ネルソン提督伝 第3部 サンヴィセンテ
ジャーヴィス提督登場 目次に戻る
11月、ホザム提督が本国に召喚され、後任の地中海艦隊司令長官としてジョン・ジャーヴィス提督が着任した。彼はホザムとは正反対の性格であって積極果敢、同類のネルソンとたちまち意気投合した。ジャーヴィスは13歳の時に家出して船乗りになり、その時は家に連れ戻されたがやがて海軍入りを認められて、1756〜63年の「七年戦争」やアメリカ独立戦争に従軍して奮戦、その後の平和な時期には国会議員をつとめ、94年以降は海上勤務に戻ってカリブ海で仕事をしていた。積極果敢なだけでなく水兵たちの健康管理にも気を使い、その一方で規律の維持に厳格な人物でもあった。
翌96年3月、ネルソンは戦列艦2隻とフリゲート艦4隻を率いる戦隊司令官に任命され、「アガメムノン」に司令官旗を翻した。ジャーヴィスはネルソンを部下というより同僚として扱ってくれた(ネルソン談)。この月にはフランス側でも極めて重要な人事が行われ、ツーロン戦で活躍したナポレオン・ボナパルト中将が「イタリア遠征軍最高司令官」に就任している。ナポレオンはこの時まだ26歳の青年、ネルソンより11歳も年下であった。それから、戦隊司令官というのは勅任艦長がつとめる役職であることは以前に説明したが、司令官が自分の乗り込む艦(戦隊旗艦)を操艦しつつ戦隊全体の指揮をとる場合と、戦隊旗艦の指揮は別の艦長にまかせて自分は戦隊の指揮のみに専念する場合があった。ネルソンは後者で、「アガメムノン」の指揮はラルフ・ミラー艦長にまかせることにした。ミラーはコルシカでの作戦においてネルソンと知り合っていた。
エルバ島攻略 目次に戻る
ネルソンはまた南フランス沿岸部の偵察任務につけられた。そのころ南フランスの港湾で兵員や物資の海上輸送の準備が進んでいるという情報が入ってきており、ネルソンはフランス軍が海路でイタリアに侵攻するのではないかと予測した。ところがしかし、その時ナポレオンがイタリア侵攻の準備をしていたのは事実なのだが、彼はあくまで陸路を進撃するつもりでおり、港湾が賑やかになったのは、以前よりも沿岸部の(フランス側の)防備が堅くなったおかげで船舶が行動しやすくなったというだけの話であった。(ここで改めて当時のイタリアの情勢について簡単に解説しておく。イタリア諸国のうちサルディニア王国とナポリ王国、パルマ公国、モデナ公国等は対仏大同盟に参加していたが、ジェノヴァ共和国やトスカナ大公国、ヴェネツィア共和国等は中立であった。イタリア北中部のミラノを中心とするロンバルディア地方は1714年以来オーストリアの支配下に置かれていた)
そして4月、ナポレオン軍がイタリアへと進撃を開始した。これが「第1次イタリア遠征」である。その勢いはまさに破竹であり、たちまちサルディニア王国を屈服せしめ、5月にはオーストリア軍の拠点ミラノを占領した。これにビビったモデナ公国やパルマ公国は多額の金品を差し出してフランスに和を請うた。ネルソン戦隊はフランスの補給部隊が海路で前線に送ろうとした攻城用の大型砲数門を奪取し、ナポレオン軍がとりかかっていたマントヴァ要塞攻略作戦を大幅に遅延させることに成功したが、全体としてはナポレオン軍の優勢は全く揺るがなかった。コルシカでも親フランス派の島民が台頭し、島の空気を不穏なものにした。ナポレオン軍は中立国である筈のトスカナ大公国にも進駐して金品を徴発し、6月にはナポリ王国を屈服させた。ナポレオンは軍事的天才の名声を恣にした。
6月、痛みが激しくなってきた「アガメムノン」は補修のために本国に帰ることになり、ネルソンは74門搭載の戦列艦「キャプテン」に戦隊司令官旗を移し替えた。続いてネルソンはフランス軍の作戦を妨害するため、トスカナ領のエルバ島を攻略することにした。この島はイタリア本土とコルシカの中間点に位置し、フェライオ港という良好な港湾があったことからフランス軍に狙われるのは時間の問題と思われたのである。この作戦を提案したのはコルシカ総督のエリオットで、7月9日深夜に陸軍と共同で行った上陸作戦は全くの無血で成功した。トスカナ側には、これは一時的な措置であって平和が戻ったらすぐに撤収すると約束した。ネルソンはその頃、トスカナのオペラ歌手アデライデ・コレーリャと不倫していたが、彼女を通じてトスカナにいるフランス軍の動向を探ったりしている(彼女との関係はそれほど長続きしなかった)。
カプライア攻略 目次に戻る
続いて9月、ネルソン戦隊は中立国ジェノヴァの港に派遣され、そこから味方艦隊への新鮮な食糧(家畜)の輸送を監督することになった。しかし現地に行ってみるとそこにはフランス軍が砲台を築いていて、ネルソン戦隊は砲撃を受けて追い払われ、さらに「ジェノヴァ領の全港湾はイギリス艦の出入りを禁止した」という通告を受け取った。そこでネルソンはコルシカの北東に位置するジェノヴァ領の小島カプライアを奪取し、ジェノヴァをビビらせるという計画を立てた。カプライアは中立国の領土でありながらフランス私掠船の巣となっており、イギリス艦隊にとって実に邪魔な存在であった。
ネルソンの計画はコルシカ総督のエリオットによって認可され、彼の手回しによってコルシカ駐留の陸軍部隊から300名の兵員がネルソン戦隊に派遣されてきた。陸軍側の指揮官はジェイムズ・ローガン少佐である。彼らを乗せてコルシカのバスティア港を出たネルソン戦隊は途中の凪のせいでカプライア沖に到着するまでに2日もかかったが、その間に作戦の細かい検討を行った。ネルソン戦隊にはカプライアのことをよく知っている艦長がいたため、彼の情報に基づき上陸作戦は島の北部海岸において行うことにした。その海岸のすぐ近くにある丘のてっぺんは島で一番大きな町を見下ろすことの出来る要地である。
