アメリカ合衆国大統領列伝 後編

   

   第21代 アーサー

 1830年ヴァーモント州うまれ。弁護士として活躍しつつ共和党に属し、選挙協力の見返りとしてニューヨーク港の収税官に就任する。80年の共和党大会で副大統領候補に指名され、翌81年のガーフィールド暗殺によって大統領に昇格した。前任者の暗殺以降汚職と猟官制度に対する批判が高まっていたが、これを受けたアーサーは情実による任命を廃し、競争試験による有能な人材の確保を狙う連邦文官任用法を制定した。また、当時のカリフォルニアには約30万人の中国人が移住していたが、低廉な中国人労働者が白人の職を奪うことを恐れる議会は82年に中国人排斥法案を持ち出し、以後10年間中国人の入国を禁止しようとした。大統領はこれに対し拒否権を発動したが議会に押し切られ、以後合衆国は移民に対する門戸を少しづつ閉ざしていくことになる。外交面に関しては、82年、朝鮮国との間に平和友好通商条約を締結し、83年以降は海軍の増強をはかりつつ84年にはハワイ王国から真珠湾に船舶補修・給炭港を築くための独占権を獲得した。

   

   第22・24代 クリーヴランド

 1837年ニュージャージー州うまれ。民主党に属し、バッファロー市長・ニューヨーク州知事等を歴任する。清潔な政治から有権者の支持を集め、84年の大統領選挙に勝利した。浪費や腐敗を排除する一方で大統領権限の拡大を目指す。しかしその経済政策は国民に不評であったため、88年の大統領選挙に敗れ、一旦野にくだる。しかし、92年の大統領選挙にて復活を果たし、一度ホワイトハウスを去りながら再び大統領に返り咲いた唯一の人物となる。しかし復帰早々恐慌がおこり、それへの対応のまずさからまた国民の不評を呼んでしまう。94年、職を求める失業者がワシントンまで行進した事件では強硬な態度をとって指導者を投獄し、同年続発したストライキに対しても武力で鎮圧する姿勢をみせたために、国民一般の支持を完全に失ってしまう。しかし彼は一方で反帝国主義者でもあり、93年のハワイ併合に反対し、95年にはじまったキューバ内乱にも中立を維持した。イギリス領ギアナとヴェネズエラの国境紛争を調停したことでも知られている。

   

   第23代 B・ハリソン

 1833年オハイオ州うまれ。第9代H・ハリソンの孫。南北戦争に活躍、戦後は共和党に所属し、インディアナ州から連邦上院議員に選出される。88年の大統領選挙で民主党のクリーヴランドを破り大統領に就任する。行政府の効率化と産業の育成をはかり、「禁止的」な高税率を定める「マッキンレー関税法」を制定した。さらに、不正な企業合同・合併を取り締まる「シャーマン反トラスト法」を成立させるがこれはまったくのザル法であり、それどころか全国の労働組合組織を弾圧するような強圧的な政治を行った。さらに90年、西部の銀採掘業者の掘り出す銀を政府が高値で買い取る「シャーマン銀購入法」を制定するが、このために連邦政府は余剰金をほとんど使い切ってしまい、93年の大恐慌を招くきっかけとなった。かように内政は失敗が多かったが外交面ではかなりの業績をあげ、89年に中南米の21ヵ国を招いて第1回汎アメリカ会議を開催し、さらに同年太平洋サモア諸島の独立を英米独の保護のもとに保障する「ベルリン協定」を制定した。

   

   第25代 マッキンレー

 1843年オハイオ州うまれ。南北戦争に従軍後法律を学び、77年に連邦下院議員に当選、一貫して保護関税の導入を押し進める。地元オハイオ州の知事を4年間つとめた後、96年共和党の指名を受けて大統領に就任、57%という史上最高の税率を定めるディングレー関税法を制定して国内産業の保護育成をはかる。98年、キューバ独立戦争が合衆国国民の目を奪い、そのことが産業の順調な発達を妨げていると考えたマッキンレーはキューバ独立派を支持してスペインに宣戦、わずか100日間の、しかも戦死者ゼロの「すばらしい小戦争」で大勝、戦後ハワイを併合、プエルトリコ、グアム、フィリピンを領有し、さらにキューバを独立させて保護国とした。その後フィリピンの独立運動や清の義和団事件に強硬な態度をとり、つづく99年と1900年に「門戸解放宣言」をはっして中国問題における合衆国の発言権を確保した。マッキンレーは再選後まもなく無政府主義者に暗殺されたが、合衆国は彼の代にはじめて列強と肩を並べる大国になったといえる。

