西サハラ
「西サハラ」はサハラ砂漠の西の端(大西洋沿岸)に位置する地域である。「西サハラ」の名からわかる通りこの地域の大部分は砂漠であり、北はモロッコ、東と南はモーリタニア、北東はアルジェリアと接している。ここの住民はもともと黒人であったが、やがて北部から「ベルベル人」が移動してきて多数派となり、その次に13世紀頃に東からやってきた「アラブ人」と混淆していった。どの程度信用出来る数字かはわからないが、1976年の調査によるとベルベル・アラブの2種(註1)が総人口の9割以上を占め、あと少数ながら黒人がいる。彼等は主に遊牧を営み、みんなひっくるめて「サハラウィ」と総称される。
註1 ベルベル人とアラブ人は基本的に言葉が違うだけで外見は見分けがつかない。そもそも北西アフリカのアラブ人には「アラブ化したベルベル人」が多いとされ、西サハラのベルベル人もかなりアラブ化している。具体的には、ベルベル語ではなくアラビア語を話すベルベル人が多いということである(西サハラ ポリサリオ戦線の記録)。見分けもつかず言葉も同じなのに何をもってアラブとベルベルを区別するのかというと、当人(あるいは所属する氏族)の帰属意識による。
11世紀、この地域に「ムラービト朝」が起こり、北へと進出してモロッコやさらにはスペインまで支配した。しかしながらムラービト朝の重点は次第に北に偏るようになり、やがては西サハラは放置状態になっていく。その後のモロッコではムワッヒド朝・マリーン朝・ワッタース朝・サード朝と幾多の王朝が興亡を繰り返し、時にはサハラの奥深くに侵入して現在のマリ共和国のあたりにまで勢力を伸ばしたが、西サハラについては文化的経済的な交流はともかく軍事的に征服するようなことはなかった(派兵はあったが失敗したらしい。詳しいことはわからない)ようである。モロッコの歴史については別稿を参照のこと。
15世紀の前半、ヨーロッパから船でやって来たポルトガル人が西サハラの南部に上陸、この地を「リオ・デ・オロ」と命名した。「金の川」という意味だが実際に金があった訳ではなく、干上がった川底にいた魚の鱗を砂金と勘違いしただけだったという。この地域と、その北の「サーキア・アル・ハムラ」……これはアラビア語で「赤い川」という意味……を合わせて現在では「西サハラ」と呼んでいる。
さてサハラウィは数十の氏族にわかれて生活していたが、全体を支配するような権力者はおらず、代表者を集めて開催する「四十人集会」によって様々な問題を討議していた。氏族はそれぞれ「戦士氏族」「庶民氏族」「聖職氏族」「奴隷氏族」といった、カーストのような肩書きをもって社会的な分業をしていたようである。1767年、モロッコ(アラウィー朝)とスペインが条約を結んだ際にスペイン側から西サハラに基地を設けたいという申し出がなされたが、モロッコ側はその地域には自分の権威が及んでいないので安全の保障は出来ないと返答した。つまり、少なくともその頃の西サハラはモロッコの支配を全く受けていなかったということである。
さらに時代がくだって帝国主義真っ盛りの1884年、スペインが西サハラの領有を宣言、翌年には国際的な承認を受けた。西サハラ付近海域に出没してスペイン船を攻撃していた海賊を根絶したいという意図があった(註2)。その頃のアフリカ大陸はヨーロッパ諸国による植民地化が大変なスピードで進められており、20世紀に入るころにはスペイン植民地と隣接のフランス植民地の境界が確定された(地図の上での話だが)。ここに駐屯するスペインの軍事力は主に外人部隊(註3)と帰順氏族の部隊であった。スペインは西サハラだけでなくモロッコの地中海沿岸地方にも植民地を建設、拡大していった。フランスはモロッコのそれ以外の地域を狙い、さらにアルジェリア、モーリタニアを植民地化していた。
註2 スペインは15世紀の末から現在に至るまで西サハラの近くのカナリア諸島を領有している。
