南アフリカの歴史 第一部

   サン人とコイコイ人、そしてアフリカ人  (目次に戻る)

 古くは300万年以上前に遡る人類の化石が見出される世界遺産「南アフリカの人類化石遺跡群」の地であり、ホモ・サピエンスのものと推定される化石としては5万年以上前のものが発見されている南アフリカ共和国地域にヨーロッパ人の航海者が現れるのは15世紀の末、しかしそこには既に「サン人」「コイコイ人」「アフリカ人」という三種の先住民が暮らしていた。サン人は「コイサン語」を話す狩猟採集民、コイコイ人は「コイコイ語」とコイサン語を話す牧畜民、アフリカ人は「バントゥー諸語」を話す農耕・牧畜民である。サン人は「ブッシュマン」、コイコイ人は「ホッテントット」とも呼ばれるがどちらもヨーロッパ人による蔑称で前者は「茂みの中に住む人」、後者は「吃る人」を意味し、サン人とコイコイ人を合わせて「コイサン人」と総称する。茂みというのは茂みの中を移動しつつ狩猟採集を営むということ、吃るというのは「クリック子音」という発音上の特徴を有する言語を用いるためである。「コイ」は当人たちの自称で「純粋な人間」の意、「サン」はコイコイ人による呼び名である。ついでにアフリカ人の蔑称は「カフィール」でおおもとの意味は「非イスラム教徒」、転じて黒人を指す語となった。英語で会話する時に他称でアフリカ人のことを「バントゥー」と呼ぶのも蔑称になるという。以上の集団のうち最も古くからいたのはサン人で弓矢を用いた狩猟と木の実の採集で暮らしを立て、今から2500年ほど前に北方から伝わった牛・羊の飼育(と狩猟採集)を生業としたのがコイコイ人、前者は数十人の集団(バンド)で移動生活を営み、後者は千人単位の首長国を形成することもあった(註1)

 註1 この段落と次の段落とその次の段落はレナード・トンプソン著 宮本正興、吉國恒雄、峯陽一、鶴見直城訳『南アフリカの歴史(最新版)』41〜85頁 ロバート・ロス著 石鎚優訳『南アフリカの歴史』8〜25頁 池谷和信著「南部アフリカ」川田順造編『新版世界各国史10 アフリカ史』309〜325頁 峯陽一著『南アフリカ 「虹の国」への歩み』54〜57、66〜71頁 野々山ミナコ訳 増田義郎注「ドン・ヴァスコ・ダ・ガマのインド航海記」『大航海時代叢書1 コロンブス アメリゴ ガマ バルボア マゼラン 航海の記録』681〜684頁 田中二郎著「カラハリ砂漠のブッシュマン」川田順造編『民族の世界史12 黒人アフリカの歴史世界』178〜180頁 峯陽一著「南アは「アフリカ人」の国である 多数派を占める先住民の歴史」『南アフリカを知るための60章』第1章による。

 アフリカ人が営む農耕についてはレナード・トンプソンによれば3世紀にはトランスヴァール東部とナタールで既に栽培と鉄器の使用がなされていて、1000年頃にはナタール州の大半、ケープ州のうちのカイ川以東、トランスヴァール州、オレンジ自由州北東部にて農耕民が村落を営んでいて概ね牧畜も兼業し、16世紀には年平均降雨量20インチ以上の地域をほぼ全て掌握したという。「年平均降雨量20インチ以上の地域」は概ね現在の南アフリカ国の東部地域。16世紀というのは既にヨーロッパ人が出没する頃おいである。ところが峯陽一氏の1996年の文章によれば彼らは今から1000年前までには年平均降雨量20インチ以上の土地のかなりの部分を占拠するようになっていて、にもかかわらずアパルトヘイ時代(1990年代前半まで続いた白人支配体制のための「人種隔離政策」の時代)の南アフリカの歴史教科書では「白人とアフリカ人は南アフリカの地に南北から同時期に到来した」という話が載っていたが、それは既に考古学的に完全否定されているとの由であり、同氏の2010年の文章ではもっと時代を遡って4世紀には彼らは「現在の南アフリカの東半分の広大な土地で暮らすようになっていた」と述べている。トンプソンの本は原著初版1990年、筆者(当サイト管理人)の手元にあるのは2000年に出た原著第3版の和訳だがその辺の知見が古いままだったのだろうか。それともトンプソン書の1000年頃の記述にある範囲をもって「年平均降雨量20インチ以上の土地」の「かなりの部分」と解釈してもよいということであろうか。

 話を戻してアフリカ人は百人未満から時には万単位の人口を擁する首長国を構えて分裂と勃興を繰り返したこともあってお互いに(アフリカ人の首長国同士で)戦争することもしばしばだったが、さほどの激戦にはならなかったようである。「年平均降雨量20インチ以上の地域」の西側境界線は後年のケープ植民地(オランダ東インド会社領)時代の末期にあたる1770年代末頃、すなわちヨーロッパ人とアフリカ人との最初の大規模な戦争が発生する頃のヨーロッパ人の活動領域の東端の辺りで、そこから西側の地域は(ヨーロッパ人が現れる前には)コイサン人の活動領域であった。つまりコイサン人の活動地域は農業には適さないということだが、大西洋沿岸部のケープ半島周辺等にはそこそこの雨量の農業適地も存在する。農耕民(アフリカ人)と牧畜民・狩猟採集民(コイサン人)が関係を持つ時には各々の生業で補完し合う共存関係を保つこともあれば吸収あるいは征服することもあり、狩猟採集民の集団がアフリカ人の家畜を掠奪した報復で皆殺しにされることもあった。アフリカ人は更に細かく「コーサ人」「ソト人」「ツワナ人」「ズールー人」等々に区分される。南アフリカ初の黒人大統領ネルソン・マンデラはコーサ系だがコイサン的な顔をしているともされる。追々述べていくようなヨーロッパ人の難破者がアフリカ人の一員として暮らしているところを後続のヨーロッパ船に発見された例もある。21世紀現在の南アフリカの住民の8割近くはアフリカ人(そのうちのコーサ人の中にはヨーロッパ系難破者の子孫と思しき名称・容姿の集団がいる)だが、コイコイ人は自立して牧畜を営む集団としては既に全く存在せず、サン人の子孫の狩猟採集民は南アフリカではなくボツアナとナミビアに残っている(註2)

 註2 ただし1978年刊行の田中二郎著「カラハリ砂漠のブッシュマン」川田順造編『民族の世界史12 黒人アフリカの歴史世界』181頁によるとサン人はボツワナに約3万とナミビアに約2万、アンゴラに約4000、そしてザンビアと南アフリカに若干で合計5万5000が「いずれも荒涼たる半砂漠地帯に押し込められた格好」で存在し、そのうち伝統的な狩猟採集生活を営むのは5000程度としている。

 ヨーロッパ人到来以前の南アフリカの住民たちと外部世界との繋がりについては現在の南アフリカ、ジンバブエ、ボツワナの国境合流点付近(南アフリカ共和国北東部)に13世紀に建設されたマプングブウェ(世界遺産)が「南部アフリカ(ここではアンゴラ〜モザンビーク以南の地域のこと)最初の国家」とされていて中東・インドにも通じる国際的商業ネットワークに繋がっていたといい、北方のグレート・ジンバブエ(ジンバブエの国名の由来となった大遺跡)の文化もここを起源として生まれたかもしれないともいう(註3)。コイサン人に関しては現在の南アフリカ共和国地域ではないが現モザンビーク首都マプトの辺りにいたクリック子音を混じえた言語を用いる人々に関するバグダッドの年代記作家アル・マスウィーリーの915年の記録があり、1154年にはアラブの地理学者がやはりモザンビークまでやって来てコイサン人に遭遇している(註4)。イスラム系の勢力はアフリカ東岸(インド洋沿岸)のかなり南の方まで来ていたが南アフリカ共和国地域にまで南下して来るのは海流の関係でなかなか難しく、同じことはアフリカ西岸(大西洋沿岸)についても言えていたのである(註5)

 註3 池谷和信著「南部アフリカ」川田順造編『新版世界各国史10 アフリカ史』321頁

 註4 田中二郎著「カラハリ砂漠のブッシュマン」川田順造編『民族の世界史12 黒人アフリカの歴史世界』178〜179頁

 註5 峯陽一著『南アフリカ 「虹の国」への歩み』57頁

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 そしてヨーロッパ人の到来である(註6)。この方面での先陣をきるポルトガル勢力は1473年に赤道を突破、1482年にコンゴ川に到達していたが、1488年にバルトロメウ・ディアスがヨーロッパ人として初めて希望峰を回ってグレート・フィッシュ川まで到達した。グレート・フィッシュ川はこの300年ほど後にオランダ系の入植者勢力とアフリカ人勢力との境界となる川である。「希望峰」というのはディアスの報告を聞いたポルトガル国王が命名したもので、ディアス自身はこの辺りで激しい嵐に苦しめられたので「嵐の岬」と呼んだというのはよく知られた逸話である。往路に希望峰を回った時には嵐のせいでその存在に気づかずに通り過ぎたまま東進して陸地を探したがどこにも見つからなかったのでアフリカ大陸南端を抜けたことが分かり、進路を北にとってしばし進んだところで希望峰とグレート・フィッシュ川の中間のモッセル湾に到達した。そこで遭遇した地元民たち(牛を連れていたというからコイコイ人であろう)はディアスたちから逃げて近寄ろうとせず、何をやっても受け取ろうとしないばかりかディアスたちが水を汲もうとすると石を投げてこれを妨害、ディアス側の反撃で1名射殺となったという。ディアスたちもそこからもうちょい東進したところで疲労困憊、怖くなったこともあって乗組員全員一致で帰国を主張したため、指揮官ディアスの請いであと数日だけの約束でグレート・フィッシュ川まで到達、帰路に希望峰をその目におさめつつ母国に戻ったのであった。

 註6 この段落と次の段落は会田雄次 中村賢二郎著『世界の歴史12 ルネサンス』204頁 安部眞穏著『波乱万丈のポルトガル史』90〜100頁 生田滋著『大航海者の世界2 ヴァスコ・ダ・ガマ』54〜66頁 野々山ミナコ訳 増田義郎注「ドン・ヴァスコ・ダ・ガマのインド航海記」『大航海時代叢書1 コロンブス アメリゴ ガマ バルボア マゼラン 航海の記録』349〜360頁とその補注による。

 続いて1497年11月9日にヴァスコ・ダ・ガマの船隊がまずセント・ヘレナ湾(希望峰の北約150キロ)に到達、同月22日に希望峰を越えて25日にモッセル湾に到達して12月17日夜にグレート・フィッシュ川の河口に投錨、そこから海流に押し戻されたりしつつもヨーロッパ人にとって未知の海域を突き進んで行く(次の停泊地が現在の南アフリカ共和国第3の大都市ダーバン)訳だが、その前にセント・ヘレナ湾で陸地に降り立った際にサン人と推定される(断定はされていない)地元民と、モッセル湾ではコイコイ人(であったことが確実視される)と接触している。セント・ヘレナ湾の人々はガマたちが交易の意志を示すと40〜50人で船のそばに集まって来て特に銅貨を欲しがるようであったといい、やがて発生したトラブルで短槍を投げつけたり矢を放ったりしてガマを含む数名を負傷させた。ここの人々はアザラシと鯨とガゼラの肉と草の根しか食べなかった(牛や羊を伴っていたという記録はないのでコイコイ人ではなくサン人だったと考えられている。アザラシや鯨をとっていたという記録は人類学的に注目に値するとされる)といい、また蜜蜂を採集していたという。モッセル湾の人々は牛・羊を伴った200名ほどの集団で現れてガマたちと交歓、彼らとの交易で得た牛肉はポルトガル本国の牛に劣らず美味かったという。ここでもトラブルになりかけたが戦闘にはならず、しかし出帆時にガマたちが建てて行った「占領標識」と十字架は船隊が湾を出ないうちに地元民たちに倒されてしまった。

 やがてポルトガル人以外のヨーロッパ人と先住民との接触もなされるようになる。15世紀末にはどういうルートでかは知らないがイギリスに渡って英語を覚えたコイコイ人がいたといい、16世紀には難破したヨーロッパ人たちがコーサ人の集落に受け入れられたまま後で仲間たちに発見された時にも帰国を拒否、そのまま現地に居着いてしまうということがあったという(註7)。ただポルトガル勢力は1510年にインド副王の任期を終えて帰国中のフランシスコ・ダルメイダが南アフリカのケープ半島(希望峰はこの半島の南端部に位置する)テーブル湾(半島の北端部に面する湾)での地元民との争いで死亡するという事件に見舞われ、というのはこの地域を征服・支配しようとしてのコイコイとの戦争に負けたということ(註8)で、またこの海域はやはり嵐が多くて海流が激しく、浅瀬もあって航海者泣かせであった(註9)ため、その後のポルトガル勢力は南アフリカよりも東アフリカ方面への進出に傾注するようになった(註10)

 註7 峯陽一著「「白いアフリカ人」の誕生 アフリカーナー社会の形成と大移動」『南アフリカを知るための60章』第2章

 註8 池谷和信著「南部アフリカ」川田順造編『新版世界各国史10 アフリカ史』325頁

 註9 レナード・トンプソン著 宮本正興、吉國恒雄、峯陽一、鶴見直城訳『南アフリカの歴史(最新版)』88頁

 註10 ロバート・ロス著 石鎚優訳『南アフリカの歴史』26頁

 ポルトガルは東南アジア方面で1511年にマラッカを征服、西アジアでも1515年にホルムズを掌握してペルシア湾の支配権を確保、1532年にブラジルへの植民を開始、1543年に日本の種子島に到達といった具合であったが1578年に国王セバスティアン自ら北アフリカのモロッコへと遠征して国王戦死の惨敗を喫し1580年をもってスペインに併合される(スペイン国王フェリペ2世がポルトガル国王を兼ねるという形式をとった)こととなる。そのスペインの領国だったネーデルラントで1568年から始まっていた「八十年戦争(オランダ独立戦争)」の最中において事実上のオランダ独立宣言がなされるのが1581年(註11)、それと連動して発生したスペインとイギリスの戦争でスペイン無敵艦隊が敗退したのが1588年である。オランダ人には既に1568年にポルトガル領ゴアに渡って更に中国・日本にまで足を伸ばした人物がいたが、1596年にはアムステルダムの商人が仕立てた船隊が希望峰を経て現インドネシアのジャワ島にまで到達した(註12)。その頃にはイギリスやフランス、北欧の商船もアジアに向かうようになっていて時おり補給のためにケープ半島に上陸、コイコイ人と交易して鉄・銅製品と牛・羊を交換するようになった(註13)。17世紀初頭にはイギリス官憲がケープの地を流刑地に選んだが「極悪非道の囚人達でさえこの地に追放される位ならば潔く斬罪に処せられんことを哀訴嘆願した」といい、1620年に改めてイギリス東インド会社の社員2名がケープ領有を宣言して英国国旗を打ち立てるも本国のジェイムズ1世国王に却下されたという(註14)