   

   第26代 T・ルーズベルト

 1858年ニューヨーク州うまれ。1881年共和党から最年少で州下院議員に当選する。97年マッキンレー政権の海軍次官に就任し、98年の米西戦争の準備に尽力するが、戦争開始後は次官を退き、「義勇兵聯隊」を率いて前線で活躍、戦後ニューヨーク州知事・副大統領を歴任しつつ1901年に前任者の暗殺によって大統領に昇任した。彼はまず大企業の集中化に対抗する「トラスト征伐」を行ない、市場を操作する「悪いトラスト」への訴訟を展開した。炭坑労働者のストに際しては経営者側にも譲歩を迫り、好評を得て1904年に再選を果たす。対外政策としてはいわゆる「棍棒外交」を繰り広げ、西半球において対外債務不履行や政治的不安定の目に余る場合にはアメリカが国際警察権力を行使するとの名目で強圧的な外交を行ない、運河開削のためにコロンビアからパナマを独立させた。しかしアジア・ヨーロッパにおいては勢力均衡を重視し、日露戦争で日本が必要以上の勝利をおさめることを警戒し、それを牽制する形でポーツマス会議を斡旋した。

   

   第27代 タフト

 1857年オハイオ州うまれ。最初は法曹界で活躍するが、米西戦争以降アメリカ植民地とされたフィリピンの初代民政総督として辣腕を振い、ルーズベルト政権で陸軍長官を務めた際に日本を訪問して、日本がフィリピンに野心を持たないことを確認した上で日本による韓国併合を黙認する「桂・タフト協定」を結ぶ。後にルーズベルトの後継者に推されるが、前任者が武力を背景とする「棍棒外交」を行ったのに対してタフトは経済力を背景とする「ドル外交」をもって中南米諸国を保護国化、さらに中国への借款等を行ったが、特に経済政策で失敗を重ねたことからルーズベルトとの対立を来した。1912年の大統領選挙では共和党は分裂してタフトとルーズベルトをそれぞれ担ぐハメになってしまい、結局は民主党のウィルソンに敗北した。在任中にはルーズベルトにならって反トラスト政策を押し進め、スタンダード石油・アメリカン・タバコ等を解散させ、他にも累進所得税の導入、上院議員選出を州民の直接選挙によるとする等、一定以上の改革を行なった。

   

   第28代 ウィルソン

 1856年ヴァージニア州うまれ。大学では歴史を学び、最初は弁護士、次いで学者を目指してプリンストン大学の学長となる。大学改革で名をあげた彼は政権奪取を狙う民主党から大統領候補に指名され、大企業の独占を抑えて自由競争を促す「新しい自由」を唱えて見事当選を果たす。就任後は独占の温床とみられた高関税の引き下げを断行したが、それらの改革はあくまで「自由競争の擁護」に留まり、弱者の保護等には目がまわらなかった。また、中南米に対しては自身の道徳観を強要する「宣教師外交」なる干渉を強行した。14年に勃発した第一次世界大戦に際しては中立を堅持しつつ理性を持っての調停をはかったが結局は国内世論に押され、「軍国主義打倒」のための参戦を余儀なくされた。戦後のパリ和平会議においては「無併合・無賠償・民族自決」を主張する「14ヵ条」を掲げたが、賠償金や新領土を求める列強はこれを中途半端にしか受け入れず、自身の提唱した国際連盟には肝心のアメリカ国内の孤立主義者等の反対にあって加盟出来なかった。

   

