南アフリカの歴史 第五部

   ダイヤモンドの発見とグリカランドウェストの併合  (目次に戻る)

 1867年に吉田賢吉氏によればジョン・オレイリーという商人、鈴木正四氏によればファン・ニーケルクという農民(大熊真氏によると行商人)がケープ植民地の北辺に位置するホープタウンの友人宅を訪れた際にたくさんの光る石を見せられ、その中でも子供が弄んでいる石が異様に輝かしい光を放っているのに目をつけて、これを鑑定に出したところ正真正銘のダイヤモンドであることが判明した(註1)。トンプソンによるとこの年12月に「カール・マウフという投機家がトランスヴァールのプレトリアに現れ、自分はツワナ人の土地で黄金を発見したと主張した。そして、ダイヤモンドと認定された1個の石がケープタウンにて展示された」というのだが、その「カール・マウフがツワナ人の土地で発見した“黄金”」というのは以下に詳しく述べる「ダイヤモンド・ラッシュ」とは無関係に、いやそれどころか南アフリカではなく現在のボツワナ共和国の領域で見つけたものをとりあえずプレトリアに持って来たということだったようで、それとは別にオレイリーもしくはニーケルクが発見した「ダイヤモンド」がケープタウンに持ち込まれて展示されたということのようである。

 註1 以下この段落と次の段落は鈴木正四著『セシル・ローヅと南アフリカ』19〜20、32〜33頁 吉田賢吉著『南阿聯邦史』177〜178頁 C・W・デ・キーウィト著 野口建彦、野口知彦訳『南アフリカ社会経済史』91頁 レナード・トンプソン著 宮本正興、吉國恒雄、峯陽一、鶴見直城訳『南アフリカの歴史(最新版)』203、214〜215頁 大熊真著『アフリカ分割史』141頁 ボツワナ大使館公式サイト「フランシスタウン(https://www.botswanaembassy.or.jp/info.php?ID=25)」 Wikipedia「キンバリー」による。

 話を戻して鈴木正四氏によると冒頭の発見の2年後にニーケルクのところに「土人」が持ち込んできた石がまた上質なダイヤモンドで、1869年の末にはグリカランドウェストのハルト川とヴァール川の合流点付近にて新たなダイヤモンドが次々と発見され1870年には「デュトアパン鉱山」及び「ブルトフォンテン鉱山」がその姿をあらわし、続いて翌1871年に採掘容易で埋蔵量豊富な「ブールイツィヒト鉱山」が発見されたが、これが「オールド・ド・ベールス鉱山」と「ベールス・ニュー・ラッシュ鉱山」からなっていて、後者こそが後に「キンバリー鉱山」と呼ばれる世界第一のダイヤモンド鉱山となる。「キンバリー」というのはその頃のイギリス本国の植民地相キンバリー伯爵にちなむ命名である。デ・キーウィトによれば18世紀までのダイヤモンドはインドからもたらされていたのが18世紀半ば以降からはブラジル産のものが加わり、しかし今回の南アフリカでの発見によって「世界各地の名だたる鉱床もすべて物の数に入らなくなってしまった」のだという。トンプソンによると南部アフリカでも1000年以上前からアフリカ人による金・銅・鉄の採鉱はなされていたし、1860年代までには白人によってもケープ植民地北西部とトランスヴァール東部で小規模な金・銅の採掘が始まっていたとはいうのだが、今回の発見は全く次元が違っていた。鈴木正四氏曰く「土地もやせ草木も少ない半砂漠地帯で、少数のグリクア族と100人余りのブーア農民が住んでいるにすぎなかった」というグリカランドウェストでの大発見を受けて吉田賢吉氏曰く「噂は燎原の火の如く拡まった。南阿諸国は沸き返った。ダイヤモンド・ラッシュが始まる。農夫は鋤を捨て、商人は帳簿を擲ち、海員は船を脱走し、牧師までが聖書を蔵いこんでわれもわれもとキムバレイ地方目指してひしめき合って行く」。

 デ・キーウィト曰く「いかなる宝石よりも硬く、光り輝き、形や色彩においても多様性に富んでいる。天然の色は、黒、ピンク、ブルー、黄色のものもあれば、蒸留水の水滴のように透明である。反射光の輝きと屈折光の赤や青、紫の閃光によって輝いている」というダイヤモンドがザクザクの産地を巡って当然ながら国際紛争が生起する(註2)。グリカランドウェスト西部の「グリカタウン」を治めるグリカ人の長はニコラス・ウォーターボーアという人物だが、吉田賢吉氏によると彼がキンバリーを含むグリカランドウェスト東部の「キャムベルランド」を巡ってオレンジ自由国と争い、それとは別に「モンチオア人」という勢力がキャムベルランド北東の「ハルツ川沿岸地帯」の境界線を巡ってトランスヴァール共和国と争うこととなる(トンプソンは吉田賢吉書にある「モンチオア人」のことを「ツワナ人の最南部の首長国」と表記している。鈴木正四氏は「トランスヴァールはヴァール河以北に、オレンジはヴァール河以南に、それぞれ主権を主張した」と述べている)。吉田賢吉氏によると後者の紛争については双方の合意のもとにナタール総督(註3)キイトの裁定に委ねられて係争地の大半はモンチオア人その他の「土人族長」の手中に帰することになったがトランスヴァールにも一部地域が譲られてこちらも諒解に達し、ただし今回の裁定のために小プレトリウス大統領(当時)の提出した書類が偽物だったことで自国内からの非難にさらされてしまったという。前者の紛争についてはトンプソンによると係争地域内には1848~54年の「オレンジ川主権国家」時代に同地を統治していたイギリス人官吏によってもオレンジ自由国側に属すると認定された農場があったといい、しかし今回の紛争においてはイギリス人の調停官がウォーターボーア有利の裁定をくだした。

 註2 以下この段落と次の段落とその次の段落はレナード・トンプソン著 宮本正興、吉國恒雄、峯陽一、鶴見直城訳『南アフリカの歴史(最新版)』212〜213、217〜218頁 鈴木正四著『セシル・ローヅと南アフリカ』20頁 吉田賢吉著『南阿聯邦史』167、179〜182頁 林晃史著「南部アフリカ」 星昭、林晃史著『世界現代史13 アフリカ現代史1 総説・南アフリカ』76頁 片山正人著『南アフリカ独立戦争史』20頁 池谷和信著「南部アフリカ」川田順造編『新版世界各国史10 アフリカ史』344頁 C・W・デ・キーウィト著 野口建彦、野口知彦訳『南アフリカ社会経済史』92頁 岡倉登志著『ボーア戦争』22頁 大熊真著『アフリカ分割史』142頁 山口昌男著『アフリカ史』346頁による。

 註3 ここのトップは「副総督」の筈だが資料に「総督」とある場合はそのまま引き写しておく。

 

 吉田賢吉氏によるとオレンジ自由国大統領ブラントは「ウォーターボーアの背後にイギリスがいるが故に、外国政府に裁定を依頼すべきである」と強硬に主張、更には現地の武力占領にまでことを運び、ケープ当局も軍隊出動を命じて情勢険悪となったがケープ総督バークリィが本国政府を動かして1871年10月のイギリスによるグリカランドウェスト併合宣言となった。片山正人氏によると「白人山師の保護」という口実による併合だったといい、鈴木正四氏によるとイギリス側はホープタウンまで軍を進めてオレンジ自由国を威嚇しつつ「土人をブーアの抑圧政策から救う」という「人道的な名目」を掲げて「西グリクアランドにイギリスの主権を宣言した」という。トンプソンによると上の段落末尾の裁定を経てウォーターボーアが「事前に言われたとおりに」イギリスの保護を求めたのに応じての併合となったのだという。大熊真氏によるとウォーターボーアはオレンジ自由国に加えてトランスヴァールからも圧迫されたのでイギリスの保護を求めたのだという。またトンプソン曰くちょうどこの頃からのイギリスはドイツ……まさしくこの1871年の1月に普仏戦争に勝利したプロイセン国王ヴィルヘルム1世がドイツ皇帝としての戴冠式を挙行したところであった……やアメリカ合衆国の台頭を受けてその国際的影響力の相対的後退を余儀なくされていくのであり、政財界の一部には南アフリカの豊かな鉱物資源の存在を知るにつれてその支配を「国益にかかわる重大事と見なすようになった」という……、ただし今回の併合は「列強の競争というより現地の事情が引き金にな」ったのだとしている。

 林晃史氏によるとグリカランドウェストは「法的にはオレンジ自由国の一部であった」のにウォーターボーアがイギリス商人D・アルノットの口入れでその所有権を主張しイギリスの保護を求めたのだという。池谷和信氏も「オレンジ自由国内のキンバリー」と明言し、ダイヤモンドが発見された時点には「そこは西グリクアランドで、グリクアと100人余りのボーアが住んでいるにすぎなかった」としている。片山正人氏は「西グリカランドとキンバリーのオレンジ自由国の領土を領有化した」と記し、山口昌男氏によるとオレンジ自由国は早くからグリカランドウェストの領有を主張していたのにグリカ人の激しい抵抗のため果たせないでいたのがダイヤモンド鉱山の発見で「グリカ人を支援するイギリス」との同地を巡る争いとなり、最終的に戦力に優るイギリスにしてやられる結果となったのだという。岡倉登志氏はグリカランドウェストは「法的にはオレンジ自由国に属すると思われた」のにグリカ人の首長がイギリス商人と「協力して」ダイヤモンド鉱山の所有を主張しイギリスの保護を求めたことにつけ込んだイギリスによる保護領化となったとしている。「保護領」ということはレソトと同じ扱いということになるが大熊真氏は「王領植民地」と表記している。どちらにせよとりあえずはこの地はケープ植民地とは別枠のイギリス領という扱いとなった。トンプソンによると当該地域が「グリカランドウェスト」と呼ばれるようになったのは実はこの後からのことのようである。オレンジ自由国のブラント大統領は併合に納得することなく吉田賢吉氏の表現に曰く「英本国政府とねちねちと商議を続け」ていくこととなる。

 「商議」ぐらいならともかく鈴木正四氏によると今回の併合に対して「当時ヅールー族との戦闘に疲弊していたブーアは武力によって抵抗することはできなかった」とする(註4)。ここでいう「ヅールー族」とはナタール方面のズールー人のことではなくアフリカ人一般のことだと思うが、トランスヴァールはともかくオレンジ自由国もそういう状況下にあったのだろうか……、つい数年前の第二次オレンジ・バスト戦争で意外と疲弊していたとかであろうか。片山正人氏によるならばオレンジ自由国はダイヤモンド・ラッシュから多大な恩恵を受けていたといい、しかしトランスヴァール共和国の方にはその効果は及ばなかったという(註5)。また鈴木正四氏によればダイヤモンド地帯の併合でイギリスが得た利益は「この併合が招いたブーアの敵対心と比較すれば、はるかに損な勘定であった」のだが、デ・キーウィトにいわせればイギリス・オレンジ自由国・トランスヴァール共和国の3国は結局のところ「敵として戦わずに、ビールを酌み交わした。ダイヤモンド産出地では、その土地がオレンジ自由国のものだろうとイギリス王室のものだろうと、重要な問題ではなかったからだ。むしろ、もっと重要だったのは、全南アフリカ住民に密接な利害を持つ鉱業が、いかに組織化され管理され得るのか」なのであったという(註6)。伊藤政之助氏によるとオレンジ自由国はもともと土地豊穣で牧畜適地な国土に恵まれ経済的にすこぶる余裕があったのでグリカランドウェストの件は結果として「英国との争端の根を絶つ好機を与えたのでもあった」のであり、トランスヴァールの方はというと後述するようにアフリカ人との争いに苦しみ財政逼迫状態で「土人の中には英国に属せんことを希望する者さえ出て来」(註7)るのだが、それはまた後の話として、しかしまた鈴木正四氏によるとグリカランドウェスト併合前年の1870年にイギリス政府から第二回目の南アフリカ連邦案が提案されていてオレンジ自由国のブラント大統領の賛同を確保、ケープ植民地のグレアムズタウンで開催された市民大会もこの話を「ケープの立憲自治」と一緒に承認したところだったのに、今回の併合強行で自由国は連邦案を白紙撤回、トランスヴァールからもクレームが入ったといい、イギリス本国政府側はグリカランドウェストの行政費を負担させる代償としてケープ植民地の立憲自治を許すこととしたのに、ケープ側ではかえってこの卑劣なやり方に憤ったというのは本稿第四部でも軽く触れたところである(註8)

 註4 鈴木正四著『セシル・ローヅと南アフリカ』20頁

 註5 片山正人著『南アフリカ独立戦争史』20頁

 註6 鈴木正四著『セシル・ローヅと南アフリカ』20〜21頁 C・W・デ・キーウィト著 野口建彦、野口知彦訳『南アフリカ社会経済史』94頁

 註7 伊藤政之助著『戦争史 世界現代篇1』210頁

 註8 鈴木正四著『セシル・ローヅと南アフリカ』18〜21頁

  