 註11 この時になされた宣言は「スペイン国王はもはや自分たちの国王ではない」というもの(フランス国王の弟を迎えることになっていた)であって別に独立を宣言した訳ではないという説もあるが、本稿は「南アフリカの歴史」であって「オランダの歴史」ではないのでその辺の議論はとりあえずスルーしておく。

 註12 科野孝蔵著『オランダ東インド会社の歴史』8〜19頁 桜田美津夫著『物語オランダの歴史 大航海時代から「寛容」国家の現代まで』148頁

 註13 レナード・トンプソン著 宮本正興、吉國恒雄、峯陽一、鶴見直城訳『南アフリカの歴史(最新版)』89頁

 註14 吉田賢吉著『南阿聯邦史』35頁

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 さてオランダである。オランダ勢力は前述のジャワへの航海では地元民とのトラブルもあってさしたる成果を上げられなかったが1599年の第2次の航海で多大の利益を得たことによりアジア貿易を目論む会社の設立ラッシュとなる。これを1602年に統合した「東インド会社(VOC)」が単なる貿易事業のみならず希望峰以東〜マゼラン海峡以西の海域・沿岸部における要塞建設、貨幣鋳造、地方長官や司令官の任命権、警察・課税・裁判権や条約の締結、宣戦講和に及ぶ外交権まで付与された巨大組織(資本金はイギリス東インド会社の10倍)として発足、1619年に要塞を構えたバタビア(現インドネシア首都のジャカルタ)を一大拠点として1623年には「アンボイナ事件」でモルッカ諸島(香料諸島)にいたイギリス勢力を駆逐、1624年に台湾に進出、日本の平戸に商館を設立したのは1609年、これが長崎出島に移された1641年にはマラッカを占領、その間の1638年からセイロン攻略開始という勢いである。本国では毛織物工業や造船業、商品作物や酪農に特化した農業、そして絵画や出版で優れた文化が華開いていたオランダの「黄金時代」である。(ちなみに1640年にポルトガルがスペインからの独立を回復)

 そして1647年にバタビアからの帰途に難破したためケープ半島テーブル湾で越冬、翌年救助された(その間に難破船から陸揚げした小麦や野菜の栽培に成功していた)オランダ人たちが東インド会社に同地の占領を提案、かくして1652年4月6日、ヤン・ファン・リーベック指揮下の旗艦「ドロメダリス」号と他2隻に分乗した80名(ファン・リーベックの妻や姪など4名の女性を含む)がテーブル湾に現れた(註15)。以後約150年に渡ってオランダ東インド会社に統治される「ケープ植民地」の誕生である。本国からここまでの航海は偏西風の影響で3ヶ月以上の期間を要し、その間に2名の死者が出たという(註16)。ファン・リーベックは上述の難破民を救助した船団に乗り合わせていて、その際にテーブル湾の近郊をじっくり観察していた(註17)。テーブル湾よりも良港になりそうなところもなくはなかったが、後背地の水の便が悪そうだったり不健康な低地だったり(註18)で、それらと比べて「ケープの気候風土はヨーロッパ人の入植に適していた。オランダの涼しさに比べるとさわやかさに欠けてはいたが、バタビアの蒸し暑さのように気力を萎えさせることはなかった。地中海性気候で、しかも、ギリシャやスペインのように(中略)収穫する人の手を時折凍えさすような冬の霜は降りなかった」(註19)。ただし本格的な開拓入植や大規模基地の建設ではなく本国とバタビアを行き来する艦隊に飲料水や食肉、果物、野菜、穀物、薪を補給し病人を休養させられる程度の小城砦の設定が目的である(註20)。会社がファン・リーベックに与えた訓令に「植民」という語が見えない(補給人員の住む社宅や食料栽培のための農園作りを許可した程度)ことがその何よりの証拠という(註21)。あくまでも補給地であって商取引が目的の拠点でもないという点で東インド会社の他の拠点(バタビアや長崎)とは全く違っていたという(註22)。オランダ人たちは当初この基地を「ゼー・ヘルベルフ(海の宿屋)」と呼んだが、ヘルベルフとは居酒屋兼業の安宿のことである(註23)。城塞は現地民の襲撃に備えるよりも欧州の他の国への牽制という意図が強かったという(註24)。折りしもこの年の5月にはオランダ本国とイギリスが「第一次英蘭戦争」に突入せんとする頃合いである。現地民については前記の難破者たちの報告によれば「土人は野蛮ではあるが白人を襲撃するのは白人が牛を盗んだ事に対する復讐であって我々に対しては好意的な態度を示し、決して怖れる必要はない、使いようによっては充分に役に立つ」とのこと、ところがそれとは別にファン・リーベックが会社に提出した報告書によれば「土人は油断もすきもならぬ警戒を要する種族である」とのことであった(註25)。土人というのはコイコイ人のことである。ケープ半島にはおよそ4000〜8000名の先住民がいたという(註26)

 註15 レナード・トンプソン著 宮本正興、吉國恒雄、峯陽一、鶴見直城訳『南アフリカの歴史(最新版)』89頁 宮本正興、松田素二編『新書アフリカ史』356頁 大熊真著『アフリカ分割史』12頁 吉田賢吉著『南阿聯邦史』36頁 ただ林晃史著「南部アフリカ」 星昭、林晃史著『世界現代史13 アフリカ現代史1 総説・南アフリカ』56頁では80名ではなく130名となっているが、これは「130名の乗組員」とあるので入植者以外の船員を含んだ数のようである。

 註16 宮本正興、松田素二編『新書アフリカ史』356頁 峯陽一著『南アフリカ 「虹の国」への歩み』60頁

 註17 吉田賢吉著『南阿聯邦史』36頁

 註18 C・W・デ・キーウィト著 野口建彦、野口知彦訳『南アフリカ社会経済史』1〜2頁

 註19 C・W・デ・キーウィト著 野口建彦、野口知彦訳『南アフリカ社会経済史』5頁

 註20 C・W・デ・キーウィト著 野口建彦、野口知彦訳『南アフリカ社会経済史』5頁 ロバート・ロス著 石鎚優訳『南アフリカの歴史』27頁 レナード・トンプソン著 宮本正興、吉國恒雄、峯陽一、鶴見直城訳『南アフリカの歴史(最新版)』91頁

 註21 吉田賢吉著『南阿聯邦史』39頁

 註22 科野孝蔵著『オランダ東インド会社の歴史』79頁

 註23 永積昭著『オランダ東インド会社』153頁

 註24 宮本正興、松田素二編『新書アフリカ史』356頁

 註25 吉田賢吉著『南阿聯邦史』37頁

 註26 レナード・トンプソン著 宮本正興、吉國恒雄、峯陽一、鶴見直城訳『南アフリカの歴史(最新版)』96頁

 ところで本稿が主に参考にした文献はまず邦語で読める南アフリカ史のスタンダートと思われるレナード・トンプソン著『南アフリカの歴史 最新版』でこれは前述の如く原著初版は1990年刊行、最新版(第3版)の原著刊行は2000年、その邦訳2009年というもの。他に繰り返し引用するのはC・W・デ・キーウィト著『南アフリカ社会経済史』という原著初版1941年だが1980年代までの長きに渡り南アフリカ史入門者のための最も定評ある古典とされてきたという本(註27)と、1940〜1942年に南アフリカ駐在の日本公使館書記官だった吉田賢吉という人物(註28)が1944年12月に刊行した(巻末の著者略歴によると「現在外務省調査局第一課長兼総力戦研究所員」とある)『南阿聯邦史』で、どちらも内容的に古いだろうとは思いつつも南アフリカ史の纏まった通史として非常に面白く大いに参考にした。この3書に限らず出典は必要に応じて明記しておくので更なる興味のある方はそちらにあたってもらいたい。

 註27 C・W・デ・キーウィト著 野口建彦、野口知彦訳『南アフリカ社会経済史』の訳者あとがきによる。

 註28 1941年12月8日をもって日本と交戦状態に入ったことを南アフリカ側から通告されて後に軟禁状態にあった間に南アフリカ史の本を読み込み、やがて中立国ポルトガル領を経由して交換船で日本に戻る。

   ケープ植民地の建設  (目次に戻る)

 また話を戻してファン・リーベックという人物は1618年に船長の息子として生まれた外科医だったが東インド会社に雇われてバタビアに赴き1642年には日本の長崎出島に来たこともあり、その後はトンキン(現ベトナムのハノイ)で貿易交渉に従事、47年にまた長崎出島に移ったところでトンキンで働いた不正がバレたためバタビアに召喚、罰金刑の上で本国送還という失態をおかした(その送還のために乗っていた船団が前記の難破民救助に携わった)のを挽回するために彼もまたケープ基地化を進言したのだともいう(註29)。彼がケープ基地建設事業に連れて来た連中はオランダ人とは限らず、ほんの数年前(1648年)に終わった三十年戦争で用済みになった元軍人のドイツ人、デンマーク人、スイス人等を含んでいた(註30)

 註29 峯陽一著「「白いアフリカ人」の誕生 アフリカーナー社会の形成と大移動」『南アフリカを知るための60章』第2章 宮本正興、松田素二編『新書アフリカ史』355〜356頁 峯陽一著『南アフリカ 「虹の国」への歩み』58〜60頁 吉田賢吉著『南阿聯邦史』37〜38頁

 註30 E・エバンズ・プリチャード総監修 日本語版総監修梅棹忠夫 第9巻監修田中二郎『世界の民族9 アフリカ南部・マダガスカル』63頁

 彼らを統率する機構についてはまず植民地の初代長官たるファン・リーベックは本国からケープに来るまでの航海途上の1651年12月30日に暴風対策を協議するために船長たちを召集して「船上会議」を開催していたが、これが南アフリカ史におけるケープ議会の起源とされていてケープ到着後も陸上で開催、城砦が建つとそこで行われる「政務委員会」となって立法・行政・司法を統括することとなった(註31)。その第一の仕事たるべき食糧の調達のためには会社直営の農場もあった(註32)が地元のコイコイ人との交易によっても賄うつもりでいたところ、彼らにはケープからアジアまで数ヶ月分の船旅の間の大人数の乗員乗客の胃袋を満たすに足る多量の食材を提供する能力も意思も持ち合わせていないこと、ましてや壊血病対策用の野菜やワインは論外だということが分かってきたため、「補給基地」を「植民地」に切り替える必要が生じてきた(註33)。つまり居留民自身の手でもっと本格的に農業をやろうということである。

 註31 吉田賢吉著『南阿聯邦史』37〜38、40頁

 註32 吉田賢吉著『南阿聯邦史』40頁

 註33 ロバート・ロス著 石鎚優訳『南アフリカの歴史』27頁

 気候風土は既に述べたように地中海性でヨーロッパ人にも悪くはなく、農作物もけっこう良く育ったが、小麦は夏の大風で薙ぎ倒されてしまい、むしろ寄港する船舶に物資を分けて貰わなければ餓死しかねない惨状に陥ったという(註34)。そもそも農作業をしていた居留民というのは「軍制下の守備隊」であって、彼らが東インド会社に奉職したのは「何も、居心地のよいヨーロッパと一攫千金の機会に恵まれた香料諸島との中間地点の、荒れ果てた僻地で過酷な生活を送るためではなかった。当然のことながら、彼らは非能率的な労働者であり、彼らがふてくされながら働いて作り出した生産物に比較して、そのコストは東インド会社にとって桁外れに高くついた」のである(註35)

 註34 C・W・デ・キーウィト著 野口建彦、野口知彦訳『南アフリカ社会経済史』5頁

 註35 C・W・デ・キーウィト著 野口建彦、野口知彦訳『南アフリカ社会経済史』5〜6頁

 周辺海域でも激しい風波のため難破する船もあったこととてこの地を持て余した会社首脳部では「緊急やむを得ない場合の他はなるべくここに寄港するな」との指示を出したことすらあったという(註36)。ワーグナーのオペラの元ネタになった幽霊船の伝説「さまよえるオランダ人」はまさしくこの海域を舞台とする話(19世紀に既に古い伝説として流布していた話をまずハイネが小説の作中劇として取り入れ、それを読んだワーグナーがオペラに仕立て上げた)である(註37)。ケープに立ち寄る東インド会社の船は年間25隻前後、あと他国船が若干で人数にして500人ぐらいであった(註38)

 註36 永積昭著『オランダ東インド会社』154頁

 註37 吉田真著『作曲家 人と作品 ワーグナー』200頁

 註38 宮本正興、松田素二編『新書アフリカ史』356〜357頁 吉田賢吉著『南阿聯邦史』48頁

   自由市民と奴隷制、先住民  (目次に戻る)

 1657年、会社は9名の社員を解雇して「自由市民」とし、テーブル湾の南方10キロのロンボディシュに20エーカー(資料によっては13.3エーカー)の土地を与えた。向こう12年間の免税特権を認められるのと引き換えにそこでの20年間の居住を義務付けられ、穀物と野菜を作って規定の値段で会社に売るということで、その方が社員を使って食料を生産するより安上がりだと見込まれた(註39)。この9名もやはりオランダとドイツの混成、全員既婚者であった(註40)。ということは最初の入植者のうち女性4名というのは筆者が参考にした文献が間違っているのかその後の5年の間に新たに入植した女性がいたのか現地民の女性を娶ったということのなのかは分からない。それと農産物は必ず会社に売るのであって寄港船舶に直接売ってはならないとなっていたこと、会社側の買取価格が低過ぎたことへの不満が翌58年に爆発、我らは奴隷ではないとの陳情を受けたファン・リーベックは穀物の買取価格を少しだけ引き上げ、寄港船舶の乗員に野菜だけ売っていいとの妥協でこれに応じた(註41)

