ウィリアム・ウォーカー伝

 ウィリアム・ウォーカーは1824年アメリカ合衆国のテネシー州ナッシュビルに生まれた。わずか14歳で地元のナッシュビル大学を卒業、さらにペンシルバニア大学で医学を学んで19歳の時に医師免許を取得した。その後は弁護士に転職してニューオルリンズに法律事務所を開設したが、やがては一国の主たらんという野心を抱くようになった。

 これは当時の感覚では全くの妄想という訳でもなかった。ウォーカーが生まれた頃のアメリカ合衆国は現在のそれの半分ぐらいの国土面積しかなく、テキサスからカリフォルニアにかけての地域はメキシコの領域に含まれていたのだが、そこにはいつの間にかアメリカ人が大量に入植するようになり、そのような連中がその土地の支配権を主張して争乱を起こすようになってきていた。まず1835年にはテキサス在住のアメリカ人たちが「テキサス独立戦争」を起こしてメキシコの支配から離脱、そうやって成立した「テキサス共和国」が45年に至って彼らの故国であるアメリカ合衆国に併合される(註1)と、それを認める訳にはいかないメキシコとアメリカの戦い「米墨戦争」が勃発、カリフォルニア在住のアメリカ人たちもメキシコに対して反旗を翻した。結果はアメリカ側の勝利である。

註1 テキサスのアメリカ人たちは当初からアメリカに併合されることを望んでいたが、彼らが奴隷主であったため、アメリカ北部の自由州が併合に反対していた。しかし44年の大統領選挙で成立したポーク民主党政権が併合を断行、北部自由州(を代表する商工業者)には太平洋沿岸の海港を与えることで奴隷州と自由州のバランスをとることにしたのであった。


 米墨戦争は48年2月の「グァダルーペ・イダルゴ条約」によって終結、アメリカとメキシコの国境は53年には現在の線に画定された。これ以降アメリカ国家がメキシコ領を奪取することはなくなったが、個々のアメリカ人集団が私的に中南米の各地に遠征、征服しようとする試みは止まらなかった。そのような連中を「フィリバスター」と呼ぶ。アメリカ合衆国民にはアメリカ大陸全土に膨張発展してそこに住む無明の民を文明の恩沢に浴させてやらねばならないという道義的使命を神から課せられているのだという「マニフェスト・ディスティニー(明白なる使命)」なるイデオロギーが大声で唱えられていた時代である。48年にはホワイトという人物が900人の部下を率いてメキシコ東部のユカタン半島に遠征して撃退され(註2)、50年と51年には当時まだスペインの植民地であったキューバ(註3)への遠征が試みられてこれまた失敗している。

註2 その頃のユカタン半島ではマヤ族が白人の支配に抵抗して反乱を起こしており、ホワイトとしてはそれを利用したつもりであったが、うまくいかなかった。

註3 その頃のキューバでは現地生まれの白人がスペイン本国の支配に不満を抱いていた。


 さて、米墨戦争終結の直前、カリフォルニアの下サクラメント渓谷において黄金が発見され、史上空前の「ゴールド・ラッシュ」が巻き起こっていた。その頃ニューオルリンズでの弁護士業がうまくいかずに失業していたウォーカーもまたカリフォルニアに流れ着き、サンフランシスコで新聞記者の職にありついて今度はかなり成功した(社会派の記者として人気者になった)。そして53年10月13日、45人の仲間を集めたウォーカーはサンフランシスコ港を小型帆船で出帆、翌月3日にはメキシコ北西部のバハ・カリフォルニア半島の海港ラパスに到着し、現地において「バハ・カリフォルニア共和国」の建国を宣言した。その頃のメキシコは米墨戦争に敗れた直後であることとて政局は不安定、経済は混乱しており、さらにアメリカとの国境地帯ではアパッチ族(インディアンの一派)が暴れ回っていたため、その機に乗じて一旗あげようという訳である。

