午前3時、「第2回全ロシア・ソヴィエト大会」にてレーニンの起草による「労働者・農民・兵士諸君へ」が採択された。「労働者・農民・兵士の大多数の意志に基づき、ペトログラードでなされた労働者・兵士の勝利せる蜂起に基づき、大会が権力を掌握する」。すなわち、ボリシェヴィキによる武力革命がソヴィエトという公的機関によって承認されたのである。
午後9時、議事が再開され、「平和にかんする布告」「土地にかんする布告」がそれぞれ採択された。前者は「全交戦国の人民とその政府に対して公正で民主的な平和のための交渉を、即時開始することを要求する」。後者は「地主的土地所有の即時無償廃止」。レーニンは農民に土地の私有を認め、これまで地主貴族の鎖のもとで上からの支配に服してきた農民に「自分で自分の生活を処理することに実際の経験を積ませる……自分が(農奴ではなく)自由な人間で一家の主人だという確信を持たせる……これは道義的・心理的革命(レーニンとロシヤ革命)」を期待したのである。また、この段階では(純粋に経済学的には)早急な社会主義建設は難しいというレーニンの考えはかわっておらず、今回の大会でも社会主義的な政策云々については語られなかった(註1)が、それでも今後「社会主義国家の建設」を目指すことが明確に宣言された。
註1 が、労働者は自発的に工場の占拠・自主運営を始めてしまう。
上の布告はほとんど満場一致で採択されたが、新政府の構成については議論がわかれた。左派エス・エルはソヴィエトの全党派(メンシェヴィキや右派エス・エルを含む)による連立政権を主張したが、ボリシェヴィキはこれを退けた。「妥協主義者(メンシェヴィキ等)は、破滅的な夏期攻勢を準備した。彼等は人民に対する反逆の政府(コルニーロフ反乱とそれに同調したカデット)を支持した。彼等は戦争の無意味な引き延ばしに対して責任がある。彼等は土地問題にかんして(憲法制定会議まで待てとかいって)農民を欺瞞した(ロシア革命史)」ブルジョアと妥協するような党と組んだりしたら、革命は必ず変質してしまう。社会主義は(メンシェヴィキがいうような)単純に資本主義から生じるものではない。権力(行政・教育・生産と交換)をブルジョアが握っている(かようなものを「私有」するからブルジョアなのだ)限り、プロレタリアートは永久に搾取され続けるだけである。かつてのフランス革命の際にブルジョアが封建制を打破して権力を握ったように、プロレタリアートのみが(生産手段を持たないで〜私有ではなく共有する〜プロレタリアートのままで)すべての権力を握る「プロレタリアート独裁(註2)(今のところは労農民主独裁)」によってのみ社会主義はなしとげられ、ひいては階級対立と階級そのものの廃止へと到達する。そして「国家」というものが、「ひとつの階級が(上にみたような)権力を握ることによって他の階級を支配する機関」である以上、「プロレタリアート独裁」において生産手段の私有制廃止がなされて階級が消滅すれば、「階級支配の機関」である国家そのものも消滅するのである。
註2 レーニンがブルジョア革命を完遂する機関として構想したのは「労農民主独裁」であるが、いずれは農民(自作農)も農業プロレタリアート(大農場の労働者)へと転化させ(必然的にそうなると考えられた)、プロレタリアート単独による「プロレタリア独裁」によって社会主義社会の実現がなされるべきと考えられた。
ボリシェヴィキは左派エス・エルと連立政権を組むことを望んだが、左派エス・エルは「ボリシェヴィキは他党派に対して厳しすぎる。ソヴィエトの全党派による連立でなければうけられない」としてこれを断り、結局ボリシェヴィキのみの政府が誕生した。これは「臨時労農政府」と呼ばれるものであるが、閣僚の名称として、大臣(皇帝の臣下というニュアンスがある)でもなく政治委員(ありふれている)でもなく、「人民委員」なる名が(トロツキーの提案で)考え出され、人民委員会議長にレーニン、外務人民委員にトロツキー、内務人民委員にルイコフ、民族人民委員にスターリン、等々がそれぞれ選ばれた。(第二次世界大戦後に「大臣」の称号が復活)