戦隊は9月17日に目的地に到着、予定通り島の北部に陸兵を陸揚し、丘の上に艦砲を運びあげてその砲門を町へと向けた。島の当局に対してはエリオット総督がしたためた降伏勧告の書状を送付する。さらに、付近にいたフランス私掠船4隻を拿捕した。島民たちは速やかに降伏し、ネルソン戦隊は一滴の血も流さないままのカプライア占領に成功したのであった。
地中海撤退 目次に戻る
10月、スペインがフランスと攻守同盟を結び、さらにイギリスに宣戦布告してきた。スペイン政府としてはフランスに加担するか対仏大同盟に戻るかを選ばねばならない情況であり、前者なら海外植民地をイギリス海軍に奪われるだろうし、後者なら本国をフランス軍に蹂躙されるという究極の選択状態で、けっきょく前者の方がマシと判断したのであった。これでイギリス地中海艦隊はフランス・スペイン2国の艦隊を相手にしなければならなくなった訳で、ジャーヴィス提督とネルソンはそれでも戦えば勝てるという自信があったのだが、本国の指示によって地中海から撤収、イベリア半島南端のジブラルタルとポルトガルのリスボンを新たな拠点として戦うことになった。ジブラルタルは1704年以来のイギリス領、ポルトガルは今となっては数少ないイギリスの同盟国であった。(地中海艦隊は地中海から撤収した後も引続き「地中海」艦隊と呼ばれ続けることになる)
そんな訳でネルソンは、それまで地中海艦隊の拠点だったコルシカ島からの撤収作業を監督することになった。エリオット総督と守備の陸軍部隊、彼らの装備や食糧まで残らず艦に運び込み、フランス軍が上陸してくる直前に作業を終わらせる。このままフランスの捕虜になることを覚悟していたエリオット総督……政界の実力者でもあった……はネルソンの手腕にいたく感謝した。
任務を終えたネルソンは地中海艦隊の他の戦隊とともにジブラルタルに入ったが、そこで臨時にフリゲート艦「マイナーヴ」に乗り換え、同じくフリゲート艦「ブランチ」を従えて地中海に戻ることになった。先にネルソンの手によって占領していたエルバ島に味方の陸軍部隊が取り残されていたため、それを救出せよとのジャーヴィス提督の命令がくだったのである。(緊急を要する任務のため、快速のフリゲート艦を用いた)
その往路の12月19日、スペイン南東部のカルタヘナ沖でスペインのフリゲート艦「サンタサビナ」「セレス」と遭遇、戦闘の末に2隻とも拿捕した。そのうち1隻の艦長はドン・ヤコボ・スチュアートという名前で、1688年の「名誉革命」の時にイギリスから追放されたジェイムズ2世の庶子ベリック公爵の孫にあたる人物であった。拿捕した艦には接収隊が乗り込んで操艦するのだが、今回そのスペイン艦に乗り込んで行った接収隊の中にトマス・ハーディという海尉がいた。
翌日未明にまた1隻のスペイン艦と遭遇したがこれには逃げられ、夜明け後には今度は戦列艦2隻とフリゲート艦2隻という大兵力が現れた。それを見た接収隊のハーディ海尉たちは「サンタサビナ」を囮にすることで敵の注意をひきつけ、その隙にネルソン戦隊を逃走させた。これでハーディたちは捕虜になってしまったが、ネルソンの方はどうやら無事にエルバ島に到着した。しかし島の陸軍は撤収を渋ったため、ネルソンは彼らがいつでも引き揚げられるように輸送船と小型艦の手配をしたうえでジブラルタルへと帰投した。スチュアート氏は捕虜交換で釈放してやり、ハーディも釈放されて帰ってきた。ハーディはその後ネルソンに大いにひきたてられることになる。
ネルソンはジブラルタルには短時間留まったのみで、そのころ大西洋に出ていた地中海艦隊主力に合流すべく飛び出して行った。ところがその直後、戦列艦2隻・フリゲート艦1隻からなるスペインの小艦隊に遭遇し、フリゲート艦2隻しかいないネルソン戦隊は逃走を余儀なくされた。その時、水兵の1人が海に転落してしまい、ハーディがボートを降ろして助けに向かうというひとこまがあった。結局その水兵は助からなかったのだが、これを見たネルソンはスペイン艦に追いつかれる危険も顧みずに艦を停止させてハーディのボートが帰投するのを待ってやった。スペイン側はしばし反応に困って追撃の手を緩めた。ネルソンたちはその間にハーディを回収、速やかに逃げ出した。
サンヴィセンテ岬の海戦 目次に戻る
当時のスペイン海軍の主力は地中海沿岸のカルタヘナに停泊していたが、彼等はフランスの要求に従って大西洋沿岸のブレスト港(フランス領)へと移動、そこのフランス艦隊と合同してイギリス艦隊を叩くことになった。そんな訳で1797年2月1日、コルドヴァ提督に率いられたスペイン艦隊はカルタヘナを出帆、ジブラルタル海峡を抜けて大西洋に出た。とりあえずはスペイン南西部のカディス港に寄港する予定である。何故ならば、そちらに向かう輸送船団の護衛を政府に命じられていたからである。
一方、リスボンにいたイギリス地中海艦隊主力は10隻の戦列艦をもってポルトガルの輸送船団(ポルトガル植民地のブラジルから物資を運んできた)を迎え、これを無事(ポルトガル領の)サンヴィセンテ港へと護送した後、付近の海域で哨戒活動にあたっていた。そこに、スペイン艦隊が大西洋に出てきたという情報が入ってきた。イギリス地中海艦隊は以前はもっと強力な戦力を有していたのだが、何隻かの艦を難破等の事故で喪失したり、補修のために本国に送り返したりしていたために漸減していた。しかし、練度は充分である。
