ナポレオン・ポナパルトは1769年8月15日、コルシカ島の港町アジャクシオに誕生した。彼はコルシカ島の小貴族シャルル・ボナパルトとレティツィア・ラモリーノの第2子であり、この夫婦の子供の総数ははっきりしていないが、成長したのは男5人、女3人の計8人であった。
父シャルルはコルシカの宗主国ジェノヴァ共和国への独立運動に加わっており、この運動の指導者パオリの副官をつとめていた。しかし、ジェノヴァ共和国はこの厄介な島をフランスへと売り飛ばしてしまい。そのちょうど1年後に生まれたナポレオンは、生まれながらにしてフランスの国籍を有することとなったのである。
しかし、コルシカ人はあくまで独立を求め、フランスの大軍を迎え撃ってゲリラ戦を展開した。しかし最終的にパオリはイギリスに亡命、シャルルはフランスに降伏し、その後うまく立ち回ってフランス貴族と同じ権利を付与された。ついでながらナポレオンには、実は彼はこの時コルシカにやってきたフランス総督の私生児であるとの噂があり、成長したナポレオン自身も何故かその噂を否定しなかったという。
1779年、10歳のナポレオンは兄ジョセフと共に、国王給費生という奨学金を受けて、フランス本国の学校に入ることになった。大人しいジョセフは神学校、そうでないナポレオンはブリエンヌの幼年学校へとそれぞれ入学した。幼年学校の生徒は全て貴族の子弟であり、それとひきかえ(貴族の端くれではあるが)ド田舎の出身であり、おまけに言葉に訛りのあるナポレオンがイジメの対象になるのは、ある意味当然の話であった。(イジメを肯定している訳ではありません)
14歳の時、ナポレオンはパリのシャン・ド・マルス士官学校に進学した。彼は同校にわずか11ヵ月在籍しただけで卒業試験に合格した。席次は58人中42番であったが、士官学校の在籍期間が通常3〜4年であることを考えると、ナポレオン少年は驚くべき才覚の持ち主であったといえる。そして「ボナパルト少尉」の専門は砲兵。以後のナポレオンは常に大砲と共に行動し、大砲の威力によって栄光を勝ち得ることになる。
以後しばらく、ナポレオンは各地の駐屯地をまわったり長期休暇をとってコルシカ島に帰ったりしていたが、20歳にあと1ヵ月という所でフランス大革命の勃発に遭遇する(註1)。翌年彼はコルシカ島に帰省し、革命の混乱に乗じてコルシカを独立させようとたくらんだ。しかし彼は島の有力者パオリと対立したことから島を逐われ、以後は故郷と決別してフランスの軍人として生きることとなる。革命フランスは1793年には国王ルイ16世を処刑したことから国内の反革命派に加えて周辺諸国の攻撃を受け(註2)、四方の敵に対抗し得る有能な軍指揮官が求められていた。
註1 革命勃発後しばらくの間は立憲君主制が求められていたが、やがては共和政の樹立へと突き進むこととなる。
註2 革命フランスは1792年に国王ルイ16世の王権を停止、翌年1月にこれを処刑した。これに危機感を抱いた諸国が結成したのが「第1回対仏大同盟」である(対外戦争はそれ以前にも行われている)。その一方でフランス国内でも王党派の叛乱が勃発していた。
その前後、フランスに戻ったナポレオンは己の政治信条を語る小冊子『ポーケールの晩餐』を著して中央政界の有力者ロベスピエール等の知遇を得、少佐に昇進してツーロン港のフランス軍砲兵隊の指揮官に任じられた。(ツーロンに赴任した時点では大尉だった)
当時のツーロンはイギリス・スペイン艦隊の支援を受けた反革命軍が立て籠って鉄壁の防御陣を布いており、革命後の混乱で人材の乏しいフランス軍は無謀な突撃を繰り返しては大損害をこうむっていた。ここでナポレオンは、まず港を見下ろすふたつの高地を奪取して、そこから敵艦隊を大砲で狙い撃ちにするという作戦を進言する。そして豪雨をついての作戦決行。足を負傷しつつも目指す高地を占領。港内の敵艦隊を追い払ってツーロンの反革命軍を降伏に追い込んだ。この功績により、当時24歳のナポレオンは一挙に少将に昇進し、一躍フランス軍を代表する若き英雄へと祭り上げられた。
ところがその翌年、パリの中央政界で政変がおこり(註3)、失脚したロベスピエールの派と見られたナポレオンも逮捕・短期間の拘留を経験した。すぐに出獄したものの無職になったナポレオンに対し、願ってもないチャンスとなったのが95年の「ヴァンデミエールの反乱」(註4)である。総決起したパリの王党派2万5000に対する政府軍はわずか5000にすぎず、危機にたった総裁政府(註5)の有力者バラスが思い付いたのが「ツーロンの英雄ナポレオン・ボナパルト」であった。正式の依頼を受けたナポレオンはまず騎兵を繰り出して大砲を奪い(この時騎兵を率いたのが後の元帥ミュラ)、その大砲をパリのど真ん中でぶっ放して反乱軍を蹴散らした。ナポレオンは中将に昇進し、さらに「国内軍司令官」の役職を手に入れた。
註3 「テルミドールの反動」のこと。93年、第1回対仏大同盟に対抗する必要性から独裁的権力を握ったロべスピエールらは反対派を徹底的に弾圧する「恐怖政治」を行っていたが、戦局の好転や内部抗争の激化等から次第に支持を失い、94年7月の「テルミドールの反動」と呼ぶクーデターによって失脚に追い込まれたのである。
註4 ロベスピエール等の「ジャコバン派」は普通選挙等の実現を求める急進共和派。それを覆した「テルミドール派」は財産資格に基づく制限選挙等を求める穏和共和派であった。そのどちらにも対抗して王政の復活を求めるのが王党派。今回の「ヴァンデミエールの叛乱」を起こしたのは王党派。
註5 テルミドール派の政権を「総裁政府」と呼ぶ。
1796年3月9日、ナポレオンは子連れの未亡人ジョセフィーヌ・ド・ボーアルネと結婚し、ついで「イタリア遠征軍最高司令官」に任命された。ジョセフィーヌは軽薄で浪費家、美貌以外に何の取り柄もない女性であったが、不思議と新しい夫ナポレオンに幸運をもたらし、彼女のふたりの連れ子も、ナポレオンの一族の中で、最も誠実・忠誠な若者へと成長する。
