布陣し、その間には約80キロの距離が置かれていた。各個撃破のチャンスは今しかないが、問題はどちらを先に叩くかである。イギリスの将軍ウェリントン公爵は沈着・純重な防御型、プロイセン軍のブリュッヘル元帥は敏速冒険を好む攻撃型である。となれば、先にイギリス軍を攻めれば必ずプロイセン軍が救援にやってくるが、逆ならばそうはならない。
ナポレオンの作戦はこれで決り、15日ひとまずシャルルロワを守るプロイセン第1軍団へと攻めかかった……プロイセン軍もイギリス軍もそれぞれ1ヶ所に固まっていたのではなく、軍団や師団が広範囲に展開していた。フランス軍も相手を欺くためにそうしていたが、ここで急速に集結した……。しかしここでプロイセン軍が退却しつつ抵抗したのや素人参謀長スルトの命令伝達の不具合等が重なり、さらにフランス軍右翼第4軍団の将軍が一部の幕僚とともに逃げてしまった。プロイセン軍はさほどの損害を出すこともなく後方に退却した。
しかしフランス軍の勝ちであることには違いない。ナポレオンはシャルルロワを扇の要としてさらに北と北東に地歩を延ばそうと、北のブリュッセル方面(イギリス軍がいる)にそのとき着任したばかりのネイ元帥を、北東(プロイセン第1軍が退却中)にグルーシー元帥を派遣した。両名にそれぞれ4万5000の兵を与えてある。残りは予備隊として残しておく。そうやって左右両翼(ネイとグルーシー)で敵の注意を引き付け、敵の動きに応じて予備隊をどちらの翼にでも投入出来るようにするのである。
その頃ブリュッセルにいたイギリス軍の司令官ウェリントン公爵は、フランス軍がシャルルロワを攻撃したのは陽動であって、もっと西から主力部隊を投入してイギリス軍の補給路(海からブリュッセルに通じる道)を寸断するのではないかと考えていた。もちろんこれは読み違いで、イギリス軍はまるで見当違いの方向の警戒を強めたのだが、ウェリントンの配下の一部は独断でシャルルロワ方面のカトル・ブラにいくらかの部隊を急派した。で、そのカトル・ブラにネイ軍が現れたのである。
カトル・ブラに急遽送り込まれたイギリス軍(正確に言えばウェリントンの軍勢はイギリス・オランダその他軍の寄せ集め)は大した数ではなかったのだが、ネイは何故かこれを潰そうとせずに露営に入ることにした。一方でグルーシー軍の進路にはシャルルロワからフルーリュスに後退していたプロイセン第1軍団がいた。グルーシー軍の動きは鈍く、苛ついて馬を飛ばしてきたナポレオンに尻を叩かれてようやくフルーリュスからプロイセン軍を追い出した。そこで露営である。その日の夜遅くになってウェリントンは自分の考え違いに気付き、カトル・ブラの味方を増援する等の配置換えを行った。プロイセン軍は、これまでは第1軍団だけがフランス軍と交戦していたのが他の部隊も動き出し、グルーシー軍の進路に立ちはだかろうとした。
しかしプロイセン軍の立場に立って常識的に考えるなら(シャルルロワやフルーリュスで連勝して)優勢な戦いを進めるフランス軍の前に躍り出るよりは待ち構えた方が安全なので、ナポレオンはプロイセン軍がこちらに向かって来ているとは考えず、今度はイギリス軍に攻撃をかけることにした。とりあえずネイ軍に改めてカトル・ブラの攻撃を命じる。それから念のためグルーシー軍に、プロイセン軍主力のいるナミュールとカトル・ブラの連絡点にあたるソンブレフとジャンブルーの攻略を命じる。それが済んだらグルーシー軍の一部はネイ軍の援護に向かえとした。