こうして、史上初の「労働者と農民の政府」が誕生した。しかし、この政府は最初から重大な問題を抱えていた。「臨時労農政府」は厳密に「マルクス・レーニン主義」というイデオロギーのみに立脚する政権であり、そのイデオロギーが否定されればその存在意義を失ってしまう以上、反対意見に対しては断固かつ非妥協的態度をとる以外にないのである。「すべての権力をソヴィエトへ」に賛成するならば、厳密にいうならば「プロレタリアート独裁」にも賛成しなければ何の意味もないのだが……しかしボリシェヴィキ政権に内在するかような問題点を敏感に感じ取った人は大勢いた。そもそも、「十月革命」は臨時政府に対するロシア大衆の反発を背景として引き起こされたものではあるが、「臨時政府を倒してそれからどうするか」については人々の考えは一致せず、今回の革命自体も完全にボリシェヴィキのイニシアティブによるもので、革命当日の一般の市民生活はかなりの程度平穏なものであった。自然発生的におこった「二月革命」で滅んだロマノフ王家に同情するものは誰もいなかったが、一部の人間が非妥協的な理屈(恐ろしく完成された理論ではある)にのっとっておこした「十月革命」への反発は激烈なものがあり、コルニーロフ反乱の時に惨めな思いをした旧帝政派将校やブルジョアまでもがかえって勢いづくことになる。「ロシア革命」の本当の混乱と悲劇はここから始まるのである。
だが、とりあえずはボリシェヴィキの優勢はとまらなかった。首都を脱出したケレンスキーは26日にはひとまずオストロフに着き、ここに駐留する騎兵第3軍団を動員してペトログラードに攻め上ろうと考えた。ところがケレンスキーに従ったのはたったの1200人、それでも28日にはツァールスコエ・セローを占領したケレンスキー軍は、すぐに首都から駆けつけてきたボリシェヴィキ派の部隊1万2000人によって壊滅させられた。ケレンスキーは翌年亡命し、その後二度とロシアに帰ってこなかった。
ほとんど無血でおこなわれたペトログラードの革命とは異なり、モスクワの革命はかなりの流血を伴った。モスクワのボリシェヴィキ指導部には首都におけるトロツキーのような有能な指導者を欠き、ここしばらくモスクワ・ソヴィエトの選挙がおこなわれていなかったことからその執行部におけるメンシェヴィキ、右派エス・エルの勢力が強かったが……しかし結局彼等に忠誠を誓ったのは士官学校生徒のみであり、5日間の市街戦の末に壊滅した。数ヵ月のうちに、全国の主だった都市で臨時政府からソヴィエトへの権力移行がおこなわれた。(だからボリシェヴィキを支持しているとはいいきれないが)ソヴィエト政権、つまり「労働者と農民の政府」の樹立そのものは全国から歓迎された。
農村では、かなり前から(臨時政府がなんといおうが)自発的な土地解放(地主貴族の土地を没収する)が進んでいた。農民は「土地にかんする布告」を素直に喜んだが、しかしボリシェヴィキの究極的な目標「すべての土地の国有化(註1)(レーニンはまだその段階ではないと考えるが)」は彼等の理解を得ることが出来なかった。前述(だいぶ前か?)した通り、ロシアの農村には土地私有制を欠く共同体(ミール)が生きており、土地解放自体も、地主貴族の土地を「自分の土地」ではなく「ミールの土地」へと移行するという形をとっていた。「土地は誰のものでもない(国家のものでもない)。ただミールのものである」。この点で彼等農民は、ミールを社会主義実現への主たる原動力と考えるエス・エル(少なくとも本来のナロードニキ。今の左派)に強い共感を抱いていた(長尾ロシア革命史)。ボリシェヴィキはミールなど、前世紀後半以来の資本主義的経済の流入によってとっくに消滅したと考えていたが、少なくとも農民の頭の中には生きていたのである。
註1 ブルジョア革命ならともかく、社会主義建設の段階では農地という生産手段を持つ農民はプロレタリアートの同盟者として不適格である。全ての農地を国有化し農民を国営農場で働く農業プロレタリアートとするのが理想的である。この「農業集団化」はスターリン時代に強行されることになるのは既に説明した。