註3 1968年、騙されて外人部隊に入隊した日本人2人が砂漠越えの脱走を企てるという事件が発生している。しかし彼等は砂漠に入って3日後には暑さに耐えられなくなって外人部隊駐屯地に引き返し、重営倉(軍隊の懲罰施設)入りとなった。その後日本の外務省の尽力で早期除隊となっている(西サハラ ポリサリオ戦線の記録)。
1912年、モロッコの「アラウィー朝」が独立を失った。その王家は存続したが外交権等を剥奪され、その領土がフランスとスペインによって実質的に分割植民地化されたのである。こうして成立した「スペイン領モロッコ(モロッコの地中海沿岸地域)」では激しい抵抗が行われたが、スペインは25年までかけて(フランスに助けてもらって)どうにかこれを鎮圧した。
西サハラとそれに隣接するフランス植民地では20世紀の初頭にマア・エル・アイニンの指導する大反乱が発生し、1911年に彼が死んだ後も抵抗が継続していた。フランスは33年までかけてこれを鎮圧したが、スペインは西サハラの海岸地帯(漁業や商業の拠点)のみの支配に満足し、内陸部については放置した。これでは自分の植民地にまで迷惑がかかると考えたフランスは34年、スペインに対し脅迫的に軍事協力を押しつけ、36年までかけてスペイン軍に西サハラ全域を占領させた。もう少し後で説明するが、こうやって植民地支配が固められた地域は「現在の西サハラ」よりもやや広く、公式には「スペイン領西アフリカ」と呼ばれている。その年にスペイン本国で始まった内乱「スペイン戦争」では西アフリカのスペイン軍はその大半がフランコ派に加担(西アフリカにも人民戦線派はいたが片付けられている)、本国にサハラウィ部隊を派遣している。
そして第二次世界大戦の後、西アフリカでは有望な燐鉱山な発見され、その埋蔵量は世界の採掘可能燐鉱石の9パーセントにも達することが明らかになった。これはもっぱら肥料の材料として用いられ、産出地域は非常に限られている。
1956年、モロッコが独立を回復した。先にフランス領地域が独立し、スペイン領地域がそれに統合されるという形をとったのだが、スペイン領のうち地中海沿岸のセウタとメリリャ、そして「スペイン領西アフリカ」はスペインの手にとどまった。少し詳しく書くと、この「スペイン領西アフリカ」は北からイフニ、タルファヤ、サーキア・アル・ハムラ、リオ・デ・オロの4地域からなっている。今現在の地名でいう「西サハラ」はここからイフニとタルファヤを省いた地域である。それは後の話として、モロッコはサハラウィを懐柔するために西アフリカを本国と同一の「海外県」とし、現地議会「ジェマー」を開設、本国議会にも3人の議員を送れるようにした。もちろんこれはスペインのお手盛りであるからサハラウィとスペイン人入植者で選挙権に格差があったりした訳だが。
そしてモロッコは、「大モロッコ主義」を唱えて西アフリカの領有を主張した。これは16世紀以降にモロッコが支配してきた地域はみな現在のモロッコ王国に統合されるべきであるとの考えで、西アフリカだけでなく(以下に述べる国々は大モロッコ主義が最初に唱えられた56年6月の時点ではどれもまだフランス植民地です)モーリタニアの全域・マリの北西部・アルジェリア西部までをも含んでいた。現在のモロッコの数倍に達するその地域の中には確かに一時期だけモロッコに支配されていた地域も含まれてはいるが、そんなもので現在の国境を決めるのは強引極まりない(註4)し、そもそも本当にモロッコの支配が及んでいたのか甚だ怪しい地域も多すぎるのであった。
註4 だが、今現在のアフリカ諸国の国境というのも、19世紀の帝国主義の時代にヨーロッパ諸国が勝手に地図の上で線をひいて決めたものが基本になっているということも記憶しておかねばならない。
かような見地に立つモロッコはまず「サハラ解放」を唱えてスペインの西アフリカ支配を糾弾することにした。57年8月11日、西アフリカのイフニにて、モロッコの主要政党のひとつイスティクラール党の組織した「サハラ解放軍」が反スペイン蜂起を起こした。この「サハラ解放軍」というのは実際にはモロッコ正規軍の仮の姿だったのではないかと思うのだが、これに、長年の植民地支配への不満を溜め込んでいたサハラウィが参加してくる。