3月27日、イタリア遠征軍最高司令官ナポレオン・ボナパルトが遠征軍の所在地ニースに到着した。現地の指揮官には、ベルティエ、オージュロー、マッセナ、セリュリエ等がおり、彼等は皆後に皇帝ナポレオンの元帥に列せられることになる。
「兵士諸君。諸君は着る物もなく、栄養も不良である。政府は諸君等に何も与えてくれない。しかし、私は諸君等を世界で最も肥沃な平原に連れていく。諸君はそこで、名誉・栄光・富を得ることだろう」。今では伝説のひとつとされているこの演説も、いくらかの真実を含んでいることは間違いない。正面の敵オーストリア・サルディニア(註1)連合軍6万に対してフランス軍4万弱、食料も衣類も弾薬も不足している。この状態を何とかするためには、とにかく戦いに勝って現地の物資を分捕る以外にない。それも単なる略奪ではなく、征服した土地に莫大な献金を命じるという訳である。そして奪った財宝の一部は本国の政治家たちのもとに贈り、その歓心を買うことも忘れない。
註1 言うまでもないことだが、この時代には「イタリア」という統一国家はなく、サルディニア・ベネチア・ナポリ等の中小の国家が分立していた。
4月12日、モンテノッテでフランス軍の最初の勝利。退却するオーストリア軍を追撃し、ミラノ近くのロディで激戦を展開する。両軍を隔てるアッダ川に架かる1本の橋、敵軍の乱射にフランス兵達が怖じ気付く中、ナポレオン自ら軍旗を掲げて橋を突進する。奇跡的に傷ひとつ負わずに対岸に辿り着き、びっくりしたオーストリア軍は総崩れになる。この話が本当かどうかは知らないが、この「ロディの戦い」により、ナポレオンは配下の下士官・兵達の絶対の信望を得るようになった。
5月15日、フランス軍ミラノに入城。当時の北イタリアの多くの地域はオーストリアが支配していたが、ミラノはその拠点であって、オーストリア軍を追い払ったフランス軍は「解放軍」と呼ばれて大歓迎を受ける。ナポレオンはここで2000万フランの献金を受け、レオナルド・ダ・ヴィンチの『モナ・リザ』も手に入れた。
この後、フランス軍はオーストリア軍8000の籠る重要拠点マントヴァ要塞の攻略にかかり、以後の戦局は、マントヴァ要塞を包囲しながら各地に師団をやって小競り合いを繰り返す、という膠着状態へと移行していった。
しかし7月中旬、オーストリア側に援軍が到着、総勢6万を2軍にわけて、各地に分散するフランス軍を撃破しはじめる。ナポレオンは思いきってマントヴァ要塞の包囲を解き、大急ぎで全軍4万4000の結集をはかって、現在2軍に分かれているオーストリア軍の各個撃破という作戦にでる。ロナト、カスティリョーネで激戦。ナポレオンの作戦が当たり、オーストリア軍は大打撃をこうむって、助けるつもりでいたマントヴァ要塞に逆に逃げ込んでしまうという有様だった。
11月、オーストリア軍に再び援軍到着。13日、アルコレの戦い。今回も橋をめぐる死闘となり、そして今回もナポレオン自ら軍旗を掲げて「兵士諸君、いつまでもロディの勇者でいたいなら、私に続け !」しかし今回はナポレオンは橋から落ちて泥まみれになった。幸いケガはなかったが、攻撃そのものは失敗した。続く2日、フランス軍が攻撃に出ては撃退されるを繰り返していたが、しかし3日目の朝、今度はオーストリア軍の方が攻撃に出て撃退され、フランス側がついに最後の勝利をおさめた。
年が明けて2月1日、半年以上もフランス軍の包囲に耐えていたマントヴァ要塞が降伏した。その少し前のリヴォリの戦いもフランス軍の勝利に終っており、これにてイタリアのオーストリア勢力は完全に潰え去ったのである。
1797年、フランス軍はウィーンから160キロのレオーベンに到達し、続いて4月には本国の総裁政府に無断でオーストリアとの講和交渉に入った。連戦連勝とはいえ、フランス軍の疲労は最早限界まできており、それはオーストリア軍にしても同じことである。
10月17日、ついにオーストリアとの和平条約「ガンポ・フォルミオの和約」が調印された。オーストリアはフランスにライン河左岸とイタリアのロンバルディアを譲り、フランスはオーストリアによるベネチア共和国併合を黙認した。93年のフランス国王ルイ16世処刑に端を発して諸国が結成していた「第1回対仏大同盟」はここに崩れ、フランスとの戦争を継続するのはイギリス一国のみとなった。
そのイギリスは、フランス軍の侵入を、天然の防壁、すなわち海によって防いでいた。イギリス艦隊は、1797年2月のサン・ヴィセンテ岬沖の海戦でスペイン(96年10月にフランス側についてイギリスに宣戦していた)の艦隊を叩いており、それでなくても海軍の弱いフランス軍の力では、英仏海峡の彼方に遠征軍を送り込むのは事実上不可能であった。そこでナポレオンは、イギリスと、その最も重要な海外植民地であるインドとの通商路分断を狙って、はるかエジプトへの遠征を計画した。この時にはすでにナポレオンを煙たく思いだしていた総裁政府は、「エジプトで戦死でもすれば有難い」と(考えたらしい)、この遠大な計画を認可、ナポレオン自身を最高司令官とするエジプト遠征軍3万5000の編成に着手した。
そして1798年5月19日、戦列艦13隻、フリゲート艦7隻を主力とする艦隊に守られた200隻の大輸送船団がツーロン港を出帆、イギリス側ネルソン艦隊の追撃を巧みにかわしつつ、7月1日にはエジプトのアレクサンドリアに上陸した。この時代のエジプトはオスマン・トルコ帝国の属国であり、「マムルーク」と呼ばれるトルコ系の騎士集団の支配下におかれていた。