メンシェヴィキ、右派エス・エルはまだ諦めていなかった。メンシェヴィキは臨時政府の再建を唱え、右派エス・エルはボリシェヴィキとカデット(ブルジョア政党)を除く「同質社会主義者政府」の樹立を訴えた。左派エス・エルはこれらの動きをふまえ、ここでもソヴィエトの全党派による「同質民主派権力」を言い出した。ボリシェヴィキ内部にもこれに同調する者があらわれた。しかしレーニンは強硬であり、「反革命新聞」を発禁にすると共に、ボリシェヴィキ内部の反対派にも厳しい締め付けをおこなった。連立するなら相棒は左派エス・エルだけである。ようやく左派エス・エルも折れ、12月9日にボリシェヴィキ14人、左派エス・エル7人からなる連立政権が発足した。左派エス・エルは去る11月19日に正式に右派からの分離を遂げていた。
その少し前の11月12日、二月以来かねて約束の「憲法制定会議」の選挙が実施された。ボリシェヴィキは迷ったあげく選挙(の実施)を認めた。有権者は20歳以上(兵士は18歳以上)の男女、投票率は50%弱であった。得票率はカデットが4.7%、メンシェヴィキが2.7%、エス・エル(左右両派を含む)が40.4%、ボリシェヴィキが24%、少数民族諸派が20.8%であった。この選挙は比例代表制によるもので、この時点では分裂前のエス・エルは(党首脳部を占める)右派に有利な統一名簿で選挙戦にのぞんでいたことから当選者も右派が大多数で、この結果は正確に民意を反映しているとはいい難かった。地域別にいうならばボリシェヴィキは都市と軍隊では第一党を占めていたが、軍隊でのエス・エルとの差はわずか0.1ポイント、農村ではエス・エルの独壇場であった。都市部はともかくとして、農村にはいまだボリシェヴィキの勢力が達していなかった。ボリシェヴィキは相当のショックを受けたが、今さら憲法制定会議招集を中止したり延期したりすることは出来なかった。
ところで今回の「十月革命」以降、ボリシェヴィキ政権は明確に(少しづつと強調しつつも)「社会主義建設」を目標に掲げた訳であり、つまり十月革命は実質的に「プロレタリア革命」たることが宣言されたことになる。この段階で公然とブルジョアジーの利益をはかりプロレタリアートに敵対することは「反革命」以外の何者でもない(という理屈になってしまう)。11月28日、ブルジョア政党カデットの指導者が「反革命容疑」で逮捕されてしまった。
1918年1月5日、憲法制定会議がタヴリーダ宮にて開会された(註1)。レーニンはすでに党機関紙『プラウダ』にてこの会議の無意味さを批判していた。まず前述のエス・エルの問題(これは正論である)、ブルジョアを含む今回の選挙よりも「労働者と兵士の代表機関」であるソヴィエト(に承認された臨時労農政府)の方が「民主主義のより高度の形態である」、等々。議場の外では「すべての権力を憲法制定会議へ!」のプラカードを掲げる反ボリシェヴィキのデモ隊が気勢をあげていた。
註1 実はこの時、ケレンスキーがペトログラードに潜り込んでいた。彼は憲法制定会議会場に姿を現すつもりでいたのだが、エス・エル議員に反対されて諦めたのだという。彼はその後アメリカに渡り、1970年に89歳で亡くなった。
もちろん、会議ではボリシェヴィキが何をいっても退けられた。ボリシェヴィキと左派エス・エルはさっさと退席したが、会議の多数を占める右派エス・エルの議員たちは辛抱強く議事を続けた。彼等は翌日午前になっても会議を続けたが、午前5時には「警備の兵士が疲れたから」との理由で休会を強制され、しばらく経って議場に戻ってきた時にはその入口は閉鎖されていた。「第2回全ロシア・ソヴィエト大会中央執行委員会」の命令によると説明されたが、要するにボリシェヴィキのさしがねであった。そして、それっきりになってしまった。
こうしてボリシェヴィキは「憲法制定会議」を切り抜けたが、次の問題はもっと厄介だった。まだ継続中の「第一次世界大戦」からどうやって離脱するか、である。これまで臨時政府の戦争遂行策を批判し続けてきた以上、これをクリアしなければ、ボリシェヴィキの「ソヴィエト政権」そのものの存在意義が疑われることになるのだが……問題はそんな単純なところに留まらなくなっていた。