   採掘現場の様相  (目次に戻る)

 採掘現場ではトンプソンによれば1870年末までに白人と黒人5000名が群がり、1872年までには白人2万と黒人3万が殺到、ロスによると1870年代の半ばまでには毎年5万名のアフリカ人が働きに来るまでになった(註9)。鈴木正四氏によると1872年の「土人労働者」が1万2000、3年後に3万といい、デ・キーウィトによると年間1万名、1871~1895年の間に10万名の「先住民」が鉱山で雇われていたという。白人の数はグレート・トレックに参加した連中よりも多く、産額では1870年の10万2500カラットが1872年には108万カラット、1879年には更に倍に迫るという急増ぶりである。採掘者たちはイギリスによる併合以前にはまずオレンジ自由国政府の「貸区制」の鉱区を得て仕事に従事し1871年末にはグリカランドウェストの「四大鉱山」として知られるようになった「ド・ベールス鉱山」に620、「キンバリー鉱山」に460、「デュトアパン鉱山」に1441、「バルトフォンテイン鉱山」に1067の貸区が作られたという……、このくだりの鉱山名は林晃史氏による表記で、それと上の方で鈴木正四書からの引用として挙げておいた鉱山名とを筆者(当サイト管理人)の手で対比・統一しておくべきなのだろうけれども面倒くさいのでそのまま書き写すだけにしておく。デ・キーウィトによると「キンバリー」「デビアス」「ブルトフォンテン」「デュトワパン」の4大鉱山で合わせて3200以上の「完全鉱区」があってその多くは更に細分化されていたといい、一時は1600もの鉱区(7平方ヤード程度の小鉱区も含む)に区分けされたキンバリーなどはダイヤモンド・ラッシュの最初の年のうちにケープタウン以外では南アフリカ最大の人口稠密地となって南アフリカ全土のそれを合わせたのと同数ぐらいの酒場がひしめき病院や教会、劇場もオープンしたが初期の混乱状態たるや「バシッという鞭の音、大声で鳴きわめく雄牛、夕方、赤い靄となってあたりにたれこめる灼熱の砂ぼこり、それも、あまりに微細なため、ほんの僅かな風でも毛髪、目、はては時計の中にまで入り込む砂ぼこり、トタン屋根に降る耳をつんざくような霰の轟音、砂礫層を掘り起こしバケツや手押し車や荷車で水辺へ運びダイヤモンドの選別をする男たち……こうした混乱は『精神病院が海岸で野放し状態にされた』かのようだった」たという。トンプソンによるとキンバリーには1700の「地所財産」があって、そのうちのひとつは縦7フィートに横30フィート、売値1500ポンドだったという。

 註9 以下この段落と次の段落とその次の段落は林晃史著「南部アフリカ」 星昭、林晃史著『世界現代史13 アフリカ現代史1 総説・南アフリカ』76〜77頁 吉田賢吉著『南阿聯邦史』178〜179頁 C・W・デ・キーウィト著 野口建彦、野口知彦訳『南アフリカ社会経済史』93〜97頁 レナード・トンプソン著 宮本正興、吉國恒雄、峯陽一、鶴見直城訳『南アフリカの歴史(最新版)』214〜216頁 ロバート・ロス著 石鎚優訳『南アフリカの歴史』64〜65頁 鈴木正四著『セシル・ローヅと南アフリカ』24、32〜37、44頁による。セシル・ローズの手紙は鈴木書からの引用。

 1871年末にキンバリーにやって来てダイヤモンド掘りに精を出していたセシル・ローズという当時18歳かそこらの青年が母に送った手紙でキンバリー鉱山の様子を語って曰く「高いところで周囲からの高さ30フィート、幅やく180ヤード、長さやく220ヤードの、小さい丸い丘をご想像下さい。その周囲には白いテントの集団があって、そのさきには、ゆるやかな起伏をもった大地が、なんマイルとなくつづいています」「それは、黒蟻がおおいかぶさった蟻の巣の集団のようなものです、黒い蟻は人間です。丘にはやく600の貸区があって、その貸区がまた、通常4つの小区にわかれています。その小区にはおのおのやく6人の土人と白人が働いていますから、長さ220ヤード、幅180ヤードという、この小さな土地に毎日合計やく1万人のひとが働いている訳です」。鈴木正四氏によると1貸区31フィート平方で借用料金は月7シリング5ペンス〜10ペンス、貸区間に通路として15フィート間隔を置いていて1人あたり1つの貸区しか借りられないことになっていた。セシル・ローズの手紙の続き「いいかえれば、31フィートの貸区のうち、7フィート6インチは掘ることを許されないで、道路用にのこされているのです……道路は、もとの高さを保っているただ一とつの土地です。……丘から荷車を引くには主として騾馬を使います。彼らは非常に丈夫で、ほとんど病気にならないからです。道の両側には柵もなにもなく、直接、非常に深いあなが下にひろがっているので、騾馬が荷車もろとも坑の中に転落する事件がしょっちゅう起こります」「現在、道の両側には、深さ30フィートから60フィートの深淵がつらなっています」「まず最初にやる仕事は、土をほることです、それから非常にあらい鉄のふるいにかけ、さらにこまかいふるいにかけて、のこった石を坑のそとに投げ上げます、これは持って帰るなり荷車にのせるなりして、選別台の上におかれます、ここではじめて厳重なふるいをかけて、じゃまな石灰岩をとりのぞき、のこりを小さな仕上機械にかけて、一すくいづつかたづけます。ダイヤモンドは、いろんな場合に発見されます、大きいものは一般に坑のなかで土人が見つけるか、ふるいの時に見つけられます、小さいものは選別台の上で見つけられます。……それらは、これらの丘とおそらく水で流されたとおもわれる河原とにだけ発見されます」。

 ここで「河原」といっているのは、林晃史氏によるならば最初は「河床掘り(リバー・ディッギング)」でダイヤモンドを漁っていたのがすぐに「露天掘り(ドライ・ディッギング)」に変更されたのだそうで、セシル・ローズがその手順を詳しく解説しているのが後者のそれということと思われる。吉田賢吉氏曰くドライ・ディッギングは「即ち砂や礫から成る沖積土を水で洗って選り分けるという」「極めて幼稚な方法」で「だからごく僅かの資本金さえあれば誰にでも手が出せた、しかも採取したダイヤモンドは恐ろしく高価に売れたから、有象無象がわれもわれもと押しかけて来たのは当然である」。再びセシル・ローズの手紙「良い貸区ならば、1荷車の土……1荷車はバケツでやく50杯……に確実に平均一つのダイヤモンドを見つけられると言えば、あなたはそれがどんなにすばらしいものかおわかりでしょう」「しかし、ダイヤモンドのすべてが美しいものだと考えてはなりません。大部分はつまらない破片ばかりです……もっとも、この破片でさえ5シリング以下のものはないでしょうが」「私は1週平均30カラットみつけています、これはこの鉱山全体のなかでも珍らしいほどです」。デ・キーウィトにいわせれば「確かに掘り出されたものは驚異的であり続けたが、たとえそれを平等に分配したとしても、各坑夫に分配できる報酬は、微々たるものだっただろう。僅か1〜2年後には、強運の者か、根気強い者しか残らなかった。そして、これら残った連中にも、新たな複雑な問題がのしかかった」。お宝の大半が地中深くに埋まっていたこととてどんどん掘り進めているうちに雨水が溜まったり崩れて死傷者が出たり、地底で掘り出した土を入れたバケツに繋いだワイヤーを最初は人力で、次は馬で、そして蒸気機関で地上へとひっぱりあげるというふうに、最初は小鉱区を確保した個々の採掘人(概ね白人)が3〜4名の助手(殆ど黒人)とやっていたのがやがて事故やらなんやらの問題で鉱山の半分以上が操業不能状態に陥るまでに立ち至り、吉田賢吉氏曰く「ここに於て裸一貫乃至それ程でなくとも小遣銭位持ってやって来た個人の採鉱業者は没落せざるを得ない」ということでそれなりの機械設備を用意できる大資本家や会社組織が幅を利かすようになって来る。デ・キーウィト曰く「南アフリカで最初の産業社会」となったダイヤモンド採掘地において「南アフリカは初めて、資本と労働という現代的問題に実際に直面した」のであった。

 制度的には鈴木正四氏によると1872年までは鉱区の合同が一切許されなかった(2つ以上借りる場合は他人の名前を使った)ため各々の借区人がそれぞれ狭く深く掘っていたのがさすがに限界ということで1874年には10区までの合同が許され、また同年には道路の敷設や排水の整備にあたる「鉱山局」も設置された(註10)。林晃史氏は「1871年までは鉱区の合同が認められ」なかったといいつつ「従来、1人の採掘者に対して2鉱区までの所有しか認めていなかったが、74年以降10鉱区までの所有が許可された」と述べ、北川勝彦氏によると当初は採掘人1名につき2鉱区だったのが1874年に1名10区まで緩和され、やがて制限自体撤廃となったのだという。デ・キーウィトによると1874年の「10区」というのはグリカランドウェスト初代副総督(註11)サウジーが南アフリカ高等弁務官バークリィの暗黙の支持のもと個人採掘者の利益を大手から保護するためにそれ以上は買い占めさせないという意図で定めた法令だったといい、またサウジーは先住民労働者にもケープ植民地流の自由主義的な待遇を適用しようとしたという。しかしこれもデ・キーウィトによるならば「産業都市キンバリーは、農村を代表するグレート・トレックに同調し、この町も農村部と同様、白人と黒人との間の経済的・人種的差別を基礎に置くべきだと主張し」てサウジーの先住民政策に食ってかかり、「いずれ資本主義的鉱山会社によって、雇われ人の身分に引き下げられることになる」であろう採掘者たちも「彼ら特有の先見の明の欠如から、彼ら自身を保護するために作成された法令を忌避する」始末、本国植民地省にもそういった法令は「資本及び財産権に対する攻撃である」と見做され却下されてしまったのだという。鉱山局というのもデ・キーウィトによればサウジー政府の非力が主因で財力も技術力も「各採掘場の地底に群がる連中に命令を下せる権威」もなく、その地底ではまず鉱坑が深さ100フィートに達したところで鉱区間の通路消滅、400フィートに達する頃にはダイヤモンドを含む土を荷車1台分搬出するのにその数倍の不要な瓦礫の山の除去と数千ガロンの排水が必須となって大規模な落盤も発生し、不正の横行といった危機に迫られる形でもはや「組織的な資本が個人資産にとって代わり、科学と政治的手腕が個人の技量にとって代わる時期が到来した」のであった。吉田賢吉氏曰くけっきょく個人の業者は「大資本家や会社組織の採鉱業者に鉱区の利権を売り渡して、現金を懐にしてさっさと引き上げて了った」「1874年頃からダイヤモンド鉱業は次第に大資本家の手に買収合併集中せられるようになった」のだという。ロスによると小規模経営の採掘業者でも質の良い鉱床を引き当てて儲けた奴はいたけれども大儲けしたのはダイヤモンドの仲買業者や多角的企業の経営者だったという。

 註10 以下この節は吉田賢吉著『南阿聯邦史』178〜179、182頁 レナード・トンプソン著 宮本正興、吉國恒雄、峯陽一、鶴見直城訳『南アフリカの歴史(最新版)』218頁 C・W・デ・キーウィト著 野口建彦、野口知彦訳『南アフリカ社会経済史』95〜97、100〜101頁 鈴木正四著『セシル・ローヅと南アフリカ』24、32〜33、38〜43頁 北川勝彦著『南部アフリカ社会経済史研究』110〜111、144〜145頁 ロバート・ロス著 石鎚優訳『南アフリカの歴史』64〜65頁 林晃史著「南部アフリカ」 星昭、林晃史著『世界現代史13 アフリカ現代史1 総説・南アフリカ』76〜79頁による。

 註11 グリカランドウェストではこの「副総督」職がトップだった(総督職は置かれなかった)ようである。

 不正に関していえば鉱区の売買・譲渡でもダイヤモンドの取引自体でもNG頻発、エイルワードという山師の指導下に「相互擁護協会」を名乗って当局の取り締まりに武力抵抗する組織まであったといい、トンプソンによるならばイギリス政府がこの地に有能な行政機関を設立出来なかったがために官吏としても最初は採掘者の委員会組織の、次に大実業家の協力を仰ぐことになっていったという。デ・キーウィトにればそれはグリカランドウェストの行政府があまりにも貧しく歳入に乏しかったがためであって、充分な予算と権力があって鉱山専門家を雇い鉱業を支配するための専門的機関を設立することが出来たならば「巨大企業」に打ち勝てたかもしれないのであった。景気面では鈴木正四氏によると1873年末頃に1カラットで4ポンドだったダイヤモンド価格は現場での生産過剰と、当時の世界ダイヤモンド消費量の3分の1を占めていたアメリカ合衆国で経済恐慌が起こったこととで翌年3ポンドに、2年後には1ポンドにまで下落、その頃の採掘現場の鉱脈とされていた「黄色層」の底が見えて来ていてその下の「青色層」にはお宝が見当たらないように思えたこと、更に深掘りを続けようにも去る1872年にヨーロッパで起こっていた信用恐慌でイギリス本国からの資本流入が減少して機械力の導入が困難となったことといったことで南アフリカの現地でも1876年には不況の絶頂となるが、同年の鉱区制限完全撤廃で企業集中・経営合理化が推進され、心配されていた青色層からもお宝が見つかった上に1879年にはアメリカの恐慌も克服されたことで南アフリカのダイヤモンドも完全に立ち直ることとなったという。それ以前の1877年の時点でキンバリーを訪問した人物が白人2万とアフリカ人4万が働く採掘業の繁栄に驚いていたという記録もある。