 註39 レナード・トンプソン著 宮本正興、吉國恒雄、峯陽一、鶴見直城訳『南アフリカの歴史(最新版)』92頁 宮本正興、松田素二編『新書アフリカ史』357頁 C・W・デ・キーウィト著 野口建彦、野口知彦訳『南アフリカ社会経済史』6頁 吉田賢吉著『南阿聯邦史』41頁

 註40 E・エバンズ・プリチャード総監修 日本語版総監修梅棹忠夫 第9巻監修田中二郎『世界の民族9 アフリカ南部・マダガスカル』63頁

 註41 吉田賢吉著『南阿聯邦史』41頁

 奴隷といえば1657年もしくは58年にはファン・リーベックからの求めを受けた会社がダホメーから十数名、アンゴラから170名の奴隷を購入した(註42)。以後のケープ社会は会社も自由市民もすっかり奴隷労働に依存するようになって農作物の生産は向上、会社経営も黒字となるが、この地にそれから続々と送り込まれることとなった奴隷たちの出身は南北アメリカのそれよりも多様でアフリカ出身者(マダガスカルは除く)は多くなく(1686〜1808年にケープに輸入された者の4分の1程度)、マダガスカル、インドネシア、インドからが多くて(それぞれ左記の期間内で全体の4分の1ないし5分の1ぐらい)、中国や日本から連れてこられた者もいたという(註43)。それと「黒字」に関しては吉田賢吉氏によると1652〜57年までは連年赤字だったのが58年に奴隷取引のおかげで黒字になったということであるという(註44)

 註42 レナード・トンプソン著 宮本正興、吉國恒雄、峯陽一、鶴見直城訳『南アフリカの歴史(最新版)』93〜94頁 宮本正興、松田素二編『新書アフリカ史』357頁。前者によると1658年、後者は57年とする。吉田賢吉著『南阿聯邦史』46頁によると57年にマダガスカル等から十数名、58年にアンゴラから170名。

 註43 レナード・トンプソン著 宮本正興、吉國恒雄、峯陽一、鶴見直城訳『南アフリカの歴史(最新版)』94頁 宮本正興、松田素二編『新書アフリカ史』357頁 池谷和信著「南部アフリカ」川田順造編『新版世界各国史10 アフリカ史』326〜328頁

 註44 吉田賢吉著『南阿聯邦史』48頁

 コイコイ人との関係は当初は良好で、ファン・リーベックは前記のように彼らを警戒しつつも部下たちには虐待を厳として戒め、ドマン、エバ、ハリーという3名の現地協力者を通訳として土地の指導者との交渉を行って羊・牛を欧州の物品との交換で入手していた(註45)。しかしオランダ人たちによる城塞の建設や作物の植え付け、更には自由市民による土地の占有によって放牧地を削られ、給水路まで遮られたコイコイ人たちは1659年5月、牛をめぐる抗争を契機として入植者との戦闘に突入、5つの農場を攻撃して農地の大半を破壊、家畜を略奪した。ところが翌年にはトンプソンによるならば武器と戦術に優れコイコイ側の内部分裂を利用する政略にも長けたオランダ側が支配を確立したといい、ロバート・ロスによってもこの戦争は短期間のうちにマスケット銃の威力を発揮したオランダ人の勝利に終わったというが、池谷和信氏によるとオランダ側はコイコイ人を征服・奴隷化することなく戦争を避けてコイコイの2集団との間に和平協定を締結したといい、しかしオランダ側がコイコイとの交易で牛を手に入れようとしてもコイコイ側にも都合があるので売り渋るといった問題があったという。どの記述が妥当かは判断がつきかねるが、とりあえずトンプソンによるとその後のオランダ人たちは厚い垣根や監視塔の構築で防備を固め、犯罪者と見做したコイコイ人をテーブル湾内に浮かぶロベン島に放り込んだ。アパルトヘイト時代にネルソン・マンデラらが収監された悪名高き監獄島で現在では世界遺産となっているロベン島の「ロベン」とはオランダ語でアザラシの意、1657年3月にファン・リーベックが犯罪者の島流しの地としたことがその負の歴史の始まりとされている。ちなみにサン人との接触は1654年もしくはその翌年4月にファン・リーベックが奥地を探検した際に最初になされたという。

 註45 以下この段落はレナード・トンプソン著 宮本正興、吉國恒雄、峯陽一、鶴見直城訳『南アフリカの歴史(最新版)』96、572頁 池谷和信著「南部アフリカ」川田順造編『新版世界各国史10 アフリカ史』330〜331頁 ロバート・ロス著 石鎚優訳『南アフリカの歴史』27頁 吉田賢吉著『南阿聯邦史』43、45〜46頁 田中二郎著「カラハリ砂漠のブッシュマン」川田順造編『民族の世界史12 黒人アフリカの歴史世界』178頁による。

   ケープ植民地の発展  (目次に戻る)

 その間にも多くの社員が解雇されて自由市民化、本国からも女性を含む移民が招致された(註46)。ただし彼らの多くは適切な資本も経験も乏しくて農業経営に行き詰まり、テーブル湾岸に形成された「ケープタウン」の町に住む商人・職人としてオランダや各国の船舶を相手とする様々な仕事に従事するようになったが、菜園や牧畜業で成功した者もいた。ケープタウンには本国首都アムステルダムの東インド会社理事(重役)会とジャワのバタビア総督の下部組織としてここ「ケープ植民地」を取り仕切る植民地政府(前述の政務委員会の拡充・分化については後述する)が置かれ、やがてバタビアのミニチュアとも称されるなかなかに立派な都市へと成長していく。その城砦や波止場、道路のみならず周辺の農地を整備するのはもちろん奴隷の仕事である。「ケープ」とは「嵐の岬」や「希望峰」の岬・峰(ケープ)のことで、世界の地理と戦略に占めるこの地の重要性が高まるにつれて全世界の他のケープを差し置いて特にこの地のことを単に「ケープ」と呼ぶようになったのだという。

 註46 以下この段落と次の段落はレナード・トンプソン著 宮本正興、吉國恒雄、峯陽一、鶴見直城訳『南アフリカの歴史(最新版)』91、93、98頁 ロバート・ロス著 石鎚優訳『南アフリカの歴史』29頁、C・W・デ・キーウィト著 野口建彦、野口知彦訳『南アフリカ社会経済史』1頁、吉田賢吉著『南阿聯邦史』49〜50頁 宮本正興、松田素二編『新書アフリカ史』359頁による。

 ところが本国側は1661年ファン・リーベックに「貴下の手紙によると貴下は町を建設し植民地を拡大せんとの意向を有せらるる様子であるが、こう云う考えはすぐに断念して貰いたい。我々は植民地を拡大する意思は少しも持って居らぬ、何とならば絶えず外より食料を供給する必要がある大きな植民地を設置することは抑々如何なる効用があるのであるか」という書簡を送りつけてケープ長官職をファン・ゲリットに交代すべきことを通告、ファン・ゲリットが赴任する途中に病死するや代わってザハリアス・ワーホナールを1662年4月に新長官として送り込んできた。ファン・リーベックは一旦バタビアに移ってマラッカの主任に就任、後にはバタビアのインド参議会書記長をつとめて1677年に死去した。ファン・リーベックが去った時点のケープ植民地の白人人口は約120名であったという(註47)

 註47 ところで筆者はオランダ語に限らず外国語に暗いため人名・地名表記はかなり適当である。参考資料によって表記が異なっている人名・地名は本稿ではなるべく統一するよう心がけたが、その統一のための基準は特にない(全くの適当である)。

 本国の考えはどうあれちびちびと増加していた新規の白人入植者の多くはオランダ・ドイツの低い階層の出身で本国よりはこっちの方が成功のチャンスに恵まれており(註48)、またオランダ本国は1665年にイギリスとの「第二次英蘭戦争」に突入、続く1672年勃発の「第三次英蘭戦争」ではイギリスのみならずフランスまで敵に回していたこととてアフリカ南端のケープもまた戦略上の要点であることが認識されたために守備要員としての入植が推奨された(註49)。現在の南アフリカ共和国で最古の建物とされるキャッスル・オブ・グッド・ホープはケープ長官の居城としてまさにこの時期の1666年〜79年にかけて建造された五角形の城塞で、一辺175メートル、高さ10メートル、21世紀現在も南アフリカ軍の西ケープ陸軍司令部として用いられているという(註50)

 註48 レナード・トンプソン著 宮本正興、吉國恒雄、峯陽一、鶴見直城訳『南アフリカの歴史(最新版)』93頁

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 註49 C・W・デ・キーウィト著 野口建彦、野口知彦訳『南アフリカ社会経済史』7頁

 註50 『地球の歩き方 2018〜19年版 南アフリカ』74頁

 入植励行については東インドよりも気候的にヨーロッパ人に適していて居留民の死亡率が低いということで会社を退職した人を落ち着かせて開発にあたらせるという意図もあったという(註51)が、1664年には植民地史上初の農業不況が起こっている。自由市民の「自由」は同時期の北アメリカでイギリス領の領主植民地(北米のイギリス領13植民地のひとつ)として発足したメリーランドの入植者に与えられたそれよりもはるかに乏しいもので、自由市民にいわせれば生活は貧しく儲ける機会も乏しい、それならばと金山を漁る探検隊が17世紀の間に12次にも渡って送り出されたがどれも空振りに終わる始末である(註52)。機構的にもケープ植民地というのは本国とバタビアと現地のケープ当局という3つの指揮系統に引き回されて独自の発展を遂げられないでいたともいう(註53)。自然環境面では開拓地の周囲にはライオンが彷徨き、死人が出ても埋葬する前にハイエナに食われてしまったという話も伝えられている(註54)。しかし現地民相手の戦いなら植民地側の優位は揺るがない。1673〜77年に断続的に行われたケープ半島の北の地域のコイコイ人との戦争もオランダ側の勝利となる(註55)。この地域のコイコイの首長社会は崩壊して個々人や家族ごとに白人自由市民に仕えるようになり、奴隷とは違うカテゴリで建前上は自由身分であったというが、実際の扱いは奴隷と同じであった(註56)

 註51 科野孝蔵著『オランダ東インド会社の歴史』79頁

 註52 C・W・デ・キーウィト著 野口建彦、野口知彦訳『南アフリカ社会経済史』6〜7頁

 註53 大熊真著『アフリカ分割史』12頁

 註54 E・エバンズ・プリチャード総監修 日本語版総監修梅棹忠夫 第9巻監修田中二郎『世界の民族9 アフリカ南部・マダガスカル』63頁

 註55 レナード・トンプソン著 宮本正興、吉國恒雄、峯陽一、鶴見直城訳『南アフリカの歴史(最新版)』97頁

 註56 レナード・トンプソン著 宮本正興、吉國恒雄、峯陽一、鶴見直城訳『南アフリカの歴史(最新版)』97頁

 制度面では1672年にケープ植民地の総責任者が「長官」から「総督」に昇格、1685年にそれまで4名だった政務委員会が8名に増枠された(註57)。去る1656年には政務委員官から司法機能が分離して高等裁判所となっていたが、植民地の発展に合わせて普通裁判所が設置されて民事事件を担当し高等裁判所への控訴を認めるべきこと、後者の役員には当初から市民1名、後には役員の定員10名のうち2名を市民とすることが決められた。1689年には会社の財務を検査・報告し行政・司法事務をも監視する会計監査官が設置された。こういった改革は総督だけではなく会社理事会から時々視察に寄越されてくる「弁務官」によってもなされている。裁判所で用いられる法例は本国のローマン・ダッチ法、ケープの会社の布告、バタビアの参事会の法令が入り混じりである。経済関係では既に見たように寄港船舶に供給する穀物や野菜を市民が栽培する体制が整って来ていたものの食肉に関しては会社の独占事業として地元民との交易で入手する決まりだったのだが、それでは十分の量を得られないので1699年には市民と地元民との直接取引が認められた(註58)

 註57 以下この段落は吉田賢吉著『南阿聯邦史』65〜66、73、85頁による。

 註58 ただし吉田賢吉著『南阿聯邦史』41頁の記述では1657年の最初の自由市民は牛取引を認められていた(ただし向こう12年間の免税特権と引き換えに牛の10の1を会社に納入する義務を負ったという)と読めるのだが、その後会社の方針が変わったということなのであろうか。また宮本正興著「オランダ東インド会社の時代」松田素二編『新書アフリカ史』も357頁で1657年の自由市民誕生を解説するくだりで「彼らは(中略)20エーカーの土地をもらい、会社に現地住民との牛の自由な取引を認めさせた」とある。

 新規の移民招致についても改革がなされる。1679〜99年にケープ総督をつとめたシモン・ファン・デル・ステルは本国からの移民費用の会社負担を導入、おかげで植民地の白人人口は林晃史氏によると1672年の64名から1708年の1441名に増加した(註59)。宮本正興氏によると18世紀初頭のケープの住民は会社の従業員が約700名と入植者が約1600名、奴隷と地元の牧畜民が約1100名という(註60)。トンプソンによると移民費用無料キャンペーンが終了した1707年の入植者は男女と子供を合わせて約2000名、他に会社の従業員が約700名を数え、1679年までケープ半島に限定されていた入植地は同年テーブル湾の東方50キロ弱の「ステレンボッシュ」へと拡大したのを皮切りに1713年にはケープタウンから北は80キロ、東は56キロの範囲に拡大した(註61)。シモン・ファン・デル・ステル総督の名に因むステレンボッシュはケープタウンに次いで南アフリカで2番目に古い町として建設され1683年には30家族の入植者がケープタウン全体の数ヶ月分のパンを賄うに足る小麦を産出していたといい、同年には小学校が、その3年後には教会もオープンした(註62)。ついでに後年の南アフリカ海軍の基地となった港町「サイモンズタウン」がケープタウンの南にひらかれたのは1687年、これもシモン・ファン・デル・ステル総督の「シモン」に因む地名である(註63)

 註59 林晃史著「南部アフリカ」 星昭、林晃史著『世界現代史13 アフリカ現代史1 総説・南アフリカ』57〜58頁

 註60 宮本正興著「オランダ東インド会社の時代」松田素二編『新書アフリカ史』360頁。会社の人間のことは資料によって「従業員」と書いたり「社員」と書いたり「官吏」とあったりするが、本稿ではどれも同じものと理解しておく。