7月上旬にエジプト北部の諸都市を制圧したフランス軍は、さらにエジプト南部の征服を目指して、21日にはピラミッドの付近にてマムルークの大軍と遭遇した。あまりにも有名な台詞が、この時ナポレオンの口から発される。「兵士諸君 ! ピラミッドの頂きから、4千年の歴史が諸君を見下ろしているぞ ! 」マムルーク軍の騎兵突撃はフランス軍の方陣の前に粉砕され、24日にはフランス軍によるカイロ入城が果たされた。しかし、エジプトの植民地化に着手したナポレオンのもとに、とんでもない悲報がもたらされる。
フランス軍上陸後、輸送船と小型艦艇はアレクサンドリア港に、主力艦隊はアブキール湾にとそれぞれまとまって停泊せよとの指令を発していたのだが、このうちアブキール湾の主力艦隊 ̄戦列艦13隻、フリゲート艦4隻 ̄が、イギリスのネルソン艦隊の攻撃を受け、ほとんど全滅したというのである。これでフランス本国との連絡は断たれ、遠征軍はエジプトに孤立した。ナポレオンは激怒するが、最早後の祭り。低下しだした志気の刷新をはかり、北方シリアへの遠征を決行する。
1799年2月、ナポレオンは1万6000の兵を率いてカイロを出陣、まずヤッファを占領した。ここでペストが流行って多くの兵士が倒れるが、それでも3月17日にアッコン に押し寄せたフランス軍は、そこで思わぬ強敵にでくわすことになる。この地のオスマン軍はイギリス軍の軍事顧問の指導を受けていたが、そのイギリス顧問は何と亡命フランス貴族、しかもナポレオンにとって、幼年学校の同期生にあたる男であった。その顧問フェリポー大佐によるアッコンの守りは完璧であり、フランス軍は何度も突撃を繰り返しては撃退された。地下にトンネルを掘っての奇襲作戦も上手くいかず、そのうちにオスマン側に援軍が駆け付けてきた。
アッコン攻略は失敗続きだが、平地での戦いなら負けはしない。先発したクレーベル師団が方陣を組んで敵の攻撃に耐える中、ナポレオン率いるフランス軍の精鋭が相手の後ろに迂回する。結果はフランス軍の大勝利である。しかし、アッコン攻略の方はさっぱり進展せず、さすがのナポレオンも5月20日にはエジプトへの退却を決意した。フランス軍は6月14日にカイロに帰還するが、一連の戦闘における戦死者は5300人に達していた。
オスマン軍が逆襲に出る。7月15日、イギリス艦隊に運ばれたオスマン軍1万5000がナイル河口近くのアブキール湾に上陸したのである。しかしナポレオンの反応は早い。ただちに1万の兵を率いて打って出た彼は、猛烈な突撃を行ってオスマン軍を海へと追い落とす。この「アブキールの陸戦」が、ナポレオンのエジプトにおける最後の勝利となった。
この頃ナポレオン不在のフランス本国は、危機的な状況に陥っていた。「ナポレオン軍エジプトにて孤立」のニュースを受けたヨーロッパ諸国は再び対フランスへと結束し、イギリスの提唱による「第2回対仏大同盟」を結成するに至った。同盟軍はドイツ・イタリア両戦線でフランス軍を連破するが、閣内の抗争ばかりで民心を失う一方のフランス総裁政府はこの危機に対しなす術を知らなかった。
エジプトでこの話を知ったナポレオンは、やはり自分は一刻も早くフランス本国に帰らなければならないと考えた。それに、上手くいけば、自分が政権を掌握することが出来るかもしれない。エジプト遠征軍は ノ ノ可哀想だが置いていく。
そして、1799年8月23日に密かにフリゲート艦に乗り組んだナポレオンとその側近達が、幸運にもイギリス艦隊に発見されぬままフランスに到着したのは10月9日であった。ツーロンの英雄、ヴァンデミエール将軍、イタリアの常勝将軍、フランスを救ってくれたら王にしてやるぞ! 予想外の大歓迎を受けたナポレオンが「ブリュメール18日のクーデター」を起こして全権を掌握するのはちょうどその1ヵ月後のことであるが、彼に捨てていかれたエジプト遠征軍はその後も苦しい戦いを強いられ、最終的にイギリス軍の軍門にくだったのは、その2年もあとの話であった。
「ブリュメール18日のクーデター」で全権を握ったナポレオンが最初にやるべき仕事は、自分の留守中に崩壊しかけていた前線の立て直しである。彼はかつて自分が制圧していたイタリアの再度征服を目指し、この方面に展開するオーストリア軍の不意を突くために、「アルプス越え」という奇策を考案した。南フランスからイタリアに入るには地中海沿いのルートを通るのが常識であって、険しいアルプスの山岳地帯を、しかも大軍団が通ってくるとは誰にも予測出来るものではない。
かくして「第2次イタリア遠征」の開始である。5月とはいえ雪の残るアルプス越えには難渋したが、どうにか山を越えて一息ついたナポレオン軍の苦労はまだ終わらない。ナポレオンは敵地にてオーストリア軍の動きがよくわからないまま麾下の部隊を各地に分散するというミスをおかし、6月14日に始まったマレンゴの戦いでは、あやうくオーストリアの大軍を相手に大敗を喫する寸前まで追いつめられた。しかし、フランス軍総崩れの直前にドゼー率いる別働隊が到着、ナポレオンはドゼーの戦死とひきかえに最後の勝利を手に入れた。第2次イタリア遠征の勝利確定である。
1800年12月、今度はドイツ方面で、モロー将軍の率いるフランス軍がオーストリア軍を大破した。この「ホーエンリンデンの戦い」におけるフランス軍には、15年後の「ワーテルローの戦い」で中心的な役割を果たすことになるネイとグルーシーがいた。翌年2月、オーストリア・フランス間にて「リュネヴィル条約」の締結。以前の第1次イタリア遠征終結の際に結ばれていた「ガンポ・フォルミオの和約」を再確認するこの条約により、第2回対仏大同盟が崩壊した。
この年、イギリスはフランス寄りの姿勢をとっていたデンマークの艦隊をコペンハーゲンの海戦で破り、フランスの外交戦略に痛撃を与えていたが、このあたりで対仏和平を望む声が高くなってきた。国内の労働運動の激化、植民地アイルランドの反乱、イギリスにとっていいことはなにもない。一方のナポレオンも、対英和平による「平和の立役者」という肩書きが欲しくてならず、困難な交渉の末、1802年3月の「アミアンの和約」成立へと漕ぎ着けた。