2月5日、イギリス本国から新手の戦列艦5隻が来援、地中海艦隊(以後、「イギリス艦隊」と表記する)は戦列艦15隻を揃えるに至り、スペイン艦隊を待ち受ける構えをとった。この時のイギリス艦隊の総戦力は戦列艦15隻、フリゲート艦10隻、その他小型艦2隻であった。戦列艦の内訳は100門艦2隻、98門艦2隻、90門艦2隻、74門艦8隻、64門艦1隻である。同日にはスペイン艦隊の方もイギリス艦隊の動きを察知、カディス寄港を取り消し、艦隊決戦を挑むべくイギリス艦隊のいるサンヴィセンテ岬沖に直行した。スペイン艦隊司令長官のコルドヴァ提督はイギリス側に新手の戦列艦5隻が来援したことを知らず、イギリス艦隊の戦列艦は10隻だけだと思い込んでいたため、それだったら楽勝だと思ったのである。スペイン艦隊の総戦力は戦列艦27隻、フリゲート艦10隻、ブリッグ艦1隻である。戦列艦の内訳は136門艦1隻、112門艦6隻、84門艦2隻、74門艦18隻であった。堂々たる大艦隊ではあるが、相手をなめてかかっていたため、隊列が乱れきっていた。
13日にはネルソン戦隊が味方艦隊に合流した。ネルソンは戦隊司令官旗を「キャプテン」に戻し、これから生起するであろうスペイン艦隊との決戦に備えた。
2月14日早朝、サンヴィセンテ岬沖25マイルの海域において、スペイン側の索敵艦が単縦陣で航行するイギリス艦隊を視認、「敵艦隊ハ15隻ノ戦列艦ヲ有ス」との信号旗を掲げた。予測を上回る敵戦力にコルドヴァ提督は呆然自失、彼の艦隊は浮き足立った。しかも、27隻の戦列艦のうち18隻は前に進みすぎ、残り9隻との間に大きな隙間が出来ていた。何故ならば、後ろの隊はカディスに入港する予定だった輸送船団を連れていて脚が遅かったからである。本稿では以降、18隻の方を「前衛」、9隻の方を「後衛」と表記する。どちらの隊も広く(だらしなく)散開しており、一糸乱れぬ単縦陣で航行していたイギリス艦隊とはえらい違いであった。スペイン海軍の指揮官たちはフランス海軍と比べれば人材が揃っていたが、イギリス海軍と違って士官がみんな貴族だったために思考が古くさく、それだけならまだしも海軍全体が貧乏であったせいで極めて訓練不足であった。
イギリス艦隊ではジャーヴィス提督が部下から以下のような報告を受けていた。「敵は戦列艦8隻であります」「了解」「敵は戦列艦20隻であります」「了解」「戦列艦25隻であります……いや27隻です。我が軍のほぼ2倍であります」「もうよい! サイは投げられたのだ。たとえ50隻の敵でも、わたしは向かってゆくぞ」。
ジャーヴィス提督は、敵艦隊の右舷側に対して単縦陣で直角に交わる進路をとり、敵が勝手にあけた隙間へと突っ込んで相手を完全に2分する作戦に出た。イギリス艦隊の先頭に立つのは戦列艦「カローデン」、その艦長はトマス・トルーブリッジという人物で、彼はネルソンが候補生時代にフリゲート艦「シーホース」でインドに行った時に一緒だった。ネルソンはインドで重病におかされたため早々に帰国した訳だが、トルーブリッジはその後もインドで10年も勤務し続け、その間に起こったアメリカ独立戦争に際してもインド洋でフランス艦隊と交戦した。その後はネルソンと同じように予備役にまわされて冷や飯を喰ったが90年に現役復帰、しかし94年5月にフランス軍の捕虜になってしまい、そのすぐ後に大西洋で起こった「栄光の6月1日海戦」をフランスの戦列艦「サンパレイユ」の甲板から見物させられた。ところが同海戦はイギリス軍が勝ち、「サンパレイユ」も拿捕されたおかげでトルーブリッジもめでたく解放されて「カローデン」の艦長に就任、地中海艦隊に配属されてネルソンと再開し、95年3月のイエール群島の海戦にも参加していた。
話を戻す。イギリス艦隊が突進してくるのをみたスペイン艦隊後衛は急いでスピードを上げて前衛との隙間を詰めようとした。しかし「カローデン」はスペイン艦と接触しそうになりながらも隙間を突破し、周囲の敵艦にしこたま砲弾を叩き込んだ。これで作戦の第1段階成功とみたジャーヴィス提督は全艦隊に対し針路変更を命じて敵の前衛に襲いかからせようとした。単縦陣を組んだまま隙間を抜け、先頭の艦から順次舵を右にきって敵前衛を叩けという訳である。
そんな訳でイギリス艦隊のうち半分ぐらいが隙間を突破、順次転針しようとした時、そこにまた敵後衛が前衛に追いつこうと突進してきた。この突進は数次に及んだが、イギリス艦隊はこれをことごとく(1隻をのぞいて)撃退した。敵後衛はやむなく針路を反転、戦場から一時離脱していった。
ネルソンの突進 目次に戻る
ところが、イギリス艦隊が敵後衛の益のない突進を叩いている間に、前衛が逃げてしまうのではないかという危惧がジャーヴィス提督の頭をよぎった。彼は自艦隊の後衛(敵後衛との戦闘には参加していなかった)に対しただちに転針せよ(敵の前衛を叩きに行け)との信号を発した。何度も言うようにこの時のイギリス艦隊は単縦陣を組んでおり、針路変更の際には必ず先頭の艦から順番に転針することになっていたのだが、それを崩してもいいから後衛だけでも敵の前衛へと突進せよと命じた訳である。ところが、イギリス艦隊後衛を率いていたチャールズ・トンプソン提督の旗艦「ブリタニア」はどういう訳かこの信号旗を見落とした。敵前衛はどんどん前に進んで行く(イギリス艦隊から離れて行く)。しかしイギリス艦隊後衛のうしろから4番目にいた「キャプテン」艦上のネルソンはしっかりとジャーヴィスの信号を確認、「ブリタニア」を放っておいて単艦で敵前衛の方へと突進した。この時のネルソンの行動は艦隊の規律を破るものであり、下手をすれば軍人生命が終わりかねないものであったとされてきたが、近年の研究の結果、それほど重大な問題行動という訳でもなかったことが明らかになっている。
