サッカー戦争
1960年代、中米のエルサルバドル、ホンジュラス、ニカラグア、グアテマラ、コスタリカの5ヶ国は「中米共同市場」を結成し、貿易の振興や工業化に励んでいた。域内貿易額は市場結成後の10年間で7倍に伸びたが、各国の経済格差や生活水準の違いのせいで次第に貿易不均衡が増大し、各々の国内においても貧富の差が拡大した。たとえばエルサルバドルは工業化(共同市場創設以前から力を入れていた)には成功をおさめたが農地(主にコーヒー農園)の半分は「十四家族」と呼ばれるごく一部の富裕層(註1)に握られており、農村人口の3分の2は全く土地を持っていないという有り様である。また、エルサルバドルの工業製品は輸出用もしくは国内の中高所得者向けの奢侈品に限られていて、それ以下の層に買えるようなものではなかった。まぁそれでも、エルサルバドルは共同市場の他の4国と比べて政治的に安定していたため経済的に優位に立つことが出来、60年代中頃には労働者でもテレビを持てるようになってきた。
註1 「十四」というのは象徴的な数字で、実際には十数の家系に連なる二百数十家の富裕層が君臨していた。
5ヶ国は対外的には全て親米であったためにアメリカ資本が流入していたが、そのアメリカではハンバーガーやホットドッグといったファーストフードが普及してきており、その需要を満たすために近代的な畜産業が発展した。ところが、畜産は広大な土地を必要とするが人手はかからないため、それまで富裕層の農園に雇われていた土地なし農民たちが(富裕層が農園から牧場に事業転換する際に)大勢失業するという事態に立ち至った。失業者の群は都市部に流出して工業部門への雇用を求めたが数が多すぎて(しかも少数の労働力でまわせる先進工業だったので)就業しきれない。都市部の周辺にはスラム街が形成され、そこでは電気も水道もない劣悪な環境下での生活が営まれた。
かような貧困層のうち、30〜35万人は隣国ホンジュラスの過疎地域に勝手に入り込み、農村をつくって細々と暮らすようになった。古くから開発の進んでいたエルサルバドルは西半球で最も人口密度の高い国であったが、その6倍の国土面積を持つホンジュラスは人口では(エルサルバドルの)半分にすぎなかったのである。
ホンジュラス政府は最初は隣国からの移民(無論違法である)を黙認していた。むしろ過疎地を開拓してくれるので喜んでいたぐらいである。しかし、エルサルバドルの工業製品はそれほど高品質ではないにもかかわらず共同市場のおかげでじゃんじゃんホンジュラスに売り込めた(註2)のに、工業化の遅れていたホンジュラス側にはエルサルバドルに売れるような産品がなく、そのような経済的な従属関係が年とともに強化されてきたことによって、両国の間には次第に暗雲が漂うようになってきた。(この2国はもともと領土問題を抱えいていた)
註2 共同市場に属さない国の製品は高品質であっても市場内への売り込みを規制されることになっていた。
ホンジュラスでは63年にオスワルド・ロペス・アルジャーノ大佐の率いる軍事独裁政権が成立し、反共産主義を掲げて労働組合や農民組織を厳しく弾圧していた(註3)。しかし鞭だけではなく飴も使うことにした政府は69年に農業改革を実施して農民に土地を分け与えることにしたのだが、その「土地」というのがエルサルバドルからの不法移民が耕している土地であったことから大騒ぎになった。ホンジュラス軍事政権はエルサルバドルの十四家族と同じような大土地所有者によって支えられており、自分の財産に手をつけずに農民を手懐けるためには不法移民の土地を接収するのが一番手っ取り早かったのである(その土地は法的には「公有地」という扱いであった)。
註3 当時の中米では1959年にキューバに成立したカストロ政権が共産主義を掲げてアメリカ(カストロ政権成立前のキューバを経済支配していた)と対立していた。そこでホンジュラス軍事政権はキューバと断交し国内の共産主義者(及びその他の左翼勢力)を弾圧することでアメリカの援助を引き出した。