しかし、この和平は結局は双方ともに時間稼ぎの一時しのぎであった。フランスはイギリスの市場を奪い取ろうとし、翌年4月にはマルタ島の管理権をめぐって両国関係が悪化、5月のロシア皇帝アレクサンドル1世による調停も失敗し、英仏間の平和はわずか1年間で幕を閉じたのである。
英仏開戦後、ナポレオンはただちに15万の大軍を英仏海峡沿いに結集したが、海軍力に乏しいフランスにとって、これだけの大軍を海峡の向こうに渡すのは、やはりどう考えても不可能であった。上陸作戦を援護すべきフランス海軍はイギリス海軍を恐れるあまりロクな動きがとれず、そのうちにロシアとオーストリアがイギリス側にたってフランスに宣戦布告してきた。「第3回対仏大同盟」の結成である。
これらの一連の動きの最中、ナポレオン・ボナパルトはついに世襲皇帝ナポレオン1世として即位した。王党派の指導者カドゥータルによるナポレオン暗殺計画を防ぎ、旧フランス王家の一族アンギアン公を処刑して、ナポレオンの政敵をほぽ片付けたとはいえ、それでもナポレオン本人がもしも暗殺者の凶刃に倒れてしまった場合、血縁の後継者がいなければフランスは大混乱に陥ってしまうだろう、というのが世襲皇帝制樹立の理由である(もっとも、この時のナポレオンには子供はいなかった)。革命の終結と国内の安定をもたらした彼の即位に反対するものはごく少数であり、あとに必要なのは敵国の撃破だけである。
ここでナポレオンは英断を下す。イギリス本土上陸作戦を無期限延期とし、「イギリス遠征軍」を「オーストリア遠征軍」に名称変更して、そのまま東の敵オーストリアに向けるのだ。フランス軍の7個軍団は「大陸軍(グランダルメ)」と総称され、ドイツ方面へと怒濤の進軍を開始する。
その頃、マック大将に率いられたオーストリア軍は南ドイツのウルムに進軍し、そこでフランス軍の出鼻を挫こうとしていたが、強行軍を重ねるフランス軍は誰にも予測出来ないスピードでオーストリア軍の背後にまわり込んでこれを包囲、短期間の砲戦の末にこれを降伏せしめた。進撃を続けるフランス軍はその1ヵ月後にはウィーンに入城した。オーストリアのフランツ2世(正確には神聖ローマ皇帝)(註1)は北に逃れ、ロシア皇帝アレクサンドル1世の軍と合流して反撃の態勢を整えた。
註1 現在のドイツ・オーストリア・北イタリア等は10世紀以来「神聖ローマ帝国」という国の支配下に置かれていたが、この国は有力諸侯の割拠が著しく、皇帝はその有力諸侯の中から選挙によって選ばれていた。ここでほとんど毎回神聖ローマ皇帝に選出されていたのがハプスブルグ家である。帝国内で実際に皇帝の支配力が及ぶのはハプスブルグの家領であるオーストリア等に限られており、ハプスブルグの領地を一括して、慣例として「オーストリア」と呼んでいる。
ここで、ナポレオンの耳に悲報が達する。去る10月21日、スペインのトラファルガー岬沖でフランス・スペイン連合艦隊とイギリスのネルソン艦隊が交戦、その結果、連合艦隊が完敗したというのである(イギリス側でもネルソンが戦死)。これでイギリス本土上陸は完全に不可能となった。今はとにかく、目の前にいるロシア・オーストリア軍の撃破あるのみである。
12月2日、アウステルリッツの戦い。フランスのナポレオン1世、オーストリアのフランツ2世(神聖ローマ皇帝)、ロシアのアレクサンドル1世という3人の皇帝が顔を揃えるこの「三帝会戦」は、フランス軍の一方的な大勝利に終った。「兵士諸君 ! 諸君が『俺はアウステルリッツで戦った』と言えば、人々は『これぞ勇者だ !』というようになるだろう」自軍右翼をわざと弱体にして敵のそちら側への攻勢を誘い、敵の中央が手薄になった所に強大なる予備軍を投入する。ナポレオンの生涯において、最も華やかなる大勝利である。12月26日、フランス〜オーストリア間でプレスブルクの講和条約が結ばれ、多額の賠償金支払い・領土の割譲等が取り決められた。第3回対仏大同盟の崩壊である。
しかし、戦場から逃れたロシア皇帝アレクサンドル1世は引き続きイギリス・プロイセンと連合し、翌1806年10月には第4回対仏大同盟を結成した。今度の主力はプロイセン軍である。
しかし、というかやはり、革命を経験し、実力本意で兵士からの叩き上げ士官の多いフランス軍に対し、年功序列で無能な貴族出身士官ばかりのプロイセン軍では勝負にならなかった。10月10日、無謀にも背水の陣でフランス軍に戦いを挑んだルードヴィヒ親王の部隊が惨敗して親王も戦死、3日後にはナウムブルクの武器庫が陥落してプロイセン軍の指揮は著しく低下した。
10月14日、イエナの戦い。前日のうちにフランス側の砲兵隊が高地に陣取っており、想定外のポイントからの砲撃とフランス歩兵・騎兵の猛攻の前にプロイセン軍が完敗する。同じ日にはアウエルシュタットにてフランス側ダヴー軍とプロイセン側ブラウンシュヴァイク軍が交戦、後者の方が数で優っていたが兵力の逐次投入という愚策をおかし、結局退却に追い込まれた。
フランス軍は25日にはベルリンに入城し、ここで「ベルリン勅令」を発布して、全ヨーロッパ諸国の、対イギリス経済封鎖への参加を強制した。もちろん、すでに産業革命に入っているイギリスにとってかわれる程にはフランスの産業は発達しておらず、密貿易が横行してすぐにこの「大陸体制」は破綻してしまうのだが、それはもう少し後の話である。
第4回対仏大同盟のうち、プロイセンには半死半生の打撃を与え、イギリスには経済封鎖という手を打った。残りはロシアである。1807年2月8日の、猛吹雪をついて行われたアイラウの戦い、冬を越して6月10日に起こったハイルスベルクの戦いはどちらも双方痛み分けに終わる。特にアイラウの戦いではフランス側の機密文書がロシア軍の手に落ちたことから作戦が知れてしまい、多勢のロシア軍の猛攻に崩れかかった瀬戸際に別働隊が到着して持ちこたえるという有り様であった。