ともあれその後の「キャプテン」は獅子奮迅である。イギリス艦隊の先頭にいたトルーブリッジ艦長の「カローデン」とともにスペイン艦隊前衛の前の方にいた5〜7隻のグループの真っ只中へと突っ込み、猛烈な早さで砲撃を繰り返す。敵のこのグループの中にはコルドヴァ提督の旗艦で136門の大砲を搭載する超大型戦列艦「サンティッシマトリニダー」がいたが、この艦はもともと116門搭載艦として建造されたのを強引に改装して小型砲を増やしたもの(同時期に建造されたフランスの120門艦よりも船体が小さかった)で、格好は威風堂々としていたが安定性や帆走性能は悪く、実のところスペイン艦隊のお荷物でしかなかった。ネルソンいわく「一見不均衡だが、実はそうではない戦闘」である。そのうちにコリングウッド艦長の戦列艦「エクセラント」も駆けつけてきた。コリングウッドというのはカリブ海でネルソンとともに密貿易商人と戦い、同じ女性を愛したあの男である。コリングウッドの「エクセラント」はスペイン艦が1回斉射を行う間に10回斉射出来たという。
そのうちにイギリス艦隊の他の艦も突進してきた。ネルソンやコリングウッドの奮戦がスペイン艦隊前衛の戦線離脱をくいとめ、味方艦が食いつく時間を稼いだのである。もはや大乱戦である。まずイギリス艦「ブレンハイム」がスペイン艦「サルヴァドールデルムント」「サンイシドゥロー」を相手に猛烈な砲撃を浴びせて後落させる。そこに今度はコリングウッドの「エクセラント」が寄ってきて駄目押しの一斉射撃、スペイン側2隻を降伏に追い込んだ。しかしコリングウッドはスペイン艦に乗り込む(拿捕する)時間も惜しみ、親友ネルソンの支援に急行した。その時「キャプテン」は同時に5隻の敵と戦っており、帆を全部吹き飛ばされていた。ネルソンも腹部に負傷した。トルーブリッジ艦長の「カローデン」も大損害を出して後落しており、「ブレンハイム」は前に進み過ぎていた。
「エクセラント」は「キャプテン」を叩いていたスペイン艦「サンニコラス」に猛烈な斉射を浴びせ、ついで他の敵艦の方へと針路を変えた。「サンニコラス」も針路を変えようとしたが、そこで味方(スペイン)艦「サンホセ」に衝突してしまう。
これを見たネルソンはミラー艦長に対し、「キャプテン」を「サンニコラス」の右舷側に横付けさせ、斬り込みせよとの命令をくだした。「キャプテン」は帆も舵輪も失っていたが、「サンニコラス」のすぐそばにいたため、何とか艦の向きを変えれば接舷可能であった。
そして、これがうまく行き、両艦のマストの索具が絡まった。まずエドワード・ペリーに率いられた水兵の一隊が索具をつたって相手艦の甲板に降り立ち、さらに別の一隊(海兵隊)が敵艦艦尾楼の窓を突き破って内部に侵入した。ネルソンは……腹部の負傷にもめげず……後者に続いた。スペイン水兵は艦尾楼の入口を封鎖してネルソンたちを閉じ込めようとするが、その間に外の甲板に降りたペリー隊が軍艦旗をひきずり降ろし、「サンニコラス」の水兵たちと白兵戦を展開する。しかし勝負は最初から決まっていた。「サンニコラス」はネルソンたちに斬り込まれる前の時点でイギリス艦の砲撃のため甚大な人的被害をこうむっていたのである。ちなみにペリーは元「アガメムノン」副長で、97年には海尉艦長に昇進していたが、たまたま艦長の席が空いている艦がなかったために客分として「キャプテン」に乗組んでいた。
話を戻して……、スペイン水兵のくりだす剣とピストルの攻撃を打ち払い、ネルソンたちが艦尾楼から外の甲板に飛び出すと、左舷側から銃弾の雨が降り注いでくる。そちらに目をやると、「サンニコラス」の左舷に衝突したままの「サンホセ」の甲板に敵の水兵たちが集まり、こちらを目掛けて撃ちまくっていた。この時代の銃は命中精度が極端に悪かったため、イギリス兵のみならずその周囲の「サンホセ」乗組員までが打ち倒された。
そこでネルソンは「キャプテン」から増援部隊を呼び寄せ、「サンホセ」にも斬り込みをかけようとした。何とネルソン自身が先頭に立つ。「勝利か、ウェストミンスター寺院行きだ!」。戦隊司令官クラスの高級士官が斬り込みの先頭に立つのは普通にはありえない話である。しかしネルソンの気迫に呑まれてしまったのか、「サンホセ」はあっさり降伏、つまりネルソンは一度に2隻の拿捕に成功した。先にコリングウッドが降伏させた艦をあわせれば、イギリス艦隊は計4隻を拿捕したことになった。
ちょうどその時、スペイン艦隊後衛がまた突進の構えを見せたのだが、後衛の指揮官はともかく艦長たちは(前衛がやられているのを見て自信を無くしたのか)あまり積極的な態度を示さなかった。イギリス側ではジャーヴィス提督が指示を出して「キャプテン」等の損傷した艦と拿捕艦を守るように隊形を組み直した。両艦隊は次第に離ればなれになり、やがてイギリス艦隊はポルトガルのラゴシュ港へ、スペイン艦隊はスペイン南西部のカディス港へと向かって行った。この「サンヴィセンテ岬の海戦」におけるイギリス艦隊の死傷者は約500名、艦艇の喪失はなし。スペイン側の損失は、死傷者約1500名、戦列艦4隻喪失であった。文句なしにイギリス艦隊の勝利である。いや、戦列艦が27対15だったことを考えれば、大勝利であったというべきである。
ネルソン提督の誕生 目次に戻る