 我らがセシル・ローズ君も不況を切り抜けての強気の貸区合同・買収を押し進め1880年にはいっぱしの社長として押しも押されぬダイヤモンド企業家にまで成り上がっている。鈴木正四氏に曰く不況前に四大鉱山で3000を超えた企業は1881年の末には70ほどに統合されていたのだが、そのうちの三大会社のうちの一角のトップに立ったのである。ただしこれまた鈴木正四氏によると本国からの資本流入は減ったままで、その後のダイヤモンド資本の大半は利潤の一部から充当されたものだったという。無論それは「ダイヤモンドに関する投資」限定の話で、それ以外の投資ではデ・キーウィトによると以前には6パーセントの利子率でもなかなか投下されなかったのに、今や4パーセントでも喜んで投資されるようになっていたという。

 北川勝彦氏は「1870年と1881年の間は、南アフリカは、好況であった」と述べていて……その詳細には同氏も触れていないがダイヤモンド以外の部門が堅調だったとかだろうか……、ともあれ北川氏曰くその間のケープ植民地の政府収入は67万ポンドから300万ポンドに、同じく支出は80万ポンドから547万ポンドに、輸入は235万ポンドから923万ポンドに、輸出が257万ポンドから840万ポンドへと伸びたのが1881年には恐慌が発生、ダイヤモンド鉱山株の暴落等によって不況がしばらく続いたという。その恐慌でセシル・ローズたちも終わってしまった訳では決してないのだが、それはまた後の話である。ちなみにデ・キーウィトは1872年のケープ財務省の収入は116万1548ポンドでこれは1869年のそれの2倍だったとしていて、「ケープ植民地は巨額な負債や高額の公共投資から解放され、軽快かつ力強く、新しい進路へと力強く参入することができた」とか、1869年のスエズ運河開通という大事件のせいで「もはやヨーロッパからインドへ通じる唯一の航路ではなくなった」ケープタウンはしかしダイヤモンド産地向けの活発な輸入のおかげで何の痛手も被らなかったとか、「公共事業の当座費用を自己財源でまかなうという不慣れな贅沢を味わうことができた」とか述べている。それにひきかえ鉱山の地元のグリカランドウェストの政府が貧乏だったのは何故なのだろうか。更に後で述べるように「南アフリカ連邦」構想に関連してケープの「貧弱」さに言及することにもなるのだが、ダイヤモンドの収入をもってしても「南アフリカ連邦」を実現・維持するには足りなかったということなのだろうか。ここで例によってまたまた思わせぶりなことを書いておくと、南アフリカの富はダイヤモンド以外にもまだあったのだが。ついでに鈴木正四氏によると1870〜1879年のケープ植民地の輸出品順位ではダイヤモンドは実は第2位で、1880〜1884年及び1885〜1889年で第1位となったという。

   鉱山の労働環境と南アフリカの経済・社会構造  (目次に戻る)

 1位でなくてもダイヤモンド鉱山の話を続けなければならない。鈴木正四氏によると1875年頃の白人労働者の賃金は1日につき30シリングから2ポンド(20シリング=1ポンド)、通常5ヶ月契約で雇われる「土人労働者」だと週あたり25~30シリングで銭そのものよりも銭で購入する武器や酒が目当でやって来て……彼らを連れて来る周旋業者がボロ儲けした……「キンバリー監獄部屋」と称される劣悪な隔離家屋に住まわされたが、オレンジ自由国・トランスヴァール共和国では月給1ポンドが普通だったのでダイヤモンド鉱山に逃げてくる者が後を絶たなかったといい、それでも労働力不足に悩まされたダイヤモンド鉱山の企業家たちはそれは「ブーア人の土人抑圧政策」のせいだとして政府に対策を迫っていたという(註12)。契約期間を終えたアフリカ人労働者が買って帰る武器は当然ながら白人を脅かすことともなる(註13)。林晃史氏によるとダイヤモンド鉱山のアフリカ人労働者は当初は手伝いとして連れてこられていたのが、すぐに銃購入で故郷の部族を強化するために自発的に働きに来るようになって部族の首長の方もその目的で積極的に部族民を鉱山へと送り出すようになったといい、賃金は初期には月10シリングで通常3ヶ月契約、1871年には人手不足のため月額30シリングと食料のトウモロコシ粉に週2回の肉を支給という形に増額、契約期間は9ヶ月、更に18ヶ月に更改する者も現れ、白人の週給4~8ポンドに対してアフリカ人は(週給?)10シリングと食料の現物ということにもなったのだという(註14)。デ・キーウィト曰く「当初から、ダイヤモンド鉱業は、取り返しのつかないほど決定的に先住民の労働力に依存していた」ということで、その先住民労働者の中には相応に稼げる者もいれば安酒の犠牲になる者もおり、しかしこれもデ・キーウィトによるならば大多数の者は銃とか酒とか以前に「部族生活や部族経済の崩壊を示す証人」としてやむにやまれぬ事情に押されて「部族への帰属意識を喪失し、土地を持たない、南アフリカ産業都市の無産階級が形成される第一歩」としてやって来たのだという(註15)。トンプソンはというと「白人政府は首長や族長に圧力をかけて(中略)徴募人が労働者を鉱山に送ったりするのを黙認させた」と述べているので、部族民を鉱山へやるのを嫌がる首長もいたということだろうか……、ちなみに左記の中略部分は「彼らの膝元で地方判事が税金を取り立てたり」である(註16)

 註12 鈴木正四著『セシル・ローヅと南アフリカ』44〜46頁

 註13 林光一著『イギリス帝国主義とアフリカーナー・ナショナリズム 1867〜1948』19頁

 註14 林晃史著「南部アフリカ」 星昭、林晃史著『世界現代史13 アフリカ現代史1 総説・南アフリカ』77〜80頁

 註15 C・W・デ・キーウィト著 野口建彦、野口知彦訳『南アフリカ社会経済史』95頁

 註16 レナード・トンプソン著 宮本正興、吉國恒雄、峯陽一、鶴見直城訳『南アフリカの歴史(最新版)』208頁

 林晃史氏によると労働力不足に対処すべく白人採掘者が組織した「採掘者委員会」がアフリカ人労働者の配分を行なっていて、アフリカ人による鉱区所有は禁止、ただしこれはグリカランドウェスト併合の後に解禁となったのだが「ダイヤモンドの盗難が多い」という白人の苦情によって改めて禁止、同時にアフリカ人鉱山労働者には身分証の携行が義務付けられたという(註17)。トンプソンによれば当初は少数存在したアフリカ人・カラードの採掘権所有者は1872年(ということはグリカランドウェスト併合の翌年)に全員白人からなる採掘者委員会によって黒人採掘者は放逐、更に黒人は令状なしでも捜査され得ること、出所不明のダイヤモンドを所持していた場合は鞭打ち50回に処せられることという規定(註18)が作成され……、さすがにイギリス当局はこれを退けようとしたが、結局は高等弁務官の布告によって、建前上は(本国の奴隷制反対運動の糾弾をかわすために)黒人を狙い撃ちにすることなく実質的には全黒人を採掘権とダイヤモンド売買から事実上排除すること、更に「主人あるいは地方判事の署名入りのパスを携帯せずにキャンプ区内にいる」者は禁錮刑もしくは体刑に処せられることとなった(註19)。吉田賢吉氏は「社会秩序維持の為土人の夜間外出、土地所有、酒類購入を禁止する各種の法律が制定された」「是等の中には現在の南阿に於ける土人取締法規の先駆をなしたものが少なくない」としている(註20)

 註17 林晃史著「南部アフリカ」 星昭、林晃史著『世界現代史13 アフリカ現代史1 総説・南アフリカ』77〜78頁

 註18 カラードの扱いはトンプソン書も記していない。

 註19 レナード・トンプソン著 宮本正興、吉國恒雄、峯陽一、鶴見直城訳『南アフリカの歴史(最新版)』219頁

 註20 吉田賢吉著『南阿聯邦史』183頁

 上の方で鈴木正四氏が言及している「キンバリー監獄部屋」は林晃史氏によると「コンパウンド・システム(隔離宿舎制度)」の別名であったといい(註21)、ロスによると「コンパウンド」というのは一部の労働者がダイヤモンドを盗んで闇市場に流していたことを問題視した経営者たちがこしらえた狭くて汚い隔離施設で、これのせいでアフリカ人労働者は仕事以外では外出不可、転職も妨げられて低賃金で働き続けざるを得なくなった(註22)。トンプソンによれば白人はキンバリーの町に家族連れで自由に住むことが出来たのにアフリカ人はパス携帯の上で町の隔離地区に住むことを義務付けられ、その中でも鉱山労働者は鉱山付属の男性専用施設たるコンパウンドに住まねばならなかったのだが、その上で1885年以降はダイヤモンド盗難対策という理由でアフリカ人鉱山労働者は契約全期間に渡ってコンパウンドから出ることも禁止となったのだという(註23)。ということは鉱山以外の仕事をするアフリカ人には少しは自由があったということなのかどうかはよく分からない。峯陽一氏によればコンパウンド内のアフリカ人同士の間では温かみがあったが上下関係は厳しくて会社のスパイが目を光らせていたといい、経費削減のための粗末な給食をあてがわれていたという(註24)。トンプソンは「コンパウンド制度のおかげで、鉱山会社は、労働者に宿舎と食事を提供するうえで、『規模の経済』を与えられ」たといっている(註25)ので、寮費(というのか?)まで徴収していたのだろうか。またトンプソンによれば1870年代後半の「キンバリーのアフリカ人」の年間死亡率は8%で死因の多くは肺炎、即決略式裁判や盗難予防の裸体身体検査を強要され、「アフリカ人労働者を異常なまでに厳しく管理することもできる」コンパウンドで「特に非人道的」に「女気のない規律一本やり」の生活を送る彼ら出稼ぎ労働者の故郷の村では長期に渡って家族生活を中断させられた留守家族の中で女性が世帯の切り盛りを担うという社会的変動も起こっていたという(註26)。しかし盗難予防がどうとかいうなら白人労働者もコンパウンドに住まわせるべきであったし、これもトンプソンによれば一時期実際に鉱山会社で検討された(身体検査もやるべきとされた)が反対にあって撤回され「白人労働者は白人であることで選挙権を与えられていたため、南アフリカ最初の産業都市において人種分断をうち固めていくという、資本主義と共通する利益を実現していくことができたのである」ということであったという(註27)。ロスによればそもそもアフリカ人労働者の隔離にしてからが彼ら相手の商売を当てこんでいた白人商人からの苦情があったため、そこで高賃金の熟練職や監督職を全て白人に割り当てることとなって「人種差別による職務区分とアフリカ人労働者の隔離収容を二本柱とする労務管理が行われるようになり、南アフリカ産業界の特徴となった」のである(註28)

 註21 林晃史著「南部アフリカ」 星昭、林晃史著『世界現代史13 アフリカ現代史1 総説・南アフリカ』80頁

 