しかし、6月13日のフリートランドの戦いはフランス軍が大勝する。アイラウ会戦の戦訓を活かしたナポレオンが充分な兵力を結集し、ロシア軍をアルレ川へと追い落としたのである。
25日、ついに対仏和平を決意したロシア皇帝アレクサンドル1世と、フランス皇帝ナポレオン1世がニーメン川に浮かべた筏の上で会見した。ここで結ばれた「ティルジット条約」において、フランスから遠く、充分に善戦したロシアは対イギリスの経済封鎖への参加を約束するだけですんだが、すでにフランス軍の占領下にあったプロイセンはその領土の49%を失い、さらに巨額の賠償金支払い等を義務付けられた。プロイセン国民の憤慨たるや大変なもので、以降国家を挙げての改革事業に邁進するこの国は、いずれはナポレオンに対する恐るべき敵となって復活することであろう。
1808年5月、スペイン王室の内紛にフランス軍が介入し、以後ナポレオンの没落まで延々と続く「スペイン戦争」が勃発した。ナポレオンの奸計によってスペインのブルボン王家が王位を失い、かわってナポレオンの兄ジョセフ・ボナパルトがスペイン国王に任命されたこと等への怒りが爆発したのである。無敵のフランス大陸軍にとって、これまで以来英仏両大国の間をフラフラしてきたスペインの軍隊を組み伏すのは、何の造作もないことの様に思われ、確かに正規軍は大したことはなかったが、そのかわり各地の農民を主体とする「ゲリラ」がフランス軍を散々に苦しめた。
彼等は他所者の侵入への防衛反応という形で蜂起したものであったが、スペインで伝統的な勢力を持つ聖職者や地主たちは、革命以来の進歩思想を持ち込むフランス軍を「キリストの敵、無神論者」と呼んで、信心深いスペイン人に対し、フランス軍への憎悪を煽りまくった。各地で惨たらしい殺し合いが繰り返され、報復が報復を呼んで、おまけにスペインを支援するイギリス軍まで参入するに及び、状況は二転三転、まったくグチャグチャになって理解するのも困難な争いが果てしなく続いた。
フランス軍にとって致命的だったのは。1808年の7月にデュポン将軍率いる2万8千の軍勢が、スペイン正規軍とゲリラの前に降伏してしまったことである。ナポレオンの即位以来、無敗を誇ったフランス大陸軍の最初の敗北である。激怒したナポレオンは直に援軍を率いて現地に親征するが、「フランス軍でも負けることがある」事実を密かに喜んだオーストリアは、3年前のアウステルリッツの復讐戦の好機到来、とばかりに軍隊の再編にとりかかる(当然イギリスと同盟しており、これが第5回対仏大同盟である)。
しかし、やっぱりナポレオンが恐いオーストリアの動きは限度を越えて緩慢であり(というか、フランス軍の動きが早い)、1809年4月に実際に対フランスの宣戦を布告した時点では、スペインから軍勢の一部をつれて帰ってきたナポレオン本人による、充分の備えを許してしまっていた。
4月22日、エックミュールの戦い。当然のように勝利するフランス軍はそのままウィーン目指して東進し、5月13日には2度目のウィーン入城を果たした。オーストリア軍主力はウイーンを退去、ドナウ河の東岸に退いた。
19日、フランス軍の前衛がドナウ河を渡ってオーストリア軍に戦いを挑もうとするが、渡河中に仮橋が流され、先に渡った部隊が10万の敵の真ん中に取り残されてしまう。オーストリア軍の猛攻の前にランヌ元帥が戦死、双方兵力の3分の1以上を失い、結局仮橋を修復したフランス軍の方が撤収した(アスペルン・エスリングの戦い)。
いったんは引き下がったが、このままパリに逃げ帰るつもりは毛頭ない。各地から続々と援軍が到着し、ウィーン近郊のフランス軍はその兵力18万に大砲600門にも達し、オーストリア軍の方も、16万の兵と450門の大砲を揃えてフランス軍の攻撃を待ち構える態勢をとった。
7月5日、フランス軍が隠密裏にドナウ河を渡り、続く砲撃に押されたオーストリア軍は北方のヴァグラム高地の南麓に後退した。翌6日にはヴァグラム高地の周辺に展開する兵力は敵味方併せて約30万人にも達した。空前の規模の砲撃戦と歩・騎兵の突撃が繰り返され、両軍あわせて5万を越える死傷者を出した末にフランス軍の勝利か確定する。10年かそこら前の第1次イタリア遠征の時には、1会戦における兵力は敵味方あわせて10万程度だったのが、いつのまにやらこの大軍団。この時点の誰にもよくわからないのだが、戦争の形が大きくかわりつつあった。
結局、オーストリアは新たな講和条約「シェーンブルン条約」を押し付けられて莫大な賠償金と領土を支払った。第1次・第2次イタリア遠征、アウステルリッツの戦い、そして今回の戦い。オーストリアがナポレオンに敗れたのはこれで4度目であり、フランスに対し最終的な復讐を果たすのは、ナポレオンがロシア遠征に敗れて大打撃をこうむるまで、あと3年の月日を待たねばならない。
12月15日、ナポレオンは皇后ジョセフィーヌと離婚し(ナポレオンの子供が産めないからという理由であった)、翌年4月2日にオーストリア皇女マリ・ルイーズと再婚した。新郎40歳、新婦17歳であり、マリ・ルイーズにとってはこの結婚は人身御供もいいところであったが、彼女はすぐに新しい環境に慣れ、翌年3月には男の子を出産した。帝国の勢力圏は西のスペインから東のポーランドに達し、軍隊はフランス革命最中の1793年から施行された徴兵制(と従属国からの供出)によって無尽蔵。ナポレオン1世の絶頂期である。しかし、スペイン方面でのゲリラ戦はおさまる気配もなく、フランス軍の侵攻によって愛国心を呼び覚まされたプロイセン等では急速な改革が進みつつあった。もはや、「愛国心」とかの精神力と、徴兵制が保障する大軍団とがあわさって無敵の強さを発揮する、というのはフランスだけの話ではなくなったのである。そして、ナポレオンの大陸制覇の破綻は、東の彼方ロシアからやってくる。