 註61 レナード・トンプソン著 宮本正興、吉國恒雄、峯陽一、鶴見直城訳『南アフリカの歴史(最新版)』92、97頁

 註62 宮本正興著「オランダ東インド会社の時代」松田素二編『新書アフリカ史』360頁 『地球の歩き方 2018〜19年版 南アフリカ』104頁

 註63 『地球の歩き方 2018〜19年版 南アフリカ』84頁 デジタル大辞泉「サイモンズタウン」

   アフリカーナーとカラードの創成  (目次に戻る)

 その間の1688〜1700年には約200名の「ユグノー」が入植して来た(註64)。ユグノーとはフランスのカルヴァン派新教徒のことで、1685年にルイ14世国王が発した「フォンテーヌブローの勅令」で信仰の自由を奪われてオランダ(こちらの宗教界の主流派もカルヴァン派新教)に亡命してきた人々の一部が更に南アフリカまでやって来たのである。吉田賢吉氏によると移民費用会社負担キャンペーンはユグノー招致(本国の理事会がユグノーに誘いをかけた。その多くが亡命地オランダで困窮していたという)に合わせてなされたもののようで、より詳しくいうとケープまでの船賃無料で到着後は5年間の定住義務があるがその後は(自費で)帰国可、土地・資本・農具・種子等は会社が貸与することとなっていた(註65)。トンプソンによると会社は彼らを他の入植民の間に分散させたため、一世代も経たないうちにフランス語ではなくオランダ語を話すようになったという(註66)が、峯陽一氏によると彼らは「フランシュフーク」という街を拠点として周囲にワイン作りの技術を伝えたといい、やはり周囲に同化してオランダ語を話すようにはなったが、いま現在の南アフリカ共和国の「アフリカーナー(またの名を「ボーア人」。詳しくは後述)」のエリートにはフランス風の名前を持つ人が少なくないという(註67)。例えばド・ブレシー、ドュ・トワ、フーシェ等々(註68)。デ・キーウィトによるとユグノーたちは当初こそ彼らを「オランダ化しようとする企て」に抵抗してフランス語に執着していたがそれも時間の問題、やがて「言葉こそ違え、2つのグループは信仰心と生活習慣によって、次第に緊密さを増していった。2世代を経ずして、2つのグループは次第にまとまっていき、1つになった」という(註69)。吉田賢吉氏によるとユグノーはやはり会社の方針でひとかためにはせずにオランダ人の間に割り込ませて主にフランシュフークとあと「ドラーケンスタイン」という地域に定住させられたといい、言語面での軋轢こそあったものの最早フランスもパリも過去の夢、「ケープこそ永遠にわれらの故郷であるという感じ」で(オランダ滞在中は貧乏していたとはいえ)元々は中産階級の出身であった(ユグノーにはフランスで手工業者や自営農民、小商人だった者が多い)こととて「南阿の白人に新鮮な血液を齎し、自由独立を熱望する精神、揺ぎなき信仰、燃ゆるが如き愛国心を植えつけ、産業に於て優秀な技術と弛みなき勤勉さを教え、また芸術殊に建築方面に美麗なる様式を移入したことなど後世に及ぼした影響は蓋し大なるものがある」とする(註70)

 註64 星昭、林晃史著『世界現代史13 アフリカ現代史1 総説・南アフリカ』57〜58頁 峯陽一著『南アフリカ 「虹の国」への歩み』61頁

 註65 吉田賢吉著『南阿聯邦史』56頁。移民費用会社負担キャンペーンはあるいはこれ以前からあったかもしれないが古田氏の記述(あるいは筆者の読解力)がやや曖昧で筆者にはちょっとわかりかねる。

 註66 レナード・トンプソン著 宮本正興、吉國恒雄、峯陽一、鶴見直城訳『南アフリカの歴史(最新版)』93頁

 註67 峯陽一著「「白いアフリカ人」の誕生 アフリカーナー社会の形成と大移動」『南アフリカを知るための60章』第2章 峯陽一著『南アフリカ 「虹の国」への歩み』61頁

 註68 E・エバンズ・プリチャード総監修 日本語版総監修梅棹忠夫 第9巻監修田中二郎『世界の民族9 アフリカ南部・マダガスカル』63〜64頁

 註69 C・W・デ・キーウィト著 野口建彦、野口知彦訳『南アフリカ社会経済史』7〜8頁

 註70 吉田賢吉著『南阿聯邦史』57〜58頁

 ということでユグノーの信仰は現地のオランダ側の教会に多大の影響を与え、またワインも今現在のケープ地方の特産品となっている(註71)。ジョン・ガンサーに言わせればユグノーが「南アフリカ連邦において果たした役割というものは、いくら大きく評価しても大き過ぎるということはない」「ユグノーは伝統的に、いわば母国オランダ産小麦粉の中のパン種であり、イースト菌であった」といい、20世紀のアフリカーナーを代表する軍人・政治家ヤン・スマッツ(ボーア戦争中はボーア軍の有力指揮官だったが1910年成立の南アフリカ連邦の首相を2度つとめて第一次世界大戦時には英国戦時内閣の閣僚、国際連盟と国際連合の双方の創設に尽力した)の母親もユグノー系の人であったという(註72)。岡倉登志氏に言わせるならばユグノー独自の生活習慣を守り続けた少数派もいた筈で、1995年になってもラグビーのチームに「フランス系の選手」という区分が存在したという(註73)。ユグノーの拠点の「フランシュフーク」とは「フランス人地区」から来ており、ただワイン造り自体は既に1659年にヤン・ファン・リーベックが始めていたという(註74)

 註71 峯陽一著『南アフリカ 「虹の国」への歩み』61頁

 註72 ジョン・ガンサー著 土屋哲訳『アフリカの内幕2』32〜33頁

 註73 岡倉登志著『ボーア戦争』14頁。この本は山川出版社から2003年に刊行だが、同じ著者が1980年に教育社から刊行した『ボーア戦争 金とダイヤと帝国主義』という本(筆者の手元にあるのは1987年新装第二刷とあり、新装第一刷は1986年だったようである)があって紛らわしいが、本稿では前者を単に『ボーア戦争』、後者を『ボーア戦争 金とダイヤと帝国主義』と表記する。

 註74 『地球の歩き方 2018〜19年版 南アフリカ』102、112頁

 むろん数の上ではフランス系よりもオランダ系の方が多い。オランダ本国では商業貴族に土地が集中していたため、そこから締め出された農民が他所への移住を欲していた(註75)のだが、ケープにやってきた入植者たちは池谷和信氏によるとコイコイとの通婚は好まず、白人集団の中では東インド会社の役員と区別して「ボーア」と呼ばれた(註76)。「ボーア」というのは英語の発音でオランダ語だと「ブール」、日本語に訳すと「農民」である。いま現在の南アフリカ共和国での彼らの呼称「アフリカーナー」を改めて定義するとこれは南アフリカにおける非イギリス系の白人の総称にしてオランダ系のみならずユグノーやドイツ人等の子孫を含み、オランダ語から派生した「アフリカーンス語」という言語を用いる人々である(註77)。峯陽一氏によると18世紀にはアフリカーナーといえばアフリカ人の奴隷・元奴隷を指していたのが19世紀に入ってから白人をそう呼ぶようになり、当初はイギリス系を含むことすらあったのが、1870年代になってやはりユグノー系を中心とする教会指導層がアフリカーンス語の聖書の普及を開始、「オランダ語の方言」ではなく独立した言語としてのアフリカーンス語を話す白人のことをアフリカーナーと呼ぶようになったのだという(註78)。ただ岡倉登志氏はこの「アフリカーナー・ナショナリズム」がアパルトヘイトの体制化と不可分であったこととて「アフリカーナー」よりも「ボーア」の方が呼称として無難であると論じている(註79)。それでも近年の南アフリカ関係の書籍では「アフリカーナー」の方が一般的であると思われることとて、本稿ではあまり深く考えずにどちらの呼称も併記していくつもりである。それと「非イギリス系の“白人”」とは言っても現代(20世紀)のアフリカーナーの遺伝子の7%は非白人に由来するという(註80)

 註75 池谷和信著「南部アフリカ」川田順造編『新版世界各国史10 アフリカ史』326頁

 註76 池谷和信著「南部アフリカ」川田順造編『新版世界各国史10 アフリカ史』326頁。「東インド会社の“役員”と区別して」ということは一般の社員も「ボーア人」と呼ばれたのであろうか。

 註77 ジョン・ガンサー著 土屋哲訳『アフリカの内幕2』5頁

 註78 峯陽一著『南アフリカ 「虹の国」への歩み』114〜115頁

 註79 岡倉登志著『ボーア戦争』14頁

 註80 峯陽一著『南アフリカ 「虹の国」への歩み』65頁

 少々(かなり)古い本からの引用で恐縮だがガンザーの『アフリカの内幕』(1950年代のアフリカ諸地域の克明なルポ)によるならば20世紀の南アフリカの白人社会において英国系の間で「オランダ人」という語が使われることがあってもアフリカーナー自身は自分たちのことを「ダッチメン」とか「ネザーランダーズ」とか「ホランダーズ」とかとは明確に区別していて、即ち「アフリカーナーは、宗教を除いてはその母国オランダと直接的な連帯は全然持たない。ヨハネスブルクのアフリカーン語をしゃべる市民は、遠い祖先にオランダ人がいるにしても(中略)決してオランダ人ではないのだ」(註81)。もっと新しい本でも峯陽一氏などが「21世紀の今、ヨーロッパに帰ろうと思っても、そこには親戚もいないし、言葉も通じない」としている(註82)。話をオランダ東インド会社領時代に戻して吉田賢吉氏の引くシールによると1652〜1795年の間に移住してきたのは男性1526名に女性449名、そのうちオランダ人は男性494名に女性322名、フランス人が男性74名に女性72名、ドイツ人(ドイツ系スイスを含む)が男性806名に女性48名、その他が男性152名に女性7名で、また同じくホーフメイヤーによると18世紀末の人口比率ではオランダ人が約50%、フランス人が約27%、ドイツ人が約17%になるという(註83)。それとは別次元の住民構成についていえば1711年以降自由市民よりも奴隷の方が多くなり(註84)、その一方で1713年にオランダ船が持ち込んだ天然痘がコイコイ人の間に猛威をふるっていた(註85)。奴隷の性別は男性が女性の数倍もいて彼らだけでは「再生産」は難しいため継続的な輸入で増大していた(註86)

 註81 ジョン・ガンサー著 土屋哲訳『アフリカの内幕2』5頁

 註82 峯陽一著「「白いアフリカ人」の誕生 アフリカーナー社会の形成と大移動」『南アフリカを知るための60章』第2章

 註83 吉田賢吉著『南阿聯邦史』71〜72頁。ということは前述のユグノーの入植者数「200名」というのは間違いなのか他にも統計資料があるのか、よく分からない。

 註84 レナード・トンプソン著 宮本正興、吉國恒雄、峯陽一、鶴見直城訳『南アフリカの歴史(最新版)』94頁

 註85 レナード・トンプソン著 宮本正興、吉國恒雄、峯陽一、鶴見直城訳『南アフリカの歴史(最新版)』98頁

 註86 レナード・トンプソン著 宮本正興、吉國恒雄、峯陽一、鶴見直城訳『南アフリカの歴史(最新版)』94頁

 ところで入植者たちはコイコイとの通婚を好まなかったと書いたが、現実には現代アフリカーナーの遺伝子に非白人のそれが混じっていることも既に述べた通り、そしてその後の南アフリカにおいて「カラード」と総称される集団が存在することもよく知られた話である。このカラードというのも時期によってその意味が変動する語ではある(註87)のだがとりあえずはコイコイ人・奴隷とヨーロッパ人との混血によって形成された集団をその起源とする(註88)。実はファン・リーベックは白人と現地民との結婚を推奨していて、侍女・通訳として使っていたコイコイ女性エヴァと結婚したファン・メールホフという人がその初例(ファン・リーベックからの引出物として「外科医」の称号を贈られた)、他にもヤン・ワルターという男がインド出身のカザリンという女性と結婚したというから、「カラード」は最初期から白人と黒人以外の血まで含んだ混淆として形成されたことになる(註89)。また一方でファン・リーベックは現地民を「臭い黒犬ども」と呼んでいたともいう(註90)のだが。また自由市民の父親と奴隷の母親の間に生まれた子は奴隷とされたが、女の子の場合は成長後に妾になる者が多くて奴隷身分から解放されて正妻になることもあり、こんな調子でアフリカーナーの遺伝子に非白人系のそれが交えられていったということである(註91)

 註87 海野るみ著「「カラード」の歴史 歴史がつくった「カラード」」『南アフリカを知るための60章』第8章

 註88 峯陽一著『南アフリカ 「虹の国」への歩み』63頁

 註89 吉田賢吉著『南阿聯邦史』47頁

 註90 C・W・デ・キーウィト著 野口建彦、野口知彦訳『南アフリカ社会経済史』21頁

 註91 レナード・トンプソン著 宮本正興、吉國恒雄、峯陽一、鶴見直城訳『南アフリカの歴史(最新版)』108頁

 峯陽一氏によると特に農村部では白人女性の割合が低すぎ、初期にはオランダ本国から孤児の少女の群れが送り込まれたこともあったが焼け石に水、ということで白人男性がそれぞれに使役するコイコイないし奴隷の女性に手を出したり、会社がケープタウンに設置した慰安所に入れられていた奴隷女性との間に子をなしたりしたということであるという(註92)。慰安所というのはトンプソンによると会社の収入を増やすために船乗りたちへの買春をさせられるものである(註93)。そんなこんなで「グリカ」や「コラナ」と称される混血集団が形成され、しかしやっぱりそれは面白くないというので1707年になって会社の命令で白人男性と「土人女子」との結婚が禁止された(白人とカラードの結婚は許された)のだという(註94)。ロスによると「グリカ」とはオランダ語を話すキリスト教徒として白人と同じ法的地位を求めた人々、「コナラ」は同じ境遇ではあったがそういった要求はしなかった人々であった(註95)。また峯陽一氏によるとグリカというのは「白人農民に追い立てられたカラード上層農民、植民地の拡大によって行き場を失ったコイコイ人やサン人、犯罪人を親にもつ白人市民、逃亡奴隷」等を起源としていてケープ植民地から北東方のオレンジ川・ヴァール川の合流点付近に寄り集まるようになった集団なのだという(註96)。その他のルーツを持つ人々としては1723年と45年に東南アジアのジャワ方面で発生した戦乱で東インド会社に捕らえられた者たちの一部がケープに流刑され、更にその前後の時期にジャワに大量流入して社会問題を引き起こしていた華僑の一部がまたケープに農業労働者として投入されるという試みがなされている(註97)

