スコットランド史略

後編その2

   

   ジェイムズ5世   目次に戻る

 フロドゥンの戦いにおいて大量の、しかも優秀な貴族達を失ったスコットランド王国を引き継いだ新国王ジェイムズ5世は、まだ生後17ヶ月の幼児であった。

 母后マーガレット(まだ24歳であった)が摂政職に擁立されたが、彼女は親イングランド派の有力貴族アンガス伯と再婚したことから親フランスの貴族達の反発を買い、1515年にはアルバニ公ジョン(ジェイムズ3世の弟アレグザンダーの息子。本国での政争に破れた父とともにフランスに亡命していた)がフランスから呼び戻されることになった。 

 新摂政アルバニ公は母后マーガレットを追放して親フランス派の喝采を浴び、彼本人はフランス語しか話せなかったにも関わらず、16年に議会から「王国の第2の人物」という称号まで授けられるに到った。

 1517年、アルバニ公はフランス王との同盟再確認を得るためパリに旅立った。しかし彼のフランス滞在は予想以上の長きに渡った(4年)ため、留守中のエディンバラでは親イングランド派アンガス伯と親フランス派アラン伯との市街戦が起こる様なことになった。

 しかもこの争いは親イングランドのアンガス伯の勝ちに終わったため、急遽帰国したアルバニ公がイングランド派の陰謀を抑えるという一幕があったが、帰国の翌22年には同盟国フランスの要請とその援軍を受けて対イングランドの軍事行動をおこすことになった。

 しかし、スコットランド軍の指揮官達は国境の直前で進撃を拒否し、フランス王の顔色ばかりうかがうアルバニ公への不満をあらわにした。アルバニ公は24年に再びフランスに渡ったが、その間にクーデターがおこって摂政職を解かれてしまった。(そのままフランスに亡命。あと1回だけ登場する)

 こうしてスコットランド王国の実権は反アルバニ派(親イングランド)が握ることになった。しかし国王ジェイムズ5世はあくまで親フランスであった。1528年に16歳になった彼は親イングランド派の支配するエディンバラのフォークランド宮殿を脱出してスターリング城に移り、ここから親政を始めることにした。

 この知らせを聞いたアルバニ公は、亡命中のフランスでジェイムズ5世の花嫁を探してその歓心を買おうとした。しかし彼の選んだ花嫁候補はフランス王フランソワ1世の王子(後のアンリ2世)にとられてしまい、結局ジェイムズはフランソワ1世の娘マドレーヌを娶ることになった。(アルバニ公が選んだ候補とは誰あろうカトリーヌ・ド・メディシスその人である)

 しかしマドレーヌは結婚後半年で亡くなり、ジェイムズは今度もフランスからロングヴィル公未亡人マリ・ド・ロレーヌを新しい后として迎えることにした。 

 スコットランドの国王であるジェイムズが相次いでフランスから后を迎えたことは、南のイングランド国王へンリ8世の態度を硬化させるというまずい効果をうんだ。自分の離婚問題から宗教改革を押し進めるヘンリ8世は、隣国スコットランドの教会を味方に引き込もうとも考えたがうまくいかず、42年には軍勢を北上させてロクスバラ、ケルソーを劫略せしめた。(ジェイムズと教会の問題を話し合おうとして無視されたから)

 ジェイムズ5世はただちに軍勢を集めて自ら出陣したが、その武将たちは国境を越えての進撃を拒否した。この頃にはスコットランドにもプロテスタントの勢力が浸透し始めており、その影響を受けた貴族たちが親プロテスタントのヘンリ8世と戦うことを躊躇ったのである。

 それでもジェイムズはカトリックに忠実な部隊を率いて進軍を続けたが、11月24日にソルウェイ・モスの戦いはスコットランド軍の敗北に終わり、腹心の武将オリヴアー・シンクレアもイングランド軍の捕虜となってしまった。11月30日にエディンバラに帰ったジェイムズはそのまま(心因性の)病気になり、翌月14日に30歳で亡くなったのだった。

   

   メアリ・スチュアート   目次に戻る

 ジェイムズ5世の長男ジェイムズは生後11月で、次男アーサーは8日で亡くなり、残った子供は娘のメアリ唯1人、しかも父親が死んだ時生後6日という幼児、いや嬰児であった。

 大昔の「ノルウエーの乙女」マーガレットの即位の時と同じく、今回もイングランドの国王へンリ8世が自分の息子と幼い女王の結婚話を持ち出してきた。親イングランド的な摂政アラン伯はヘンリ8世とグリニッジ条約を結んで2人の婚約を取り決めたが、たちまち国内の反イングランド派の猛反発を喰らってその2ヶ月後には条約の白紙撤回を宣言せざるを得なくなった。 