しかし、この「イフニ蜂起」は最初は確かにモロッコ(サハラ解放軍)・サハラウィの連合軍とスペイン軍との戦いであったのだが、いつのまにかスペイン・フランス連合軍とサハラウィ軍との戦闘に様変わりし、モロッコは戦闘から手をひいて行った。フランスはスペイン領西アフリカの隣のモーリタニアを植民地支配していたことからスペイン領での反乱が自国領に飛び火するのを恐れて派兵してきたのだが、モロッコ側の豹変は、スペインと妥協してサハラウィ軍を見捨てることで、その見返りとしてタルファヤを譲渡させることが目的であった。サハラウィ軍は58年2月には鎮圧され(註5)、タルファヤはモロッコ領に組み込まれた。
註5 ただ、モロッコ軍の内部では国王派と反国王派の対立があり、反国王派がこの時にサハラウィと一緒に叩かれたという話もある(蜃気楼の共和国? 西サハラ独立への歩み)。
しかしこのモロッコとスペインの妥協はタルファヤ確保のためだけの一時的なものであった。モロッコは次はイフニ(他の地域から飛び地になっている)の陸上交通を封鎖してこれを経済的に締め上げ、69年には譲渡を認めさせた。ただ、それと引き換えに地中海沿岸のセウタとメリリャについては手出しをしないことにした(ここは今現在もスペイン領)。残りのサーキア・アル・ハムラとリオ・デ・オロが狭義の、今現在の地名でいう「西サハラ」である。以後の本稿では「西アフリカ」などというスペイン人が勝手につけた呼び方をやめて「西サハラ」と記述する。
60年、フランス植民地のモーリタニアが独立を達成した。62年には同じくアルジェリアもフランスから独立する。特にアルジェリアの独立達成は長いことフランスへの独立戦争を続けた結果として獲得したもの(註6)であり、イフニ蜂起の失敗後いまだスペインの植民地支配下にあるサハラウィに大きな影響を与えたことは想像に難くない。また、その頃の西サハラでは大旱魃が発生して家畜が被害を受けていた。遊牧が出来なくなったサハラウィたちはスペイン人の経営する燐鉱山に働きに出て、町で海外の反植民地闘争の話を聞いたという。
註6 アルジェリアはフランスの最重要植民地であった。フランスはモロッコやモーリタニアの独立は比較的簡単に認めたが、アルジェリアについては独立させるか否かでフランス本国が内戦の一歩手前までいく有り様であった。詳しくは当サイト内の「ド・ゴール伝」を参照のこと。
かくして60年代後半、サハラウィはいくつかの政治組織を結成して再び反スペインの戦いの準備をし始めた。とりあえずは平和的な運動を目指していたが、70年6月に行われたデモはスペイン軍の銃口によって武力鎮圧された。西サハラ独立運動の指導者たちは周辺諸国に亡命し、そちらで組織の再編にとりかかった。先のイフニ蜂起の時の背信にもかかわらず、その時点ではまだモロッコはサハラウィの味方になってくれそうに思われた(そのようなそぶりを見せていた)。73年5月10日、モーリタニア領のアイン・ベンティリにて武装闘争組織「ポリサリオ戦線」の結成が宣言された。正式名称は「サーキア・アル・ハムラとリオ・デ・オロの解放のための人民戦線」である。ゲリラ戦が始まったのはその10日後であった。わずか7名のゲリラがスペイン兵16名に勝利したという「エル・ハンガの戦い」である。