この勝利により、ジャーヴィス提督は本国政府から「セントヴィンセント(サンヴィセンテの英語よみ)伯爵」の称号を賜った。他にも多くの論功行賞があり、ネルソンも海軍少将に昇進、さらにバス勲章を授けられた。これを貰うと1代限りの准貴族という扱いになるのである。実はネルソンは最初は「准男爵」の位を貰うという話だったのだが、特に頼み込んでバス勲章に変えてもらっていた。何故ならば、そっちの方がいかにも何か大きな手柄を立てたということをアピール出来るからである。また、ネルソンは自分の手柄を強調した文書を作成してそれを本国の新聞にのせてもらおうとし、地中海艦隊の同僚たちから顰蹙を買ってしまった。
とはいっても同時に多数の敵艦と渡り合い、連続して2隻を拿捕したネルソンの功績は誰にも否定出来ないことであり、特に敵艦への斬り込みは本国でも大評判になって大衆読物や俗謡にも登場することになった。「ネルソン提督」の英雄伝説はここから始まったのである。ただ、妻のファニーは「あなた、心からのお願いです。敵の船に乗り込むなどという、恐ろしくて無謀なことはおやめになり、ほかの方にお任せになってください。神様のご守護のおかげで、これ以上は望むべくもない名声を手にいれられたのですから、もうそれでご満足なさってください」とネルソン宛の手紙に書いた。しかしネルソンの方はこの程度の名声では満足しておらず、このあたりの感情の行き違いが2人の仲を裂いていくことになる。それから、腹部に受けた傷は、詳しいことは不明だがかなり酷いものであったらしく、ネルソンはこの後ヘルニアか何かの後遺症に悩まされることになる。
スペイン側では敗戦の責任を問う軍法会議が開かれ、コルドヴァ提督とその部下7名が海軍から追放となった。イギリス艦隊はポルトガルで補給を受けた後、スペイン艦隊の停泊するカディス港を封鎖した。スペイン艦隊はこの後1802年までほとんど外に出ることなく5年を過すことになる、のだが、サンヴィセンテ岬の海戦が終わった直後の時点では(スペイン艦隊が)また近いうちに出撃してくる可能性が十分にありえた。従ってジャーヴィス提督は警戒を厳にしようとしたのだが、ネルソンは先に放置したままになっていたエルバ島の味方陸軍部隊を迎えに行きたいと言い出した。ジャーヴィス提督は渋りつつもこの進言を受け入れた(エルバの友軍救出のためにカディス警戒用の兵力を削ることに同意した)。ネルソンは戦列艦2隻を率いて地中海に入り、コルシカ島の西60マイルのところでエルバ島を撤収してきた陸軍部隊の輸送船と遭遇、これを伴って無事に帰還を果たすことが出来た。ネルソンはその後、サンヴィセンテ岬の海戦やエルバ行きのせいで痛みが激しくなってきた「キャプテン」を補修のために本国に送り返し、新たに本国からやってきた74門搭載の戦列艦「シーシウス」に乗り換えた。艦長は引続きラルフ・ミラーである。
その間、カディス港のスペイン艦隊は全く動かなかった訳だが、それはそれでイギリス的には困った話であった。カディスの港湾は浅瀬だらけであって地理不案内なイギリス艦隊が迂闊に突入したら座礁してしまう可能性があり、ということはスペイン艦隊はただじっとしていれば絶対安全、それでは戦局が進展しなくなってしまう。出来ればカディスからスペイン艦隊をひっぱり出して、大海戦で徹底的に叩いてしまうのが望ましいのである。
水兵の反乱 目次に戻る
イギリス海軍が大海戦を欲した理由は他にもあった。この年5月、本国の艦隊が停泊していたスピットヘッド泊地およびノール泊地で相次いで艦隊規模の大反乱が発生し、地中海艦隊でも不穏の気配があったため、水兵たちが気を散らす暇がないような活発な行動を起こすのが望ましかったのである。本国の反乱について簡単に説明しておくと、まずスピットヘッド反乱は、水兵たちが給与・糧食・傷病・上陸に関する待遇改善を求めて起こしたもので、政府側は水兵の要求を容認し、直ちに任務に復帰するという条件付きの恩赦を出すことで落着した。反乱者たちは最初から最後まで統制のとれた態度を貫き、政府側は約束を守って誰も処罰しなかった。軍隊で反乱を起こしたりすれば死刑になって当然なのだが、スピットヘッドの反乱者たちの要求は至極穏当なものであったし、礼節を保っていたことがこのような良い結果を生んだのである。
ノールの反乱はスピットヘッドよりも強硬で、士官の人事や戦時服務規程の改訂を荒々しく要求した。政府側は要求の一部受け入れを表明し、直ちに任務復帰すれば恩赦を出すとしたが、反乱の首謀者たちはあくまで要求貫徹を叫んで政府側との妥協に応じなかった。しかし一般の水兵たちはそこまで過激でなかったためにこの反乱は広汎な支持を集めることに失敗し、やがて反撃に出てきた官憲によって首謀者多数が逮捕され、29名が処刑されるという結末に終わった。
以上の2つの大反乱以外にも小規模な反乱があちこちで発生していた。93年にフランスとの戦争が始まって以降ひたすら増強を進めていたイギリス海軍の人員は当然のことながら多数の強制徴募兵を含んでいたし、一般国民の間にはフランスの革命思想に触発されて選挙権の拡大等を訴える「急進主義」が盛んになってきていた。革命フランスとの戦いを通じて保守的になったイギリス政府は急進主義を弾圧したが、強制徴募で海軍に無理矢理連れて行かれた人々の中には急進主義に同調する者もいたのである。
地中海艦隊でも7月に「セントジョージ」の乗組員が反乱を起こすという事件が発生し、これを速やかに鎮圧した同艦艦長は首謀者4名に対して死刑を宣告している。これに対し地中海艦隊司令長官のジャーヴィス提督は死刑の即刻執行(判決が出た翌日の執行)を命じたが、その日がたまたま日曜日だったため、副司令長官のトンプソン提督が「安息日に死刑を行うのはいかがなものか」という抗議を行った。しかしジャーヴィスはトンプソンの進言を却下、「この処置に不満ならば即刻艦隊を去れと言ってやれ。かかる提督は無用の存在」と言い放った。ネルソンはジャーヴィスを全面的に支持、「閣下の速やかなる処断に、満腔の敬意を表します」と述べた。「私ならクリスマスでも処刑したであろう」とも言っている。