ところが翌16日、グルーシー軍はソンブレフに行き着く前のリニーにてプロイセン軍と接触した。最初に遭遇した部隊は両軍ともそれほどの数ではなかったが、そのまま戦闘に突入するのではなく慎重を期して後続の部隊の到着を待っているうちに両軍とも大軍が整ってきた。プロイセン軍の戦力はこれまでフランス軍と交戦していた第1軍団に新手の第2・第3軍団が加わって8万4000、さらに第4軍団3万も急行中である。フランス側は前述の作戦(イギリス軍を叩く作戦)を変更し、ここでまたプロイセン軍を叩こうとナポレオン自ら予備隊を率いてグルーシー軍に合流した。その兵力あわせて7万である。ネイ軍はカトル・ブラのイギリス軍を駆逐し次第プロイセン軍の側面をつくべしとされた……イギリス軍の動きはいまひとつわからないのに……しかもフランス軍のうちの第6軍団1万人は何故か何の命令もなく後方に放置されてしまった。ともあれこうして始まるのが「リニーの戦い」である。
戦闘が始まったのは午後2時30分である。プロイセン軍はフランス軍からよく見える丘の前斜面に正々堂々と密集陣を並べていたことから開戦早々の砲撃で大打撃を被った。ナポレオンはここでプロイセン軍を叩いてしまえると喜んだが、プロイセン軍は踏みとどまり、フランス軍の猛攻に頑強に抵抗した。3時過ぎ、ネイ軍がカトル・ブラでかなりの敵に阻まれて苦戦しているとの報告が入った。ナポレオンはネイ軍のうちの第1軍団(デルロン将軍指揮。以下デルロン軍団と表記)だけでもこっちにまわせとの伝令を飛ばす。それから第6軍団を放置していたのを思い出して慌てて連絡をとる。
ネイ軍の方は……時間が前後するが……出発が遅れた上にカトル・ブラの前面で何故かぐずぐずし、攻撃を開始したのは午後2時20分頃であった。午前中には大したことがなかったカトル・ブラのイギリス軍には続々と援軍が入っていたから遅過ぎである。さらにナポレオンからの指令でデルロン軍団を引き抜かれた。しばらく経ってからネイはこれを(皇帝に無断で)呼び戻し、1個師団だけをリニーに向かわせたが、デルロン軍団主力の帰還を待ちきれずにイギリス軍に攻撃をかけて撃退されるという醜態を晒す有り様である。
リニーの戦闘は激烈だったが確実にフランス軍優位で進んでいた。午後5時頃、フランス軍ではまだ近衛軍団が予備隊としてじっと戦いの成り行きを見守っていたが、プロイセン軍は予備隊も全て出し尽くし、増援に来る筈のプロイセン第4軍団も間に合いそうにないと思われてきた。6時、ナポレオンはいよいよ近衛軍団を投入して決着をつけようとしたが、背後から正体不明の軍団が接近中との報告が入ったためこれを中止した。おかげでプロイセン軍はいくらか態勢を立て直すことが出来た。30分後、フランス軍の背後に現れたのは実はデルロン軍団であることが判明した。進路を間違えて味方の後ろに出てしまい、しかも何故かそのことを知らせる伝令も寄越さず、おまけにデルロン軍団の全部ではなく1個師団だけだという。
その間にもプロイセン軍は勇戦を続けていたが予備隊がないのでもう限界である。7時30分、ようやくフランス軍の近衛軍団が動き出し、そのとき降り出した土砂降りの大雨のなかでプロイセン軍を圧倒した。プロイセン軍の司令官ブリュッヘル元帥は自ら騎兵大隊を率いてフランス近衛軍団に突撃したが無論失敗、負傷した上に馬の下敷きになったブリュッヘルは気絶したまま味方に運ばれて北方に脱出した。プロイセン軍は総退却に移った。既に日暮れなので退くのは容易だったがこの日1日で1万6000もの兵を失い、さらに戦意を喪失した数千人が脱走した。しかし壊滅した訳ではないのである。一方のフランス軍の損害は1万3700、皇帝自身からして疲弊の色が濃く、今すぐプロイセン軍を追撃する気にはなれなかった。