   第29代 ハーディング

 1865年オハイオ州うまれ。不動産業から出発して地方新聞社の社主となり、調和的な人柄を買われて共和党の州上院議員・州副知事・連邦上院議員等を歴任して1920年に共和党の大統領候補に指名される。選挙ではウィルソンの掲げる「侵略阻止」等の理想主義に対して「正常への復帰」を唱えて大勝する。外交としては海軍軍縮と中国の門戸開放を約するワシントン会議を主宰、さらに前政権がやり残していた対ドイツの講和条約を完成させ、他方では中南米諸国との関係改善にも努力した。内政面では高額所得者の減税、高率保護関税の導入等の保守的政策によって安定を求め、以降のアメリカを共和党指導下の繁栄へと導いた。ハーディングは友情に篤すぎたことから情実人事を繰り返していたが、自身も女性関係に問題があり、酒やゴルフを好んで大統領の職務をなおざりにしているとの悪評がたってしまった。彼はスキャンダルに苦しめられたあげく、結局心労のために在任中に病死したが、死後さらに彼の任命した閣僚達の汚職が暴露されるのであった。

   

   第30代 クーリッジ

 1872年ヴァーモント州うまれ。大学卒業後弁護士となり、ほどなく共和党に入って州下院議員・ノーザンプトン市長・州知事等を歴任する。1919年の警察ストを鎮めたことから注目を集め、翌20年にハーディング政権の副大統領に当選、前任者の死によって大統領に昇格する。就任後まず前政権の汚職を容赦なく糾弾して信望を集め、24年の選挙でも難なく当選を果たす。政治家としても私人としてもハーディングとは対照的なピューリタン的慎重さで国民の信頼を得た彼は「アメリカ国民の主たる仕事はビジネスである」として生産の拡大とそのための所得税・相続税の減税をおこない、一方で財政支出の削減につとめながらも高速道路や国立公園への予算支出を増額する等々の経済拡大策を展開した。外交面ではドーズ案の導入によってヨーロッパの経済回復を支援し、またその一方ではジュネーブ軍縮会議を主宰、さらにメキシコとの油田をめぐる危機を巧みに回避した。引退後、歴代大統領中もっともよく眠り、かつよく仕事を果たした人物と評された。

   

   第31代 フーヴァー

 1874年アイオワ州うまれ。最初は鉱山技師として出発し、世界中で活躍して全米を代表する億万長者となり、その卓越した事業運営を買われて一次大戦の際には欧州における食糧庁の長官に抜擢され、戦後はハーディング政権の商務長官に任命される。実業界全体の合理化や能率化に努力するフーヴァーは繁栄を続ける共和党政権の申し子として、1928年の大統領選挙に当然のように勝利するが、就任半年あまりの29年10月24日、ニューヨーク証券取引所における株価大暴落に端を発する未曾有の大恐慌に見舞われる。彼はあくまで実業界の自主的な協力活動によって危機を克服すべしと唱え、国家による積極的な経済統制といったことはほとんどしなかった。一応は失業者対策事業や、銀行・鉄道を救済するための復興金融会社の設立等をおこなうが、どれも不充分なまま32年には失業者が1300万にも達するという最悪の事態を迎えるハメとなった。かくしてフーヴァーは32年の大統領選挙に敗北し、3代続いた共和党政権に幕を降ろすことになる。

   

   第32代 F・ルーズベルト

 1882年ニューヨーク州うまれ、第26代T・ルーズベルトの血縁であるが、民主党員としてウィルソン政権の海軍次官に抜擢される。共和党政権が続く21年避暑先で小児麻痺に襲われるが、28年ニューヨーク州知事に当選、大恐慌下の32年に大統領に就任する。彼はただちに政府資金による銀行救済・大規模開発事業等のいわゆる「ニュー・ディール」の展開によって経済復興に尽力し、35年以降は労働保護や社会保障の重視を打ち出して労働者の支持を得て翌年再選を果たす。対外政策では就任後いちはやくソ連邦を承認し、ファシズムの危機を認識するが、二次世界大戦勃発後もしばらくは国内の孤立主義的風潮に妥協して参戦回避を堅持、40年に合衆国史上初の3選をはたす。しかし41年12月に日本軍による真珠湾攻撃がなされると一転して総力戦に突入し、連合諸国の首脳とテヘラン・カイロ・ヤルタで会談して戦争の指導・戦後の国際秩序策定等に活躍した。44年にはさらに4選をはたすが、大戦終結間近の45年4月に脳溢血で死亡した。

