ハプスブルク家とスイス盟約者団 前編その2

   ルツェルン同盟   目次に戻る

 1332年、スイスの同盟に新たに「ルツェルン」が加わった。原初3邦は基本的に農村部の共同体であったが、ルツェルンはちょっとした都市であった。上の方でちらりと触れたがルツェルンは1291年以来ハプスブルク家の支配下におかれていた(モルガルテンの戦いでもハプスブルク軍の一員として出陣した)が、3邦との経済的な結びつきが強かった関係で両者(3邦とハプスブルク家)の争いに困り果ててしまい、その状況を打破するために同盟に加盟することにしたのである。原初3邦にルツェルンを加えた4邦を「森林4邦」と呼ぶ。この同盟のおかげで、重要な水上交通路であったフィーアヴァルトシュテッテ湖(ルツェルンと3邦はこの湖を挟んでの熱心な交易を行っていた)が森林4邦の「内海」となり、これは経済面のみならず防衛面でもはかり知れない利益となった。

 ただし、ルツェルンはハプスブルク家に対する臣従を解除した訳ではなかったし、原初3邦のモルガルテン同盟を残したままでそれとは別枠で3邦とルツェルンの同盟を結ぶという変則的な措置がとられた。農村部の共同体である原初3邦と都市であるルツェルンは社会体制も法体系も違い、ルツェルンの関与しない事件・事柄に関してはモルガルテン同盟の条文によって処理されることになったのである。

   チューリヒ同盟   目次に戻る

 続いて1351年、今度は帝国都市「チューリヒ」が同盟に加わってきた。少し時間を遡って説明すると、チューリヒはもともとツェーリンゲン家の支配下に置かれていたが、同家の断絶に伴って帝国都市となり、大幅な自治を享受していた。しかしその政治は都市貴族(遠隔地商人や騎士階層)のみに牛耳られており、小商人や手工業者は自治に関与させて貰えなかった。しかしやがて、地理的に近い森林4邦との交易によって経済力を付けてきた小商人と、彼らの扱う商品(皮革や鉄や葡萄酒)を生産する手工業者が政治団体(ツンフト)を結成、ルドルフ・ブルンという人物の指導下に1336年「ツンフト革命」を起こして政権を奪取した。これによって追放された旧政権関係者はハプスブルク家に助けを求めたため、ツンフト側はこれに対抗するために森林4邦と組むことにしたという訳なのである。チューリヒはルツェルンよりも大都市であったから、その加盟を受けた同盟諸邦の力は格段に向上したことになる。(ただし、森林4邦とチューリヒは隣接しておらず、その間にはハプスブルク家の領地が横たわっていた)

 チューリヒの体制について少し詳しく説明すると、まずここの小商人・手工業者が全部で13のツンフトを組織していた。基本的にいくつかの職種が集まって1つのツンフトを組織したが、靴屋のような就業者の多い職種はその職だけで1つのツンフトを組織した。旧来の都市貴族は全員が追放された訳ではなく、チューリヒに残った連中は「コンスターフェル」という政治団体を組織した。各ツンフトの代表(ツンフトマイスター)ならびにコンスターフェルから選出される13名の計26名が「市参事会」を構成し、彼らと、ツンフト革命の指導者でチューリヒ市の終身市長になったルドルフ・ブルンとが政治を牛耳った。後には市長職の終身制は廃止になり、市参事会におけるツンフトの発言権が増大することになる。

 それはともかく、同盟の相次ぐ拡大に危機感を抱いたハプスブルク家は再び討伐軍を派遣してきた。しかし同盟軍は今回もハプスブルク軍を撃退、逆に攻勢に出て近隣のハプスブルク領であった「ツーク」「グラールス」を占領した。この2邦の人々はもともとハプスブルク家の支配から抜けたがっていたため、この機会に同盟に加入することにした。ただし、戦略的な要地であったツーク(森林4邦とチューリヒの中間に位置する)が他の邦と対等な同盟を結んだのに対し、グラールスは格下という扱いを受けた(詳しくは後述)。それに、ツークとグラールスはルツェルン(今回のハプスブルク軍との戦いに兵員を出したかどうかは手許の資料になく不明)と同じようにハプスブルク家への臣従を解除しなかった。