74年に入るとポリサリオ戦線にはアルジェリアやリビアからの援助が届くようになった。特に熱心にポリサリオ戦線を支援したのがアルジェリアである。アルジェリアは国際社会の中で独立解放運動の旗手という立場でありたがっていたし、また、自国南部の開発を進めるため、西サハラを通じて大西洋に出るルートを欲しがっていた。アルジェリアが独立した直後、「大モロッコ主義」を唱えるモロッコ軍との国境紛争を引き起こした過去もある。その一方でモロッコは、モーリタニアを味方に引き込んだ。「大モロッコ主義」によればモーリタニアは全部モロッコ領となるべきであり、モーリタニアの方では西サハラの氏族やその文化が自国のものに近いことをもってその領有を主張していたが、ここは手を組んで西サハラを分割することにしたのである。しかしとりあえずは、スペインを追い出すのが先である。
ポリサリオ戦線の記録によれば、74年のスペイン軍との戦いにおいて出た戦死者は全部で8人だけである。このような数字を簡単に信用するのは難しいが、イフニ蜂起の時は一度の戦闘で百人単位の死傷者が出たことがあったというから、それと比べると非常に小規模な戦争であったようである。この年の7月、スペインの独裁者フランコ総統が病に倒れ、その影響かスペイン政府の西サハラ政策が軟化してきた。国連の監視下において西サハラでの住民投票を行うのはどうかというのである。
この「西サハラ住民投票」は実はモロッコ政府が国連を通じてしきりに要求していたことだった。もちろんこれはポリサリオ戦線を助けるために言っている訳では全くなく、国連という錦の御旗を使ってスペインを追い出した上で、西サハラの「母国(モロッコ)への復帰」を果たすつもりでいたのである。75年2月、モロッコ軍の一部が「統一と解放のための戦線(FLU)」を名乗って西サハラに入り込み、スペイン軍とポリサリオ戦線の双方を相手に戦闘を開始した。その頃のモロッコは国王ハッサン2世が独裁的な権力を振るっていたことへの軍部の不満が大きく、王宮襲撃事件や国王専用機銃撃事件が続いていた。そこで西サハラ併合という大事業によって国民を喜ばせることで国王権力をかためようとしたのである。それから、西サハラには有望な燐鉱山があることは既に述べた通りだが、ハッサン2世はこれについては全く言及せず、本音をひた隠しにした。
75年に西サハラを訪れた国連視察団はサハラウィが確かに独立……モロッコに統合されるのではなく、西サハラとして1国を建設したい……を望んでいることを確認した。国際司法裁判所もモロッコ(とモーリタニア)の主張に対し否定的な見解を示した。しかしその報告書には、スペインによる植民地化が行われた当時の西サハラにはモロッコ国王(註7)に忠誠を誓っていた氏族もいた、という文章もあり、ハッサン2世はこれを根拠にして(註8)いよいよ本格的に西サハラ領有に乗り出すことにした。
註7 その頃は「国王」ではなく「スルタン」と呼んでいた。
註8 ただ、国際司法裁判所は「しかし同地域とモロッコ、あるいはモーリタニアの間にはいかなる領土上の主権関係もなかった」と続けている。また、スペインによる植民地化の時点では西サハラは「主なき地ではなかった」ともしている。常識的に考えればこれはモロッコの主張を否定していることになる。
75年11月6日、モロッコから35万人もの非武装の群衆が西サハラに侵入する「緑の行進」が行われた。ハッサン2世の台詞「いかなる専制君主といえども。非武装の35万人に発砲を命じることは出来まい」の「専制君主」であるスペインの独裁者フランコ総統はこのころ重病で危篤状態に陥っていた。モロッコ国民は「緑の行進」に熱狂し、ハッサン2世の地位はひとまず安泰になった。すっかり悪者にされたスペイン政府は独裁者の危篤という状況の中で強硬な手段を取り得ず、西サハラ在住のスペイン人民間人や兵士の家族に退去を命じた。燐鉱山については、その所有権をモロッコ2、スペイン1の割合で分割することになった。これさえ話がつけば後のことはどうでもいい。11月11日、スペイン・モロッコ・モーリタニアの3国が「マドリード協定」を締結し、スペインは両国に西サハラを譲渡するとした。
ただ、実際には35万人という数字は実際には主催者発表にすぎないしその上空にはモロッコ空軍機が飛び回っており、国境を越えて12キロほどの地雷原にさしかかったところで群衆は反転、国王の命令により家へと帰って行った。そして、その陰ではFLUがポリサリオ戦線との衝突を繰り返していた。