   

   第33代 トルーマン

 1884年ミズーリ州うまれ。父の破産のために大学進学を断念、若い頃は様々な職を転々とするが、一次大戦に従軍後22年に郡判事となり、51歳の時連邦上院議員となる。二次大戦中は政府の国防計画特別調査委員長として軍需物資の補給・調達・契約等を監督して支出削減に努力し、44年ルーズベルト政権の副大統領となるが、前任者の急死によって大統領に昇格、就任早々にポツダム会談を主宰して、さらに「大戦終結を速めるために」日本への原爆攻撃を決断した。大戦終結後はただちにソ連との武力を伴わない全面対決「冷戦」に乗り出し、47年には「共産主義者の反乱がおきれば、アメリカはそれがどこであっても鎮圧する」との「トルーマン・ドクトリン」を発し、49年には北大西洋条約機構を結成、その前の47年には「マーシャル・プラン」を打ち出して、大戦で荒廃したヨーロッパに140億ドルを投入するという巨額援助を通じて資本主義圏の統合とソ連・東欧の封じ込めに努力した。「戦後政治の演出者」として重要な人物といえる。

   

   第34代 アイゼンハワー

 1890年カンザス州うまれ。高校卒業後陸軍士官学校に入学し、大した成績も残さないまま卒業するが、20年代に一次大戦にかんするガイドブックを執筆したことから注目を集め、陸軍大学は首席で卒業、二次大戦において北アフリカ上陸作戦・ノルマンディー上陸作戦を指揮してその名を轟かす。中佐から元帥に昇進するまでわずかに45ヵ月という異例のスピード出世であった。大戦終結後参謀総長・コロンビア大学学長・北大西洋条約機構軍最高司令官を歴任するが、52年の大統領選挙の際に共和党の候補として担ぎ上げられ、朝鮮戦争終結を公約に掲げて大勝した。国民の人気は常に高かったが政界ではそうではなく、後世の評価も今一つであるが、8年間の在任期間中に軍事支出を抑制し、軍産複合体の危険性を警告した。対外的には公約通りに朝鮮戦争を調停、インドシナ戦争への軍事不介入を貫き、台湾海峡危機やスエズ戦争の全面戦争化を回避する等の手腕を示した。とはいえ中東や中南米への軍事干渉を行い、インドシナへの政治干渉をおこなった。

   

   第35代 ケネディ

 1917年うまれ。二次大戦中魚雷艇の指揮をとってその冷静な指揮を評価され、戦後から連邦下院議員に当選する。52年には連邦上院議員、56年には自分と同じ民主党のスティーブンスの大統領選立候補を強く支持してその副大統領におさまろうとするがこれははたせず、60年の大統領選にて、科学と宇宙、平和と戦争、貧困と過剰の未解決の問題に踏み込み、停滞を打破するとの「ニューフロンティア」を掲げ、対立候補のニクソンを僅差で破る。アメリカ史上初のカトリック教徒の大統領であった。まず内政としては、基幹産業である鉄鋼の価格安定に努力し、黒人公民権運動に理解を示した。対外政策としては「平和部隊」を創設して未開発国への援助を促進、中南米を支援するための「進歩のための同盟」を提案した。62年のキューバ危機も断固たる決意のもとに平和的に解決した。63年末には南北ヴェトナムの対立が激化し、ケネディは南ヴェトナムが独力で勝利出来ないなら深入りしないつもりでいたといわれるが、その前にダラスにて暗殺された。

       