 註22 ロバート・ロス著 石鎚優訳『南アフリカの歴史』65〜66頁

 註23 レナード・トンプソン著 宮本正興、吉國恒雄、峯陽一、鶴見直城訳『南アフリカの歴史(最新版)』220頁

 註24 峯陽一著『南アフリカ 「虹の国」への歩み』105頁

 註25 レナード・トンプソン著 宮本正興、吉國恒雄、峯陽一、鶴見直城訳『南アフリカの歴史(最新版)』220頁

 註26 レナード・トンプソン著 宮本正興、吉國恒雄、峯陽一、鶴見直城訳『南アフリカの歴史(最新版)』220〜221頁

 註27 レナード・トンプソン著 宮本正興、吉國恒雄、峯陽一、鶴見直城訳『南アフリカの歴史(最新版)』220〜221頁

 註28 ロバート・ロス著 石鎚優訳『南アフリカの歴史』66頁

 そもそもトンプソンによれば黒人労働者は熟練職・監督職になりたくてもその手段がなく、つまりこの流れは17世紀からこちら存在し続けて来た「前産業化段階の南アフリカ植民地社会の人種構造を鉱業へと適用していく」プロセスだったのであって、「こうして、この地域全体で人種の境界線に沿って産業を組織化していくための先例が確立された」のであった(註29)。「人種」の更に細かい内訳については、林光一氏によると初期の鉱山労働者には「ペディ」「ツォンガ」「南ソト族」の者が多くて主として銃・弾薬や農機具・家畜等の購入が目的だったという(註30)。ペディ人はまた後で出てくる。ロスによればズールー王国と「ベンダ人」の王国以外のアフリカ全土から集まって来たアフリカ人労働者の内訳で最も多かったのはトランスヴァールから来たペディ人とソト・ツワナ系の連中で彼らはダイヤモンド・ラッシュ以前から南方に出稼ぎに来る習慣があり、次にモザンビークから来たツォンガ人及びレソトからの連中、ケープ及びナタールのアフリカ人たちはそちらとキンバリーを結ぶ鉄道建設事業が進んでいたことでそちらの仕事に就くことが多く、キンバリーに来た(ケープ及びナタール出身の)少数の連中は概ね教育のあるキリスト教徒だったことで技術職・事務職に就くこととなったという(註31)。しかしロスは前述のように「高賃金の熟練職」は白人が独占したといっているので、アフリカ人の技術職というのはさほどの熟練を要しないものだったのか、高度の技術を有していたとしても賃金面で差別されていたということなのか、どっちだろうか。

 註29 レナード・トンプソン著 宮本正興、吉國恒雄、峯陽一、鶴見直城訳『南アフリカの歴史(最新版)』209頁

 註30 林光一著『イギリス帝国主義とアフリカーナー・ナショナリズム 1867〜1948』19頁

 註31 ロバート・ロス著 石鎚優訳『南アフリカの歴史』64〜65頁

 ただデ・キーウィトによれば白人労働者の方もその大半は南アフリカ出身ではなかった(南アフリカの地元の技術者のうちで鉱山で使えそうなのは荷馬車製造人ぐらいだった)といい、しかし彼らはずっと鉱山で働き職場の白人仲間と緊密に結び合っていたのに対して先住民労働者の方は何の技術もない多数の(言葉も違う)部族からの寄せ集めで契約期間が終われば帰っていくという違いが際立っていて、従ってこのような構図は「単なる肌の色への偏見から生まれた結果ではない」としている(註32)。白人労働者についてはトンプソンも、アフリカーナーどころかイギリス系の連中(ダイヤモンド発見以前から入植していた連中)から見てさえ自分たちと同じアンデンティティを持つ人々とは思えなかったといい、鉱山では機械を動かす熟練工が「海外から来た熟練移民」で高賃金を確保、「肉体労働、特に地下の危険な重労働」を担うのが「南部アフリカのアフリカ人社会から動員された」人々でこれはそれまで産業労働の経験もなければ政治制度における発言権も皆無、そして両者の「保護された中間的な場」に「アフリカ人労働者を使役する監督者」がいて、これは「白人系南アフリカ人で、採掘者あがりが多かった」という(註33)

 註32 C・W・デ・キーウィト著 野口建彦、野口知彦訳『南アフリカ社会経済史』98〜99頁

 註33 レナード・トンプソン著 宮本正興、吉國恒雄、峯陽一、鶴見直城訳『南アフリカの歴史(最新版)』209〜210、219〜220頁

 そしてまたデ・キーヴィトによれば普通の近代産業では熟練労働者と不熟練労働者の間に半熟練労働者の層があって段階的に上に登れるものであるのに南アフリカでは白人と黒人の差別を強化することで中間段階を排除してしまい、その結果「技術と高賃金は白人の特権であり、重労働と卑しい仕事は黒人の領分であることが、南アフリカ労働経済学の原則となった。両者グループの立場は競争がなく、しっかりと防御されていた。両者の領域に一方が沈み込むことはないし、他方が浮上することもなかった」が故に「オーストラリアの羊毛にとっての広大で安価な牧草地、カナダの小麦にとっての肥沃な大草原にあたるものが、南アフリカの鉱山業や工業の場合、安価な先住民労働者だった」ということとなったのだという(註34)。視点をグリカランドウェストに限定していえば1878年までに42万エーカーの土地が白人の手に帰し、有色人の手には10万エーカー足らずが残っているだけだったという(註35)。土地と引き換えに小銭を得たグリカ人の間ではアルコール中毒が蔓延することとなる(註36)。ともあれ、こういったことを伴って勃興する鉱業を通じて峯陽一氏曰く「南部アフリカではアフリカーナーの共和国、イギリスの植民地、そして広範なアフリカ人社会を包含する単一の経済圏が徐々に形成されていった」のである(註37)。ただここで注意すべきは、鈴木正四氏によるとイギリスは1872年のうちにグリカランドウェストに「土地裁判所」を設置して「土地所有権は一切イギリス判事の決定によって定められることを布告し、政治的に外国資本のダイヤモンド地方侵入を排斥した」との由である(註38)

 註34 C・W・デ・キーウィト著 野口建彦、野口知彦訳『南アフリカ社会経済史』99〜100頁

 註35 鈴木正四著『セシル・ローヅと南アフリカ』23頁

 註36 峯陽一著『南アフリカ 「虹の国」への歩み』99頁

 註37 峯陽一著『南アフリカ 「虹の国」への歩み』105〜106頁

 註38 鈴木正四著『セシル・ローヅと南アフリカ』48頁

 

 南アフリカ全体に視界を広げてみれば鉱山に直接関係しなくても鉱山向けの食料を生産する白人農場に働きに出るアフリカ人や、自分自身で鉱山向けの生産を行うアフリカ人の小農も増え、林晃史氏によれば後者は白人農民よりも優れているという証言もあるのだが、ロスはキンバリーの食料を主として供給していたレソトや東ケープの小規模農場が「短期間ではあったが」潤ったという表現をしており、また林晃史氏によると同時期(1876~1878年)のケープ植民地東部のシスカイでは干魃で打撃を受けた者たちの賃労働化が進み、オレンジ自由国でも1870~1875年の間にボーア人の不在地主がアフリカ人の小作人を使役する農業の商品化が一段と進んでいたという(註39)。ちなみに燃料はグリカ人と「パトラピン人」が乾燥地帯の木を後先考えずに伐採して用立てていたという(註40)。それとアフリカ人にとってはアフリカーナー国家と比べればダイヤモンド鉱山の方が給料が良かったので鉱山へと逃げてくる者がけっこういたという前述の話だが、黒人労働力の流出という問題に直面したオレンジ自由国政府は鈴木正四氏に曰くこれを「土人の待遇改善によって引きとめるかわりに、土人をさらに厳重な制限にしばりつけることによって防止」すべく、農業だと通常1~3年だった契約期限をおえていない有色人の転職を禁止、その期間中に生まれた子供は12歳までボーア人の主人に仕える義務を負わせ、トランスヴァールでは有色人のための特別の小屋を作ってそこから許可無く外出することや労働契約書・人頭税納付書・旅行認可書を持たない有色人の通行を禁止、「土人周旋業者にひきいられてトランスヴァールを通過する土人労働者の一群」に1名につき1ポンドの通過料を課すといったことがなされ、有色人労働者の奪い合いで夜襲事件まで発生する始末となる(註41)

 註39 林晃史著「南部アフリカ」 星昭、林晃史著『世界現代史13 アフリカ現代史1 総説・南アフリカ』80〜81頁 ロバート・ロス著 石鎚優訳『南アフリカの歴史』65頁

 註40 ロバート・ロス著 石鎚優訳『南アフリカの歴史』65頁

 註41 以下この段落と次の段落は鈴木正四著『セシル・ローヅと南アフリカ』27〜29、44〜46頁による。

 しかも両アフリカーナー国家では「土人労働者」が急速に流出したことと、「ダイヤモンド業は明らかに危険の多い投機企業である」にもかかわらずボーア人たちにはそこに投じるべき資本がなくしかも旧式の農業を固守しようとし彼らの政府も古い機構を墨守していたところの「ダイヤモンド業の急激な発展にともなって土地にたいするはげしい投機熱がおこったこと」で「ブーア農民層の分化がわづか数年の間に完璧に強行された。これまでほとんど分化されていなかったブーア農民は急激に2つの層に分かれる」こととなったという。トランスヴァールでは1877年には既に新規に農民が開拓出来る土地は皆無で優良地は投機家か不在地主が押さえていた一方で土地を完全に無くしたボーア農民もいて、政府側は後者による土地の再分配要求を国外でのアフリカ人との戦争で解決しようとする一方で上記のような有色人の移動規制強化でダイヤモンド業者あるいはイギリス側との対立を強めることになった……、ということで「イギリス・ブーアの対立は、血の相違とか、民族の闘争とか、抽象的な、運命的な対立ではけっしてない。それは具体的な、歴史的な根拠から生れた対立である。しかもその対立はブーア人、イギリス人の対立ではけっしてなく、ブーア政府、イギリス政府の対立であった」のであった。オレンジ自由国でも支配層の「寄生化」が急速に進んでいたことトランスヴァールと同様だったようである。(この段落は鈴木正四書に拠っているが、アフリカーナー国家ではこれ以前の段階で既に不在地主が広大な土地を押さえていて一般のボーア人の苦言の的になっていたというのは本稿第四部で述べた通りである。その傾向がダイヤモンド・ラッシュを経て更に拡大したということであろうか)

   カーナヴォンの南アフリカ連邦構想  (目次に戻る)

 デ・キーウィトによると1870年代初頭にイギリス領とアフリカーナー共和国の双方で「何らかの効果的な協力を切に期待する空気」が広がっていたという……、曰くまず鉱山業躍進による「経済発展の道が、政治的協調の欠如によって阻まれていたのは明白だった」ということで、トランスヴァールのブルガー大統領は「イギリス統治下の南アフリカ連邦」か或いは「オランダ人とオランダ語だけのための単独国家か」という葛藤に悩まされ、オレンジ自由国のブラント大統領はバストランド(レソト)併合の件やダイヤモンド鉱区問題でイギリスに文句を垂れながらも夫人がイギリス人で子供はイギリスで教育を受け、「間違いなく、同時代のイギリス人やオランダ人より道徳意識に勝っている人間として、彼の意向は分割されたものを統合することにあった」といい、その一方でケープ植民地初代首相モルテーノは「いずれケープ植民地は南アフリカの他の地域を併合するだろう」と予感、本国のキンバリー植民地相(1872年のケープ責任政府樹立を熱心に推奨していた)も「南アフリカの他の地域はいずれは、より裕福で自治能力を持つ中心的な植民地の軌道内に引き入れられる」と期待していたという(註42)。トンプソンにいわせるならば「南アフリカの未来について検討を迫られた場合、イギリスの政治家は、南アフリカをカナダ……ここも非イギリス系とイギリス系の白人入植者が支配していたが、1867年に両者は共同で連邦制イギリス自治領を形成していた……と同じカテゴリーに入れた。カナダの前例にならうとすれば、ケープからおそらくリンポポ川の向こう側まで含めたイギリス領植民地とアフリカーナーの共和国は、イギリス王室の旗のもとで白人が支配する一個の自治国家へと融合しなければならない。この国家は、国内の法と秩序を維持し、アフリカ人コミュニティーを組み入れられるくらいに強力でなければならない。そこではイギリス海軍が外国の侵略に対処し、イギリス人商人が外国貿易を支配し、イギリス政府が外交を担うことになるであろう。さらに、イギリスの政治家のなかには、イギリスはアフリカ人住民の扱いについても口を出さなければならない、とする者もいた」「これは、どうすれば実現できるだろか。一つのやり方は、ケープ植民地に自治政府をつくり、これに他の国家を引きつけることであった」ということで実際に試されたのが1872年のケープ責任政府の樹立だったということなのだが、このような政策の推進役をつとめるにはケープは「あまりに貧弱だったし、白人住民の分裂もあまりに深刻だった」ということで、そうこうするうちにキンバリーの後継の植民地相となったカーナヴォンによって以下詳しく述べるような「一連の政治劇」が開始されることとなるのだという(註43)。カーナヴォンという人物はこれ以前にもダービー保守党内閣の植民地相だったことがあり、その時に「1867年英領北アメリカ法」を制定してカナダ連邦の創設に深く関与したという経験を有していた(註44)