ロシアにとって、ナポレオンによる対イギリス経済封鎖への参加、という話ほどの無理難題は、他に考えつきもしなかった。いまだフランスに屈しない唯一の超大国であるイギリスは、ロシアの最大の貿易相手国であって、それとの関係を断たれることは、すなわちロシア経済の破綻を意味していた。フランスにはイギリスにとって代われる程の市場がなく、たまりかねたロシアは1810年には早々と対イギリス貿易の再開にふみきった。
もちろんナポレオンはロシア懐柔の様々な手を打つが、どれも上手くいかず、1812年初頭についに対ロシアの軍事行動を開始する。史上名高い「ロシア遠征」のはじまりである。
6月22日、ナポレオン自ら率いる45万の大軍がロシアに侵入。18万にすぎないロシア軍は決戦を避け、ロシアの広大な大地といずれやってくる厳しい冬を味方につけるため、東へ東へひたすら退却する。フランス軍は、史上空前の大軍を完全に養いきれる程には軍隊の補給・指揮機能が充実しておらず、現地の農民たちは逃げ散って徴発もままならない。脱落者が続出して進めば進む程に数が減っていき、遠征開始2ヵ月後にはその軍勢は13万程度に落ち込んでいた。
ロシア軍も逃げるだけではない。一部の強硬派の意見をいれ、9月7日にはボロジノにてフランス軍に決戦を挑んできた。この「ボロジノの戦い」は、史上まれにみる大激戦であった。ロシア随一の名将クトゥーゾフの率いるロシア軍の総数は12万である。両軍あわせて25万の大軍に大砲1227門が轟き、12時間に渡る砲撃と突撃の応酬の後には10万を越す死傷者が転がっていた。武将バグラチオンを失いながらもロシア軍はフランス軍の猛攻をよくしのぎ、夜の闇に紛れて東へと退いた。負けなかったとはいえ大損害を受けたロシア軍はモスクワ防衛を断念、9月14日にはフランス軍がこの「聖都」に入城を果たした。しかし、町にはほとんど誰もいなかったのである。
翌日、モスクワに大火が起こった。市街地の3分の2を焼き付くすこの大火事がおさまった後もナポレオンは動こうとせず、ペテルブルクにいるロシア皇帝アレクサンドル1世からの講和の使者を待ち続けていたが、何の音沙汰もないうちに冬がやってきた。
「食物がない」「冬用の装備がない」。フランス軍は撤退を始めるが、完璧に手遅れである。吹雪に追い立てられ、農民のゲリラの襲撃に悩まされるフランス軍は惨めな敗残者の集団になりさがり、全滅しないのが奇跡的な程であった。
「ナポレオン軍ロシアで壊滅」。プロイセン等が大喜びしたのは当然である。ナポレオンはさっさと遠征軍を見捨ててフランス本国に帰ってしまい、その遠征軍もプロイセンの対フランス感情悪化を見てさらに西に逃げていく。1813年3月、ついにプロイセンがフランスに宣戦布告する(もちろんロシア・イギリスが味方であり、これが第6回対仏大同盟である)。プロイセンは1807年にフランスに敗れて以来国をあげての改革事業に邁進しており、国民感情はフランス憎しで結束している。いまこそ復讐の時である。
しかし、ナポレオンもすぐに立ち直る。大徴兵によって整えた軍団を率いて4月中にはドイツに侵入し、リュッツエン、バウツェンにてロシア・プロイセン連合軍を撃破した。この時点ではまだオーストリアが日和っており、これを味方につけた方が最後の勝利を手にするだろう。
6月、スペイン戦線でフランス軍が大敗した。ドイツ方面での巻き返しのために(スペイン方面軍から)スルト元帥以下の精鋭を引き抜いたのがその敗因だが、これを見たオーストリアは対フランスの宣戦布告を決意した。8月上旬にドイツ方面に展開する兵力は、フランス軍が50万、ロシア・プロイセン・オーストリアその他の対仏同盟軍が70万、あわせて120万にも達していた。
8月26日、ドレスデンの戦い。フランス軍が大勝する。ナポレオンはやっぱり強い。しかし、その部下たちはあちこちで敗北する。戦場が広大かつ展開する兵力が多すぎるため、ナポレオンひとりで全ての戦域を指揮するのが不可能なのだ。同盟軍は全軍を3つの方面軍にわけ、そのうちひとつがナポレオン直属軍の攻撃を受ければ、他のふたつがナポレオンのいない所を攻撃する。ナポレオンの部下達は皇帝の命令を忠実に実行するしか能がなかったが、同盟軍の各方面軍は独自の裁量で動けるだけの指揮能力を備えており、その中心となるのは強力な軍制改革を経たプロイセン軍の参謀達なのであった。
10月16〜19日、同盟軍の3方面軍総がかりによるライプツィヒ攻略。ここでついにナポレオン本人の率いるフランス軍主力の撃破に成功した。この戦いにおいて、巧みに兵力を結集した同盟軍30万に対し、部下達のヘマ続きで消耗していたフランス軍はやっと16万程度であった。フランス軍はライン河を越えて本国に逃げ帰った。かつて全ヨーロッパからエジプトまで駆け巡ったフランス軍が、ついにフランス本国で戦うことになったのである。
しかし、この「フランス戦役」において、ナポレオンの軍事的天才は完全によみがえった。マルヌ河畔にてブリュッヘル軍を4連破、セーヌ河畔にてシュヴァルツェンベルク軍を2連破、ランスにてロシア軍を粉砕、わずかの新兵を率い、勝手知ったる北フランスを縦横に駆けるナポレオンの勇姿は、かつてイタリアやドイツで対仏同盟軍を蹴散らした若き日の彼の姿を彷佛とさせるものがあった。ある時皇帝自ら大砲の照準をあわせ、「この私を殺すに足る砲弾など、この世にはまだないぞ」。
しかし、皇帝やその大陸軍の善戦にもかかわらず、一般のフランス国民の抗戦意欲は低下する一方であった。フランス革命最中の1792年に最初の戦いが始まってから、もう20年以上も戦争が続いている。命を失い、手足を失った若者は数知れず、92年(もう22年も昔の話である)の「ヴァルミーの戦い」(註1)の時のような、祖国の防衛に熱狂する市民たちが自発的に前線に赴く、という程の気力は、今のフランス人にはなくなっていた。