 しかしウォーカー軍は建国3日後にはメキシコ軍及び地元住民の攻撃を受けたためラパスを放棄、アメリカとの国境に近いエンセナーダに移り、付近の農場を襲撃して物資を調達したりしつつ54年1月に改めて「ソノラ共和国」の建国を宣言した。ソノラというのはバハ・カリフォルニアに隣接する農牧業の盛んな地域で、金銀銅といった鉱物資源にも恵まれているのだが、実際にはウォーカー軍はソノラにはほとんど立ち入ることも出来ず、4月にはメキシコ軍の攻撃に耐えられなくなってアメリカ領に撤収した。ウォーカーはアメリカ側でも犯罪者として扱われて逮捕されたのだが、裁判で無罪となった。アメリカの司法は彼のようなフィリバスターに対して総じて甘かったようである。

 同年12月、ウォーカーは中米ニカラグアの自由党から招聘を受けた。ニカラグアではしばらく前からレオン地方に拠る自由党とグラナダ地方に拠る保守党とが対立しており、40年代後半以降は保守党が優勢になっていたのだが、そのような情勢の打破を目論む自由党が暴れん坊ウォーカーを傭兵隊長として雇い入れようとしたのである。

 という訳で翌55年5月、新たに「不死隊」と称する56人の仲間を集めたウォーカーは前回と同じくサンフランシスコ港を出帆、6月には目的地ニカラグアに上陸した。今回は地元の人間(自由党)と協力関係にあったからか事は容易に進み、快進撃を続けて10月には保守党の拠点グラナダを制圧した。ウォーカー軍は最新式の武器を持ってきていたうえに、グラナダの有力者の家族を人質にとって降伏を促すようなことをしたという。ちなみに保守党の背後にはアメリカの鉄道財閥バンダービルトがいたが、ウォーカーの背後にも別のアメリカ資本がいた。この時代のアメリカ合衆国の東海岸と西海岸を結ぶ最短ルートはまず海路でカリブ海を通り抜けてニカラグアかパナマに上陸、地峡を横断して太平洋岸に出る(そこから船でサンフランシスコを目指す)というものであった(註4)ため、ニカラグア・パナマの交通権益を誰が握るかで複数のアメリカ資本が争っていたのである。

註4 パナマ運河は1914年開通。アメリカの東海岸と西海岸を結ぶ「大陸横断鉄道」は1869年に完成。


 ウォーカーはグラナダを占領した時点で既に自由党の上に君臨する立場になっていた。彼は自由党の老政治家パトリシオ・リバスを名前だけの大統領にしたてた新政府を樹立し、自身はニカラグア軍の最高司令官に就任した。アメリカ国民はウォーカーの成功に熱狂、アメリカ政府もすぐさま新政府を承認した。しかしウォーカーはこの程度ではまだ満足しておらず、ゆくゆくは周辺諸国も征服して、テキサスやカリフォルニアのようにアメリカ領に編入するという野望を抱いていたという。しかし商売の邪魔をされたバンダービルト財閥はあくまで保守党を助ける構えであったし、さらに以前からニカラグア地峡の権益を狙っていたイギリスも保守党を支援することにした。

 ウォーカー(と自由党)との戦いに敗れた保守党の連中は隣国のコスタリカやホンジュラスに亡命していた。当時の中米諸国はどこも内紛が激しかったのだが、ウォーカーの動きを見ているうちに心配になってきた。ちなみにここでいう「中米諸国」とはグアテマラ、ホンジュラス、エルサルバドル、コスタリカのことで、これらとニカラグアをあわせた計5ヶ国はもともとは「中央アメリカ連邦」という単一の国であったのだが、実はその頃から連邦全体で保守党(教会や大商人の利益を重視)と自由党(教会権力の削減や減税を主張)の抗争が激しく、地域対立も相まって38〜48年にかけて左記の5ヶ国に分裂、その後も各国内において保守党と自由党の対立が続いていた。しかし、ウォーカーという危険人物を前にして一時休戦となる訳である。

 まず、コスタリカ大統領ファン・ラファエル・モーラがニカラグア保守党の亡命者と同盟、対ウォーカー全面戦争を宣言した。これを受けたウォーカーは56年3月にコスタリカ領内へと遠征軍を派遣、しかし同月20日のサンタ・ロサの戦いはコスタリカ軍の勝利に終わる。ところがコスタリカ軍は運悪くコレラの大流行に見舞われて動けなくなり、その後しばらくは戦える状態ではなくなった。