   ベルン同盟   目次に戻る

 さらに53年になると「ベルン」が加盟してくる。ここでまた時間を遡って説明すると……、ベルンもチューリヒと同じ経過をたどって帝国都市となったのだが、チューリヒと比べると商工業が発達しておらず、ツンフト革命のようなことは発生しないまま旧来の都市貴族が政権を握っていた。都市貴族は近辺の農村を抑圧的に支配し、さらにその周辺の弱小領主を圧迫した。この頃、スイスのみならずヨーロッパ全域で黒死病(ペスト)が大流行して人口が激減しており、労働力を確保出来ない弱小領主はベルンの圧力に耐えられなかった(その影響で、かつては197を数えた都市はどんどん潰れて95にまで減少した)。

 そんな訳で1339年、領主たちは、イタリア北西部からスイス南西部にかけての地域に勢力を持っていた帝国諸侯サヴォア家やフランス東部のブルゴーニュ公国(詳しくは後述)等の助けを借りて1万2000の大軍を集め、ベルンを攻撃した。これに対してベルン側は森林4邦(この時点ではチューリヒはまだ同盟に加わっていない)に援軍を求めて6500の軍勢を揃え、「ラウペンの戦い」において領主連合軍と対戦した。両軍ともに2隊にわかれており、ベルン軍は敵の歩兵隊と、森林4邦軍は敵の騎兵隊と衝突する。ラウペンはモルガルテンと違って地勢が開けており、そういう場所では森林4邦軍の使うハルバートは敵騎兵の使う「ランス(長さ4〜5メートルの騎兵用の槍)」の前に苦戦を強いられた。ところがベルン軍の方はくさび形の陣形を用いて敵歩兵隊を突き崩し、ついで敵騎兵隊の側面へと襲いかかってこれを打ち破った。

 この時ベルンと4邦の連合軍は敵味方を区別するために服に白い十字の縫い取りをしたのだが、この「白十字」こそが現在でも使用されているスイス国旗の起源である。そして、その後のベルンは弱小領主の領地をどんどん統合していく(チューリヒやルツェルンも同じことをした)のだが、やがて(ベルン支配下の)農村部のうち原初3邦のウンターヴァルデンに隣接していた地方で都市貴族に対する不満が燻るようになったため、都市貴族の側は、農村部がウンターヴァルデンやウリと結んで反旗を翻す前に先手を打って同盟に加入することにしたのであった。ただ、ベルンはハプスブルク家とは特に対立しておらず、それどころか去る42年に(ハプスブルク家と)同盟を結んでいた。この同盟は58年まで継続されることになる。

   8邦同盟   目次に戻る

 以上、「ウリ」「シュヴィーツ」「ウンターヴァルデン」「ツーク」「グラールス」「ルツェルン」「チューリヒ」「ベルン」の8邦からなる同盟の時代(1353年から15世紀の末)をスイス史において「八邦同盟時代」と呼んでいる。前5者が「農村邦」、後3者が「都市邦」である。しかし……ルツェルンの加盟のところで触れたように……この8邦は単一の同盟条約で連結されていた訳ではなく、例えばベルンは原初3邦としか同盟していないし、グラールスはベルン、ルツェルン、ツークとは同盟していないといった具合で、原初3邦を中心とする全部で6つの同盟が錯綜していた(全ての同盟に参加していたのは原初3邦だけであった)。これらをひっくるめて「スイス盟約者団」と呼ぶ。

 しかも、これらの諸同盟は平等なものばかりではなかった。例えば……これも先にちらりと触れたが……グラールスは原初3邦とチューリヒを無条件に援助する義務があったが、原初3邦とチューリヒはグラールスからの援助要請を場合によっては拒否出来た。盟約者団全体を代表する政府も国庫も印璽もなく、重大問題が発生した際に各邦の代表2名づつが集まって開催される「盟約者団会議」という機関があるにはあったが、そこで決められた事柄に各邦が従わなければならない義務はなかった。また、邦によっては自由に他国と外交することも出来た。しかし1370年にはベルンとグラールス以外の6邦がフェーデ(私闘)の禁止や裁判権に関する協定を結び、強固な結束を持つ単一の同盟へと一歩前進した。

 この協定のそもそもの発端は、たまたまチューリヒに住んでいたハプスブルク家の家臣とルツェルンに住んでいた聖職者が喧嘩になったことによって発生した。前者はハプスブルク家による裁定を、後者は教会裁判所による裁定を望んだ(この時代の聖職者は世俗の裁判機関ではなく教会の裁判権に服することになっていた)のだが、盟約者団はこのような私闘を禁止したうえでどちらの主張も却下し、ハプスブルク家の家臣であろうが聖職者であろうが盟約者団の土地に住む限り盟約者団の定めた(世俗の)法に従うべきことを定めたのである。

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