 註42 C・W・デ・キーウィト著 野口建彦、野口知彦訳『南アフリカ社会経済史』103〜104頁

 註43 レナード・トンプソン著 宮本正興、吉國恒雄、峯陽一、鶴見直城訳『南アフリカの歴史(最新版)』243〜244頁

 註44 林光一著『イギリス帝国主義とアフリカーナー・ナショナリズム 1867〜1948』3頁

 ただしデ・キーウィト曰くカーナヴォンはキンバリーやモルテーノのように「時間とケープ植民地の威信があれば、いずれ南アフリカ全体が一つの国家に結晶する」とは考えず、むしろ「ケープの自治政府は時期尚早で連邦化への障害になるだろうし、イギリス本国政府のみが卓越した強国として連邦化を実現できる」という方向でいたという(註45)。林光一氏によるとイギリス本国で1874年成立の保守党ディズレーリ政権(第二次)がちょうどその頃ドイツ帝国やアメリカ合衆国が新興工業国として台頭してきた最中において投資先や原料供給地、商品市場としてのアジア・アフリカでの積極的な植民地政策を発動しつつあり、ダイヤモンド発見以降の南アフリカにおいてもその独占を狙って本国政府の主導下においての南アフリカ連邦の結成を策すこととなるのであるという(註46)。ジャン・モリスによると当時のイギリスには自分たちの植民地帝国がドイツやアメリカのような「組織として引き締まった新興大国」と比べて「締まりがさなすぎる」と思っている者が多く、そのような「意図より習慣でつなぎ合わされ、何世紀ものあいだに寄せ集められ、力でまとめられている帝国」をもっと緊密もっと合理的に再編するにはどうすべきかという問題に対する、当時として最も人気があった解答「なんらかの形の連邦制」という案の最も熱心な信奉者となったのがカーナヴォンであったという……、それは具体的には白人自治植民地を手始めに帝国を大きな下位単位に纏めることで「超大国への第一歩」とするとの構想で、まずはカーナヴォン自身が創設にかかわったカナダ、次にその頃まだ5つの別個の植民地が併存していたオーストラリア(及びそれと行動を共にするであろうニュージーランド)、そして「三本目の柱」を立てる場所として南アフリカに思いを巡らせていたのだという(註47)。しかし林光一氏によるならばカーナヴォンは実のところ南アフリカにおいては当初から連邦結成について具体的に考えていた訳ではなく、ダイヤモンド鉱区紛争や1873~1875年の「ランガリバレレ事件(後述)」等の民族・人種紛争に迫られる形でその早急かつ最良の解決策として連邦結成を提起することとなったという(註48)

 註45 C・W・デ・キーウィト著 野口建彦、野口知彦訳『南アフリカ社会経済史』104頁

 註46 林光一著『イギリス帝国主義とアフリカーナー・ナショナリズム 1867〜1948』1〜2頁とその注記

 註47 ジャン・モリス著 椋田直子訳『ヘブンズ・コマンド 下巻 大英帝国の興隆』228〜229頁

 註48 林光一著『イギリス帝国主義とアフリカーナー・ナショナリズム 1867〜1948』3〜4頁

 ロスによるとカーナヴォンはそのランガリバレレの件(もっと後で解説する)とキンバリーに関するイギリスとオレンジ自由国の対立の解決、そして何より「アフリカ文化の進歩と(大英)帝国の利益のため」、もっと具体的にいえばイギリス企業による安全確実な投資と労働力の確保を南アフリカの連邦化によって成し遂げようとしたのだという(註49)。ブレイクによるとカーナヴォンは「カナダにおいて連邦がうまく機能したのであるから、どうして南アフリカでもうまくいかない筈があろうか」「カナダ同様、2つの異なる言語と2つの異なる民族の白人入植者が存在するではないか」(註50)との見通しでいた。ここでカナダについても多少詳しく触れておいた方が読者の皆さんの理解にも資するのではないかとも思うが、面倒くさいので興味のある方にはご自分で調べていただくとして、とにかくカナダにはイギリス系とフランス系という2つの白人社会があった(ある)のをそういう形に纏めたということで、似たような状況にある南アフリカにもそのような体制を構築すべきではないかとの意見が生ずるのは当然のことである。ところがまたブレイク曰く「重要な違いは、カナダの入植者は連邦を望んでいたが、南アフリカでは少数の英国入植者だけが望み、ボーア人は連邦に賛成ではなかったことである」「他方、南アフリカ連邦形成の客観的論拠があったのも事実である。連邦形成以外にかつてのカフィル戦争再現の脅威に対抗する方法がないように思われた」「しかし、ボーア共和国は形式上でも英国国王に忠誠を誓う立場になかった。そしてケープ植民地は、豊かさにおいて劣っている隣人と一緒に原住民対策費用を分担するのを嫌っていた」のであった(註51)。ボーア人が連邦の話に全く不賛成だったのか、実はそうでもなかったかについては、この時期でも全く誰も賛成していなかったという訳でもない、というところであろうとは思う。それとジャン・モリスによるとイギリスは南アフリカ諸地域に対して「最高支配権」か、或いは少なくとも「信託統治権」が自分たちにあると信じていたという(註52)。ケープ総督が兼務する「南アフリカ高等弁務官」職もそういう含みで置かれたものだったのだろうか。

 註49 ロバート・ロス著 石鎚優訳『南アフリカの歴史』68頁

 註50 ロバート・ブレイク著『ディズレイリ』772頁

 註51 ロバート・ブレイク著『ディズレイリ』772〜773頁

 註52 ジャン・モリス著 椋田直子訳『ヘブンズ・コマンド 下巻 大英帝国の興隆』231頁 ただしジャン・モリスはその「最高支配権」ないし「信託統治権」が正確にどの範囲に対して有効だと信じられていたかについては明記していないのだが、前後の文脈からいってアフリカーナー共和国を含む地域のことを指してそういっていると思われる。

 カーナヴォンはまず1874年3月、友人の歴史家フルードを南アフリカの実情視察に派遣した。吉田賢吉氏によるとフルードは南アフリカの現地で各地の官憲と衝突し種々の波紋を起こし(たと吉田氏は記しているがその官憲というのが具体的にどこの官憲かは記していない)つつ「オレンジ自由国はグリカランド併合問題で頗る感情を害している。しかし自分の見るところでは各方面の識者は土人対策が統一的に行われることを希望している。従ってこの際南阿諸国を統一することは必ずしも不可能でない」とカーナヴォンに進言、他からの情報にもこの話を裏書きするようなものが多く、おかげでカーナヴォンとしても「南阿諸国の統一は可能であり、統一しなければならぬ」と頭に描くようになったいう(註53)。カーナヴォン閣議で曰く「南阿を連邦とすることの利益は明白である。今や移民と資本は徐々に南阿諸国に流入しつつあるが、各国の政府たるや財政は貧弱、財産に対する保護は不適当、立法は信頼できない有様である。是等(諸国)を連邦とするときは各般の行政を改善し経費を節減することが出来る。その暁には本国から軍隊や資金の援助をなす必要はなくなるであろう。そして即時統一し連邦とせねばならぬ第一の理由はかの恐るべき土人問題である。之を処理するには賢明にして確固たる政策を行うことこそ肝要である」(註54)。ブレイクによるとフルードは「学者らしい自惚れた自信満々の態度で連邦形成を説いて回った。しかも、現地の考えを変えさせることができなかったのに、恰もできたかのように植民地相に伝え大臣の判断を誤らせた」のだといい、ディズレーリ首相はというと基本的には連邦の話に賛成ではあったがフルードの働きには不満だったという(註55)

 註53 吉田賢吉著『南阿聯邦史』189〜190頁

 註54 吉田賢吉著『南阿聯邦史』190頁

 註55 ロバート・ブレイク著『ディズレイリ』773頁

 ところが林光一氏によるとフルードは「私見によれば、帝国政府は南アの領有をテーブルマウンテン半島に限定し他地域に関しては南ア諸政府の領有に委ねるべきである。……仮に帝国政府がダイヤモンド鉱区問題を何らかの形で解決し原住民政策で干渉しないのであれば、共和国(註56)はイギリスの自治領となる可能性が高いであろう」との見解を示し、これはつまりイギリスとしては第一に本国とインドを繋ぐ「エンパイヤールート」の中継点たるケープタウンとサイモンズタウンのあるテーブルマウンテンを押さえることが重要なのであり第二にはこの地域の領有のためにボーア共和国との友好関係を維持する必要がある、という「親ボーア論に立脚した戦略的重要拠点確保の主張」だったのであって、この意見の背景にはボーア人の古風・純真で聖書根本の生活が彼の理想であった反産業主義・反営利主義を体現していると思われたというフルードの親ボーア主義があったという……、したがって林光一氏の引くR・L・コープによると親ボーアたるフルードはボーア共和国との協調それ自体を目指していたのだが、カーナヴォンにとってはボーア共和国に対して宥和的な姿勢をとるにしてもそれは連邦結成のための手段であって、ボーア共和国宥和策と連邦結成策とがバッティングするならば躊躇なく後者を重視することとなってしまうのだったという(註57)

 註56 これに限らず本稿で「共和国」とか「ボーア共和国」とか表記されているのはアフリカーナーの2国のこと。

 註57 林光一著『イギリス帝国主義とアフリカーナー・ナショナリズム 1867〜1948』4〜5頁

 そしてここでようやく説明する「ランガリバレレ事件」というのは1873〜1875年にナタールで起こった騒動である。林光一氏によるとランガリバレレという首長が出稼ぎで買った武器を白人に回収されそうになったことで騒動になったといい(註58)、トンプソンによるとランガリバレレが捏造された容疑による逮捕を拒んだことで入植民から抗議の声が湧き上がり首長位から退位・追放、その臣民の土地も没収されたという(註59)。デ・キーウィトによればランガリバレレの「些細な反抗的行為」が植民地側にパニックを引き起こし、首長とその部下に対する過剰な対応・刑罰となったことがカーナヴォンの目には「単独の共同体では難しい先住民問題に厳正かつ公正に対処できない」と映ったという(註60)。なんにせよカーナヴォンはまず植民地省(本省)の権限と特別任命のナタール副総督ウェルズリーの剛腕を通じてナタール議会の指名議員枠を増枠し副総督の権限を強化するという手を打った(註61)。ウェルズリーはインドでのセポイの乱や西アフリカのアシャンティ王国(現在のガーナにあった国)との戦争で活躍したことからその手腕をナタールでも発揮することを期待されていたが、彼はボーア人のことを「粗野・下劣・粗暴・無学、農業のみに執着しアフリカ人を虐待する民族」と看做し、更にはボーア人が先祖伝来の生活様式に執着していることが南アフリカの発展を阻害すると決めつけ、ボーア共和国にもイギリスの支配権を及ぼすべしと考えていた(註62)。アフリカ人を虐待するのが云々といえばカーナヴォンもまたアフリカ人に対して博愛主義的な感情を抱いていて、白人がアフリカ人を虐待するのは後者に対する前者の恐怖感がある故であるからして連邦を実現することによってその恐怖心を和らげることが出来るとも考えていたといい、それと並行してアフリカ人首長の権限を縮小、アフリカ人の武装解除を実施して白人の優位を確立、何らかの形でアフリカ人独立王国を再編成し労働力資源としてのアフリカ人を確保したいと考えていたという(註63)。またその一方でカーナヴォンが植民地省覚書に論じて曰く「効率的行政の欠如から財政状態が不安定で海外資本や移民を引きつけるのが困難な小さく分裂した白人諸政府の再編成」という思惑もある(註64)。それと林光一氏によるとウェルズリーは前述のようなフルードの親ボーア論に疑念を呈するという形でアフリカーナー2国に部下をやって視察させ現地ボーア人は連邦の話に否定的という結論を得ている(この結論は林氏の見立てでは「誇張とはいえない」とのことである)が、カーナヴォンの方はまだフルードの論の方にウェイトを置いていたのであるという(註65)

 註58 林光一著『イギリス帝国主義とアフリカーナー・ナショナリズム 1867〜1948』19頁

 註59 レナード・トンプソン著 宮本正興、吉國恒雄、峯陽一、鶴見直城訳『南アフリカの歴史(最新版)』233〜234頁

 註60 C・W・デ・キーウィト著 野口建彦、野口知彦訳『南アフリカ社会経済史』105頁

 註61 C・W・デ・キーウィト著 野口建彦、野口知彦訳『南アフリカ社会経済史』105頁

 註62 林光一著『イギリス帝国主義とアフリカーナー・ナショナリズム 1867〜1948』9〜10頁 岡倉登志著『ボーア戦争 金とダイヤと帝国主義』31頁

 註63 林光一著『イギリス帝国主義とアフリカーナー・ナショナリズム 1867〜1948』14〜19頁

 註64 林光一著『イギリス帝国主義とアフリカーナー・ナショナリズム 1867〜1948』20頁

 註65 林光一著『イギリス帝国主義とアフリカーナー・ナショナリズム 1867〜1948』11頁

 それと、ナタールの絡みでいえば同地の原住民政策を仕切るシェプストンが領土拡張を策していてその障害となるトランスヴァール(やズールー王国をはじめとするアフリカ人王国、更にはポルトガル領モザンビーク)をどうにかするために「本国政府の直接介入を要請」していたという……、というのはナタールの農園主たちが地元のアフリカ人(いまいち使えない)よりも労働力になりそうに思えた内陸部のアフリカ人の調達を欲していたことや貿易業者たちが内陸部との交易で利益をあげていたからで、更にはクリカランドウェスト政府からも労働力調達のための一手が求められていた(労働力供給ルートがトランスヴァール等に妨げられてもいた)ことがまたカーナヴォンの連邦案の背景としてあったという(註66)。この段落は林光一書によっているが、北川勝彦氏もシェプストンが労働者問題解決の一手としてカーナヴォンを動かしたと述べている(註67)

 註66 林光一著『イギリス帝国主義とアフリカーナー・ナショナリズム 1867〜1948』17〜19頁

 註67 北川勝彦著『南部アフリカ社会経済史研究』100頁

   ロンドン会議  (目次に戻る)

 ともあれ1875年、連邦実現に向けて動き出したカーナヴォンはまず同年5月4日の南アフリカ高等弁務官バークリィ宛のデ・キーウィト曰く「迫力十分」な訓令で「全南アレベルでの懸案事項」たる「アフリカ人への脅威」「アフリカ人への武器・弾薬販売」等の解決を話し合うための各植民地と周辺共和国の代表者会議の開催を勧告した(註68)。かような民族・人種問題は連邦結成によってこそ早期解決が可能であろう!