 ウォーカーはお飾り大統領のリバスとも対立するに至った。当時企図されていた運河計画に関してウォーカーがアメリカ資本に有利な契約を結ぼうとしたのをリバスが妨げたからである。ウォーカーはリバスを追放して自分に反対する者を粛清、その上で56年6月の大統領選挙に自ら出馬して当選した。この選挙がどの程度公正なものだったのかは知らないが、7月12日に行われた就任式典は閑散としたものであったという。

 この辺りで先行き不安と感じ出したアメリカ政府は自国民がウォーカー軍に参加することを禁止した。リバスの方はあくまでウォーカーに立ち向かう構えを見せており、エルサルバドルがその支援にあたることになった。ニカラグア保守党も過去の行きがかりを忘れてリバス(自由党)と連合する。しかしこの騒ぎの直接の責任者はウォーカーを呼び入れた自由党以外の何者でもないため、以降のニカラグアは30年に渡って保守党優位の政局が続くことになる。

 ウォーカー大統領はニカラグアにおいては既に廃止されていた奴隷制を復活させ、新規の移民には土地を与えるという政策を推進した。前者は彼の故郷のアメリカ南部(テネシー州)の社会体制を真似たものとされ、後者は実際に耕作するという条件で個人移民には100ヘクタール、家族移民には140ヘクタールを提供するというもので、その用地はウォーカーの政府に敵対した者から取り上げた土地をあてることにした。公用語は英語とスペイン語の2つに定められたが、ウォーカー自身はスペイン語はほとんど話せなかった。

 9月、反ウォーカー陣営の反抗が再開された。コスタリカ大統領モーラを最高司令官に戴いた中米4ヶ国とニカラグア保守党・自由党の連合軍は装備に優るウォーカー軍に苦戦しつつも12月には要地グラナダを占領、ウォーカー軍はグラナダの町に火を放ちつつ南方のリバスへと後退した。結局ウォーカー軍は翌57年5月にはアメリカ政府が派遣してくれた軍艦に保護されてリバスを脱出、母国へと帰還した。以上の争乱を「国民戦争」と呼ぶ。アメリカの政府はともかく世論はウォーカーを応援していた(だから政府としても軍艦を派遣せざるを得なかった)ため、帰国した彼は英雄として扱われたという。モーラ最高司令官の方は国民戦争の勝利を祝し、「非業の死をとげた勇猛なる人々に平和と栄光あれ!」「勝利した勇敢なる人々に健康と栄誉あれ!」と叫んだ。

 3年後の1860年、ウォーカーは性懲りも無く今度はホンジュラスへと遠征した。ひとまずカリブ海岸のトルヒーヨに上陸するが、現地民の支持を得られないでいるうちに逮捕され、9月12日をもって処刑となった。享年36歳。アメリカはその頃「南北戦争」の直前であったため、ウォーカーどころの騒ぎではなかった。しかしその一方でこの年、コスタリカ大統領モーラもまた処刑されている。コスタリカは国民戦争から帰還した軍隊が持ち帰ったコレラのせいで総人口の1割を失い、やがてぶりかえした内紛によって追放されたモーラは亡命先のエルサルバドルからコスタリカへの反攻を企てたが、失敗して処刑場の露と消えたのであった。

                                         おわり



   参考文献

『ラテン・アメリカ史1』 増田義郎 山田睦男編 山川出版社新版世界各国史25 1999年
『エルサルバドル、ホンジュラス、ニカラグアを知るための45章』 田中高編著 明石書店 2004年
『コスタリカを知るための55章』 国本伊代編著 明石書店 2004年
『ラテンアメリカ現代史3』 二村久則他著 山川出版社世界現代史35 2006年
「ウィリアム・ウォーカー」 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A6%E3%82%A3%E3%83%AA%E3%82%A2%E3%83%A0%E3%83%BB%E3%82%A6%E3%82%A9%E3%83%BC%E3%82%AB%E3%83%BC
「ニカラグア革命史」 http://www10.plala.or.jp/shosuzki/history/nicaragua/nicindex.htm#%83j%83J%83%89%83O%83A%8Av%96%BD%8Ej
「米墨戦争後のメキシコ北西部 〜ソノラへのフィリバスターの侵蝕〜」 http://www.asia-u.ac.jp/kokusai/Kiyou.files/pdf.files/13-1/13-1-2.pdf

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