註1 これは「第1回対仏大同盟」より以前に起こった戦い。革命の熱気と愛国心に燃えるフランス軍がプロイセン軍のフランス進撃を阻止した戦い。
3月29日、同盟側シュヴァルツェンベルク軍とブリュッヘル軍が、疲れきったフランス軍の攻撃を巧みにかわし、ついにパリ市の城門に到達した。フランス軍自体が疲弊の極に達していたが、44歳のナポレオン自身もやはり衰えていた。同盟軍の残していった騎兵の陽動にあっさりと騙されたのである。
3月30日始まった同盟軍のパリ総攻撃に際し、いまだ皇帝を信じる労働者や理工科学校の生徒たちが奮戦するが、皇兄ジョセフ・ボナパルトを中心とする高級指揮官たちは完全に戦意を失っていた。夕刻、両軍の間に停戦条約が締結され、パリ守備軍の市外退去が決定した。パリ陥落である。
その時皇帝は、同盟軍のパリ攻撃の報を受け、パリから17キロのジュヴィジにまで駆け付けていた。彼はここでパリ陥落の知らせを受け取り、いったん南のフォンテンブロー宮殿に向かうことにした。
ナポレオンはまだ完全に諦めた訳ではなく、手持ちの軍勢約4万も戦意を保っていた。しかし、それを率いる元帥達の志気は限界まで落ち込んでいた。皇帝に引き立てられたおかげで今の自分達があるとはいえ、その皇帝の没落と一緒に沈没するのは御免である。ネイやルフェーブルといった元帥たちがナポレオンに退位を進言した。しばらく激しいやりとりが続いたが、ナポレオンもついに観念した。
4月4日、皇帝ナポレオン1世は退位宣言に署名し、11日には同盟諸国の提示する「フォンテンブロー協定」を受け入れた。「ナポレオンはフランスその他の諸国への主権を放棄し、かわりに地中海の小島エルバ島を与えられる」元帥達は次々と去り、新しいフランス国王ルイ18世(16世の弟)に忠誠を誓った。
4月20日、エルバ島への出立の日がやってきた。ナポレオンはまず最後まで手許に残った士官たちにわかれを告げ、ついでフォンテンブロー宮殿の前に整列する近衛兵に告別した。最後の演説。「諸君等あるかぎり、フランスが戦って負けることはないであろう」。イギリス代表カンベルまで含め、近衛兵全員が涙を流すなか、皇帝は近衛軍司令官プティ将軍の両頬に接吻し、彼の差し出す軍旗を抱擁した。こうしてナポレオンは、世界史の表舞台から完全に姿を消した、と誰もが思ったのだが ノ ノ。
そのわずか10ヵ月後、ナポレオンは1200の兵士を率い、配流先のエルバ島を脱出した。フランス本国で王政復古を果たしたルイ18世の評判は極めて悪く、国境地帯の要塞を手放したりしてフランス人の憤激を買い、さらに軍隊を冷遇してその離反を増長させていた。「フランス国民は、皇帝の治世とその栄光を懐かしがっている」。本国から届く知らせを前に、ナポレオンは再度立ち上がったのである。
3月1日、ナポレオンがフランス本国のサン・ジュアン湾に上陸、「兵士諸君 ! 余だ ! 諸君の中に、皇帝を殺したい者がいれば、殺せるぞ ! 余はここにいる !」「皇帝万歳 !」ルイ18世が派遣したナポレオン討伐軍は丸ごと寝返りをうち、パリへと進軍するナポレオンの軍勢は雪ダルマ式に膨れ上がった。3月20日、皇帝はパリに帰還し、市民の大歓迎を受けた。
最初は同盟諸国との講和の道を探ったナポレオンであるが、すぐにそれは無理だと悟るに至った。総勢70万を超える同盟軍のフランス進撃を前に大急ぎで徴兵をかけ、どうにか20万の軍勢を揃えたが、かつての元帥たちのある者は死に、ある者は完全に裏切り、またある者は年老いて戦場に出ることが出来なくなっていた。高級指揮官の人材不足はおおうべくもない。
さて、同盟軍は大きくわけて5つの方面軍をフランスへと向けており、その内同盟諸国の要といえるイギリスの軍勢10万がベルギーのブリッセルに、その東南60キロのナミュールにプロイセン軍12万が展開していた(それ以外は遠くにいるか様子をみている)。数的に劣勢なフランス軍に出来るのは各個撃破だけであり、とにかく速攻で動いて以上ふたつの軍を叩く以外にない。6月12日、各地の守備隊に兵力を割き、残り12万5000の軍勢を率いるナポレオンがパリを出陣した。
15日、フランス軍の勝利、シャルルロワにてブリュッヘル率いるプロイセン軍を撃破した。幸先がよい、と思っていたら、自軍右翼第4軍の将軍が一部の幕僚と共に逃げてしまった。彼等は露骨な王党派であり、こうなることは予測がついていた。それでも人材不足のため、そんな奴でも使わざるを得なかったのである。プロイセン軍は巧みに退却し、リニーにて軍勢を立て直した。
フランス軍が次に目指すのは、イギリス軍とプロイセン軍の中間にあるカトル・ブラの攻略である。ここにいるのはイギリス軍4000のみ、ナポレオンはネイ元帥に4万の兵を授けてこれにあたらせるが、何故かネイは積極的な攻撃に出ず、ろくな戦いもせずに引き返してきた。
16日、ナポレオン直々に動き、リニーのプロイセン軍を攻撃すると共に、前日と同じくネイ元帥にカトル・ブラの攻略を命じた。リニーの戦いは激戦であったが、最終的にはフランス軍とっておきの近衛軍団が突撃してプロイセン軍を圧倒した。しかし、プロイセン軍は参謀グナイゼナウの冷静な指揮もあって整然と退却し、大打撃をうけながらも総崩れには至らなかった。一方、カトル・ブラに向かったネイ軍は今回もぐずついていたが、ここを守るイギリス軍はプロイセン軍の退却を聞き、孤立を恐れてワーテルローに引き上げた。ナポレオンの方はプロイセン軍を徹底的に捕捉・殲滅するため、グルーシー元帥に3万5000の兵を与えてこれを追撃せしめた。これが最大の間違いであった。
