ローデシア 第5部


   バンダ時代   目次に戻る

 マラウイでは1964年7月に達成された完全独立の1ヶ月後、初代大統領バンダが閣僚3人を罷免、別に3人が辞任するという事態に立ち至った。その頃まだモザンビークを植民地支配していたポルトガルとの関係をどうするかで親ポルトガルのバンダ(モザンビークを通じてのインド洋への出口を欲しがった)と反対派が揉めたのである。翌65年には反対派が2度に渡るクーデターを企てたがどちらも失敗した。バンダは与党「マラウイ会議党」による一党独裁体制を敷き、71年には終身大統領に就任した。一般国民に対しては、男性の長髪を禁止し、女性にロングスカートの着用を義務付けたが、その程度ならともかく、反政府容疑者を片っ端から逮捕し、バンダの治世(30年続いた)の間に20〜25万人を裁判なしで収監したといわれている。バンダは私生活では贅沢を好み、夫人と一緒にイギリスに買い物に出かけるためだけに外国のジャンボジェットをチャーターして、しかもその時だけ機体に「マラウイ航空」の塗装をさせたという。

 外交的には南アフリカとの友好関係を強調した。マラウイから南アフリカに大勢が出稼ぎに行っていたからである(バンダはローデシアのスミス政権にも同情を示した)。人種差別の国と結んだことで黒人の諸国から批判を受けたが、しかしポルトガルから独立した後のモザンビークが社会主義路線を進んだ(アフリカでは他にも61年にイギリスから独立したタンザニア等、社会主義を採用した国が多かった)のに対してバンダは西側諸国との協調を訴え、そのおかげで、南アフリカと結んでいること(バンダはさらにモザンビークのRENAMOを支援した)や国内における抑圧的な体制について、少なくとも西側諸国からは見逃してもらえた(そもそも西側諸国は南アに甘い)し、南アフリカからは経済援助を引き出せた。例えば68年にゾンバからリロングゥエに首都を移した際には1120万ドルの援助を受けている。しかし80年代後半に入るとまずタンザニアが社会主義体制からの脱却をはかるようになり、モザンビークも89年に社会主義の放棄を決定してしまうと、西側諸国としてはバンダ政権に甘い顔をする理由がなくなった。

 そして91年、イギリスがバンダの圧政を批判した。92年にはマラウイ国内のキリスト教会がバンダ批判の文書を配布した。バンダはこの文書の所持を禁止したが、反政府暴動が発生して死傷者が出た。マラウイに経済援助を行っている諸国はこの年5月にパリで会議を開き、新規の援助を凍結した。内外の批判をかわしきれなくなったバンダは93年に複数政党制への移行を余儀なくされた。その後の事態は穏便に進行し、94年に行われた総選挙・大統領選挙では野党「統一民主戦線(UDF)」が勝利、その党首バキリ・ムルジがマラウイ第2代の大統領に就任した。

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 新政府はUDFと第3党「民主同盟(AFORD)」との連立であった。UDFは単独では過半数に届かず、第2党はバンダの与党だった「マラウイ会議党(MCP)」ということで、キャスティング・ボードを握ったAFORDはUDFとMCPの両方と組閣工作を行っている。ちなみにUDFはMCPからの離脱者を中心とし、AFORDは労働組合を主体として結成された政党である。

 96年、AFORDが連立政権から抜けた、が、この党から閣僚になっていた5名は党の動きに従わずにUDFに乗り換え、そのまま閣僚の椅子を保持した。AFORDの政権離脱で少数与党になってしまったUDFは補欠選挙や他党からの引き抜きでどうにか過半数を確保した。翌97年、バンダが失政を詫びつつ亡くなった。死の2年前に告訴されるも無罪となっている。生年が1898年頃(正確には不明)だから、享年は100歳前後だったことになる。その間、マラウイ全体で約3万人いる白人の経営する農園が黒人農民によって占拠されるという事件が発生したが、ジンバブエの場合と違ってこちらでは政府が白人の味方に付き、黒人たちは迅速に排除されている。

 99年の大統領選挙ではムルジの再選を目指すUDFに対してAFORDとMCPが連合、しかし前者が勝利した。同年の総選挙ではUDFは単独過半数にわずかに届かなかったものの、無所属で当選した4名を入党させることで過半数を確保した。MCPではAFORDと連合したことへの内部批判が強く、親AFORD派のチャクアンバ派と反対派のテンボ派に分裂を来した。

 ところが2002年、AFORDはMCPチャクアンバ派を切り捨て、ムルジのUDFに接近した。このような二転三転の動きの背景には何か特別な政策やイデオロギーでもあるのかというとそうでもなく、単にその時その時に権力の椅子を求めて離合集散を繰り返しているだけの話(これはAFORDに限った話ではなく、要職につくためだけに次々に所属政党を変えている個人もいる)なのであって、「カメレオン民主主義」とか呼ばれてマラウイ政界の特色となっている(高根務著「マラウイとガーナの民主化過程」)。

 マラウイ憲法では大統領は2期までと規定されているのだが、AFORDの接近に気を良くしたムルジは3選も可能なように憲法を変えようとした。しかしこれは憲法改正に必要な「議会の3分の2の賛成」に3票だけたらずに否決となった。ムルジはこれを受け入れ、2004年の大統領選挙では後継のムタリカが出馬・当選した。マラウイの政界では汚職が問題となっており、ムタリカはその撲滅に乗り出したが、彼の与党UDFはことの是非をめぐって分裂した。2005年2月、ムタリカはUDFから脱退、新たに「民主進歩党(DPB)」を立ち上げた。

                                     おわり

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