 註92 峯陽一著『南アフリカ 「虹の国」への歩み』62〜63頁

 註93 レナード・トンプソン著 宮本正興、吉國恒雄、峯陽一、鶴見直城訳『南アフリカの歴史(最新版)』105頁

 註94 宮本正興著「オランダ東インド会社の時代」松田素二編『新書アフリカ史』358頁 吉田賢吉著『南阿聯邦史』71頁

 註95 ロバート・ロス著 石鎚優訳『南アフリカの歴史』32頁

 註96 峯陽一著『南アフリカ 「虹の国」への歩み』64頁

 註97 永積昭著『オランダ東インド会社』175、197〜198、202頁

   貧富と不正  (目次に戻る)

 様々なタイプの住民が出揃ってきたケープ社会の経済状況はどうであったか。筆者が揃えた参考文献では刊行年が新しい本ではケープ植民地の順調な発展の様子を綴り、古い本ではどうにも芳しくなかった、もっと言えば悲惨な様相を呈していたと書き立てるという傾向の違いが明らかにあるのであるが、とりあえず前者に属する峯陽一氏は「植民地は実力重視の社会であり、貧しい階層の出身でも成功することができた。移民が増えるにつれて、ケープタウンは、オランダ風の建物が立ち並ぶ活気に満ちた港町に成長していく」と述べ(註98)、後者の代表格たるデ・キーウィトによると18世紀に入るころになってもケープ植民地は借金地獄で入植者の多くは貧乏、植民地の本来の任務であった寄港船(年間40隻ほど)への補給も不十分、施しに頼って暮らす者もいたという(註99)。また同氏によるとワインはフランス産やポルトガル産に対抗出来る程ではなくて肉も不味くて高いと文句を叩かれ、小麦も割高なものしか作れない、オリーブ、絹、煙草と色々試してみたが失敗という有様で、これは会社が南アフリカではなくヨーロッパの気候・条件に適した入植法を強要したせいであったという(註100)。もっとデ・キーウィトは後述する「トレック・ボーア」の辺境生活に関する解説を綴った後にケープタウンの周辺地域では活気があったと述べているのだが、それについてはまた後述するとして吉田賢吉氏もケープにおける小麦(昔は自給自足用も満たせなかったのが1685年頃には輸出可能ぐらいにはなった)の生産費は他国産の2倍、ワインはバタビアの連中に不味くて飲めた代物ではないとこきおろされ、米や砂糖、ホップ等々も成績悪く、植林もやってみたが乱伐し過ぎて長続きしない、ただ牛は儲かったとする(註101)。トンプソンによると18世紀初頭頃のケープに寄港する東インド会社の船舶はワインや肉、野菜等を効果的に補給することが出来るようになっていて、更にケープタウンの街では石造りで美しくオランダ風にこざっぱりした家が素晴らしく増加していた、農業地帯でも見事な家屋敷が増えてワインや穀物の蓄積が増えているとの1702年のデンマーク人来訪者の証言を引用し、ただし白人の間で貴族風の生活を送る総督と極小数の比較的豊かな商人・農民がいる一方で、貧困階級の白人が増大しつつあったと述べていてる(註102)

 註98 峯陽一著『南アフリカ 「虹の国」への歩み』61頁

 註99 C・W・デ・キーウィト著 野口建彦、野口知彦訳『南アフリカ社会経済史』6頁

 註100 C・W・デ・キーウィト著 野口建彦、野口知彦訳『南アフリカ社会経済史』10〜11頁

 註101 吉田賢吉著『南阿聯邦史』58〜60頁

 註102 レナード・トンプソン著 宮本正興、吉國恒雄、峯陽一、鶴見直城訳『南アフリカの歴史(最新版)』98〜100頁

 デ・キーヴィトによっても前述のシモン・ファン・デル・ステル総督とその息子で父の退任後1707年まで総督をつとめたウィレム・アドリアーヌが農業科学を導入して近代的な葡萄畑を作付けワインの品質を向上させるといった事業を行い、ただしウィレム・アドリアーヌの代に父や兄弟と共に私的な蓄財を追求して植民地の農地の3分の1を買い占め小麦・畜牛・ワイン栽培・奴隷数においてそれぞれ植民地最大規模の企業体をこしらえたという(註103)。吉田賢吉氏によると「買った」ではなく会社派遣の弁務官に取り入ってフェルゲレーゲンという土地の農場を「貰い受けた」で、会社幹部の会計監査官や牧師、守備隊長もまた広大な土地を貰い受けて「彼等の私有地だけでケープの全耕地の3分の1に達した」というが「彼等」というのがウィレム・アドリアーヌを含むのかははっきりせず、貰い受けた土地以外に買った土地があったのかもしれないが吉田氏の記述では判然としない(註104)。それから寄港船舶に供給する肉は会社の指定商人が独占的に扱っていて会社がそこから巨額の特許料を取り立て、一般市民が船員に売る(ことを許可されている)品物も(出来るだけ吹っ掛けろと総督に言われていたので)市価の4〜5倍したという(註105)

 註103 C・W・デ・キーウィト著 野口建彦、野口知彦訳『南アフリカ社会経済史』8頁

 註104 吉田賢吉著『南阿聯邦史』62〜63頁

 註105 吉田賢吉著『南阿聯邦史』59〜60頁

 吉田賢吉氏によると諸々の殖産事業も結局のところ将来の見込みのあるものはひとつもないので会社が利益を上げるには商業上の特許料や手数料に頼る他なく、社員たちも給料が上がらなかったので各種の役得や密輸に精を出していたという(註106)。更に海運業をも押さえていたウィレム・アドリアーヌは1705年、トンプソンによるならば今度はワインの認可権を修正してもっと儲けようとしたところで自由市民63名がこれに抗議する誓願書を本国に送付するとの事件が勃発、またこの抗議に反対する官吏240名の署名が集まったが、東インド会社上層部は総督と他3名の上級官吏を免職して植民地内の彼らの財産を没収、今後は官吏の土地の所有・取引を禁止するとの裁定をくだした(註107)。吉田賢吉氏によればこの騒動の契機は肉の取引に関するもので、63名の署名を集めたのはアダム・タスというステレンボッシュの顔役、その署名に反対する署名はウィレム・アドリアーヌがケープの市民を官邸に招待して大宴会を催して取り付けたもので、しかして後にアダム・タスを逮捕・本国送還に処するやステレンボッシュの市民たちが一揆を起こし、これは鎮圧されたものの本国でアダム・タスの陳情に耳を貸した(かねてケープのあれこれを臭いと睨んでいた)会社上層部の裁きとなったという(註108)。密輸や公金横領による蓄財なら本国でも他所の植民地でも珍しくなかったとはいえ、ウィレム・アドリアーヌの過ちは入植者たちに犠牲を強いようとしたことであって、つまり入植者側の抗議によって山が動いたこの事件の後の南アフリカはデ・キーウィトに言わせればもはや本国の手には「全面的に委ねられなくなっていた。これ以後、オランダではなく、南アフリカが入植者たちの故国となり、そうした人々の努力と熱望が、この地の発展に影響をもたら」すようになっていったという(註109)

 註106 吉田賢吉著『南阿聯邦史』61〜62頁

 註107 レナード・トンプソン著 宮本正興、吉國恒雄、峯陽一、鶴見直城訳『南アフリカの歴史(最新版)』102〜103頁

 註108 吉田賢吉著『南阿聯邦史』63〜64頁

 註109 C・W・デ・キーウィト著 野口建彦、野口知彦訳『南アフリカ社会経済史』8〜9頁

 シモン・ファン・デル・ステル及びウィレム・アドリアーヌの総督父子の代の他の出来事としては、父の代の1689年にケープからずっと東方のポート・ナタール(現在のダーバン)の地に探検船を送って付近のアフリカ人の首長から同地を買い取ったもののその船が帰途に難破、乗員はサン人に襲撃されて買取に関する書類も紛失してしまい、子の代に改めてポート・ナタールに探検隊を送って現地の所有権を確認しようとしたが相手の首長は既に故人、その息子の「親父がしたことは自分に何の関係もない」で終了という出来事があった(註110)。1702年には別の一隊が陸路で狩猟・放牧のためにケープタウンからはるか遠隔地まで来たところでアフリカ人と接触している(註111)。ただし白人とアフリカ人の本格的な接触はもう少し後のことである。それとオランダ勢力はケープ植民地建設の50年以上前の1598年にインド洋のモーリシャス諸島に補給地を建設していて、ここには産物としては黒檀があったのだが、シモン総督(彼はその父がモーリシャス総督をしていた時にインド人女性との間に出来た子供だったという)はあまり役に立たないとして同地の放棄を主張、逆にウィレム・アドリアーヌ総督は維持を主張して黒檀を輸出させ、その頃同地を狙っていたフランスの進出を阻んでいた、のだが、ウィレム・アドリアーヌ免職後の1709年(資料によっては1710年)に放棄決定、1715年には結局フランスの領有に帰してしまっている(註112)

 註110 吉田賢吉著『南阿聯邦史』64頁

 註111 C・W・デ・キーウィト著 野口建彦、野口知彦訳『南アフリカ社会経済史』11〜12頁

 註112 吉田賢吉著『南阿聯邦史』54、64頁 山川出版社編集部編『世界各国便覧』110頁

 ところで1707年に移民費用無料キャンペーンが終了したのは吉田賢吉氏によるとウィレム・アドリアーヌ騒動を見た会社上層部がこれ以上の移民推奨に疑問を持ったからだといい、その後ケープ側から新規の移民増と住民による輸出の自由の容認による植民地の発展の必要が論じられたがやはり会社側の同意を得られず、1750年頃に今度は会社側がこの件を検討した時にはケープ側が「この貧弱なケープは精々5000人位を養うのが関の山である。だからこれ以上欧人が移住して来られてはケープの貧窮を激化するばかりだ」として反対、ということで18世紀を通じてのケープの人口増は概ね自然増加によるものだったという(註113)。オランダ女性は一般に頑健で多産、ひとりで46人も産んだという記録もあるそうな(註114)。しかしお盛んなのは結構なこととしても18世紀中頃になってもケープ入港船舶が年平均70隻程度ではそれとの商売だけでは経済的に立ち行ける訳もなく輸出出来るものもろくにない、それでいて農具や何やらの必需品は高い送料を払って輸入しなければならないで、おまけにケープの会社組織の会計制度もなっていなかったところに東インド会社本体もその頃から左前になってきた(註115)。というのは18世紀のヨーロッパではオランダ東インド会社の主力商品だった香辛料にかわってアジア産の綿布・茶・コーヒーが好まれるようになっていたからで、会社の経営は1730年代には赤字に転落してしまうのである(註116)

 註113 吉田賢吉著『南阿聯邦史』70〜71頁

 註114 吉田賢吉著『南阿聯邦史』72頁

 註115 吉田賢吉著『南阿聯邦史』67〜70頁

 註116 佐藤弘幸著「オランダ」森田安一編『新版世界各国史14 スイス・ベネルクス史』284頁

   トレック・ボーア  (目次に戻る)

 デ・キーウィトは18世紀のケープ植民地について同時期の北アメリカと比べて新規入植者は殆どなくて本国側でも増やす努力を全くせずに「生殖力によって人口の増大をはかりながら」、農業は生産過剰と凶作が交互に繰り返され、貿易は沈滞、製造業は存在しないので「富裕な人間が存在せず、公共心も乏しかった」「人知れず、沈滞状態の中で生活が営まれていた」と言いたい放題に言った上で、しかしケープタウンの当局の直接支配(会社の規制)からはみ出した辺境地帯において利益(商品作物の栽培等)よりも自給自足を重視しての狩猟・牧畜メインの生活を送る辺境開拓民が増大しつつあり、その中には「どの辺境地帯にも見られるごろつきや怠惰な連中」もいたが、その「大半はフランスとオランダの血を引く、最も優れた資質を持つ人々」であり、彼らは「内陸部の貧窮を一つの生活様式および自由の拠り所として受け入れていた」と述べている(註117)。またトンプソンによると18世紀に入る頃にはそのほぼ全てが副業として牧畜を手がけるようになっていた白人農民の次男三男や新規の農業参入のための資金の無い連中(奴隷経済が彼らの就業を阻害していた)が牧畜や狩猟専業で暮らしを立てるようになっていて、こういった連中が「トレック・ボーア(半遊牧型農民)」の名で知られるようになったという(註118)。峯陽一氏はこの動向(トレック・ボーアというのはつまりケープタウンで成功出来なかった人々でありケープタウン地域の人々よりも格段に貧しかったと述べつつ)を白人農民の「コイコイ化」と評している(註119)。ケープ植民地の辺境、つまりケープタウン周辺の海岸部から内陸部へと入った地域は降雨量乏しく小麦も葡萄も育たないが乾燥した草地や雑木の藪が広がっており狩猟・牧畜には最適、高地を成していて夏はさほど暑くなく冬はさほど寒くない、目立った害虫もいなければ風土病も特にない、人の移動を妨げるような大河も密林もない、アフリカという「比類ない熱帯性の大陸にありながら、南アフリカは唯一、最大の、気候温暖な地域を擁している」「南アフリカの気候は頑健で活動的な人々を扶養するのに十分適していた」(註120)