 激怒したヘンリ8世は1544年にまた軍勢を送ってエディンバラを攻撃させ、幼い女王の略奪をはかった。この「粗野な求愛」は失敗したが、その3年後に即位したエドワード6世も引き続き対スコットランドの軍事行動をおこしたため、不安を募らせた母后マリは5歳の女王をフランスのアンリ2世に預けることにしたのだった。(これと入れ替わりに数千のフランス軍がスコットランドに駐留することになった)

 1558年、15歳になったメアリはフランス皇太子フランソワと結婚し、翌年のフランソワ2世即位にともなってフランス王妃の地位を手に入れた(つまりスコットランド女王兼フランス王妃)。メアリの結婚と同じ年、イングランドではメアリ1世(紛らわしすぎるが彼女が例の「血のメアリ」である)が亡くなり、かわってその妹エリザベスが即位した。しかしエリザベスの母アン・ブリーンは父へンリ8世に離縁されていたため、新女王法エリザベス1世は法的にはヘンリ8世の庶子という立場にあった。

 ところがスコットランド女王兼フランス王妃メアリはその祖母(ジェイムズ4世の后)がヘンリ8世の姉(しかもその父へンリ7世の嫡出)であるという関係でイングランドのチューダー王家とつながっていたため、つまりヘンリ7世の直系の曾孫という点においてイングランドの王位を要求出来る存在なのであった。(つまりメアリはエリザベスの従兄弟の子)

 しかも厄介だったのは、メアリがフランスにおいてカトリック一辺倒の教育を受け、彼女の留守を預かる摂政も熱心なカトリックとしてプロテスタントを弾圧する姿勢を見せだしていたことである。

 前王ジェイムズ5世の頃からカトリック教会の腐敗が激しくなったスコットランドでは新興プロテスタントの勢力がじわじわと広がりつつあったが、1559年にはカルヴァンの教えを受けたジョン・ノックスがジュネーヴから帰国(彼は47年に一度逮捕され、フランスのガレー船漕ぎの奴隷にされていたが、その後釈放されてジュネーヴに住んでいた)し、王室の度の過ぎた親フランス政策(女王はフランスにいるし、国内にフランス軍の駐留まで許していた)に不満な貴族たちをプロテスタントにまとめて宗教暴動をおこすに到った。

 この内乱ではプロテスタント派はイングランドに、カトリック派はフランスにとそれぞれ外国の支援をあてにしていたが、カトリックが頼みとするフランス艦隊はイングランド艦隊との海戦に敗れ、スコットランドに孤立したフランス駐留軍の奮戦も空しくカトリック側の敗北に終わってしまったのだった。

 1560年、スコットランド議会はジョン・ノックスの起草した「信仰の告白」を採択し、それ以前のカトリックのピラミッド型教会組織を廃止して、聖職者でない長老を中心とする「長老教会」を創設した。スコットランドはフランスにいる女王の意向お構いなしに新教国となったのである。(とはいっても女王メアリ本人はその辺の問題には関心がなかったようである)

 この年12月、フランス王フランソワ2世が亡くなり、未亡人となったメアリ(といってもまだ18歳)は13年ぶりにスコットランドに帰国した。彼女はその4年後にカトリック教徒のダーンリ卿と再婚したが、すぐにこの新しい夫に飽き、宮廷音楽士のリッチョを寵愛するようになった。嫉妬にかられたダーンリ卿はリッチョを刺殺、女王を幽閉した。

 すでに妊娠していたメアリはこの4ヶ月後に男の子を産んだが、67年には逆襲にでてダーンリ卿を暗殺し、今度はプロテスタント(ただし反イングランド)のボスウェル伯と再々婚した。

 しかし、ボスウェル伯はダーンリ卿殺しの実行犯と目される人物であり、そんな男とその共犯と噂される女王の結婚は当然プロテスタント・カトリック両派からの猛反発を浴びることになった。

 6月、再々婚反対派は反女王の兵を挙げ、味方のいなくなった女王はあえなく降伏、ボスウェル伯はノルウェーに亡命した。幽閉されたメアリは王子ジェイムズに譲位し、1歳の新国王ジェイムズ6世はプロテスタントとして育てられることになったのである。(メアリはその後幽閉先から脱走して反乱をおこすが失敗してイングランドに亡命した。彼女はイングランドにありながら、自分の、ヘンリ7世の曾孫という血筋からイングランドの王位継承権を主張し、野心的な名門貴族ノーフォーク公の求婚を受けたりしたが、結局裁判にかかって死刑を宣告されたのは亡命後18年もたってからであった)

   