ネイの方はけっきょくカトル・ブラを落とせなかった。リニーとカトル・ブラの間を行き来したデルロン軍団は戦闘に参加せずじまいである。翌朝ナポレオンはリニーの戦いの跡を無意味に歩き回って時間を潰した。プロイセン軍が退却した以上、カトル・ブラのイギリス軍も退却すると思ったのだが、午前11時に入った報告ではイギリス軍はまだ動いていないという。ナポレオンはこれを叩くべく主力を率いて出発することにした。それから、北方に退却したプロイセン軍に対してはグルーシー元帥に3万8000の兵を与えて追撃させる。この、グルーシーの派遣がナポレオンの最大の命取りとなった。グルーシーは騎兵指揮官としては有能であったが元帥になったばかりで師団以上の兵力を動かしたことがなかった。そもそもナポレオンは、リニーでプロイセン軍に与えた打撃を過大評価していた。
リニーでのプロイセン軍敗北の報がカトル・ブラのイギリス軍に伝わったのは午前7〜9時の間である。彼等は正午頃には北へと撤収したが、すぐ近くにいたネイ軍は何もしないで昼食をとった。午後1時にリニーから移動してきたナポレオンがネイ軍に合流し、その有り様に激怒して出撃の準備を命令した。しかしネイ軍が動ける状態になると途端に猛烈な雨が降り出す不運である。グルーシー軍の方もこの雨に足を削がれ、プロイセン軍がどちらに逃げたのか見当もつかなくなっていた。
イギリス軍は北方のワーテルロー村へと退却していた。彼等はカトル・ブラにいた時点で4万5000の兵力を持ち、さらに北のブリュッセル方面から3万ほどの援軍が接近しつつあった。グルーシー軍の追撃をかわしたプロイセン軍は味方の第4軍団と合流し、その兵力を7万5000にまで回復した。イギリス軍のウェリントン公爵はプロイセン軍へと急使を飛ばし、ただちにこちらに駆け付けるよう要請した。ウェリントンはプロイセン軍の返事とフランス軍の動き次第によってはさらに退却するつもりであったが、プロイセン軍のブリュッヘル元帥はリニーでの負傷にもめげず戦意旺盛であった。
午後7時、フランス軍がワーテルロー村の南7キロのプランスノワに到着、野営の準備を整えた。ここで一晩休んで明日に備えようとの考えだが、これはほとんど何の意味もなかった。6月17〜8日の夜は午後から引き続いての豪雨であり、強行軍を経たばかりの兵士たちを収用する施設といったものがある訳でもない。しかも泥沼と化した道路のせいで補給部隊の到着が遅れ、大部分の兵士は食事をとることも出来なかった。
休息にならないのはワーテルロー村のイギリス軍の方も同じだった。兵士たちは大雨の中で重なるようにして暖めあい、最高司令官ウェリントン公爵も一睡もしなかった。午前3時、プロイセン軍からの使者が到着した。「払暁そうそうには出発してそちらに向う」。手紙には午前1時署名と書かれており、プロイセン軍は午前3時の時点で野営地をたたんでワーテルローへの移動を始めていた。その先頭に立つのはビューロー率いるプロイセン第4軍団で、先のリニーの戦いに参加しなかったことから素早く行動出来たのである(他の部隊はかなり遅れる)。元気づけられたウェリントンは勇躍フランス軍との大会戦を決意した。ひとまずワーテルローから数キロ南のモン・サン・ジャン高地に布陣すべく前進する。ただ彼にもミスがあり、ナポレオンがどう動くか確信が持てないまま1万7000の部隊を西方(イギリス軍の補給路)に派遣してこれから起こる戦闘に参加させられなくするという失敗を犯していた。(他にも各地に分遣隊として1万5000人をばらまいている)
1815年6月18日の夜が明けた。雨はまだ止んでいないが、露営をといたフランス軍と、その目の前のモン・サン・ジャン高地まで進んできたイギリス軍が各々陣型を整える。午前9時、雨があがった。いわゆる「ワーテルローの戦い」はワーテルロー村ではなくモン・サン・ジャン高地付近で生起するものである。