ただ、前にも触れたことではあるがネルソンという人物は厳しくはあったが人間味が欠けていた訳では全くない。実はネルソンの新しい乗艦「シーシウス」も本国から来た時にはかなり不穏な状態だったのだが、ネルソンの人柄のおかげで早期に安定している。それだけにネルソンは、自分が手塩にかけて可愛がってやった部下たちの中から脱走兵が出たりした場合、いったい何が不満でそんなことをするのか理解出来なかったという。本国政府の方は、スピットヘッド反乱に関しては寛大な態度を示したものの、その後は出版を規制し、労働組合を非合法化したりした。
話を戻して……、地中海艦隊はカディス港に対して3次に渡って夜襲をかけたが、3度とも大した成果はあげられなかった。2度目の夜襲の際には数隻の小型艦を用いてカディスの町(にある海軍施設)を砲撃、しかし陸地からの反撃を受けて1隻が損傷したうえに、スペイン側小型艦の攻撃を受けた。これを見たネルソンは手許のボートを集めて飛び出した。
ネルソン自身も12名の部下とともにボートに乗り込んでいたが、これが31人乗りのスペイン側大型ボートに襲われた。ネルソンがその生涯において経験した最も危険な白兵戦である。ネルソンの頭上にスペイン兵のサーベルが振り下ろされるが、ジョン・サイクスという下士官が身を挺して払いのけた。サイクスはネルソンが「アガメムノン」の艦長になった時からずっと一緒だった。サイクスは重傷を負ったが、そこに救援が駆けつけ、なんとか敵大型ボートを拿捕、その乗組員を全員死傷させた。しかし総体としては大した戦果ではなく、スペイン艦隊は港の奥の方に引っ込んでしまった。ネルソンはサイクスの名を公式の報告書に記載(下士官クラスとしては異例の措置)し、さらに海尉に昇進させようとしたが、規定の勤務年数に達していなかったために不可となった。(サイクスは1799年に海尉になれないまま砲の事故で殉職)
テネリフェ島攻略 目次に戻る
ネルソンはその次に、カナリア諸島テネリフェ島への遠征を企画した。同島サンタクルーズ港にメキシコ(スペイン植民地)発の財宝船が寄港したとの情報が入ってきたので、これを奪取することによってスペインの抗戦意欲を削ごうというのである。メキシコ云々については未確認情報だったのだが、その次に東南アジアのフィリピン(これもスペイン領)発の財宝船が寄港したという情報が入ったことからこの案は本決まりとなった。責任者は言い出しっぺのネルソン少将、戦力は戦列艦3隻、フリゲート艦4隻、カッター艦(1本マストの小型艦)1隻からなる小艦隊である。旗艦はもちろん「シーシウス」、その艦長も以前とかわらずミラーである。
ネルソンはエルバ帰りの陸軍部隊を連れて行くつもりだったのだが、これは陸軍側に断られた。露骨に財宝目当てだと思われたからである。そこで海軍サイドは上陸要員として水兵と海兵隊を増員し、上陸部隊の指揮はサンヴィセンテ岬の海戦で活躍した戦列艦「カローデン」のトルーブリッジ艦長がとることになった。彼以外の高級指揮官としては、やはりサンヴィセンテ岬の海戦に参加したサミュエル・フッド艦長(同名の提督のいとこ)や、95年のジェノヴァ湾の海戦で活躍したフリーマントル艦長、以前にテネリフェ島を訪れたことがあるというトマス・トンプソン艦長といったメンツが参加する。
そして7月22日午前0時、ネルソン艦隊がテネリフェ島の沖3マイルの海域に到着した。各艦はここで夜陰に紛れてボート隊をおろし、それらがトルーブリッジ艦長の指揮のもとに海岸に向かって漕ぎ出していく。このまま隠密裡に上陸して、サンタクルーズの町から少し離れたところにある要塞を奪取し、そこの大砲を町に向けるという奇襲作戦である。ところがボート隊はおりからの逆風と海流によって岸への接近を阻まれ、そのうちに夜が明けて島のスペイン軍から丸見えになってしまった。そこでトルーブリッジは旗艦「シーシウス」のネルソンのところに出向いて善後策を協議し、同日中にもう1度、別のポイントから上陸作戦を行うことにした。しかしこれも凪と海流に阻まれて失敗し、島のスペイン軍はすっかり防備を整えてしまった。ネルソンのプライドは傷ついた(本人談)。
24日午後11時、各艦の艦長に率いられたボート隊およびカッター艦「フォックス」が第3次の上陸作戦を行うべく動き出した。総員約1000名。もう奇襲は無理なため、真っ正面からの敵前上陸である。ネルソンは悲壮な覚悟を決め、前夜のうちに妻からの手紙を再読したうえで焼き捨てていた。今回の作戦には義理の息子(妻の連れ子)のジョサイア・ニズベット海尉も参加しており、ネルソンは彼をボート隊には入れずに艦に置いて行こうとしたが、ジョサイアは構わずボートに乗り組んだ。
ただし、大損害を覚悟してはいたが全く成功の見込みのない作戦だった訳では決して無く、22日の作戦が失敗した後に島から脱走してきたスペイン兵が「防御の人員は少なく、兵士たちは極度の恐怖に怯えている」と伝えていた。日付が変わって25日午前1時30分、ボート隊の接近を察知したスペイン軍が海岸に30〜40門の大砲を並べて砲撃を開始した。それでもボート隊のうちとりあえず4〜5隻が接岸に成功し、近くにあった大砲を奪取したが、そこから先には進めなくなった。島にいたスペイン軍は総勢1500名、そのうち半分以上は正規の訓練を受けた経験がなく、多くの兵士は銃を持たず鎌で武装していた。そこまではネルソンが脱走兵に聞いた情報は概ね正確であったのだが、しかし、スペイン軍司令官のアントニオ・グティエレス将軍という人物がなかなか優れた指揮官であった。