 註68 林光一著『イギリス帝国主義とアフリカーナー・ナショナリズム 1867〜1948』3〜4頁 C・W・デ・キーウィト著 野口建彦、野口知彦訳『南アフリカ社会経済史』105頁

 カーナヴォンはオレンジ自由国のブラント大統領やトランスヴァールのブルガー大統領とも胸襟を開いて語り合えば諒解に達することが出来ると踏んでいたが、意外にもケープ植民地から強硬な反対意見が挙げられた(註69)。というのは林光一氏によるならばこの案が本国主導でなされたこと、ハイフェルトやナタール方面でのアフリカ人政策の費用負担を強いられそうなこと、内陸部に位置するオレンジ自由国やグリカランドウェストと沿岸部の港湾とのアクセスを独占出来なくなるからといった理由があったといい、連邦を結成するならするでもっとしかるべき時期に本国ではなくケープの主導で、それも諸政府の連合ではなくケープによる諸地域併合が好ましいというのがケープ現地の意向であったという(註70)。吉田賢吉氏によるとケープ側の有力者たちはそういった話は関税や鉄道といった問題から徐々に着手すべきと考えていたし、ケープ責任政府首相モルテーノにいわせればケープ政府は未だ基礎薄弱、財政的余裕も乏しくてその種の議論は時期尚早なのであった。トンプソンは「ケープ植民地内閣は(中略)これを帝国政府の干渉と受け取り、不満を隠さなかった」としている。デ・キーウィトによるとモルテーノはランガリバレレ事件後のナタールの状況(副総督の権限強化)からしてカーナヴォンがケープの自治権をあまり尊重してくれないだろうと見ていて、そういう状況下であったならカナダやオーストラリアの政治家たちも間違いなくモルテーノと同じ態度をとったろうとしている。しかしこれまたデ・キーウィトによると「その反面、モルティノー(原文ママ)の視野はケープに限定されていて、南アフリカ共通の利害にまで及ばず、その点に関しては、ダウニング街(註71)の方がよく見通しが効いていた。現地での経験がなくても、カーナボン卿の方が、バーガース(註72)首相、ブランド(註73)首相あるいはモルティノーより、個々の政府では各々の社会・経済政策をもはやうまく遂行できないことを非常に明確に理解していた。海に面した植民地が港で徴収する関税を、陸地に封じ込められた内陸社会に分配するのを利己的に拒否する限り、あるいはケープとナタールが内陸貿易で熾烈な競争に明け暮れる限り、また、最も重要な先住民政策で共通の了解が得られない限り、南アフリカには発展も平和も保証し得ないのだった」。

 註69 以下この段落と次の段落は吉田賢吉著『南阿聯邦史』189〜191頁 林光一著『イギリス帝国主義とアフリカーナー・ナショナリズム 1867〜1948』1〜9、20〜21頁 レナード・トンプソン著 宮本正興、吉國恒雄、峯陽一、鶴見直城訳『南アフリカの歴史(最新版)』243〜244頁 C・W・デ・キーウィト著 野口建彦、野口知彦訳『南アフリカ社会経済史』105〜107頁による。

 註70 このケープ側の思惑については林光一著『イギリス帝国主義とアフリカーナー・ナショナリズム 1867〜1948』によっているが、「しかるべき時期(林書原文は「連邦結成の時期」)」の「時期」というのは具体的にどんな時期が想定されていたかは記されていない。

 註71 イギリス本国政府の所在地。

 註72 ブルガーのこと。本稿では基本的に「ブルガー」表記としているが、引用元が他の表記となっている場合はそのまま引き写しておく。「首相」も原文ママ。

 註73 本稿では基本的に「ブラント」表記としているが、引用元が「ブランド」の場合はそのまま引き写しておく。「首相」も原文ママ。

 アフリカーナー両国はというと林光一氏によれば当初は連邦案に賛同していたが、まずトランスヴァールはちょうどその頃にデラゴア湾の帰属問題(第四部参照)がポルトガルの領有ということで確定したためそちらとのアクセスを期待するということで、オレンジ自由国もダイヤモンド鉱区の件を巧く運ぶための駆け引きとして会議不参加を表明した。そもそもイギリス側はバストランド(レソト)とグリカランドウェストの併合の件でボーア人を怒らせていることについての認識が甘かった。トンプソンによればオレンジ自由国はやはりグリカランドウェストの件で「フォルトレッカー精神の炎がいっそう燃え盛っていた」し、「トランスヴァールのほうではアフリカーナーの士気は低かったが、それは、経済の脆弱さと大統領ブルヘルス師(註74)の不人気が原因で」あった。折しもデラゴア湾鉄道の件でイギリス本国にも来ていたブルガー大統領はデ・キーウィトによると「カーナボン卿に連邦化の理念に傾倒しているという姿勢をとった」が次の訪問地のオランダでは「必ずしもイギリス国旗の下での連邦化を考えてはいないと明言した」という。トンプソンによってもトランスヴァール大統領はカーナヴォンに対しては「イギリスが後ろ盾になった連邦制を支持するのではないか、という感触」を与えていたというのだが、しかし続けてトンプソン曰く「そんなことをすればブルヘルスの政治的自殺になりかねないのだから、カーナボンの判断はまったくの見当違いであった」。林光一氏曰くこれはケープがイギリス領として確定して以降の「60年にわたるイギリスの統治政策」の当然の結果といえなくもないのであった。結局カーナヴォンはオレンジ自由国だけでも会議に参加させようと1876年5月~7月の交渉を経てダイヤモンド鉱区の弁償金として9万ポンドと鉄道建設(オレンジ自由国からケープ及びナタールの2方面に伸びる路線。これでトランスヴァールのデラゴア湾鉄道構想に対抗するという含みがあった)費1万5000ポンドを支払うという「屈辱的譲歩」とも称される妥協を強いられた。

 註74 ブルガーのこと。

 グリカランドウェストのサウジー副総督とナタールのウェルズリー副総督はカーナヴォンの味方だった。デ・キーウィトによるとサウジーは熱烈な帝国主義者としてアフリカーナー共和国の独立に好感を持っていなかった上に「弱小で貧しい政府の首長として、彼は、小国分立状態がもたらす不利益をモルティノーより認識しやすい立場にあった」し、自分の管轄のダイヤモンド産地に南アフリカ諸地域からやってくる先住民労働者の問題がそのうちもっと厄介になるだろうと「きわめて正確に認識していた」といい、ウェルズリーはそもそもカーナヴォンの手先で、ナタールに隣接するズールー王国が今後引き起こすかもしれない大乱を警戒していたことと、内陸部の鉱物資源はダイヤモンドだけではない(「経済的重力の中心」が沿岸植民地から内陸部へ移ろうとしている)と睨んでいたのだという(註75)。ジャン・モリスも既に当時イギリスの先見の明あるものはトランスヴァールこそが「将来の南アフリカの中心」と目していたとしている(註76)

 註75 C・W・デ・キーウィト著 野口建彦、野口知彦訳『南アフリカ社会経済史』106頁

 註76 ジャン・モリス著 椋田直子訳『ヘブンズ・コマンド 下巻 大英帝国の興隆』231頁

 それでけっきょく「南アフリカ諸地域の代表者会議」はどうなったか。当初はケープ植民地内での開催という話だったがケープの反対でナタールのピーターマリッツバーグに変更、最終的に1876年8月3〜15日に本国植民地省内で開催された「ロンド会議」には議長役としてカーナヴォン、副議長ウェルズリー、ナタール代表としてシェプストン、グリカランドウェスト代表フルード(註77)、それからオレンジ自由国のブラント大統領が参加、けっきょくのところ連邦の件はスルーされたがアフリカ人問題が俎上に上げられて武器弾薬や酒類の販売や土地保有等々に関して若干の成果をあげることとはなった(註78)。しかしナタール代表のシェプストンはトンプソンにいわせれば「選挙で選ばれたわけでもない官吏」に過ぎず、ブラント大統領は「会議で連邦問題が議論されないようにすること」が目的で出席したという始末であった(註79)。吉田賢吉氏によるとブラントはグリカランドウェストの件で訪英していたのであって連邦問題に関する話し合いには出席しないとの態度を示したといい、ケープ首相モルテーノも訪英してはいたものの会議には傍聴者として出席することすら拒んだそうで、他の連中は吉田賢吉氏曰く「誰一人カーナヴォン御大の意見に反対するもののないのは当然である」ということでカーナヴォンは「会議の意見は一致した、余は連邦案について勅許を得ることについて考慮中である。如何なる障害を排しても連邦を成立せしむべく努力する。兎に角余は次の工作に移ることとする」と宣った……、その「次の工作」とは要するにこれから詳しく解説するトランスヴァールの併合に他ならなかったのだという(註80)。これも吉田賢吉氏によるとカーナヴォンは「頑固一徹で一旦こうと定めたら梃子でも動く男ではな」くこの時も「勢当るべからざるものがあった」そうだ(註81)が、林光一氏にいわせるならばカーナヴォンは今回の会議の「失敗」の結果として対南ア政策の再考を迫られる形で対トランスヴァール強硬政策の採用を決意するに至るのであって、それは従前のフルードの親ボーア論からウェルズリーの反ボーア論に基づく政策への転換であり、またその背景としてはその時期にディズレーリ首相が別の外交案件(註82)でロシアに対して強硬な姿勢で臨み閣内不一致をもたらしていた影響でカーナヴォンとしては南アフリカでの連邦結成を早急に具体化する必要に迫られたのだという(註83)

 註77 この顔ぶれは林光一書8頁によっているがグリカランドウェスト代表はフルードではなくサウジーの間違いではないだろうか。吉田賢吉書191頁も会議参加者にフルードを入れている(ただしどこの代表だとは述べていない)が、フルードが何の資格があってグリカランドウェストを代表出来たのか甚だ疑問である。

 註78 林光一著『イギリス帝国主義とアフリカーナー・ナショナリズム 1867〜1948』6〜9頁

 註79 レナード・トンプソン著 宮本正興、吉國恒雄、峯陽一、鶴見直城訳『南アフリカの歴史(最新版)』244頁

 註80 吉田賢吉著『南阿聯邦史』191頁

 註81 吉田賢吉著『南阿聯邦史』191頁

 註82 1876年に当時オスマン帝国領だったブルガリアで起こった反オスマン叛乱が残虐的に鎮圧されたことにどう対応するかでイギリスの国論が分裂、こちらも意見が割れていたロシアが1877年に至ってオスマン帝国と線端を開くに至るのだが、その過程でイギリスの政界も「嫌オスマン」と「嫌ロシア」に割れることとなった。