フランス軍は、南のカトル・ブラから北のブリュッセルへとほぼ直進するブリッセル街道の東にデルロン率いる第1軍団の4個師団が、西にレイユ率いる第2軍団の3個師団が布陣した。その後ろ(南)に近衛軍団と第6軍団、及び各種騎兵部隊が置かれている。総勢約7万2000と大砲246門である。
その北に展開するイギリス軍の兵力は約6万8000に大砲156門である。先に少し触れたが正確にはイギリス・オランダその他の寄せ集めで、そのうち最も信頼出来るイギリス・ドイツ兵は3万にすぎず、残りのオランダ・ベルギー等の兵はむしろフランスの側に親近感を抱いているか訓練不足かのいずれかであった。司令官ウェリントン公爵はまず主力(イギリス兵)の31個大隊を(南にむかって)右翼に、オランダ・ベルギー等の24個大隊を左翼に、予備隊を右翼後方に配備した。右翼偏重の布陣だが左翼の方はそのうちにやってくる筈のプロイセン軍をあてにしていた。陣地正面は東西わずかに4000メートル、その前面(南)に位置するウーゴモンとラ・エイ・サントの農場にも各々守備隊を配して守りを固めた。特に右翼前面のウーゴモン農場は長い壁や生垣を有しており、1300人の兵士が陣取って敵の出現に備えることとなった。
午前8時に朝食をとったナポレオンは、しかし即座の攻撃命令を下そうとはしなかった。地面が乾ききっていなかったことから砲兵の移動に困難と判断したためである。しかしそのまま3時間半も何もしないでじっとしていたのは大失敗であった。プロイセン軍はこの間も刻一刻と近付いているのである。それから、以前スペイン戦線でウェリントン公爵と対戦したことがあるスルト参謀長が相手の有能さを強調し、グルーシー軍を呼び戻すよう進言してきたが、昨夜にやっておいた偵察でウェリントンの軍勢が雑多なことを知っていたナポレオンはこれを退けた。「今日の戦は朝食程度に過ぎぬ」。
11時、ナポレオンの命令書を携えた騎馬伝令が各部隊へと散っていく。ナポレオンはこの時46歳、戦闘開始に先立ち馬に跨がってフランス軍部隊の前を駆け抜け、兵士たちの大喝采を浴びた。「皇帝万歳!」「皇帝万歳!」肉体的に衰えてはいる(痔や胃潰瘍や色々な病気を患っていたようである)がそのカリスマ性は健在である。いよいよ世紀の決戦「ワーテルローの戦い」の発動である。
11時30分、フランス軍左翼レイユ軍団のうちの1個師団がイギリス軍右翼ウーゴモン農場を目指して動き出した。これは陽動であった。ナポレオンの作戦は、敵右翼のウーゴモンに陽動をかけることによってウェリントンの注意をそちらに引き付け、頃合を見て他の部隊にも前進を指令、敵中央を突破するとのものであった。その際の中央突破の指揮はネイ元帥がとる……。しかし、レイユ軍団はウーゴモンの南端を占領した時点で一旦停止を命じられていたにもかかわらず、その先頭を進むジェローム(ナポレオンの末弟)の師団が血気にはやってそのまま進撃、ウーゴモン農場内部のイギリス陣地の抵抗にあって大損害を出してしまった。これを見たレイユ軍団長はさらに1万2000の兵を突進せしめてジェローム師団を救助しようとしたが、ウーゴモンの守備隊も堅く守って譲らなかった。