20日、フランコ総統が死去した。スペインは西サハラへの関心を完全に失った。25日、モロッコ正規軍4000名が国境を越えた。28日、スペインが開設していた西サハラ議会「ジェマー」の議員の3分の2、60人の族長、西サハラ選出のスペイン国会議員3人が「ゲルタ宣言」を発し、ジェマーを解散するとともにポリサリオ戦線こそが西サハラ唯一の合法的権威であると決議した。つまり改めてスペインからの独立を宣言し、同時にモロッコの侵略とも断乎戦い抜くということである。スペインの御用議会にすぎなかったジェマーですらその過半数がポリサリオ戦線を支持したことに世界は驚いた。
12月10日にはモーリタニア軍が侵入してきた。スペインの西サハラ駐留軍は続々と撤収し、彼等が残して行った基地をモロッコ・モーリタニア軍とポリサリオ戦線のどちらがとるかで激しい戦闘となった。翌76年1月21日、モロッコ空軍のF5戦闘機がポリサリオ戦線によって撃墜されたが、モロッコ側はその時にポリサリオ戦線がつかった対空兵器はアルジェリアから持ち込まれたものであると判断した。同月末にはアルジェリア国営通信が明確に自国軍がモロッコ軍と衝突したことを公表した。しかしアルジェリア軍は2月14日には撤収、以後は難民キャンプの支援に力を入れることにした。アルジェリア領のティンドゥフはモロッコ・モーリタニア軍の攻撃から逃れてきた一般サハラウィ数万人で溢れかえっていた。
同月27日、ポリサリオ戦線は「サハラ・アラブ民主共和国」の成立を宣言した。4月14日にはモロッコ・モーリタニアによる西サハラ分割が公式に宣言された。これに対してポリサリオ戦線はアルジェリア領のティンドゥフを本拠地とし、西サハラ各地でゲリラ戦を展開して「解放区」を広げて行くことになる。モロッコ・モーリタニア軍は町や村を占領したが、それだけでは砂漠の遊牧民を主体とするポリサリオ戦線のゲリラを圧倒することは出来ないのである。
ポリサリオ戦線はまず弱い方のモーリタニアを叩くことにした。6月7日、ランドローバーやトラックにのったポリサリオ戦線の兵士600人が解放区から西サハラ・モーリタニア国境を越え、一気に600キロの距離を駆け抜けてモーリタニア首都ヌアクショットに突入した。しかしこれはかなり無謀な作戦で、一時は大統領官邸の近くにまで迫撃砲弾を撃ち込んだが結局は撃退されてしまった。ポリサリオ戦線側の戦死者は200人を数えたという。それでも10月になるとまた攻勢にでて、翌77年5月にはモーリタニア経済の心臓部であるズエラト鉄鉱山を攻撃、今度はわずかの死傷者だけで多数の戦利品を獲得した。この攻勢はヌアクショット攻撃で戦死したポリサリオ戦線書記長エル・ワリの名をとって「エル・ワリ攻勢」と呼称された。モーリタニア領への侵攻はその後も行われた。
ズエラト鉄鉱山攻撃の際、町にいたフランス人6名を捕虜にした。ポリサリオ戦線は彼等を人質にしてフランス政府による西サハラ独立承認を要求した。フランス政府は交渉と並行して人質救出をはかったが広大な砂漠のどこにいるのか見当もつけられず、12月にはモーリタニアに派兵してポリサリオ戦線のゲリラを攻撃した。しかし人質についてはポリサリオ戦線に好意的なフランス共産党の仲介によって解放され、さらに翌78年7月にはモーリタニア側でクーデターが発生した。モーリタニアはポリサリオ戦線との戦いのために軍備を大増強していたのに金蔵のズエラト鉄鉱山を叩かれたりして経済危機に陥っていたのである。という訳で、ポリサリオ戦線はモーリタニア軍との戦闘を停止した。