レーニンが大戦の停止を訴えた「平和にかんする布告」は連合諸国には完全に無視されたが、ドイツはロシアとの講和に乗り気になってきた。今さらいうまでもないが、本来のロシアとドイツが交戦状態にある以上、ロシアが「講和」と称して戦いをやめれば、その分だけドイツが楽になるのである。
とはいえ講和交渉は難航した。ドイツが講和の条件としてポーランド・クールランド・リトアニア等々、すでにドイツ軍が占領している地域の割譲を要求してきたのである。これを受けたボリシェヴィキの指導部は意見の分裂をきたした。レーニンは「とにかく戦争を止めて一息つくべき」としてドイツへの妥協を唱えたが、ブハーリンは「現在ドイツ国内でも革命的機運が熟成しつつあり、ここで(全世界のプロレタリアートの味方であるべき我々が)ドイツ軍との戦いをやめればドイツの革命的プロレタリアートを裏切ることになる」として「革命戦争」を主張し、トロツキーは「戦争もしないが講和もしない」として、ダラダラと交渉を続けつつドイツのブロレタリアートに革命を呼びかければ、そのうちドイツでも革命がおこると考えた。結局トロツキー案が通り、交渉の引き延ばしがはかられることになった。問題は「ドイツ革命」、そして「世界革命」が来るか否かであった。そして、ここ数ヵ月の間におけるロシア軍の脱走兵は200万人にも達していた。ここで「革命戦争」とかいっても、はたしてまともな勝負になるのか? レーニンの即時講和論も、「まず国内を固めるべきであるし、ドイツ革命が今すぐおこるか否か不明である(ドイツ革命がおこらなければ、最悪の事態になってしまう)」という立場に立っていた。(この間、世界中のプロレタリアートを憤激させるべく、帝政ロシアが各国と結んでいた帝国主義的な条約がばんばん暴露された。オスマン領にかんするイギリスの三枚舌外交がばらされたのがこの時である)
この点でレーニンは現実というものをよく見ていた。彼も「世界革命」の到来にロシア革命の未来を託していたが、今のロシアにドイツ軍と戦えるだけの力はない、何よりも、「世界革命を守り抜くためには、まずロシア革命を守り抜かなければならない」。今のロシアは世界でたったひとつの「労働者の国」であり、これが潰されてしまってはもともこもない。
2月18日(ロシアはこの月14日よりグレゴリウス暦に改暦)、長引く交渉(ロシア全権トロツキーの引き延ばし作戦により、3ヵ月も続けられていた)に苛立ったドイツ軍が攻勢を再開した。ロシア軍はほとんど解体しており、無人の野を征くが如きドイツ軍はたちまちミンスクを落しペトログラードにも迫った。ボリシェヴィキ党委員会で激論が戦わされた。ブハーリンは、正規軍が戦えなくても、農民や労働者がゲリラになって戦えばよいと唱えたが、結局レーニンの即時講和論が賛成7・反対4・棄権4というぎりぎりのところで押し通された(棄権はトロツキー派)。結局どの考えが正しかったのかは何ともいえないが……、勢いに乗るドイツ軍が「即時講和」を願うレーニンに突き付けてきた要求がまた無茶苦茶で、普通なら絶対受け入れられないものだった。
ロシアはウクライナ・バルト海沿岸地方・フィンランドの独立を承認し(実質的にドイツへの割譲)、ポーランド・リトアニア・白ロシアの一部をドイツに、カルスとバトゥムをオスマン帝国(ドイツの同盟国)にそれぞれ割譲し、賠償金60億マルクを支払うべし。これを全部受ければ、ロシアは総人口の3分の1、耕地・鉄道網の4分の1、石炭・鉄生産の4分の3を失うことになる。(註1)
註1 以上の要求は2月23日に通告され、回答までの期限は48時間しか与えられなかった。
だが、レーニンはすべての要求を飲んだ(2月25日に無条件受諾を通告)。3月3日、「ブレスト・リトフスク講和条約」が調印された。講和反対を唱えるブハーリン派は党中央委員会に辞表を叩き付け、これに同調する左派エス・エルも連立政権から離脱してしまった。(註2)
註2 この前後、ドイツ国境が首都ペトログラードに近付きすぎたため、レーニンは首都を奥地のモスクワに移すことにした。以後、現在に至るまでモスクワがロシアの首都となっている。