(ナポレオンの)当初の目算が狂ってしまったが、まだ致命傷には至らない。ウェリントンはウーゴモン農場を救援するために予備隊をいくらか動かしており、この様子を見ていたネイ元帥がしきりに中央突破の許可を求めてきた。午後1時、頃合よしと判断したナポレオンはまず大砲84門を敵軍の前面に押し出し、これに射撃開始を命令した。しかしイギリス兵の多くはフランス軍の眼前に広がる丘の反対側に布陣していたことから狙い撃ちが出来ず、今朝までの雨のせいで地面が柔らかいことから砲弾があまり跳ね飛ばない(落下した砲弾が堅い地面に跳ね飛んで周囲の敵兵を薙ぎ倒すことを跳返攻撃という)ことが分かってきた。
その時、北東のかなたにもうもうたる土煙が見えてきた。「グルーシー軍のように見えます」。望遠鏡で眺めても人馬か木立か判断がつきかねているうちにプロイセン軍の制服を着た捕虜が引き立てられて来た。「あれはプロイセン軍前衛をつとめるビューロー将軍の兵3万です」。フランス軍の首脳陣に激震が走った。ただちにグルーシー宛に「こちらに駆け付けよ」との伝令を飛ばし、とりあえずローバウ将軍の第6軍団(以下「ローバウ軍団」と表記)にビューロー軍の進路を妨害させる。視界に入ったとはいえ、ビューロー軍はまだ遠くにおり、ここまで来るのに2時間はかかるだろう(プロイセン軍本隊はもっとずっと後ろにいる)。今のうちにイギリス軍に中央突破をかけ、徹底的に叩いておくべきである。皇帝は充分な自信を持っており、「今朝、我々の勝率は90パーセントだった。今でも60パーセントはある」。
かくして午後1時30分、フランス軍右翼デルロン軍団の4個師団1万6000の兵が前進を開始した。しかしデルロン将軍は何を思ったのか将兵を極度に密集させていたことからイギリス軍の砲撃で多大な損害が出てしまう。
それでもデルロン軍団の正面にいた敵軍はオランダ・ベルギー等の寄せ集めであったことから全体的には優勢である。そこにイギリス側ピクトン師団が駆け付けてきた。この師団の奮戦でデルロン軍団は食い止められるが、ビクトン将軍は頭に砲弾の破片を受けて戦死した。ちなみに彼は軍服ではなく黒のシルクハットとモーニングといういでたちであった。イギリス軍はさらに騎兵隊やスコットランドの第92ハイランド歩兵聯隊……キルト着用の部隊……を投入し、デルロン軍団を押し返した。
後退するデルロン軍団を追うイギリス騎兵はそのままフランス軍の砲兵隊に斬り込もうとしたが、ナポレオンはタイミングを読んでジャッキノ率いる槍騎兵を投入、これを大破してイギリス騎兵の指揮官の1人ポンソンビー将軍も討ち取った。その一方で開戦時から延々と続いていたウーゴモン農場の戦闘はフランス軍の優勢へと傾いてきた。しかしそこでグルーシー軍の現在地がわかり、到底間に合いそうにないことが判明した。ビューロー軍の方はどんどん近づいてくる。
午後3時30分、もう速攻でイギリス軍を片付けるしかないと判断したナポレオンの命により、再びデルロン軍団が前進を開始した。そのとき先頭に立っていたネイ元帥はイギリス軍の後方の部隊が撤退を始めているのを目撃した。これは実は負傷兵が後送されていたとかだったのだが、勘違いしたネイはミロー将軍の胸甲騎兵に命じてこれの退路を断とうとした。そして動き出したミロー騎兵隊につられて他の騎兵部隊も走り出し、気がついたら総勢5000もの騎兵軍団が突進に移っていた。その場の思いつきを速攻で実施したものだから歩兵・砲兵との連絡は一切無く、むしろ味方の騎兵が邪魔になった砲兵隊が射撃を中止する有り様である。こういう騎兵のみの突進は極めて無謀とされている。しかもまだ地面が完全に乾いていなかったことから速度が出せず、イギリス軍に備えの時間を許してしまった。
イギリス軍の歩兵たちは20の方陣を組んでネイの騎兵突撃に対抗した。これは騎兵に対する最も有効な陣形とされている。ネイの騎兵隊は方陣の反撃や砲兵隊の一斉射撃を喰らって大打撃を被った。そもそもネイは騎兵の指揮官ではなく、その扱いに熟達しているとは到底いいがたい。おまけにその東方では、ローバウ軍団が敵ビューロー軍と接触、戦闘を開始していた。