さらに詳しく説明すると、ホンジュラスの主産品はバナナで、富裕層の経営する農園で大勢の土地なし農民が働くという経済スタイルであったのだが、60年代に入ると農園の近代化が進んで少数の労働者でまわせるようになったため、解雇された土地なし農民は新しい職や土地を求めてエルサルバドルからの移民と対立するに至っていた。そんな訳でホンジュラス政府は65年にエルサルバドルに対して不法移民の取り締まりを頼んだのだが、エルサルバドル政府にとって不法移民は失業者の群(社会不安のもと)を体よく追い払える格好の手段であったため、ホンジュラスの訴えを真面目に聞く訳にはいかなかった。
ともあれホンジュラス政府の農業改革の結果、不法移民のうちまず8万人が失業者となって本国へと強制帰還され、その過程でホンジュラス側の極右組織が残虐行為を働いているという報道がなされた。エルサルバドルとホンジュラスの関係は極めて悪化した。
そんな最中の69年6月、サッカーのワールドカップ(メキシコ大会)の予選が開催された。エルサルバドル・ホンジュラス戦の第1回戦は6月8日にホンジュラスの首都テグシガルパで行われ、地元ホンジュラスが1対0で勝利した。この試合をテレビで観ていたアメリア・ボラニオスというエルサルバドル人の娘はゴールが決まった時にショックのあまりピストル自殺を遂げ、翌日に行われた彼女の葬儀はテレビ中継されて大統領も参列する大規模なものとなった。当時のエルサルバドルの政権は「十四家族」をバックとする軍部保守派の党「国民共和党」によって牛耳られていたが、彼らは膨大な失業者の存在が引き起こす労働争議に脅かされ、翌年に実施予定の総選挙では政権交替もありうる情勢となっていた。ホンジュラス側では不法移民に対する嫌がらせが激化し、新たに数万人が母国への帰還を余儀なくされた。
第2回戦は同月15日にエルサルバドルの首都サンサルバドルで行われた。アメリアの死もあって興奮の極にあったサンサルバドル市民が何をするか分からなかったために会場のスタジアムは機関銃を持ったエルサルバドル軍精鋭部隊によって警備され、ホンジュラス・チームは装甲車で入場するという厳戒態勢となった。試合の結果は3対0でエルサルバドルの勝利となったが、それでもホンジュラス・チームは装甲車で空港に戻らねばならず、彼らの応援に来ていたホンジュラス人たちは猛り狂った群衆から手酷い暴行を受けて2人が死亡、自動車150台が焼かれるという騒ぎに発展した。両国の国境は閉鎖された。
第3回戦は同月23日にメキシコの首都メキシコシティで行われた。エルサルバドル・チームのサポーターはスタジアムの一方の側に、ホンジュラス・チームのサポーターはその反対側に配置され、両者の間には棍棒を持ったメキシコの警官が5000人も配された。結果は3対2でエルサルバドルの勝利である。
同月25日、エルサルバドル政府はホンジュラスとの外交関係を断絶し、その2日後にはホンジュラス政府の側も国交断絶を宣言した。
そして7月14日午後6時、エルサルバドル空軍機が移民の保護を目的としてホンジュラス領の4つの都市を爆撃し、同陸軍部隊も国境を越えてホンジュラス領内への進撃を開始した。こうして始る戦争がいわゆる「サッカー戦争」である(註4)。翌15日には国境から8キロ奥の地点まで進出したエルサルバドル陸軍部隊がホンジュラス陸軍主力部隊との交戦を開始した。太平洋岸の国であるエルサルバドルは、大西洋(カリブ海)岸のホンジュラスを征服することによって両洋のパワーになりたいという野心を抱いていた。しかし同日、ホンジュラス空軍機が地上にいたエルサルバドル空軍機2機を撃破した。
註4 実際には7月3日の時点で両軍による砲撃戦が行われ、国境地帯での小競り合いが続いていた。