次の問題は食糧の確保であった。4年も続いた世界大戦(ロシアは抜けたが、他国はまだ戦っている)と、革命の混乱により、農村で生産された食糧を都市に送り出すシステムが瓦解しており、最大の穀倉地帯であるウクライナはブレスト・リトフスク講和の結果、ドイツに割譲されてしまった(形式的には独立している)。反革命派の地方反乱もすでに始まっており、都市の食糧不足は極度に深刻であった。しかしその一方で農民たちは、帝政や地主制が崩壊したおかげで種々の支払いから解放され、本来不足がちな食糧を都会に売る必要がなくなっていた(ロシア革命の矛盾)。農民の中には余剰穀物を売り惜しみ、闇市で儲ける者もいた。正規のルートで売ろうと思っても、貨幣の価値が暴落しているのでとても手放す気になれなかった。
5月、ボリシェヴィキは「食糧独裁令」を公布し、農村の余剰穀物(播種と個人消費を超えるすべての穀物)を強制的に提供させるために食糧人民委員に非常大権を与え、武装した「食糧徴発隊」を派遣することを取り決めた。ここにいわゆる「戦時共産主義」が始まるのである。
ボリシェヴィキは「現在のロシアの農民は資本主義経済の流入によって富農と貧農に分化している」と考えており、食糧の不足も、「農業ブルジョアジーが穀物を秘匿している」からであって、事態の打破には武力に訴えるのもやむなし、として食糧徴発を正当化した(前掲書)。しかし実際にはこの頃の農村では共同体による土地解放(前述)が進行しており、農民たちは「誰のものでもない」土地に食糧徴発が課されるのは絶対に納得出来なかった(長尾ロシア革命史)。あちこちで農民反乱が勃発した。農民の味方についた左派エス・エルは、「そもそも現在の農村には共同体があるだけで富農・貧農の違いはない」としてボリシェヴィキ理論に真っ向から反対した。しかし、この時期には地方における反革命派の反乱が始まっており、農民たちは反革命派(旧帝政軍の将校やカデットを主体とする。いわゆる「白衛軍」)によって地主制が復活するよりは、ボリシェヴィキの支配の方がマシだと考えた、といわれている。少なくとも農民たちは反革命軍にはあまり味方せず、そのおかげでボリシェヴィキは国内戦に勝利することが出来た、と一般に説明されている。しかし、国内戦においてはボリシェヴィキ党員が大量に前線へと動員されたことから農村における党組織の弱体化を招き、さらに、(ソヴィエト政権に)徴兵された農民出身の兵士の脱走者は(国内戦の真只中の)19年の後半には150万人にも達していたという(ボリシェヴィキ権力とロシア農民)。また、ボリシェヴィキの食糧徴発に反発して反乱をおこした農民軍の中には明確に白衛軍の旗を掲げる集団もいて、その代表格である「アントーノフ軍」は根城としたタムボフ県にて「ほとんどすべての農村住民大衆の共感に依拠していた(前掲書)」という。「労農民主独裁」の理想とは違い、ボリシェヴィキは農民から収奪し徴兵するだけで、その積極的な協力を得ることは出来なかった。伝統的な「共同体」はあいかわらず健在で、農村は「村ソヴィエト」と「共同体」とが並立する「二重権力」状態を呈しており、ボリシェヴィキは(共同体を通さずに)直接個々の農民に向うことが出来なかったのである(スターリン政治体制の確立)。
しかしその一方で、農民の反乱がボリシェヴィキ政権を覆すことが出来なかったことは〜少し問題のある言い方をするならば〜トロツキーの「農民全体の連合など無理だし、出来たためしもない」という理論の裏付けになるであろう。また、レーニンの「労農民主独裁」論の根幹である、「ロシアにおいてはプロレタリアート単独での革命は無理であり、農民との同盟を必要とする」にしても、確かにロシア革命は農民からの支援(食糧徴発・徴兵)によって防衛されたという点で、完全に正しかった訳である。(もちろんこれは極論である。外からロシア革命を支援すべき「世界革命」がこなかったために、やむをえず強硬な手段に頼らざるをえなかった、といえばそれまでである)そして、後のスターリン時代にボリシェヴィキの勢力が農村に完全に浸透する際には、戦時共産主義時代にまさるともおとらない悲劇が出来することになるのである。
おわり