ネルソンは、亡き伯父モーリス・サクリング艦長の形見の剣を抜きつつボートから陸へと足を踏み出した所を小銃に撃たれて負傷した。銃弾は右肘を貫通していた。ネルソンは伯父の形見の剣を落とさずに左手に持ち替えつつも、それ以上は動けなくなった。そばにいたジョサイアが応急手当てを行い、ボートを反転させて母艦「シーシウス」に帰投することにした。そのすぐ後、陸地を目指して前進していたカッター艦「フォックス」が吃水線の下に直撃弾を喰らって沈没した。母艦に向かうボートの中でいくらか気を取り直したネルソンは海面に投げ出された「フォックス」乗組員を拾い上げるのを手伝った。やがて「シーシウス」に帰り着いたネルソンは、舷側に垂れ下がったロープを左手1本で掴み、誰の手助けも借りずに駆け上がるようにして登って行ったという。
その間にも上陸作戦は続いていた。ネルソンのボートとはやや離れたところを進んでいたトルーブリッジ、ミラー、ウォーラー、フッドの4人の艦長のボートとあと何隻かがうまいこと敵の大砲の死角に上陸し、約350名の兵力で町の方へと進撃した。が、上陸する時に波をかぶって火薬がずぶ濡れになったうえに地理が全く分からない。彼らはとりあえず町の中心部の修道院を占領してバリケードを築き、スペイン軍の司令官グティエレス将軍に対してメッセージを送付した。財宝船を寄越さなければ町を焼き払うぞ……。もちろん虚勢である。若干の交渉の後、トルーブリッジたちは降伏した。
右腕切断 目次に戻る
完勝に気を良くしたグティエレス将軍はイギリス軍に対して非常に寛大に接してくれた。もう2度とカナリア諸島に手出ししないことを約束させたうえで捕虜は全て(武器を持たせたまま)釈放、その際にパンとワインを振る舞い、負傷者は治療し、帰りのボート(トルーブリッジたちのボートは接岸の際に全部壊れた)まで手配した。沖で待機しているイギリス艦が島で食糧を買うことまで許可した。それから、イギリス軍が2度と攻めてこないように「この島は8000名もの大軍が守っている」という法螺を吹いた。
イギリス軍の戦死者は艦長1名を含む146名、負傷者はネルソンを含む105名であった。戦死者の中には、ネルソンが「アガメムノン」の艦長になった時に士官候補生として乗り込んできて以来ずっとネルソンに目をかけられていたジョン・ウェザーヘッド海尉もいた。実子のいないネルソンは有望な青年士官に対して父親のような愛情を注ぐことがよくあり、ウェザーヘッドの死を深く悲しんだ。以下に引用するのは後にネルソンからウェザーヘッドの父に宛てた手紙。「心の誠より申し上げますが、すばらしい若者を失って悲しむべき理由が、あなただけでなく、わたしにもおおいにあるのです。あの運命の夜のことを思うと、悲しみと、彼の倒れた姿が自然と目の前に浮かんできます」。
そしてネルソンの右腕は、速やかに切断しなければならない重傷であった。もちろん麻酔などない時代であったから凄まじい苦痛であったろうが、後にネルソンが語ったこの時の一番の印象は「(切断用の)ナイフが冷たい」というものであった。ついでだからこの時代の艦内医療について簡単に触れておくと、当時の軍艦には専用の手術室というものは存在せず、負傷兵の手術は主に最下甲板の、普段は士官候補生の居室として使われている空間を用いて行われた。そこは喫水線の下なので敵の砲弾が飛び込んでくることは滅多になかったが、窓がないので暗くて換気が悪く、衛生状態が極めて悪かった。というより、当時は「衛生」という概念自体が存在しなかったことから手術用のナイフやノコギリを消毒する習慣もなく、手術台(士官候補生の食事用のテーブルもしくは私物箱を繋ぎ合わせたもの)の側には切断した手足を投げ込むためのバケツが並べられていた。
軍医は忙しい時には負傷兵1人あたり数秒調べただけで治療方法を決定し、切断を要する場合には速攻で手術にとりかかった。まず患者に麻酔がわりのラムかブランデーを1杯ぐいと飲ませ、次に歯を噛みしめるための革の切れ端を口の中に突っ込み、それから助手に命じて患者の身体を手術台の上に押さえつけさせる。そして切断箇所の少し上に止血帯をはめたうえで、ナイフで肉を、ノコギリで骨を断つのである。その後は糸で血管を縛り、切断面には油を塗って包帯を巻いた。血管を縛るのに用いた糸は傷が癒える頃には自然に腐り落ちた。切断を30秒、手術全体を2分でやりおおせてしまえれば医師として合格点であると考えられていたという。戦闘中には次から次から負傷兵が担ぎ込まれて来るのでまさに阿鼻叫喚の地獄絵図が展開する訳ではあるが、負傷すれば速攻で軍医のところに連れて行ってもらえる海軍(軍艦)は、戦場と治療施設が離れている陸軍と比べれば迅速な治療を施せるという点で恵まれてはいた。
ネルソンは、手術が終わった少し後にジャーヴィス提督に宛てて(左手で)書いた私信に「隻腕の提督など、もはや誰も有用とは思いますまい。であってみればこのうえは、小生一刻も早くどこかのつつましき篷屋に退き込むがよろしく、五体満足な後進に道を譲って国の衛りに邁進していただくべきでしょう」、妻に宛てた手紙に「これが戦の運というものさ。むしろ感謝してしかるべきかもしれない。しかも、神のお導きで、奇遇にも私の命を救うのにジョサイアが一番の活躍をしてくれたと申せば、あなたの喜びも倍加するだろうと信じます。海軍の首脳が私のことを無視し、忘れさっても驚きはしないよ。たぶん私はもう使い物にならないと中央では思うだろう。しかし、あなたが私にかわらぬ愛情を注いでくださるなら、満ち足りた気持ちでいられるだろう。あなたも父も、今回の不幸をあまり気にかけないようにお願いする次第だ。このような運命になることはずっと以前から覚悟していたのです」と記した。スペイン軍のグティエレス将軍に対しては、その寛大な行動に感謝する旨の書状を送付、その際に艦内にあったビール樽とチーズを贈った。グティエレス将軍からは返礼としてワインが贈られてきた。