次はモロッコ方面である。モロッコ軍は西サハラ北西部の主だった町に居座り、北東部に「解放区」を構えるポリサリオ戦線との戦闘を続けていた。ポリサリオ戦線は79年1月28日にモロッコ本国領内に侵入、重要拠点タンタン市を短時間だが占領した。この攻勢は昨年末に亡くなったアルジェリア大統領ブーメディエンを追悼して「ブーメディエン攻勢」と名付けられた。その後もランドローバーやトラックを駆って越境攻撃を繰り返す。モロッコ軍の占領する燐鉱山にも襲撃をかけて操業停止に追い込んだ。砂漠地帯では国境も陣地もあってなきがごとしである。8月5日、モーリタニアとポリサリオ戦線の正式の和平協定が成立した。モロッコはこれは無効であると宣言し、モーリタニアがいらないなら俺が貰うと西サハラ全域の併合を宣言した。しかしモーリタニアとの和平で勢いに乗ったポリサリオ戦線は大攻勢に出て各地に勝利し、その解放区は西サハラ全体の8割ほどにも達した。この年の末には「サハラ・アラブ民主共和国」を承認してくれた国は34ヶ国となった。80年になると承認国はさらに増え、その年の「アフリカ統一機構(OAU)」の第17回首脳会議ではサハラ・アラブ民主共和国が加盟を申し出てきたのに対して過半数の国が賛同した。モロッコはそんな話が通ったらOAUを脱退するとか言ってどうにかこれを阻止した。
そのモロッコでは国王ハッサン2世が国防相・参謀総長を兼任しており、いまいち的確な指揮をとれないでいた。そもそも西サハラ侵攻は軍部の国王への不満を逸らすためのイベントでもあった訳だが、いざ戦いが始まってからも国王は軍幹部を信用することが出来ず、軍幹部の方も志気が高いとは言えなかった。そこで、国王の義兄弟で75年の「緑の行進」を指導したアフメド・オスマンが新設の「国家防衛評議会」議長に任命されて軍へのてこ入れがはかられる。戦術的には、装甲車やジープ、ヘリコプターを有効に使ってポリサリオ戦線のゲリラ戦に対抗した。また、占領地域をブルドーザーで築いた砂の防壁と鉄条網・地雷原・レーダーで防御する「砂の壁」を巡らした。これは81年6月には大西洋沿岸から内陸のアルジェリア国境の近くにまで達する全長700キロの長城となり、その時点では全長の半分ほどはモロッコ本国領内に築かれていた(その当時はポリサリオ戦線の解放区がモロッコ本国内にまで及んでいたということ)のだが、次第次第に南へと移動していった。
「砂の壁」がとりあえず完成した81年6月に開かれたOAUの第18回首脳会議にてハッサン2世は、西サハラの帰属を住民投票で決めると声明した。「砂の壁」の内側にモロッコ国民を移住させて住民の構成を変える(註9)とともに外側を破壊・無人化してモロッコに有利な投票へと持ち込もうというのである。ちなみにスペイン領時代の末期の74年に行われた調査によれば西サハラの人口は9万5000人であったが、10年後にアルジェリアにいた難民は国連の調査によれば16万7000人を数えたといい、今現在の西サハラに住んでいるのは27万人ということになっている。もう無茶苦茶な数字というしかないが、これは、西サハラにはモロッコからの移民が入り込み、アルジェリアにはサハラウィ以外にも余所の国の紛争地帯からの難民も入り込んでいて区別が困難なのと、もともと西サハラ住民(サハラウィ)は概ね砂漠の遊牧民なので(スペイン領時代の調査では)正確な把握が困難だったという事情があるからである。
註9 ただ、モロッコ国民とサハラウィは実は大した違いはない。どちらもアラブ人とベルベル人の混淆国家である。
さて81年にはフランスでハッサン2世に批判的な社会党政権が成立したが、モロッコはそのかわりにアメリカで出来た共和党政権に軍事援助を求めて新型の偵察機を手に入れた。それにフランスも、何党の誰が政権を握ろうが、経済界は常に親モロッコ王室を通していた。イスラエルも「砂の壁」の建設に協力し、壁をどんどん南に移動させた。その頃のモロッコは経済危機に苦しんでおり(暴動も起こった)、失業者の西サハラ入植がはかられた。こうして、82年に入る頃には、ポリサリオ戦線は大規模な軍事行動が著しく困難な状況に追い込まれてしまった。83年にはハッサン2世はパリを訪問してフランス政府との関係を改善した。84年にはモロッコ軍の総兵力14万4000のうち約8万がモロッコ南部から西サハラにかけて配置され、1万5000〜2万と推定されるポリサリオ戦線の「サハラ人民解放軍」と対峙していた。