ハ「はやまったことをしてくれたな。今日の戦闘に悪い結果をもたらすかもしれんぞ!」かたわらのスルト参謀長に悪態をつくナポレオン。今のはネイに対する憤激だが、スルトにも問題がある。ナポレオン軍の参謀長の職務は、ナポレオンの考えた作戦を各部隊の指揮官に遺漏なくわかりやすく確実に伝達するというところにあり、前任者のベルティエ元帥はその意味で「最も完全な参謀長」と言われたものだが、スルトはその点子供のお使い程度のことしか出来なかった。実地の指揮官としてはフランス軍でも最高の部類に属する男なのだが……今回の戦いでは、スルトはグルーシー軍への伝令を、たったの1人しか飛ばしていなかった。不測の事態が起こったらどうするのだ。「ベルティエなら、100人を出したろう」。
ナポレオンはやむなくさらにケレルマン将軍の胸甲騎兵をネイの支援に差し向ける。また勝手に動き出す部隊もあり、ネイの指揮下に入った騎兵はこれで1万を超え、態勢を立て直して再度イギリス軍に突進せんとする。だが、その一部はイギリス陣地近くの空堀に転落して無駄死にし、各部隊はバラバラに攻撃を繰り返しては撃退された。しかも、近くに歩兵隊がいたのにネイは興奮のためかその活用を忘れるような状態であった。
ネイは勇猛ではあったが自軍全体を見渡す戦略眼には欠けていた。小部隊の指揮官と大軍の司令官とでは要求される勇敢さの質が違うとはよくいわれる話である。ネイは明らかに力不足であった。今パリを守っているダヴー元帥がこの場にいれば、ベルティエ参謀長が生きていて、スルトがネイのかわりをしていれば……。いや、いま別働隊を指揮しているグルーシーがここにいればよかった。グルーシーなら騎兵の専門家である。
皇帝が今日の戦いを始めた時の砲声は実はそのグルーシー……そのとき食事中だった……の耳にも届いていた。彼は配下のジェラール将軍にそちらに駆けつけるべきことを進言されたのだが、グルーシーは自分の受けている最新の命令はプロイセン軍の追撃にあるとしてこれを退けた。プロイセン軍の動きを正確に掴んでいる訳でもないのに。今すぐこっちにこいとの皇帝の伝令がグルーシー軍に到達したのは午後5時のことであった。先にも書いたがプロイセン軍のうちもっとも早くイギリス軍を助けに現れたのはリニー戦に参加しなかったビューロー将軍の第4軍団で、他の軍団は出血が酷かったため出足が遅れていた。グルーシー軍は午後4時30分頃ようやくプロイセン軍の一番うしろにいた第3軍団に食い付いた。
それと同じ頃、ビューロー軍を防いでいたローバウ軍団が崩れた。ナポレオンは急いで近衛軍団の一部(5000人)を送って対プロイセン陣地の立て直しをはかった。いま送ったのは「新規近衛兵」という近衛としては二流の部隊で、最精鋭の「老近衛兵」はまだ手元に置いておく。午後6時、今度は歩兵6000を率いたネイがイギリス陣地に突撃しようとしてまた撃退された。しかしその次に歩兵2000・騎兵・軽砲兵・工兵をもって行った攻撃はうまくいき、6時30分ついにイギリス軍正面中央の要地ラ・エイ・サント農場を占領した。それまでのような考えなしの突進ではなく、きちんと各兵科を連携して動かしたことが功を奏したのである。イギリス軍もいい加減に疲弊し、弾薬が残り少なくなっていた。ウェリントン公爵の幕僚たちも次々と倒れていた。ネイはさらに砲兵をラ・エイ・サントに前進せしめてイギリス陣地を砲撃した。他の部隊もネイの奮戦に力付けられて前進を開始した。ネイは皇帝に増援を頼んだ。ここでさらに新手を投入すれば勝てる!