 註117 C・W・デ・キーウィト著 野口建彦、野口知彦訳『南アフリカ社会経済史』10〜11頁

 註118 レナード・トンプソン著 宮本正興、吉國恒雄、峯陽一、鶴見直城訳『南アフリカの歴史(最新版)』109頁

 註119 峯陽一著『南アフリカ 「虹の国」への歩み』63〜64頁

 註120 C・W・デ・キーウィト著 野口建彦、野口知彦訳『南アフリカ社会経済史』12頁

 デ・キーウィトによるならば会社の本来の方針としては入植地の拡大は統制困難をもたらすこととてこれを歓迎しておらず、紛争の種を少なくするためにはコイコイ人との接触は最小限にすべきと指示していた(註121)。果たしてトレック・ボーアが入り込んだ牧畜適地にはコイコイ人がいる訳だがトンプソンによるとコイコイ人たちはケープ半島周辺部の同胞たちの惨状に落胆していたところに前記の天然痘で打撃を受けており、会社側は肉や乳製品を供給してくれると見込んでトレック・ボーアたちに農場地を貸し付けるという名目でその辺境地における土地占有を認める形で彼らの活動を容認することとした(註122)。「農場」と言ってもそこで主に営まれているのは牧畜や狩猟であるし、それに結局のところトレック・ボーアたちは狩猟・戦闘用の武器弾薬、茶・コーヒー・砂糖・煙草等を得るために肉やバターをケープタウンから回ってくる商人に売った以外はなるべく自力で賄おうとしたため「彼らの社会は、完全とはいわぬまでも相当程度まで、市場経済の周縁部にできた非資本主義的自給社会」となったという。ただし自分(白人)たちだけでなんでもこなそうというのでは全然なく、やっぱり奴隷やら行く先々で支配下に置いた先住民やらを働かせるのが習い性になっていて、特にコイコイ人(その伝統的生業からしてトレック・ボーアの役に立ち得る)に少数の家畜の放牧を認めるのと引き換えに様々な仕事を委ねたのであって、サン人の集団(しばしばトレック・ボーアの家畜を略奪しに現れた)と衝突した場合には大人は皆殺し、子供は戦利品として分配した。もちろんコイコイ人とサン人の連合で白人にゲリラ戦を挑んで来る局面もあったが、基本的にコイコイ人には白人側に加担してサン人攻撃に同行する者が少なくなく、吉田賢吉氏の紹介する「ボーア人の述懐」によるとその後のケープの歴史の流れの中で「純粋」なコイコイ人が消えていったのは「ボーア人にとって非常な損失であった」のだそうである。

 註121 C・W・デ・キーウィト著 野口建彦、野口知彦訳『南アフリカ社会経済史』9頁

 註122 以下この段落と次の段落はレナード・トンプソン著 宮本正興、吉國恒雄、峯陽一、鶴見直城訳『南アフリカの歴史(最新版)』110〜116頁、ロバート・ロス著 石鎚優訳『南アフリカの歴史』28、31頁、吉田賢吉著『南阿聯邦史』45頁による。

 行政的にはケープ植民地全体のうちにケープタウンを含む「ケープ地区」と「ステレンボッシュ」「スウェレンダム」「グラーフ・ライネト」の計4地区が形成されて……、ステレンボッシュは前述のようにテーブル湾の東50キロに位置する、南アフリカでケープタウンに次いで2番目に古い町というか当時は村だったが1745年まではここにケープタウンから最遠の郵便局があり、その年にケープタウンの東200キロ地点のスウェレンダム(長いこと家が4軒しかなかった)に郵便局開設、そして1786年にその頃のトレック・ボーアの北東方面における進出限界点近くのグラーフ・ライネトに次の郵便局が設けられた……、ケープタウン以外の3拠点を本部とする諸地区は行政的には「ラントドロスト(地方行政長)」が統括することとなったがラントドロストの下には1名の事務員と1〜2名の兵士以外には有給の者はいないという簡素な機構で、地区事務所の準備するリストから政府が6名づつ任命する有力トレック・ボーアの「ヘームラート(地方参議)」が無償でこれに協力、多少の民事裁判も管轄し、各地区の下の地域の法と秩序はラントドロストとヘームラートの任命によるこれも有力トレック・ボーアの「フェルトコルネット(行政役人)」がやはり無償で担当した。

 軍事面では「コマンド」がある。これは入植地の拡大につれて自由市民によって組織された自衛組織で、1715年に会社から正式の認可を得て武器弾薬も支給されたが給料はなく、事実上会社から独立して行動していた(註123)。会社の軍事力としてはまず傭兵が使われていたが機動力を欠いていて先住民との戦闘の役には立たず、その点でコマンドは白人側に協力するコイコイ人(平時は炊事や御者をつとめ有事には騎兵として戦闘に参加する。射撃や偵察に優れた特性を有した)を用いていて、同時に白人の志願者からなっていたことは後々の南アフリカの国防政策の基本となる「市民軍思想」の原点となったとされている(註124)

 註123 レナード・トンプソン著 宮本正興、吉國恒雄、峯陽一、鶴見直城訳『南アフリカの歴史(最新版)』114〜115、573頁の訳注9

 註124 片山正人著『南アフリカ独立戦争史』16〜17頁

 それにしてもデ・キーウィトによるとこのような入植地の拡張は無計画にして殆ど自由になされていて会社側はトレック・ボーア対象の「できもしない命令や実行できない威嚇を次々に発」するばかり、しっかりした管理組織を構築する能力も意志もない有様で現地ではしばしば無法に近い自由が横行、「牛の取引きや狩猟には許可証が必要」という法律があるにはあったがまるで守られなかったという(註125)。吉田賢吉氏によると1702年に45名の白人とお供のコイコイ人が辺境地での牛の確保のために揉め事を起こすといった事件があったために一旦取引を禁止、やがてまた解禁、かくするうちに牧畜を業とする者が増えて行ったのだという。前述したような「農場地(この地域で暮らすには沿岸部の農業の少なくとも50倍以上の土地が必要だった)の貸付け(建前としては入植者の居住地は全て東インド会社の所有地とされた)」が始まったのは1717年からで、わずかな賃貸料を払うのみで契約期限もなければ売却も譲渡も可、1732年以降は6000エーカー辺り年間約5ポンドの賃貸料を払うだけでいいということになり、入植者が各自6000〜1万エーカーの農場を持つのが慣いとなった。トレック・ボーアたちは広大な乾燥地帯での生活で母国の生活・経済習慣とはまるで違った遊牧民的な気風を身につけ「遊牧民特有の広い空間への欲求を持ち、牧畜の群れを見張り、食用の肉を求めて狩猟する馬上生活者の厳しさと勇気を持っていた。財産は牛と子・孫であり、子・孫は数多く生まれ、驚くほど丈夫に育った。その生活は彼らに不屈の目的、寡黙な忍耐力、そして、きわめて強烈な自尊心を与えた」。しかしその「不屈さは頑迷さに、忍耐力は革新への抵抗に、自尊心はよそ者への猜疑心や下位の者への蔑みへと変質」していくのだという。

 註125 以下この段落はC・W・デ・キーウィト著 野口建彦、野口知彦訳『南アフリカ社会経済史』12〜18頁、吉田賢吉著『南阿聯邦史』73頁による。

 ロスも内陸部の入植民と植民地政府の関係について同様のことを述べつつこの地域の白人人口が20〜30年ごとに倍増していったこと、牧畜からは肉・バター以外にも石鹸や獣脂を得ていたこと、狩猟を通じてこの地域に棲息していた膨大な草食動物を絶滅もしくは絶滅の危機に追い込んで生物の多様性を失わしめたとしている(註126)。同じくロスの解説する入植民の精神生活についてはトレック・ボーアもケープタウンの連中もキリスト教徒たることを強く意識し家庭生活においてキリスト教の教えを実践していたものの1786年まではケープ南西部にしか教会がなかったこととてミサに出席することは稀であったという(註127)。デ・キーウィトによればトレック・ボーアには「学校教育もなく、きちんとした牧師もいなかったため、彼らは聖書を徹底的に読み、旧約聖書から教訓を得ていた。旧約聖書は彼らの生活について信頼できる言葉で語り、彼ら自身や、信仰、生活習慣の正当性を語っていた」が、ヨーロッパからの後続の移民が無いこととて新しい啓蒙思想のようなものについては「ヨーロッパの一番辺鄙な片隅でさえ、この地よりは多くの情報に恵まれていた」のであった(註128)。トンプソンは18世紀末葉頃までの大抵の入植民は宗教に無関心だったとしている(註129)

 註126 ロバート・ロス著 石鎚優訳『南アフリカの歴史』31頁

 註127 ロバート・ロス著 石鎚優訳『南アフリカの歴史』31頁

 註128 C・W・デ・キーウィト著 野口建彦、野口知彦訳『南アフリカ社会経済史』18頁

 註129 レナード・トンプソン著 宮本正興、吉國恒雄、峯陽一、鶴見直城訳『南アフリカの歴史(最新版)』101〜102頁

 トンプソンの引くヘンドリク・スウェレングレベル(元総督の子)の1776年頃の証言によるとトレック・ボーアの住居は縦40フィートに横14〜15フィート、高さ4フィートの粘土壁に草葺の屋根、内部には仕切りがなくて戸は葦製のマット、粘土か牛糞で作った穴を暖炉にして煙突がわりの屋根の穴から煙を出す……、といったものに三世代が住んで、遠隔地の人々だと1年に1回ぐらいケープタウンの市場にバター1000ポンドと石鹸400ポンドの荷を運ぶのに(猛獣も出没する難路を行くので)少なくとも24頭の雄牛と2名のコイコイを連れて行く必要があったという(註130)。またトレック・ボーアたちはケープタウンやその周辺地域の自由市民よりも仲間うちの平等を尊重していたが、公職を利して仲間たちよりも利益を得ようとする者もいれば金も能力も意欲もない者、小作農(他人の家畜の世話で暮らす者)もおり(註131)、ただ住居については温暖な気候故に雨風を防げるものさえ作れれば良いと思われていたので、そこから貧富の差を識別するのは難しく、先住民と敵対するような時には堅い仲間意識で結ばれたが、それも長続きしなかったという(註132)。20世紀になっても南アフリカの(都市部は別として)田舎では零細農といえども隣の大農場主と平等、自主性を尊んで新しい農場を開く時にも隣家の煙の見えないところに拘るという伝統が続いていたのだそうだ(註133)

 註130 レナード・トンプソン著 宮本正興、吉國恒雄、峯陽一、鶴見直城訳『南アフリカの歴史(最新版)』112〜113頁

 註131 レナード・トンプソン著 宮本正興、吉國恒雄、峯陽一、鶴見直城訳『南アフリカの歴史(最新版)』113〜114頁

 註132 C・W・デ・キーウィト著 野口建彦、野口知彦訳『南アフリカ社会経済史』19〜20頁

 註133 E・エバンズ・プリチャード総監修 日本語版総監修梅棹忠夫 第9巻監修田中二郎『世界の民族9 アフリカ南部・マダガスカル』64〜65頁。この本は1979年刊行。

   奴隷経済の実際  (目次に戻る)

 内陸部のトレック・ボーア社会に限らずケープ植民地全体の社会・経済的な傾向はどうであったか。

 デ・キーウィトの引く東インド諸島の総督ファン・インホフの1743年の論評によるとケープのヨーロッパ人は自らの手を使って仕事をするのは堕落であると考え自分が人のために働くよりも自分のために人を働かせることを好んでいたといい、同時期の他の評論家たちも西インド諸島なら富のしるしであり繁栄の源泉である多数の奴隷はケープでは覇気のない経済生活の証であるとか、奴隷への依存こそが植民地の活力を阻喪させていたとか論じていたという……、デ・キーウィト自身の描写においても曰くこの時代の南アフリカ社会では奴隷やコイコイ人が家畜番や大工や洗濯の仕事をやってくれるので白人の若者は成人すると仕事よりも土地を探すのが常、ケープタウンの町で働いて出世するよりも農場を切り拓く方が簡単だった、なので後年のカナダやオーストラリア等においては「綿密な植民地計画の主力となった自作農民、労働者、手織り職人といった人々」をケープ植民地には「導入する余地もなかった」と散々な言いようである(註134)。吉田賢吉氏もファン・イムホフの論評「ケープを開拓するに当たって欧人のみを以て始め、しかも飢と貧乏に追われるから止むを得ず働かねばならぬと云った程度の人数の欧人を連れて来たならば事態はもっと良かったであろうと確信する。奴隷を輸入した結果一介の欧人が紳士になりすまし自分はちっとも働かないで他人から奉仕して貰うことを好むようになった、この植民地の農民の大多数は自らの手を以て働くことを恥とする農園主で真の意味に於ける農業者ではないのだ」を引用して「この奴隷の輸入に端を発する黒人労働の使用は奴隷制度が滅んだ後も長く南阿の産業構造に特異な性格を賦与することとなった」と述べ、またこれも吉田氏の引くファン・イムホフの論評によればケープの農業では数多の奴隷を使うことがかえって農場の負担になっていて、黒人の不熟練労働を使うことは他方で白人の熟練労働に対し過度の高賃金を払うことで相殺されてしまい、その白人熟練者なるものも欧州の不熟練労働者の仕事の半分も出来なかったのだという(註135)

 註134 C・W・デ・キーウィト著 野口建彦、野口知彦訳『南アフリカ社会経済史』22〜24頁

 註135 吉田賢吉著『南阿聯邦史』75〜76頁

 トンプソンも「貧しい白人階層」について「奴隷がいるために自分では肉体労働をしたがらないか、もしくはすることのできない、土地をもたない人びと」であったと述べ、しかもそういう連中が増加傾向にあったという(註136)。またデ・キーウィトによれば「人口だけ増大するにつれて、その社会内部に白人の特権階級が創り出され、過剰な数の奴隷と召使いに依存し、その労働は無駄に、非効率的に使われた」(註137)ということだが、トンプソンによればケープの奴隷は南北アメリカのプランテーションのような使われ方はされずに大勢の所有者の手元で少人数づつ使役されていて、自由市民の過半数が奴隷を所有し、最上級の官吏や一部の富裕農民を除けば大人数の奴隷を使う者は稀であったという(註138)。1775年頃までの時期で奴隷を所有していた自由市民は5割強、奴隷所有数最多記録保持者はおそらくウィレム・アドリアーヌ・ファン・デン・ステル総督の169名(1706年の記録)、自由市民だと1774年のマルティン・メルク氏の101名、1750年時点で681名いた奴隷主のうち50名以上の奴隷を有していたのは7名、26〜50名の奴隷を有した者で25名だったとも(註139)。峯陽一氏は奴隷たちは会社の事業で集団的強制労働がなされる場合でない限り多数の白人たちの間で分散されていたせいで白人支配に抵抗することが困難であったことを強調している(註140)。ロスは植民地の階層社会について「植民地政府は自由市民に対し、折にふれて奴隷とコイサン人に対する優越意識を叩き込み、奴隷に対する自由市民の権威とはいかなるものか、VOC内の兵士や船員に対する将校の権威とはいかなるものかを、機会あるごとに残酷な方法で見せつけることによって、それぞれの権威を維持しようとした」と述べる(註141)