   第36代 L・B・ジョンソン

 1908年テキサス州うまれ。民主党に所属して連邦下院・上院の議員をつとめ、1963年、前任者ケネディの暗殺を受け副大統領から大統領に昇格する。就任早々ケネディの跡を継ぐとの姿勢から減税法・公民権法等を制定し、「合衆国における貧困に対する全面戦争」を宣言する。かような様々な貧困対策を背景に持つジョンソンは64年の大統領選挙にも大勝し、引き続き教育・福祉・公民権・資源確保・黒人の投票権の保障・都市開発等々に尽力し、同じ民主党のF・ルーズベルト以来ともいえる程の成功をおさめたが、その栄光は内政面のみに留まった。1965年、激化する南北ベトナムの戦争の最中において、北ベトナムに対する「北爆」を命じ、さらに大規模なアメリカ軍部隊を投入する等の積極的な対ベトナム介入策を強行したが、勝利のメドは全く立たず、そのうちに国内で学生等による反戦運動が激化して、ジョンソンへの信望もそれに直結する形で低下した。そして68年をもって民主党政権は終焉し、大統領選には共和党のニクソンが当選する。

   

   第37代 ニクソン

 1913年うまれ。大統領に就任後6ヵ月後にアポロ11号による月面着陸を成功させてアメリカの勝利を強調する。ヴェトナム戦争に対しては名誉ある撤退と述べつつも巧みに北爆を強化し、ラオス・カンボジアへの戦線拡大を実行したが、その背景となるのは過激な反戦運動に批判的な保守層であり、つまりはアメリカ社会の亀裂の上に依って立つ政策であった。71年に歴史的な中国訪問を実現し、翌年ドル防衛のための金・ドル交換停止を実現したことは世界政治に激震を与え、かような外交・内政両面の功績によって再選を果たすが、73年ついにヴェトナム戦争からの撤退を余儀なくされ、さらに中東危機によるオイル・ショックに見舞われる。この年、ニクソンの再選を望むグループが民主党事務局に潜入して盗聴器を仕掛けようとした「ウォーターゲート事件」が発覚、事後の調査でニクソンの脱税疑惑まで浮上して大幅に評価を落してしまった。他方では、日本の対米繊維輸出規制を批判し、現在に続く日米貿易摩擦のきっかけをつくった大統領でもある。

   

   第38代 フォード

 1913年ネブラスカ州うまれ。大恐慌下に苦学して大学を卒業後、大戦中は空母に乗り組んで主要な海戦すべてに参加した。戦後共和党に入ってミシガン州から連邦下院に当選する。この時の党内の予備選では現職議員の腐敗を糾弾し、毎日党員宅を訪ねてまわったとのエピソードが残っている。議会では歳出委員会に所属しつつも選挙区の面倒を徹底的によく見て「議会で一番有効な選挙区サービスシステムのひとつ」と評される。党のポストを歴任し、65年には下院院内総務に就任するが、夢は下院議長に留まり、大統領選出馬の野望は有していなかった。しかし転機となったのがウォーターゲート事件で、73年にまず汚職で辞職したアグニュー副大統領の後任となり、翌年つづいて辞任に追い込まれた大統領ニクソンの跡を継いで大統領に就任した。誠実な人柄をアピールし、GNPのマイナス成長、失業、インフレをなんとか克服するがやはり国民は共和党への支持を失っており、就任2年目の76年の大統領選挙にて民主党のカーターに敗北したのであった。

   

   第39代 カーター

 1924年ジョージア州うまれ。民主党に所属し、地元ジョージア州の知事から76年に現職フォードを破って大統領に就任する。久々の南部出身大統領として期待を集め、行政機構を簡素化して余った資金によって社会福祉の充実をはかつたが、重要問題に際しての決断力不足を次第に露呈しだす。78年に完成した新型兵器中性子爆弾の配備をさんざん迷った末に無期延期として右派勢力の支持を無くし、「ジョージア・ハムレット」のあだ名を奉られる。とはいえ77年にはパナマ運河返還条約に調印し、78年イスラエル・エジプトを和解させる「キャンプ・デービット合意」を演出し、79年には中国との国交正常化を実現する等の一定以上の成果もあげている。しかし内政面ではインフレが増大して一般国民の支持が急落し、同年のソ連によるアフガニスタン侵攻への対応のまずさがさらに追及を受けた。最後にこの年11月に「イラン革命」が勃発し、現地のアメリカ大使館が占領されるという事件が発生し、解決したのは任期終了直後という不運さであった。

前編

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