 註83 林光一著『イギリス帝国主義とアフリカーナー・ナショナリズム 1867〜1948』9頁

 トンプソンによってもカーナヴォンは「外交で挫折した」結果として「より劇的な手段に訴え」ることになったとしている(註84)。それと林光一氏によるとカーナヴォンという人格にはアフリカ人に対する「理想・博愛主義者としての側面」と「帝国主義者としての側面」が備わっていて、前者に関してはボーア共和国は無論のことケープにおいても理解を得ることが難しく、連邦問題についてもここまでの懐柔的な手法はウェルズリー、サウジー、それからケープ総督バークリィ等の「対共和国強硬派」の反対を抑えてのことだったのが、ボーア側の根強い反英感情の結果として「カーナヴォンの帝国主義者としての側面を引き出し彼の強引なトランスヴァール併合を誘発した」といい得るのだという(註85)。デ・キーウィトによると「カーナボンの胸中にある様々な動機が強硬措置をとるよう促していた。彼は先住民に対して人道主義的関心を持っていた。差し迫る危機を感知して、南アフリカの平和とイギリス人納税者の懐具合の双方に懸念を抱いていた。彼らイギリス人納税者は、頻発する南アフリカ戦争ですでに莫大な費用を負担していた。南アフリカの小国分立状態を解消すれば、カナダ連邦と並ぶカーナボン個人にとっての勝利となり、重要な業績になるだろう。南アフリカ全土にイギリスの国旗を掲揚すれば、大英帝国の勝利となるだろう」(註86)とのことであった。人道といえば明治33年刊行であるところの吉田栄右書ですらもカーナヴォンという人物は連邦の実現によって「各異様の人種が、忠実に、平和に、且つ対等に、生活労働すべき国となさんことを画作しつつありき」と述べている(註87)。岡倉登志氏は「この時期のイギリスは、トランスヴァール共和国のダイヤモンド鉱脈に重大な関心を抱いており、もっぱらこの理由により、トランスヴァール併合をもくろんでいた」としている(註88)が、この時期のトランスヴァールにそんなものがあったという話は他書には見当たらないので岡倉氏の思い違いか、実際に小規模なものでも見つかっていたのか、或いはそんな噂でもあったということなのだろうか、ジャン・モリスによれば金鉱脈があるという噂はあった(註89)そうなのでそれと間違えているのか、或いは「南アフリカのダイヤモンド鉱脈」の書き損じなら、労働力調達等の便宜のためにもトランスヴァール併合が有力な一手となるということで意味は通ると思う。宮本正興氏は1871年のグリカランドウェスト併合もこれからなされるトランスヴァール併合もイギリスが2つのボーア国家の勢力拡大を警戒しつつ同時にインド洋戦略を重視していたが故であるとしている(註90)

 註84 レナード・トンプソン著 宮本正興、吉國恒雄、峯陽一、鶴見直城訳『南アフリカの歴史(最新版)』245頁

 註85 林光一著『イギリス帝国主義とアフリカーナー・ナショナリズム 1867〜1948』17、20〜21頁

 註86 C・W・デ・キーウィト著 野口建彦、野口知彦訳『南アフリカ社会経済史』106〜107頁

 註87 吉田栄右著『杜國大統領クルーゲル』71頁

 註88 岡倉登志著『ボーア戦争』25頁

 註89 ジャン・モリス著 椋田直子訳『ヘブンズ・コマンド 下巻 大英帝国の興隆』233頁

 註90 宮本正興著「イギリス領ケープ植民地の誕生」宮本正興、松田素二編『新書アフリカ史』372頁

 ついでながらカーナヴォンは今回の会議に続きケープ首相モルテーノから何とか連邦実現に向けての協力を得るべく両名の個人的協約(カーナヴォンの譲歩)という形で将来的にケープがグリカランドウェストを併合するという合意に至った(註91)。第四部で触れたようにケープ側はグリカランドウェストの編入を拒んでいた筈なのだが、モルテーノとしては本国の主導によって南ア諸地域の取りまとめをされるのではなく「ケープによる他地域併合」という形なら可という前述の思惑に基づいて今回のカーナヴォンの「譲歩(ケープによるグリカランドウェスト併合の許可)」を受けたということと思われる。

 註91 林光一著『イギリス帝国主義とアフリカーナー・ナショナリズム 1867〜1948』8頁

   トランスヴァール・ペディ戦争  (目次に戻る)

 トランスヴァール共和国がオレンジ自由国と比べても弱体でまとまりがなく紛争まみれだったということは第四部で解説した通り、この頃も大統領のブルガーと副大統領のクリューガーが対立していて吉田栄右氏によれば「政綱弛緩して法令行われず、ヅールー族襲撃の報を得るも、国民は大統領の徴募に応ぜず、農民貢税を拒んで、政府之を強ゆる能わず」という有様でもはや半銭の借款も出来なくなっていたという(註92)。峯陽一氏も「トランスヴァールは経済的に脆弱であり、共和国大統領ブルヘルスは人気がなかった」としている(註93)。アフリカ人との関係においても1876年7月にペディ族のセココニ首長とトランスヴァールの農民との間にデ・キーヴィト曰く「人為的要因で発生した土地不足」による紛争が発生(註94)、鈴木正四氏によるとこれはダイヤモンド・ラッシュに絡んでトランスヴァールのボーア人の間で大地主と土地無し農民の格差が著しくなっていたのを国内での土地制度改革ではなく外征で解決しようとしたという少し前にも触れたトランスヴァール政府の政策によって発生したもので、「土人から没収した土地と家畜を与える」と兵員に約束したことから残酷な戦いが展開され、ダイヤモンド企業家をはじめとするイギリス系からは「人道に反する行為」という非難を浴びせられる中で戦いはトランスヴァール側の敗北となった(註95)

 註92 吉田栄右著『杜國大統領クルーゲル』70〜71頁

 註93 峯陽一著『南アフリカ 「虹の国」への歩み』100〜101頁

 註94 C・W・デ・キーウィト著 野口建彦、野口知彦訳『南アフリカ社会経済史』108頁 林光一著『イギリス帝国主義とアフリカーナー・ナショナリズム 1867〜1948』11頁

 註95 鈴木正四著『セシル・ローヅと南アフリカ』27〜28、46〜47頁

 吉田賢吉氏によるとこの戦争ではブルガー大統領がクリューガーやジュウベルトに討伐を頼んで断られたため自ら2000の兵を率いて出撃、しかし「結局要領を得ずに帰って来た」という(註96)。トンプソンによるとペディ人というのはムフェカネで離散状態になっていた集団だったのが1850年代にセクワチという有能な指導者に統合されトランスヴァール東部の堅固な山岳地帯を中心に王国を構えていたもので、ただしその配下の首長たちの力が強くて1861年にセクワチが死ぬと2名の息子が対立、外部からはスワジ人とアフリカーナーに圧迫されていたため、首長たちはアフリカーナーと主君とをぶつけることで漁夫の利を得ようとしたのだといい、今回の戦争でブルガー大統領は「2000人の自由市民、2400人のスワジ人兵士、600人のトランスヴァール・アフリカ人」でもってペディ人を攻めるも失敗したのだという(註97)。前にも触れたようにペディ人にはダイヤモンド鉱山に出稼ぎに行く者が多かったため、労賃で買って来た鉄砲でトランスヴァール軍に抗戦したとかではないかと思われる。ロスによるとペディ王国はやはり出稼ぎの労賃で武器を買い揃えていた(国内で金が見つかったことで短期的なゴールド・ラッシュになってもいた)上にトランスヴァールの圧迫を受けていた周辺のアフリカ人勢力から保護を求められており、そこに攻め込んだトランスヴァール軍はロス曰く「スワジ人部隊に支援されたにもかかわらず(中略)ペディ人王国の拠点を占領できないままに撤退し、結局、この戦争は共和国の負債をさらに増やすことにしか役立たなかった」といい(註98)、吉田栄右氏によるとこの戦争は「ブーア人の大敗北となり、数週日を出でずして杜共和国(註99)は、黒人土蛮等の剪滅する所とならんとせり」という惨状をもたらしたという(註100)

 註96 吉田賢吉著『南阿聯邦史』189頁

 註97 レナード・トンプソン著 宮本正興、吉國恒雄、峯陽一、鶴見直城訳『南アフリカの歴史(最新版)』198〜199、237頁

 註98 ロバート・ロス著 石鎚優訳『南アフリカの歴史』69頁

 註99 「杜」とはトランスヴァールの略字。

 註100 吉田栄右著『杜國大統領クルーゲル』71頁

   トランスヴァール併合  (目次に戻る)

 そして吉田栄右氏続けて曰くこの戦争を見たカーナヴォンは南アフリカ連邦という「大計画を成熟せしめんが為め、又他方には杜国を、その国歩の艱難より救済せんが為」にシェプストンに「若し必要なる場合には、杜国を併有すべき権力」を付与して派遣すべきことを決定した(註101)。ところが吉田賢吉氏によると今回の戦争を見たケープ総督バークリィが「ボーア人がセココニを圧迫している」と本国に報告、これがカーナヴォンをして「大芝居を打たせるきっかけ」となったという(註102)。大芝居というのは無論イギリスによるトランスヴァール併合ということだが、林光一氏によるならばそれは「いうまでもなく」ウェルズリーの主導下において進展することになるもので、曰くまず1876年9月にバークリィからの報告を受けたウェルズリー(ロンドン会議が終わってすぐなので彼もシェプストンもまだイギリス本国にいた)からカーナヴォンに対し「シェプストンのナタール帰還」を提案し更に「トランスヴァール介入ないし介入後の手順」を助言、シェプストンに対しては「アフリカ人の脅威から住民の生命・財産を保護するとの口実の下併合を実現する」ことを助言し、更には両人に対してこの好機を逃せば全ておじゃんなので早急に併合が実現するようハッパをかけたといい、カーナヴォンとしても既に見たようにロンドン会議を経て以前のような説得工作ではなく強硬策に打って出る機会を窺っていたのだという(註103)

 註101 吉田栄右著『杜國大統領クルーゲル』71〜72頁

 註102 吉田賢吉著『南阿聯邦史』189頁

 註103 林光一著『イギリス帝国主義とアフリカーナー・ナショナリズム 1867〜1948』11〜12頁

 ジャン・モリスによるならばそもそもカーナヴォンが高名な将軍だったウェルズリーをナタール副総督に任命したのは「英国の唯一無二の大将」たる彼に「連邦制の伝道者」としての任務を授け説得工作に当たらせるためであったのが、「人を信じやすい英国人入植者に比べて、ボーア人にはウルズリー(註104)の魅力が通じにくいことがまもなく判明し」たことがカーナヴォンをして強硬策を選択せしめたのであるという(註105)。デ・キーウィトによればトランスヴァール・ペディ戦争はその結果として「トランスバールの財政と行政に大きな負担をかけ、その負担により財政と行政の両方が崩壊した」ことで「共和制反対論者、金融界や商取引の利害関係者、小国分立体制の打ち切りを望む比較的寛大な人々が結集して、イギリスの介入を求め」ることとなったといい、カーナヴォンの方は実は「バーガーズ(註106)政権の完全崩壊が判明する前に、すでにトランスバールをイギリスの支配下に置くことを決意していた」という(註107)。「共和制反対論者」というのはイギリスから独立した存在としてのトランスヴァール「共和国」の存在に反対している人々がかねて存在したということのようである。更にまたジャン・モリスによるとボーア人がドイツやフランス、ポルトガルと裏で手を握る可能性やズールー人がトランスヴァールを制圧してしまう可能性が取り沙汰されており、またボーア人による黒人の扱いは今でもイギリス側の腹立ちの種であったし、何度もいうようにトランスヴァールの国家財政は破綻状態で大統領ブルガーは国内対立を抱え、その一方でこれまた前述のように現地には金鉱脈があるという噂も流れていて、更にはディズレーリ首相ももともと帝国主義を集票に利用していて「この小規模な攻勢に成功すれば票につながると考えたかもしれない」ということで、そんなこんなでトランスヴァールは最早「ヴィクトリア女王の母なる腕に抱き取られる機が熟していたように見えた」(註108)のであったという。

 註104 原文ママ

 註105 ジャン・モリス著 椋田直子訳『ヘブンズ・コマンド 下巻 大英帝国の興隆』231〜232頁

 註106 ブルガーのこと。

 註107 C・W・デ・キーウィト著 野口建彦、野口知彦訳『南アフリカ社会経済史』108頁

 註108 ジャン・モリス著 椋田直子訳『ヘブンズ・コマンド 下巻 大英帝国の興隆』233頁

 「ズールーがトランスヴァールを制圧する可能性」に関しては山口昌男氏によると1873年にシェプストンから承認される形で王位についていたセチョワヨ率いるズールー(及びこちらもトランスヴァールを圧迫し得るレソト)は要するにイギリスによって背後から肩入れされていたのであって、したがってトランスヴァールが対処し得るものではなかった(ので必然的にイギリスによる併合という結果がもたらされる)のであったという(註109)。ディズレーリの意向については鈴木正四氏によれば彼は以前には「無用な費用を本国に負担させるもの」としての植民地というものに否定的だったのが1870年代初頭からその主張を一変させていたといい、その背景としては……本稿でも繰り返し何度も何度も述べていることではあるが……イギリスの支配層の間でその頃に新しい産業組織を整えつつ勃興して来たアメリカ合衆国、ドイツ、フランスといった諸国に対抗すべくそれまでの「自由競争」「市場の解放」政策を改め、植民地を商品市場・原料産地として独占すべきではないかとの声が高まっていたことがあったということで、ただし全体的にはイギリスの政治家たちの植民地政策は19世紀末頃に至るまで一貫しなかったという(註110)。ブレイクによればディズレーリは概して植民地への関心が薄くて植民地に関する発言が非常に少なかったといい、それどころか「植民地は我々の首にぶら下がった石臼である」と語ったことすらあって、それは機嫌が悪かった時の発言として割り引きして聞いておくべきとしても、植民地政策についてはカーナヴォンに一任という方針で、カーナヴォンとしてはトランスヴァールの敗戦という今の段階ではボーア人はイギリスの保護を歓迎するに違いないと確信、「然るべき早い機会を捉えてトランスバール共和国を併合すべしとの命令」をシェプストンに与えて南アフリカに戻らせたのであったという(註111)。吉田賢吉氏によってもディズレーリはあまり良い顔はしないながらも「大して考えもしないで」カーナヴォンの裁量に一任すると黙認してしまったのだという(註112)