   その後のスチュアート家   目次に戻る

 1603年、イングランド王エリザベス1世が崩御した。彼女は生涯未婚で当然子供もいなかったが、生前に自分の跡継ぎはメアリ・スチュアートの息子ジェイムズ6世がよいと考えていたフシがあり、ここにスコットランド王兼イングランド王ジェイムズ(スコットランド王としてのジェイムズさんは6人目だから6世だが、イングランドでは1人目なのでジェイムズ1世とよばれる)が誕生した。

 ジェイムズ6世のイングランド王戴冠以後のスチュアート家の国王たちはほとんど生国たるスコットランドに帰ることがなくなった。それでもチャールズ1世(ジェイムズ6世の子)はピューリタン革命に際しスコットランドに戻ってその兵力の動員をはかり、その子チャールズ(2世)はスコットランド王として戴冠したものの、すぐにクロムウェルに敗れて亡命した。

 王政復古後(スコットランドとイングランド両方の)国王に返り咲いたチャールズ2世はその後一度もスコットランドを訪れず、次の国王ジェイムズ7世(イングランドでは2世)はイングランド・スコットランド双方にカトリックを押し付けて反発をうけ、今度は名誉革命によるオレンジ公ウィリアムの即位となった。

 スコットランドは紆余曲折の末ウィリアムのスコットランド王位を認めたものの(ウィリアムの妻メアリはジェイムズ7世の娘)、彼の後継者アン(メアリの妹)には世継ぎがなく、その次の国王予定者としてドイツからよばれたハノーヴァー選帝侯のスコットランド王位継承には納得出来ない者が多かった。

 スコットランドとイングランドはあくまで別の国であり、ジェイムズ6世(1世)以降の100年間も、それぞれ別個の議会をもつ両国が同じ国王を戴いているというそれだけの関係にすぎない。ハノーヴァー選帝侯も一応はスチュアート家の血を受け継ぐ人物(ジェイムズ6世の曾孫)ではあるが、彼は英語すら話せない全くのドイツ人と化しており、その様な外国人の国王にスコットランドの王位をあたえるのはやはり嫌である。

 そこで、先の名誉革命でフランスに亡命したジェイムス7世の子ジェイムズ・フランシスの登場となるが、結局は1707年の「連合法」によってスコットランド議会とイングランド議会が合同し、ハノーヴァー家による両国の王位継承を認める「グレイト・ブリテン連合王国」が発足することになった。

 もちろん「大僭称者」ジェイムズ・フランシスはこの決定に不満であり、亡命先のフランスから帰国して反イングランドの武装蜂起をおこなった。この時の蜂起は大したことがなかったものの、彼の子「小僭称者」チャールズ・エドワードが1745年におこした蜂起は全ブリテン島を震撼させる大規模なものとなった。

 フランスのフリゲート艦でスコットランド西部海岸に上陸したチャールズは「勝利さもなくば滅亡、祖先の王冠を取り戻すためチャールズ・スチュアート帰国せり」と宣言、ハイランドの族長たちをかき口説いて軍勢をあつめ、彼等ハイランダーを主力とする3000の兵力をもってエディンバラを奪回、さらに南下してロンドンの北200キロの地点にまで到達した。

 しかしこのスコットランド最後の反乱軍はカンバーランド公ウィリアム指揮下の軍勢1万にその進路を阻まれ、決起後半年足らずで北方への総退却を余儀なくされた。そして翌46年4月16日にハイランドのカロドゥン・ミュアにておこなわれた最後の決戦もスコットランド軍の完敗に終わり、実に1500人ものハイランダーがイングランド軍の緋色の上衣と銃剣の前に空しく倒れていったのである。

 命からがら逃走したチャールズはその後へブリディーズ諸島のユーイスト島に潜んでいたが、彼の身を案じたスカイ島の族長の娘フローラ・マクドナルドの機転でイングランド官憲の追跡をかわし、半年に渡る逃避行の末になんとかフランスへと脱出することが出来た。

 チャールズはフローラとの別れに際し、自分の巻き毛を渡して再会を約束したものの、その後二度とスコットランドの土を踏むことなく1788年に亡くなった。フローラの方はその後イングランド軍に捕われ、政治犯としてロンドン塔に監禁されてしまったが、2年後に恩赦で釈放された時には一転してロンドン社交界のヒロインに祭り上げられた。彼女の勇敢な行動がロンドン中の賞讃を浴びたのだが、華美な生活を嫌った彼女は平凡な結婚をしてアメリカに移住し、独立戦争の後生まれ故郷のスカイ島に帰って1790年に亡くなった。

 「ポニー・プリンス・チャーリー」「ハイランド精神の王」と呼ばれ、いまでもハイランダーの子孫たちに敬愛されているチャールズ・エドワードには子がなく、その弟ヘンリ・ベニディクトもやはり跡継ぎなくして1808年に死没した。北方の名門スチュアート家は19世紀の初頭において遂に断絶の憂き目をみたのである。

                           

おわり

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