療養期間 目次に戻る
9月になって本国に帰還したネルソンを待っていたのは、作戦失敗に対する批判ではなく賞讃の嵐であった。負傷にもめげぬネルソンの奮戦は本国の新聞で素早く詳しく報道されていた。ジャーヴィス提督はネルソン宛の私信で「勝利を左右するのは、神ならぬ身のおよばぬことです」「貴下ならびに貴下の軍は、まれにみる英雄的勇気と不屈の精神を示したのですから、勝ってもよかったところです」と優しく語り、他にもウィリアム・ヘンリ王子や海軍本部から帰還を祝す書簡が贈られ、さらにバース勲章、1000ポンドの年金、2年分の傷痍給付金、ロンドンとブリストルの名誉市民号が授与された。一般庶民の間でも人気沸騰となった。「1000名の小部隊で8000もの大軍に正面から戦いを挑んで名誉の負傷を遂げた勇将」ということだが、グティエレス将軍の法螺が思いもよらずネルソンの名声を高めてしまった訳である。ジョサイアは海尉艦長に昇進し、ネルソン自身も、右腕切断という軍人として致命的な負傷をしたにも関わらず、退役とかにはならなかった。海軍本部はネルソンの能力を高く評価しており、負傷から回復次第速やかに第一線に復帰させる意向であった。まぁとりあえずは自宅で療養である。
ところがネルソンの右腕の切断痕は合併症を起こしてなかなか完治せず、数ヶ月に渡って絶えず炎症を起こして痛みの休まる暇もなかった。切断した時に出血を防ぐために動脈を縛るのに使った絹の糸が神経を挟み込んでしまったのが原因であった。毎晩阿片を服用しなければ眠ることも出来ず、体重も減って一時は頭髪が真っ白になった。しかし11月のある日に問題の絹糸が腐り落ちてしまったのを境に劇的に回復し、以降のネルソンは初めて会う人に腕の切り株を見せて「ほら、ネルソン本人でございますよ」とアピールするまでになった。これは絹糸が抜けるより前(9月下旬)のエピソードだが、宮廷に出向いて国王ジョージ3世に拝謁したネルソンは、その時点ではまだ負傷に関する詳しい話を聞いていなかった国王がうっかり不躾にも「君は右手をなくしたのか!」と叫んでしまったのに対し、「ですが、その右腕はちゃんとこちらにございます」、と、近くにいた親しい艦長の1人を紹介した。この時期のネルソンは療養の合間に宮廷等の催しに定期的に参加し、上流階級の人々に強い印象を与えることに成功している。それと……、ネルソンは実は、開戦時に「アガメムノン」に乗組んで以来、今回の負傷で本国に帰ってくるまで4年ものながきに渡って家をあけっぱなしにしていた。妻のファニーは大怪我をした夫を誠意を込めて介助し、そのおかげでこの時期こそが実はネルソン夫妻にとっての最も幸福な時代であったとされている。(余談が続くが、ネルソンの筆跡は右手で書いていた時よりも左手で書くようになってからの方が読みやすくなったという)
その間の10月、イギリス艦隊とオランダ艦隊が激突する「カンパーダウンの海戦」が発生した。少し時間を遡って説明すると、オランダは去る95年にフランス軍に占領されて以降は国名を「バタヴィア共和国」に改称し(つまりフランスの属国になった)、イギリスに敵対する態度をとっていた(とらされていた)。イギリスはオランダの海外植民地を占領し、フランスはオランダの海軍を使ってイギリス本土を攻撃しようとした。そしてネルソンが療養していた時期の10月11日にウインテル提督の率いる戦列艦13隻とフリゲート艦10隻からなるオランダ艦隊と、ダンカン提督の率いる戦列艦16隻とフリゲート艦7隻からなるイギリス艦隊が遭遇、イギリス艦隊が勝利してオランダ艦11隻を拿捕したのである。
しかし同月17日にはナポレオン軍に首都近くまで攻め込まれていたオーストリアが「ガンポフォルミオの和約」でフランスと和睦してしまった。それまでオーストリア領だった北イタリアのロンバルディア地方は「トラスパダーナ共和国」として独立する(ただしフランスの傀儡)ことになり、モデナ公国やジェノヴァ共和国にもフランスの傀儡政権が成立した。サルディニア王国やナポリ王国は既に対仏大同盟から脱落して中立国となっていたため、以降はイギリスのみがフランスとの戦いを継続することになった。「第1回対仏大同盟」の崩壊である。正確にはポルトガルだけがイギリスを支援してくれていたが、さほど積極的ではなく、そもそもあまり頼りに出来るような強国ではない。それでもイギリス的には、サンヴィセンテ岬の海戦でスペイン艦隊を、カンパーダウンの海戦でオランダ艦隊をそれぞれ大破したことによって、かなり楽になっていた。こういう時に島国というのは有利である。
そして1798年3月29日、傷の癒えたネルソンは74門搭載の戦列艦「ヴァンガード」に将旗を掲げ、カディス沖でスペイン艦隊を封鎖中の味方地中海艦隊に合流すべくイギリス本国を出帆した。「ヴァンガード」の艦長にはサンヴィセンテ岬の海戦の際に斬り込み隊を率いて奮戦したエドワード・ベリーが就任した。ネルソンが国王に拝謁した時に自分の右腕だと言って紹介したのは彼である。その頃、南フランスのツーロン港にフランス軍の大部隊が集結中との情報がイギリス側もたらされていた。