ホンジュラス空軍の戦闘機はF4Uー4及びF4Uー5コルセア、エルサルバドル空軍の戦闘機はFGー1DコルセアやFー51Dマスタングで、これらはどれも第二次世界大戦の時にアメリカ軍が使っていたレシプロ機(註5)を改良した旧式機であった。しかも「F4Uー5コルセア」と「FGー1Dコルセア」は生産メーカーと細かい型が違うだけの同じ機体である。飛行機に限らず両軍ともにアメリカ製の装備を用いており、おまけに言葉も同じ(スペイン語)だから敵味方の区別に困るようなことがあったという。
註5 ピストンエンジンを用いてプロペラをまわすことで飛行する機体。この頃の世界では既にマッハ3で飛べるジェット戦闘機が登場していたのだが……。
16日にはホンジュラス空軍機がエルサルバドル軍の兵站(後方の補給部門)施設を破壊、17日には空戦が発生してホンジュラス側F4Uー5コルセアがエルサルバドル側FGー1Dコルセア2機とFー51Dマスタング1機を撃墜した(どれもフェルナンド・ソト大尉による撃墜)。これはレシプロ機同士で行われた史上最後の空戦となった。同日にはホンジュラス側1機が地上で撃破されたが、エルサルバドル側も地上で2機を失った。これでエルサルバドル空軍は壊滅し、同陸軍部隊も兵站を潰されたせいで燃料・弾薬の不足に苦しむようになった。
ちょうどその頃アメリカのフロリダ州ケネディ宇宙センターから打ち上げられた「アポロ11号」が月を目指して宇宙空間を航行しており(16日に打ち上げ、20日に月面着陸)、そんな最中にサッカーが原因で始った戦争でレシプロ機が空戦していたというのはまるで冗談のように聞こえるが、ここまで説明してきたようにこの戦争の真因はサッカー云々だけで語り尽くせるものではなかったし、国境付近の密林では両軍の地上部隊が本気の衝突を繰り返し、正規軍だけでなく農園主が私的にならず者を集めて組織した武装集団も動き回っていた。
しかしそのうちに米州機構(註6)が調停に乗り出し、18日には停戦が成立した。開戦以来4日でとりあえず終結した(その後も小競り合いが続いた)この戦争は「百時間戦争」とも呼ばれている。戦死者は2000とも6000ともいい、負傷者は1万2000以上を数えていた。ホンジュラス領に侵入していたエルサルバドル軍部隊は29日には撤収を完了した。
註6 1951年に発足した、南北アメリカにおける紛争の平和解決や社会的文化的発展を促進する機関。
その後、ホンジュラスは中米共同市場から脱退してエルサルバドル製品を閉め出した。大事な市場を失ったエルサルバドルの工業界は大打撃を受け、ホンジュラス領から帰ってきた不法移民(失業者)が都市部に溢れかえったことから政情が極めて不安定化した。72年の大統領選挙では野党キリスト教民主党のホセ・ナポレオン・ドゥアルテが最大得票を集めたが政府(十四家族に支えられた軍保守派の政権)側は票数を捏造、ドゥアルテを亡命に追い込んだ。その後のエルサルバドルは治安が極度に悪化してテロが横行し、82年以降は完全に内戦状態となってしまった(92年に終結)。
おわり
参考文献
『エルサルバドル革命の背景』 R・アームストロング J・シェンク著 土屋宏之他訳 ありえす書房 1984年
『新現代のラテンアメリカ』 後藤政子著 時事通信社 1993年
『サッカー戦争』 リシャルト・カプシチンスキ著 北代美和子訳 中央公論社 1993年
『ラテン・アメリカ史1』 増田義郎 山田睦男編 山川出版社新版世界各国史25 1999年
『ラテンアメリカ現代史3』 二村久則他著 山川出版社世界現代史35 2006年
「サッカー戦争」 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B5%E3%83%83%E3%82%AB%E3%83%BC%E6%88%A6%E4%BA%89
「サッカー戦争 レシプロ戦闘機最後の戦い」 http://www.masdf.com/crm/soccerwar.html
「ラテンアメリカ各国史年表」 http://www10.plala.or.jp/shosuzki/chronindex.htm#%8Ae%8D%91%94N%95\%96%DA%8E%9F