この年、「サハラ・アラブ民主共和国」のOAU加盟が認められ、憤慨したモロッコはOAU脱退を宣言した。さらにモーリタニアも承認に踏み切っている。しかし承認国が増えるのは嬉しい(註10)のだがその大半はアフリカ・中南米・共産圏の国々で、欧米諸国や日本はいまだに承認に至っていない。
註10 承認した国の正確な数ははっきりしないのだが、2006年現在で概ね50ヶ国に達している。
87年、じわじわと前進を続けていたモロッコ軍の「砂の壁」はポリサリオ戦線の勢力をほぼ大西洋沿岸からしめだすことに成功した。解放区はアルジェリア・モーリタニア国境に沿う狭い地域に圧縮された。西サハラの資源は燐鉱山以外にも沿岸部での漁業(主に鰯)があり、これを確保したモロッコの財政は潤うことになる。また、世界の多くの国はサハラ・アラブ民主共和国を承認してはいないがモロッコの西サハラ領有を認めている訳でもない(註11)ので、それらの国が西サハラ沿岸で漁業を行うための交渉窓口をモロッコ政府に限定してしまう(それ以前はポリサリオ戦線が外国船舶を「領海侵犯」として拿捕したこともあった)ことは間接的に現地におけるモロッコの主権をアピールすることになる(蜃気楼の共和国? 西サハラ独立への歩み)。
註11 現在の日本で発行されている世界地図では西サハラの帰属は不明瞭である。
88年8月、デクエヤル国連事務総長が和平案を作成し、モロッコもポリサリオ戦線もその方針に合意した。74年のスペインによる人口調査をベースにした名簿で住民投票を行い西サハラの帰属を決定する。これは「独立か併合か」であったが翌年1月のモロッコ国王とポリサリオ戦線代表団との会談ではモロッコ側が「連邦」「自治」を提案、しかしポリサリオ戦線側が受け入れなかったため話し合いは長引くことになる。
91年9月、ようやく停戦が成立した。その背景として、ポリサリオ戦線の後ろ盾のアルジェリアがそのための財政負担(さらに80年代には主産品の石油価格が暴落した)と国内におけるイスラム原理主義の台頭に苦しんでいたというのが考えられる。アルジェリア大統領シャーズィリーは既に去る85年の時点で、アメリカから武器を買うのとひきかえに、アメリカ政府からモロッコに対してポリサリオ戦線との話し合いに応じるよう圧力をかけて欲しいと頼んでいたという説がある(西サハラ ポリサリオ戦線の記録)。
ともあれ住民投票は92年1月に実施ということになった。国連機関が有権者名簿を作成するのだが、何せそのベースになる「74年のスペインの人口調査」がいい加減極まりないものなので、そこから漏れていた人を追加することになるのだが、それをどの程度の範囲まで認めるかで紛糾した。ポリサリオ戦線は、モロッコ側が旧スペイン領西アフリカのイフニやタルファヤに住んでいた人々や、西サハラとは何の関係もない本国の都市部の失業者といった人々を移住させる「第2の緑の行進」を行っていると非難している。そして、住民投票は延期を繰り返し、現在に至るも実施されていない。西サハラは現在においても市街地と幹線道路以外には地雷が敷設され、最近の情報では2005年5月に大規模なデモ・衝突が発生している。
おわり
参考文献
『アフリカ現代史5』 宮治一雄著 山川出版社世界現代史17 1978年
『西サハラ ポリサリオ戦線の記録』 恵谷治著 朝日新聞社 1986年
『蜃気楼の共和国? 西サハラ独立への歩み』 新郷啓子著 現代企画室 1993年
「西サハラ支援」http://www5e.biglobe.ne.jp/~dorogame/w-sahara/
「西サハラ」http://www.geocities.co.jp/SilkRoad-Lake/2917/hikounin/sahara.html