 註136 レナード・トンプソン著 宮本正興、吉國恒雄、峯陽一、鶴見直城訳『南アフリカの歴史(最新版)』100頁

 註137 C・W・デ・キーウィト著 野口建彦、野口知彦訳『南アフリカ社会経済史』23頁

 註138 レナード・トンプソン著 宮本正興、吉國恒雄、峯陽一、鶴見直城訳『南アフリカの歴史(最新版)』94〜95頁

 註139 レナード・トンプソン著 宮本正興、吉國恒雄、峯陽一、鶴見直城訳『南アフリカの歴史(最新版)』95頁

 註140 峯陽一著『南アフリカ 「虹の国」への歩み』61〜62頁

 註141 ロバート・ロス著 石鎚優訳『南アフリカの歴史』29〜30頁

 宮本正興氏は「自由市民の数が増え、奴隷の数が増えるにつれて、住民の間で分業体制が進み、商工業、農業、牧畜業などの区別が顕著となり、社会の階層化も進んだ」としている(註142)。またトンプソンによると植民地の白人社会の社会構造においてはまずその頂点に月200ギルダーの月給(一般の水夫・兵士なら月9ギルダー)と各種手当を貰って本国の貴族を真似た生活を営む総督、ごく少数の比較的裕福な商人・農民、零細商人や宿屋の経営者、まずまずの農民、農場監督官、そして前記のような貧困層がいたという(註143)。トンプソン曰くケープ植民地は「数は少ないが活力に満ちたヨーロッパ起源の人びとの故郷」となり「いっそう大きな独立性を備えた勢力」を築いていった彼らはしかし「生産力に富んだ土地を事実上すべて所有していたが、自らは肉体労働に従事しなかった」という(註144)。デ・キーウィトは18世紀後半〜19世紀初頭のイギリスの農学者アーサー・ヤングを引用して18世紀のケープが「消費、活動、活気の欠如」に悩まされ続けていたこと、東インド会社が投資を渋っていて資本の蓄積がまるで進まず、会社の存在自体が商取引を抑制、いかなる製造工業の立ち上げをも妨げ、輸入超過で通貨を使い果たしていたとする(註145)。池谷和信氏によると18世紀のケープ社会では奴隷が出身地ごとに分業するようになっていて、マダガスカル及びアフリカ出身者は畑で働き、インドネシア出身者は職人、そのうちのスマトラやマカッサル出身の女性は裁縫、インド出身者はサービス業に就くことが多かったという(註146)。奴隷は結婚も法的な契約や財産の獲得も不可、それが犯罪にならない限り主人のどんな要求にも従うしかない、主人殺しなどやろうものなら火バサミで焼かれた両腕両足を更に車輪でひかれてへし折られ最後に頭部を切り離されるといった残虐刑に処せられたが、中には奴隷の身でありながら独力での商売を許される者や農場の管理を委ねられる者もいれば、辺境地帯に逃亡して先住民の集団に潜り込んだり、植民地内での犯罪で生きながらえる者もいた(註147)。文化面では18世紀後半に他の植民地からイスラムの高僧が政治犯として流刑に処せられてきた(註148)ことから奴隷たちの間にイスラム教が広まっていたが、カルヴァン派新教徒たる白人たちからすればそれは軽蔑すべき異教信仰であるが故に奴隷・有色人種に相応しいのであって自分たちの信仰は「神に選ばれなかった」異教徒とは一線を画する「選民としての特別な使命感」を育むことともなったのであった(註149)

 註142 宮本正興、松田素二編『新書アフリカ史』361頁

 註143 レナード・トンプソン著 宮本正興、吉國恒雄、峯陽一、鶴見直城訳『南アフリカの歴史(最新版)』99〜100頁

 註144 レナード・トンプソン著 宮本正興、吉國恒雄、峯陽一、鶴見直城訳『南アフリカの歴史(最新版)』108頁

 註145 C・W・デ・キーウィト著 野口建彦、野口知彦訳『南アフリカ社会経済史』27頁

 註146 池谷和信著「南部アフリカ」川田順造編『新版世界各国史10 アフリカ史』329頁

 註147 レナード・トンプソン著 宮本正興、吉國恒雄、峯陽一、鶴見直城訳『南アフリカの歴史(最新版)』104〜105頁

 註148 海野るみ著「「カラード」の歴史 歴史がつくった「カラード」」『南アフリカを知るための60章』第8章

 註149 C・W・デ・キーウィト著 野口建彦、野口知彦訳『南アフリカ社会経済史』23〜24頁

   第一次・第二次カフーィル戦争  (目次に戻る)

 デ・キーウィトに言わせれば南アフリカにおける入植者たちは植民地の環境においては「勤勉な農民であることがほとんど無駄だった」「勤勉もやりくり上手もほとんど役に立たなかった」が故にその多くがトレック・ボーアと化していったのだという(註150)。彼らの行き先において、池谷和信氏によると1700〜40年の間にケープ植民地の北方(西ケープ)にいたコイコイは白人の圧迫に押されてその使用人と化して行っており、続く1740〜70年の間にはトレック・ボーアの人口はさほど増えなかったのに利用面積は10倍に増え、それだけ分散して暮らすようになったためコイコイとの関係も比較的平穏となったようだが、1770〜1800年頃になると折から発生した環境危機のため牧畜地の更なる拡張がはかられたことにより先住民との抗争が激化した(註151)。かくて現在の南アフリカ共和国地域の概ね南西端に位置するケープタウンから見れば北方、つまりアフリカ大陸西海岸(大西洋岸)における白人の勢力圏は1770年にはバッフェルス川にまで達しているが、その辺りの極端な乾燥地帯という気候条件によってそれ以上の進撃を阻まれることとなり、それよりもケープタウンから見て東方、南アフリカ共和国地域の南部海岸及びその北方の内陸部を東進するルートには雨量豊富で豊かな牧草地が見込めそうであった(註152)。しかしそこには有力なサン人の集団と、更にアフリカ人の一派コーサ人がいた(註153)

 註150 C・W・デ・キーウィト著 野口建彦、野口知彦訳『南アフリカ社会経済史』13頁

 註151 池谷和信著「南部アフリカ」川田順造編『新版世界各国史10 アフリカ史』331〜332頁。「環境危機」が具体的にどのようなものであったかはこの本にも書いていない。

 註152 C・W・デ・キーウィト著 野口建彦、野口知彦訳『南アフリカ社会経済史』25頁 林晃史著「南部アフリカ」 星昭、林晃史著『世界現代史13 アフリカ現代史1 総説・南アフリカ』59頁 レナード・トンプソン著 宮本正興、吉國恒雄、峯陽一、鶴見直城訳『南アフリカの歴史(最新版)』109頁

 註153 レナード・トンプソン著 宮本正興、吉國恒雄、峯陽一、鶴見直城訳『南アフリカの歴史(最新版)』109〜110頁

 ここから先の話は筆者の手元にある文献によって記述が入り組んでいて整理が難しい。まず大雑把な概況を述べていてる林晃史氏によると1770年代にはコーサ人との紛争の結果として植民地の東部境界はサンディ川に定まり、1778年にはこの川の上流のグラーフ・ライネトに要塞が築かれることになったということなのだ(註154)が、もう少し詳しく解説しているトンプソンによるとまずグラーフ・ライネト北方のスニュールベルク山脈から広範囲に襲撃して来た人々をコマンドが「うじ虫同然に打ち負かし」、1774年には300名の部隊で503名を殺したという(註155)。ロスによると1770年代のこの方面の戦闘ではそれまで白人に使役されていた人々を含む400名のサン人が広範囲から入植者を追い払ったといい、しかし植民地政府からサン人を「根絶する」認可を得ていたコマンドによる残忍な報復を被ることとなったという(註156)。またトンプソンによるとグラーフ・ライネト付近の渓谷部は十分な降雨があって牧畜のみならず集約農業にも適し、以前からコイコイ人とアフリカ人との紛争地域になっていたところで、そこに進出してきたトレック・ボーアのうちグラーフ・ライネト北部地区に居着いた連中はスニュールベルク山脈方面のサン人を警戒、南部地区の連中はコーサ人と対峙、コーサ人は身内の首長国同士でも競合していて、コイコイ人は白人とコーサ人のどちらかを選べというなら後者の方が良いということで、1779年と1793年に白人とコーサ人との戦争が発生、決着つかずとなった(註157)。峯陽一氏によると白人に忠実なコイコイ人はコーサ人と戦っていたが機を見てコーサ側に寝返る者が増えていったという(註158)

 註154 林晃史著「南部アフリカ」 星昭、林晃史著『世界現代史13 アフリカ現代史1 総説・南アフリカ』59頁

 註155 レナード・トンプソン著 宮本正興、吉國恒雄、峯陽一、鶴見直城訳『南アフリカの歴史(最新版)』115頁

 註156 ロバート・ロス著 石鎚優訳『南アフリカの歴史』28頁

 註157 レナード・トンプソン著 宮本正興、吉國恒雄、峯陽一、鶴見直城訳『南アフリカの歴史(最新版)』116〜117頁

 註158 峯陽一著『南アフリカ 「虹の国」への歩み』71頁

 1779年の戦いを「第一次カフーィル戦争」と呼ぶ。1793年の戦いは「第二次カフィール戦争」ということになるが吉田賢吉氏はこの戦争を1789年のこことし(註159)、wikipediaによると1789〜93年の戦争であったという。カフィールとは本稿冒頭で述べたようにアフリカ人の蔑称で、元々この方面のアフリカ人を指してそう呼んだものがやがて「南阿の土人の総称」となったともいう(註160)。デ・キーウィトによるとかねて植民地政府は「白人と黒人の居留地が接触する」ことを嫌っていて1723年と1739年、1770年の布告でトレック・ボーアの居留地の限定をはかるも失敗、1774年の布告では「先住民と不正な取引を続ける者」に罰金、鞭打ち、あるいは死刑を適用するとし、1778年には総督ファン・プレッテンベルク自ら現地を回るもしんどい思いをしただけで1779年の戦争になってしまったのだという(註161)

 註159 吉田賢吉著『南阿聯邦史』81頁

 註160 吉田賢吉著『南阿聯邦史』81頁

 註161 C・W・デ・キーウィト著 野口建彦、野口知彦訳『南アフリカ社会経済史』26頁

 ガンサーによると第一次カフィール戦争はその3年前にコーサ人と白人の境界線として定まっていたグレート・フィッシュ川(サンディ川より100キロほど東)の線を越境して家畜を盗みに来たコーサ人に対する報復として始まったもので、その後のアフリカーナーの歴史認識においてはアフリカの他の地域の植民地は白人によって先住民の手から掠奪されたものであるにしても南アフリカのこの地を最初に領有したのはアフリカ人ではなく我々白人であってつまり「ここは白人の先取特権による白人の国だ、侵入者は我々白人ではなく黒人たちだ」と(コイサンのことは無視して)主張されるようになったという(註162)。アフリカ人が正確にいつ頃この地域に来着したかの問題は本稿の冒頭近くで触れておいたが、吉田賢吉氏は「ケープ州だけについて見れば欧人の移住の方がバントゥーの移住より少し早かったと云われている」としている(註163)。改めて言うまでもなく吉田氏の著作は第二次世界大戦中のものであって少なくともこの点については今さら通用するものではない。また英語で話す時の他称でアフリカ人を「バントゥー」と呼ぶのは蔑称にあたるというのも本稿の冒頭部で説明した。ただ同氏によるならばトレック・ボーアとアフリカ人の抗争はつまり雨量乏しいこの地域での牛の飼育のための水草を巡ってのもので、仮に両者間の妥協で白人による土地所有が認められたとしても白人側が完全にその土地を自分のものにしたと解釈するのに対してアフリカ人の側はその上にある水や草木、獲物を自由にする権利を与えただけで所有権を譲ったつもりはなく相手の白人は「我が領民」ぐらいに考え、こちらの首長が代替わりすれば先代の約束を履行するかどうかはその時の話といった土地所有権に関する両者の観念の違いが戦争の原因となった(註164)のだそうで、これについては実際にそういう要因もあったのではないかと思える。

 註162 ジョン・ガンサー著 土屋哲訳『アフリカの内幕2』34頁

 註163 吉田賢吉著『南阿聯邦史』80頁。「バントゥー」とはアフリカ人のこと。

 註164 吉田賢吉著『南阿聯邦史』82〜83頁

 アフリカ人とコイサン人との関係についても色々あったことは本稿の冒頭近くで軽く触れたことではあるが、これより後の時期の白人の証言に「(コイサン人に家畜を執拗に略奪されていたコーサ人は)これらの略奪者を猛獣同然と考え、彼らが悪事を働いたあと、その足跡を辿っていき、つかまえた者を殺している。同様に、そうした略奪グループの所在をつきとめると、夜間に攻撃をしかけ、老若男女を問わず情容赦なく皆殺しにしている」というものがあったり、コーサ人が白人にサン人のことについて「あの極悪なふるまいをやめることなど無理なのだから、見つけしだい、あんな人間の屑は殺してしまう必要がある」と言っていたとかいう(註165)。しかし白人同士でも五十歩百歩のことをやっている。1795年初頭にグラーフ・ライネト南部地区の有力トレック・ボーアたちが彼らに十分な支持を与えていないと見做された植民地政府に反逆、ラントドロストを追放したが弾薬の補給を絶たれたことで短期間で敗退するという事件が発生した(註166)。吉田賢吉氏によるとこの事件は第二次カフィール戦争後に会社から派遣されて来たマイニエールが土人(コーサ人か?)と妥協してフィシュ川(グレート・フィッシュ川を縮めてそう呼ぶことが多いらしいが資料によってはグレート・フィッシュ川と「リトル・フィッシュ川」とが合流したその下流のことを「フィッシュ川」と表記しているものがあり、詳しいことは筆者の不明により不詳)の西部の「ズウルフェルト」でのその居住を許し彼らとことを構えない方針をとって守備隊を撤収したことに端を発し、憤激したトレック・ボーアたちがファン・ヤールスフェルドとトリハルドの指導のもとに40名の騎馬軍を組織、マイニエール(ラントドロストだった)を追放して自前のラントドロストを選出、会社から独立した地方的共和国を樹立し、スウェレンダムの連中もこれに呼応する騒ぎとなったのだという(註167)

 註165 レナード・トンプソン著 宮本正興、吉國恒雄、峯陽一、鶴見直城訳『南アフリカの歴史(最新版)』82〜83頁

 註166 レナード・トンプソン著 宮本正興、吉國恒雄、峯陽一、鶴見直城訳『南アフリカの歴史(最新版)』117頁

 註167 吉田賢吉著『南阿聯邦史』81〜82頁

   18世紀後半のケープ植民地と東インド会社  (目次に戻る)