しかしこの時、東方で再びビューロー軍が優勢に立ち、ナポレオンは老近衛の中から2個大隊をそちらに差し向けていた。老近衛兵は強く、ビューロー軍を600メートルも押し戻した。しかし残りの老近衛兵13個大隊……もはやフランス軍最後の予備隊……を動かすことを躊躇ったナポレオンはネイの増援要請に対し「部隊をよこせだと! そんなものがどこにいる? 私に勝手に編成せよとでもいうのか!」と喚いて拒絶した。ここでイギリス軍に態勢立て直しの余裕が出来た。それに、ビューロー軍3万に続く後続のプロイセン軍が接近しつつあった。
一時の感情に身を任せたのは愚の骨頂であった。ネイの要請を撥ね付けてから30分後の午後7時、ナポレオンはようやく老近衛兵のうち本営の警護や最終予備を除く9個大隊6500人に前進を命令した。プロイセン軍の新手接近という噂(ていうか事実)が飛んでいたためそれは味方のグルーシー軍だとごまかした。ナポレオンは馬上剣をかざして「グルーシー軍近付けり!」と叫んで老近衛の志気を鼓舞した。皇帝自ら老近衛の先頭に立とうとしたが幕僚たちに引き止められ、かわりにネイが徒歩で先頭に立つ。他の部隊も勇み立つ。さらに北東に大軍が接近してくるのが望見された。「見よグルーシー軍だ!」しかしそれはプロイセン軍の新手だった。事実に気付いたフランス軍の将兵は色を失うが老近衛だけはそのまま前進を継続する。ナポレオンが戦場における最後の切り札として常に頼りにしてきた「数々の記憶に残る戦いの英雄たち」老近衛に全軍が注視する。
だが、何にしても老近衛を投入するのが遅すぎた。必死になって部隊を立て直したウェリントン公爵はフランス軍から見えない尾根の反対側に予備隊(イギリス近衛兵)を伏せていた。老近衛がそこから50メートルの地点にまで進んだその時、
「起てよ親兵! 進め!」ウェリントン公爵の号令が轟き渡り、イギリス近衛兵が一斉に立ち上がった。不意の射撃と銃剣突撃をもってフランス老近衛を追い落とした。これまでいくたの戦場で無敵を誇ってきた老近衛の敗退はフランス全軍の志気を奈落へと突き落とした。ローバウ軍団もデルロン軍団もプロイセン軍に圧倒される。
イギリス軍が奮い立つ。陣頭に進みでたウェリントン公爵が総進撃の命を下した。総崩れに陥ったフランス軍の中でネイ元帥が絶叫する。「貴様たち私がわからんのか、フランス陸軍のネイ元帥だぞ!」しかし兵士たちは「ネイ元帥万歳!」と叫びつつ敵に後ろを見せて逃げ散っていく。この時のネイの言動は小説『レ・ミゼラブル』に活写されている。以下この段落の「」内はその引用。ネイは「全身血にまみれ、泥にまみれ、天晴な武者振りをもって、手には折れた剣を握り」、ほとんど半狂乱になって、「戦場においてフランスの元帥がいかなる死に様をするか、きたって見よ!」横にいたデルロン将軍に「君は死ににいかないのか、おい!」「そして俺にあたる弾丸はないのか! おお、イギリスの砲弾は皆俺の腹の中に入ってこい!」ネイは死ななかった。
ナポレオンは「男子の死すべき時はきた、戦場にて討死するは勇士の誉れなり!」と叫んでイギリス・プロイセン軍に突入しようとしたがスルト参謀長に押しとめられ、馬車に詰め込まれて戦場を離脱した。