18日、ワーテルローまで退却したイギリス軍はここで軍勢を整え、ワーテルロー南面のモン・サン・ジャン高地に6万8000の兵を展開させた。フランス軍もその日のうちにイギリス軍陣地の南側に到着、こちらの兵力は7万2000である。実はイギリス軍はイギリス・オランダ・ハノーバー等の寄せ集めであって、兵の数・質においてフランス軍に及ばなかったのであるが、イギリス軍を率いるウェリントン将軍には充分の勝算があった。ブリュッヘル率いるプロイセン軍から、可及的速やかに駆け付けるとの約束を取り付けていたのである。一方のナポレオンは、プロイセン軍はグルーシー元帥の軍が叩いている、と考えてたかをくくっていた。
午前11時、フランス軍が攻撃を開始した。ナポレオンの作戦は、敵右翼のウーグモン城館に陽動をかけることによって、敵の注意をそちらに引き付け、ついでネイ元帥率いる味方中央が総攻撃にでて敵中央を突破する、というものであった。しかし、ここでもフランス軍の人材不足が響いていた。ウーグモン城館の攻撃に向かった師団の司令官はナポレオンの弟であり、彼は自分の任務がよく理解できないまま、城館に対して「陽動」ではなく「総攻撃」をかけてしまう。さらに悪いことに、イギリス軍のウェリントン将軍はナポレオンの作戦を見抜いており、ウーグモン城館には最低限の増援を送るのみで、それ以外の兵力はほとんど動かそうとしなかった
午後1時、遠くにもうもうたる砂煙りが見えてきた。何者だ ? 何と、プロイセン軍の前衛3万である。プロイセン軍はグルーシー元帥が追撃・殲滅したのではないのか ? すぐにクルーシーに対して「ワーテルローに駆け付けよ」との伝令を飛ばし、さらに自軍4個師団をもってイギリス軍中央正面のラ・エイ・サントへの攻撃を開始した。視界に入ったとはいえ、プロイセン軍はまだ遠くにおり、ここまでくるのに3時間はかかるだろう。以後しばらく、フランス・イギリス両軍の、相手の出方を見るような戦いが続く。
午後3時、ナポレオンは待機中のネイ元帥に騎兵部隊を預け、歩・砲・騎兵による最終的な総攻撃の準備をさせようと考えた。ところがネイは、2、3日前のだらしなさはどこへやら、騎兵部隊のみでの総攻撃を開始した。彼の直属だけでなく、近くにいた別系統の騎兵部隊までつられて走り出し、計1万騎が敵陣めがけて突進する。味方の歩兵も砲兵もほったらかしであり、これは戦術的にいって極めて無謀な企てとされるのが普通である。
イギリス軍は歩兵26個大隊を13の方陣に組んでネイ軍を迎撃する。ネイの騎兵隊はまずイギリス軍のしかけた空堀にはまってかなりの損害を出してしまうが、それでも猛攻撃を繰り返していくつかの方陣を踏み潰した。しかし味方歩・砲兵の支援のない騎兵突撃はどうあがいても上手くいかず、そのうちにプロイセン軍前衛がフランス軍右翼に攻撃をかけだした。グルーシーは何をしているのだ ?
ナポレオンは自軍の一部を割いてプロイセン軍前衛を防がせ、ネイの方は今度は歩兵を率いてイギリス軍に突進した。猛り狂ったネイの気迫に飲まれたのか、イギリス軍もようやく崩れだす。ネイは皇帝に増援を頼んできたが、ナポレオンは最後の予備隊「老近衛兵」の投入を渋った。ここで全力を投入すればイギリス軍を総崩れに追い込んだかもしれないのに、プロイセン軍前衛の来援で余裕の出来たイギリス軍に態勢立て直しの余裕を与えてしまったのである。
午後7時、ナポレオンはついに最後の予備隊「老近衛兵」に進軍を命じた。しかし、やはり、この決断は遅すぎた。イギリス軍を率いるウェリントン将軍の必殺技、敵から見えない尾根の反対側に伏兵を置くという戦法が破壊的な威力を発揮する。老近衛兵の半分はそれでも前進するが、さらにこの時、ブリュッヘル率いるプロイセン軍本隊が到着し、フランス軍は収拾のつかない大混乱に陥った。グルーシーはプロイセン軍の動きに全く気付かず、戦局全体に何の影響も及ばさなかった。フランス軍の敗北確定である。
しかし、雪崩をうって潰走するフランス軍と勢いにのって進撃するイギリス・プロイセン軍の間にあって、ただ近衛兵の一団のみが踏みとどまっていた。軍旗はちぎれ飛び、敵軍の砲弾が落下するたびごとにうち減らされ、しかし彼等は戦い続けていた。「諸君等は充分に戦った。ここは名誉の降伏をしたまえ」イギリス軍の勧告に対し、「くそったれ !!」近衛兵の真ん中に立つカンブロンヌ将軍の絶叫であり、これこそが無敵フランス大陸軍の最後を飾る、史上最も名高い罵声である。
イギリス軍は一斉射撃をもってこれに答え、近衛兵はほぼ全滅、カンブロンヌも重傷を負って崩れ落ちた。
ナポレオンは戦場を脱出し、パリに戻って再起をはかったが、議会はすでに皇帝を見捨てていた。ナポレオンは帝位を皇太子に譲るとの声明を発して退位するが、議会はこれを無視し、ルイ18世の再度のパリ帰還が実現した。7月8日のことであり、ナポレオンの「百日天下」はここに終結したのである。
ナポレオンは進退に窮し、思いきってイギリスの保護を求めることにした。彼はイギリスに住むことを希望したが、イギリス政府の返答は厳しく、皇帝のセント・へレナ島への流刑を伝えてきた。
イギリス艦ノーサンバランド号に乗せられたナポレオンがセント・ヘレナ島に到着したのは10月16日、以降1821年に亡くなるまで、6年の余生をこの南大西洋の孤島にて過ごすこととなった。
ナポレオンの健康が悪化しだすのは1820年に入った頃、翌21年4月には死期を悟り、遺言状の制作にとりかかった。
5月5日、フランス皇帝ナポレオン1世の臨終。享年51歳。死因は胃潰瘍もしくは癌と診断された。最後まで皇帝に従った人々はフランス本国に帰国した。
フランスで、皇帝の遺体を本国に戻すべきとの運動が具体化したのは1840年のことである。かつての忠臣達がセント・ヘレナに向かい、11月30日には皇帝の遺体と共にフランス本国に帰国した。ナポレオン1世の無言の帰国を迎えるのはウディノ、モンセイ、スルトの3元帥をはじめとする、約10万の人々であった。
おわり