 話は既に18世紀の後半まで進んできた。ここらでまたトレック・ボーアに限らないケープ植民地全体とそれを取り巻く状況を眺めてみよう。

 まずケープタウンから80キロの範囲に収まる地域ではケープタウンに供給するための小麦やワイン用の葡萄を産出していた農場主たちが18世紀末近くにケープ市場が急成長したのに合わせて富裕化、それぞれ10〜50人の奴隷を過酷に使役(収穫期にはコイサン人の季節労働者を使用)しつつ「ケープ・オランダ様式」という漆喰塗り・切妻造りの屋敷を建て裕福な暮らしをするようになっていた(註168)。デ・キーウィトもトレック・ボーアとの対比でケープタウンには各国からやって来る商人がもたらす活気があったこと、その周辺の「落ち着いた地域社会」では「畜牛や降雨の話題以外の会話の成立する環境」として、タウン民や穀物・ワイン農は植民地政府との接触が緊密なこととて損失を被ることも多々あったものの辺境民の習い性になっていた行政からの逃避とは逆に行政府内の要職に就くことを欲するようになり、「彼らの資質は、その立派な家の頑丈な家具のように質実剛健で、彼らの未来社会への影響は、辺境開拓者の特性がもたらした多大な影響にけっして劣らなかった」としている(註169)

 註168 ロバート・ロス著 石鎚優訳『南アフリカの歴史』30頁

 註169 C・W・デ・キーウィト著 野口建彦、野口知彦訳『南アフリカ社会経済史』20頁

 しかし会社はパンや肉、ワイン、煙草の小売許可証の販売(事実上の消費税)や指定価格による物資の買い上げ、寄港船舶との取引において会社が最大のシェアを得る権利といった経済的規制や特権で人々を怒らせ脱税や密輸へと走らせていたし、1740年時点で自由民8名に対して会社官吏3名、1778年でも同じく16名に対して3名という役人人口の多さが不正を助長していたという(註170)。或いは1740年頃の白人人口約5500名のうち1500名が社員と傭兵、1778年で市民9867名に対して社員・傭兵1122名でうち傭兵454名(註171)といい、前述のように官吏の汚職も酷いもので自由民との利害対立は両者間の婚姻で多少は軽減されるという程度であった(註172)。また住民子弟のための教育もお粗末なもので、小学校がケープタウンにいくつかとステレンボッシュ、ドラケンステイン、ルーデザント(ツルバグ)、ズワルトラント(マルメスベリー)にあった程度、1714年に植民地唯一の高等学校が出来て11年で潰れたという(註173)。ただ奴隷の子弟のための小学校というのもあったそうだ(註174)

 註170 C・W・デ・キーウィト著 野口建彦、野口知彦訳『南アフリカ社会経済史』9〜10、28頁

 註171 吉田賢吉著『南阿聯邦史』73頁

 註172 レナード・トンプソン著 宮本正興、吉國恒雄、峯陽一、鶴見直城訳『南アフリカの歴史(最新版)』103頁

 註173 レナード・トンプソン著 宮本正興、吉國恒雄、峯陽一、鶴見直城訳『南アフリカの歴史(最新版)』101頁

 註174 レナード・トンプソン著 宮本正興、吉國恒雄、峯陽一、鶴見直城訳『南アフリカの歴史(最新版)』107頁

 さてオランダ本国は先にチラリと触れた1672年勃発の「第三次英蘭戦争」でフランスまで敵に回して軍事的にも経済的にも危機的状況に陥ったところをオランイェ公ウィレム3世の指導でなんとか乗り切り、彼が1688年の名誉革命でイギリス国王ウィリアム3世として即位、つまりオランダ・イギリスの同君連合が成立したもののこの年に再びフランスがオランダに宣戦、この「九年戦争」でオランダは軍事面でも通商面でもイギリスの風下に立たされ、1702年のウィリアム3世の死去で同君連合解消となった後も同盟関係は続けられてその前年に起こった「スペイン継承戦争」に英蘭一緒に参戦してまたまたフランスと交戦、といった具合の連戦に次ぐ連戦ですっかり疲弊して18世紀の半ば頃には前世紀の黄金時代の栄光は何処へやら、完全に英仏の後塵を拝するようになっていた。この頃には東インド会社の経営も傾いていたことも既に述べた通りである。

   オランダ東インド会社領時代の終焉  (目次に戻る)

 1775年に「アメリカ独立戦争」が勃発、オランダはとりあえず中立で状況を見守る最中の1776年に「アメリカ独立宣言」がなされるとケープ植民地においてもこれに感化された者たちが1779年、これまでのような雑多な法令ではない纏まった立法権の整備(その制定・施行解釈への市民の参与を伴う成文憲章の制定)、行政への市民の参与(本国理事会への直接請願権を有する市民7名を政務参議会に参加せしめる)、司法への市民の参与(高等裁判所役員の半分を市民から任命)、手数料の統一、ワイン買い上げ価格の引き上げ、本国・インドへの輸出の自由、ケープ領内の取引の自由、それから奴隷輸入の促進並びに奴隷折檻の自由等々を求めて市民400名の署名を集めた覚書を本国へと送り出したが、1781年になって総督ブレッテンベルグを通してなされた本国理事会側の返答は「件の覚書には市民の大多数は署名して居らぬ。会社は依然として繁栄を続けている」というもので、理事会としては「会社の株主でも何でもない移民連中」にそんなことを求められるのは意味不明なのであったという(註175)。移民の側も都市部と農村部の利害がいまいち一致していないという弱みがあった(註176)

 註175 吉田賢吉著『南阿聯邦史』84〜85頁

 註176 レナード・トンプソン著 宮本正興、吉國恒雄、峯陽一、鶴見直城訳『南アフリカの歴史(最新版)』103頁

 だがこのような政治制度のあり方を問う議論は本国でもなされていた。アメリカ独立に共感するオランダ人がアメリカ側に武器を送ったことで1780年にイギリスとの間に「第四次英蘭戦争」が勃発、今度はフランスが味方である。これまで散々繰り返されたオランダと各国との戦争にもかかわらずケープ植民地が外部(コイサン・アフリカ人以外)からの攻撃を受けたことは一度も無かった(註177)のだが、いよいよそんな別天地の生活も終わりに近づいてきた。イギリス側からジョンストン提督率いる艦隊がケープ占領の命を受けて出撃、それを妨げんとするシュフラン提督率いるフランス艦隊とケープ・ヴェルデ沖で遭遇、お互いに大損害を出しつつも勝敗無しとなった後の1781年3月7月にケープに現れたジョンストン艦隊はセイロンに行く途中だったオランダ船1隻を拿捕した(在ケープの他のオランダ船は拿捕を恐れて自沈)が、この時は兵力不足のため上陸は諦めて帰国した(註178)

 註177 C・W・デ・キーウィト著 野口建彦、野口知彦訳『南アフリカ社会経済史』27頁

 註178 大熊真著『アフリカ分割史』14〜15頁

 その後はフランス軍部隊がケープに駐屯してイギリス軍の再侵攻に備えることとなり、そのおかげをもって植民地経済は「線香花火的好景気」に見舞われることとなるも一時の話ですぐに訪れた不景気に沈潜、1784年にケープ市民からの再度の覚書を受けた本国理事会はその翌年と1789年に総督ファン・デル・ホラーフを通して政務参事会・高等裁判所への市民の参与や国内商取引の規制緩和、日本と中国を除く外国貿易の解放等の改革を実施した(註179)。デ・キーウィトにいわせれば「純然たる貿易会社が、全く利益を生み出したことのない植民地に、立憲的自由を是認したことを考えれば、この改革の価値は本物だった」(註180)。ところがトンプソンによればその頃の本国ではアメリカ独立と啓蒙運動の影響下にある「愛国派」と現状維持派が対立していて会社の重役たちは保守的な態度をとっており、1787年以降には重役の側が勝ちをおさめて自由市民たちの要求を無視することが出来たとする(註181)

 註179 吉田賢吉著『南阿聯邦史』86頁

 註180 C・W・デ・キーウィト著 野口建彦、野口知彦訳『南アフリカ社会経済史』29頁

 註181 レナード・トンプソン著 宮本正興、吉國恒雄、峯陽一、鶴見直城訳『南アフリカの歴史(最新版)』103〜104頁

 しかしアメリカ独立戦争後の東インド会社は巨額の負債を抱え、会社領の中でも際立って収益の上がらないケープでは既に歳出削減を強いられていたところの1792年に更なる切り詰めのための弁務官2名が送り込まれ、デ・キーウィトによると倹約のみならず奴隷・ワイン・荷車への課税や新規の関税、競売手数料の設置、外国船舶からの港湾使用料の徴収がなされ、更に役人の役得にメスが入れられたが、「東インド会社の流す血」と「ケープの絶望的窮状」の治療には「十分でなかった」(註182)。吉田賢吉氏によると社員給与の増額による役得防止や手数料半額化を実施する一方で奴隷税・運輸税・印紙税を導入、本国・植民地間の貿易船をオランダ船に限定、貸付銀行の新設等の改革を行なったが結果は捗々しくなかったという(註183)

 註182 C・W・デ・キーウィト著 野口建彦、野口知彦訳『南アフリカ社会経済史』29〜30頁

 註183 吉田賢吉著『南阿聯邦史』86〜87頁

 それと池谷和信氏によると1795年以降にはコイコイ人がオランダ法に従う賃金労働者としてヨーロッパ人社会に組み入れられていったという(註184)のだが、それ以前に白人に使われていたコイコイ人の雇用関係はどういう状態だったのだろうか。またトンプソンによると当初は白人と同等の権利を有していた自由黒人(解放奴隷)は、その解放件数が時代が進むにつれて減少していたのに加えて1760年代には法的に差別されるようになっており、1790年代には町から出るに際してのパス(本来は奴隷の単独外出時に与えられた鑑札・通行許可証で1709年にケープの奴隷用に導入、18世紀末にはコイコイ人農業労働者にも付与された)の携帯を義務付けられるようになったものの、また数的に少ないながらも、社会的には相当の力があったという(註185)。これもトンプソンによれば解放される奴隷は18世紀の平均で毎年600名あたり1名だけで自由黒人の数が自由市民の数の1割を超えることはなく、概ねケープタウンに集中して職人・料理人・旅館経営・漁師・小規模小売商を営んでいたという(註186)。新規に輸入される奴隷では1770年以降には若い女性が増えて奴隷の「再生産」が進むようになり、それは白人の奴隷主にも期待されていたが、なんとなれば輸入奴隷よりもケープ生まれケープ育ちの奴隷の方が生存率が高くて奴隷主に従順だったからである(註187)。1793年の奴隷人口は男性9046名、女性3590名、子供2111名の総計1万4747名、対して自由市民は男性4032名、女性2730名、子供7068名の総計1万3830名であった(註188)

 註184 池谷和信著「南部アフリカ」川田順造編『新版世界各国史10 アフリカ史』326頁

 註185 レナード・トンプソン著 宮本正興、吉國恒雄、峯陽一、鶴見直城訳『南アフリカの歴史(最新版)』95頁と訳注6(572頁)

 註186 レナード・トンプソン著 宮本正興、吉國恒雄、峯陽一、鶴見直城訳『南アフリカの歴史(最新版)』107頁

 註187 池谷和信著「南部アフリカ」川田順造編『新版世界各国史10 アフリカ史』328〜329頁

 註188 レナード・トンプソン著 宮本正興、吉國恒雄、峯陽一、鶴見直城訳『南アフリカの歴史(最新版)』92〜94頁

 1790年代ともなればヨーロッパではフランス革命の真っ只中である。オランダ本国は1793年に革命フランスとの戦争状態に突入、1794年12月に始まるフランス軍の侵攻で全土を占領され、1795年にフランスの衛星国家「バターフ共和国」の樹立となった。この時のフランス軍にはオランダ人の愛国派が補助軍として協力していてバターフ共和国においても政権を掌握、それまでオランダを統治していたオランイェ公ウィレム5世を追い出したが、ケープ植民地においても民心既に東インド会社の統治に倦み革命フランス&バターフ共和国側に傾いていたところの1795年6月11日、エルフィントン提督率いるイギリス艦隊がクレーグ少将指揮の陸軍部隊を載せて到来、サイモンズタウンに入港した(註189)

 註189 以下の記述は吉田賢吉著『南阿聯邦史』89〜90頁 大熊眞著『アフリカ分割史』16〜18頁による。文中の「スロイスケン」という人物の役職がどちらの本でも「ケープ総督」ではなく「ケープ長官」になっているのは単なる誤記か別の役職なのか、役職名が総督から長官に変更されていたということなのかは不明。

 エルフィントン提督はイギリスに亡命中のオランイェ公からケープ長官に宛てた書簡「貴官はイギリス艦隊を友人として迎え、これを以てオランダの植民地をフランスの掠奪より擁護する盟友と見做すべし」を携えており、ケープ側がフランス軍でなくイギリス軍を大人しく迎え入れるならばオランイェ公の復辟を待ってこの地をオランダに返還すると約束した。ケープ長官スロイスケンと防衛司令官ゴルドンはスジとしてはオランイェ公の指示に従うべきであるにしてもケープ住民は概ね親フランスとあってはどうしたものかと返答を引き伸ばし、やがて本国バターフ共和国がイギリスとの交戦状態に入ったとの報を得て対英開戦を決意した。イギリス軍の兵力1600名に対してケープ植民地軍は公称3000名、しかし実戦力になるのは半分ぐらいである。イギリス側としては平和的に迎え入れてもらえると思っていたのでケープ側の決意に接するや仕方なく上陸開始、ケープ半島東岸方面での戦闘でサイモンズタウンからミューゼンバーグへとケープ軍を追い込み、更に8月末にクラーク司令官率いる5000の新手を加えてケープ半島西岸方面に新たな戦端を開いたことで勝敗を決した。西岸方面のケープ軍の前衛は新たな敵の到来に虚をつかれて慌てて後退、それを見たケープ軍後衛は前衛に含まれていた傭兵が叛乱を起こしたと勘違いして「裏切りだ、裏切りだ」と叫んで逃げ散ったという。降伏条約締結は9月19日である。

  

つづく   

                                        

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