 註109 山口昌男著『アフリカ史』304、347頁

 註110 鈴木正四著『セシル・ローヅと南アフリカ』47〜48頁

 註111 ロバート・ブレイク著『ディズレイリ』772〜774頁

 註112 吉田賢吉著『南阿聯邦史』191頁

 さて吉田賢吉氏によるとカーナヴォンから「もし南阿共和国(註113)国民又は国民参議会の相当数のものが、併合を希望すること明らかなるに於いては、貴官は南阿共和国を併合するも可なり」との訓令……もちろん「相当数」云々は「言葉のアヤ」に過ぎない……を受け特使となったシェプストンは1876年12月にナタールに戻って「自分は今回英国国王から貴国内の紛乱を調査し出来れば適当なる処置を講ぜよとの特命を拝し近く貴国へ赴く筈である」という前触れをした上でトランスヴァールの首都プレトリアに乗り込んだ(註114)。「英国特派使節」の到来で騒然となったトランスヴァール側は交渉委員にクリューガー等を任命、やがてシェプストンは併合のためにやって来たらしいことが分かってくる。クリューガーは「自分は近く行わるべき総選挙に於いて、大統領となれる見込みがある。もし大統領になれば、2週間以内に国内を安定して見せるから併合の件だけは再考して貰いたい」と力説したが全く取り合ってもらえない。トランスヴァール側が一致団結して行動すればなんとかなったかもしれないのに政府も国民参議会も周章狼狽、ブルガー大統領もすっかり力がないのを宿所のホテルのサロンで煙草とシャンパンと「有象無象の取巻連」に囲まれ「ふんぞり返って」眺めやっていたシェプストンは1877年4月12日に至ってそろそろ頃は良しとばかりに「ボーアの祖先が得た土地は、今や土人に蚕食されつつある。国内の行政能率は頗る悪く、土人の来襲を刺戟し、しかも政府は之を反撃する実力はない。之は白人の威厳を傷つけ、白人全体南阿全体の危機を招来するものである。イギリスの支配を要望する数多の陳情書に鑑み、茲にイギリスは南阿共和国を併合する」との布告を発した。トランスヴァール政府側はこれを受諾しつつも「近く使節を英国に派し、本件を平和的に解決する意向である。国民は暫し冷静な態度を持し、流血の惨を惹起するが如きことなからん様希望する」との宣言を発し、同年5月24日(ヴィトリア女王の誕生日)をもってイギリス国旗がプレトリア市内に掲揚された。この一連のやり取りの最中の1877年3月に新ケープ総督として着任したフリーアはカーナヴォンから今回の企図について何の話も聞かされておらず、併合のニュースを持って来た新聞記者に「何! 併合したって? ロンドンの連中が之を聞いたら何て言うだろう」という「間の抜けた」コメントをして笑いものになったという。

 註113 トランスヴァール共和国の正式な国名は「南アフリカ共和国」。

 註114 以下この段落は吉田賢吉著『南阿聯邦史』191〜193頁

 シェプストンの布告にある「イギリスの支配を要望する数多の陳情書」なるものが本当にあったかどうかは筆者にも分からないが、とりあえずトンプソンによれば「トランスバールに奴隷制があるという宣教師の非難」や「トランスバールでの投資の安全に関するイギリス人の交易商や商人、銀行家の懸念」や対ペディ敗戦といったことをカーナヴォンがプロパガンダとして利用していたといい、林光一氏も「トランスヴァール在住の英系白人からの本国政府への介入要請」があったとする(註115)。それから上の段落で詳述した「トランスヴァール併合の経緯」は吉田賢吉書のみに拠っているが、トンプソン書に基づいて併合の経緯を綴ればまずカーナヴォンがシェプストンに対し「できればアフリカーナー市民の支持を獲得しつつ、トランスバール共和国の併合を行うよう」との命令を発し、1877年1月に小規模な警官隊の護衛を引き連れてトランスヴァール入りしたシェプストンは「巧みな待機戦術」を展開してプレトリアの指導的市民たちと面談し彼らのアフリカ人への恐怖感情や内部対立、ブルガー大統領への不満を煽り、国民参議会に財政・行政改革を求めてそれが容れられ実行されると、今度はそれでは不十分だと文句を垂れるで、市民たちがやる気を無くしたところで併合宣言の「平和的」な布告に至ったのだという。布告はトランスヴァール側の大統領秘書官によって読み上げられたが、山口昌男氏曰く「秘書官は、ただもう震えて読みあげるばかりだった。良くも悪くもイギリス貴族と、言葉は悪いが、ヨーロッパからの流れ者の貫禄のちがいである。涙を飲んで併合を承認せざるをえなかった」とのことである。「貴族」というのはシェプストンは「卿」だったから、「ヨーロッパからの流れ者」というのはボーア人のことである。

 註115 以下この段落と次の段落とその次の段落はレナード・トンプソン著 宮本正興、吉國恒雄、峯陽一、鶴見直城訳『南アフリカの歴史(最新版)』245頁 鈴木正四著『セシル・ローヅと南アフリカ』48〜49頁 林光一著『イギリス帝国主義とアフリカーナー・ナショナリズム 1867〜1948』11〜12頁 ジャン・モリス著 椋田直子訳『ヘブンズ・コマンド 下巻 大英帝国の興隆』232、234〜237頁 ロバート・ロス著 石鎚優訳『南アフリカの歴史』69頁 岡倉登志著『ボーア戦争』36〜37頁  岡倉登志著『ボーア戦争 金とダイヤと帝国主義』32頁 山口昌男著『アフリカ史』347頁 伊藤政之助著『戦争史 世界現代篇1』210〜211頁 北川勝彦著『南部アフリカ社会経済史研究』100頁による。

 林光一氏によるとシェプストンはカーナヴォンの命令を受けて即座に本国→ナタール→プレトリアの旅程を辿った訳ではなく、ナタールに着いたところで併合の好機になる筈だったトランスヴァール・ペディ戦争がひと段落ついてしまっていたことやトランスヴァール側の財政状態等を検討する必要があったことから併合を一時延期、しかる後の1877年1月に至っていよいよトランスヴァール入りの実行と相なったのだという。鈴木正四氏によるとシェプストンは「イギリス軍に守られながら」プレトリア入りして「トランスヴァールの無秩序は白人の生活を脅威し、バペディ族(註116)との戦いは正義人道に反する、トランスヴァールは主権をイギリスに譲って、南アフリカ連邦に加入すべきである」と要求、大統領を屈服せしめたものの副大統領クリューガーと国民参議会に拒絶されたとする。続けて鈴木氏曰く国民参議会は解散を命ぜられ(たと鈴木氏は記すが何者がそれを命じたかは記していない)、大統領はイギリスに買収されて協定締結、併合宣言となったのだという。ジャン・モリスはまず「1877年春」にカーナヴォンが「そう明言したわけではなく、数々の指令の行間を縫う形ではあったが、南アフリカ共和国の併合を指示」したと記し、しかしその数ページ後ではプレトリアに赴くにあたってのシェプストンが「併合を望むトランスバール人がある程度いることを確認したら、併合せよ」という秘密指令と「たとえ彼らが望んでいなくても、併合せよ」という口頭命令を受けていたと記している。カーナヴォンが誰に対して指示を発したのか、シェプストンが誰から命令を受けていたかは明記していないので、間に誰かいるということなのだろうか。それと「1877年春」ということはシェプストンがプレトリアに着いてから改めてそういう「行間を縫う形」の指示が届いたということだろうか。なんにせよジャン・モリスによるとシェプストンは個人秘書と事務官数名に騎馬警官隊を引き連れて(1ヶ月かけて)プレトリアに着いてまもなく「ボーア人の大半が大英帝国の一員になりたがっている」と確信し「ボーア人の大多数は変化を歓迎している」とカーナヴォンに打電したが、ジャン・モリスの地の文に曰く「これはまったく事実に反していた。ボーア人の大多数は、40年前に祖父母や親の世代が大英帝国から逃げ出して以来、帝国に対する見方を少しも変えていなかった」のであって、ただ今回のシェプストンの来着が不意打ちだった上に国内は分裂状態、ブルガー大統領は病んで弱っていたのだという。

 註116 ペディ人のこと。

 トンプソンは「プレトリアでは、併合に正面切って反対する者は誰もいなかった」と述べ、ロスも「当初、南アフリカ共和国のアフリカーナーはこの併合に抵抗しなかった」としているが、岡倉登志氏によるとシェプストンは軍隊を伴っていてそれを用いた軍事的圧力をかけ、併合宣言の際には「それにたいする抗議行動」があったのをイギリス側が「ボーア住民の抵抗を退け」た上での5月24日の国旗掲揚に至ったそうである(このくだり岡倉氏の2書のそれぞれの該当箇所をミックスして叙述した)。また岡倉氏は併合の話を聞いたフリーア総督のコメントは「おとぼけ」であったとしている。山口昌男氏と伊藤政之助氏によるとシェプストンはフリーアの命令でプレトリアにやって来たのだそうだが、それが本当だとするとやはりフリーアは事前に(南アフリカに着任する前に)シェプストンと話を通していたのだろうか。しかし山口・伊藤氏はシェプストンは「総督」としてのフリーアの命令でプレトリア入りしたとしていて、とすると他書にあるシェプストンのトランスヴァール入りやフリーア着任の時期とチグハグになってしまうのだが……。また伊藤政之助氏は併合に至る経緯について「1877年ケープ植民地の英総督フリーヤ(註117)は、一隊の兵を行政官セップストンに授け、ブーア人が東北の蛮賊と交戦中の虚に乗じ、大挙侵入して首府プレトリヤを占領せしめ、其の上ブーア人8000の中より2500人を強要して英国に合併することに賛成せしめて其の署名を集め、遂にトランスバールを併合して了った。何たる不信横暴の挙であろう」と記している。北川勝彦氏は逆にシェプストンがフリーアとカーナヴォンを動かしていたと述べている。シェプストンが労働力確保の観点から内陸部進出を唱えていたという話は前述した。

 註117 この引用にある人名は原文ママ。

 吉田栄右氏はシェプストンを激賞していて曰く彼は「老練の事務家にして、最も頑固執拗なる農民をも御する手腕を有し、其目的手段に、明了なる意見を有し」て事に望んだこととて多数の人民は彼を歓迎、あるいはその手腕に萎縮して反抗など思いもよらず、「人民大半の了諾を得て」の併合宣言となったのだという(註118)。しかしジャン・モリスによるとシェプストンという人物は「ボーア人にはまったく好意を持っていなかった」「抜け目のない寡黙な男」で容姿は海賊的にしてかつ「この種の任務はシェプストーンの好むところだった。そもそもあまり率直な男ではなかった。陰謀渦巻くアフリカで育ったシェプストーンは、アフリカ的な生き方や物事に対する姿勢を身につけていた。そんなシェプストーンは、いわば部族的心構えをもってトランスバールに乗り込んだのだった」という(註119)。吉田賢吉氏によってもやっぱり「この南阿共和国の併合は全く南阿共和国国民の意思を無視しサンドリヴァー協定(註120)を破り強奪的に行ったもので正当な根拠は少しもなかった」のであり確かにトランスヴァール側の行政も財政もガタガタでセココニの叛乱にもうまく対抗出来なかったにしても「直ちに、南阿共和国が無政府状態にあり、英国人の権益が侵されると云うことは出来な」かったし、実際そこまでトランスヴァールが酷い状態だったというなら、むしろそのまま悪化に任せておけばトランスヴァール側からイギリスに助力を求めて来ることにもなったであろうに、わざわざ恨みを買うようなことをやってしまったのであった(註121)。デ・キーウィトは「共和国の独立を突然終結させれば失敗するのが関の山だ」と主張する人もあれば「併合した地域で、賢明かつ寛大な支配を行えば、トランスバールの好意的支持を獲得できただろうし、連邦化の実現も容易になっただろう」と唱える人もいるという具合に歴史家の間でも評価が割れているとしている(註122)

 註118 吉田栄右著『杜國大統領クルーゲル』72頁

 註119 ジャン・モリス著 椋田直子訳『ヘブンズ・コマンド 下巻 大英帝国の興隆』234頁

 註120 1852年にイギリスがトランスヴァール共和国の建設を承認した協定。詳しくは本稿第三部を参照のこと。

 註121 吉田賢吉著『南阿聯邦史』193〜194頁

 註122 C・W・デ・キーウィト著 野口建彦、野口知彦訳『南アフリカ社会経済史』108頁

つづく   

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