……しかし、雪崩をうって潰走するフランス軍と勢いに乗って進撃するイギリス・プロイセン軍の間にあって、ただ老近衛兵の一団のみが踏みとどまっていた。鷲の軍旗はちぎれ飛び、敵軍の砲弾が落下するごとにうち減らされ、しかし彼等は戦い続けていた。「諸君等は充分に戦った。ここは名誉の降伏をしたまえ」。イギリス軍の勧告に対し、「くそったれ !!」老近衛兵の真ん中に立つカンブロンヌ将軍の絶叫であり、これこそが無敵フランス大陸軍の最期を飾る、史上最も名高い罵声である。けっきょく彼等は降伏したのだが。
以上、丸10時間に渡った激戦「ワーテルローの戦い」の結果、フランス軍の死傷者は約2万4000人、イギリス・プロイセン軍のそれも約2万2000人を数えていた。グルーシーは本隊の壊滅に最後まで気付かなかった。ナポレオンはパリに戻って再起をはかったが、そのパリの議会はすでに彼を見捨てていた。ナポレオンは帝位を皇太子……エルバ島に流された時に引き離され、フランスにはいなかった……に譲るとの声明を発して退位するが、議会はこれを無視し、ルイ18世の再度のパリ帰還が実現した。7月8日のことであり、ナポレオンの「フランス第一帝政」はかくして名実ともに終了したのである。
ナポレオンは進退に窮し、思いきってイギリスの保護を求めることにした。彼はイギリスに住むことを望んだが、イギリス政府の返答は厳しく、皇帝のセント・ヘレナ島への流刑を伝えてきた。
イギリス艦「ノーサンバランド」に乗せられたナポレオンがセント・ヘレナに到着したのは10月16日、以降1821年に亡くなるまで、6年の余生をこの南大西洋の孤島にて過ごすことになった。
ナポレオンの健康が悪化しだすのは1820年に入った頃、翌21年4月には死期を悟り、遺言状の制作にとりかかった。
5月5日、フランス皇帝ナポレオン1世の臨終。享年51歳。死因は胃潰瘍もしくは癌と診断された。最後まで皇帝に従った忠臣たちはフランス本国に帰国した。
フランスにて、皇帝の遺体を本国に戻すべきとの運動が本格化したのは1840年のことである。かつての忠臣たちがセント・ヘレナに向い、11月30日には皇帝の遺体と共にフランス本国に帰国した。ナポレオン1世の無言の帰国を迎えるのはウディノ、モンセイ、スルトの3元帥をはじめとする、約10万の人々であった。
おわり
参考文献
『通俗世界全史14』 坪内逍遥監修 高須梅渓編述 早稲田大学出版部 1917年
『世界戦争史7』 陸軍少将伊藤政之助著 原書房 1939年
『フランス革命とナポレオン』 桑原武夫編 中央公論社世界の歴史10 1975年
『レ・ミゼラブル1』 ユーゴー著 豊島与志雄訳 岩波文庫 1987年
『ナポレオンの戦場 ヨーロッパを動かした男たち』 柘植久慶著 原書房 1988年
『ナポレオン下』 長塚隆二著 文藝春秋 1996年
『ナポレオン戦争 欧州大戦と近代の原点5』 ディヴィッド・ジェフリ・チャンドラー著 君塚直隆他訳 信山社 2003年
『ワーテルロー戦役』 アルバート・A・ノフィ著 諸岡良史訳 コイノニア社 2004年
その他