ハプスブルク家とスイス盟約者団 前編その3

   ゼンパハの戦い   目次に戻る

 1385年、ハプスブルク家がルツェルンの周辺にある(ハプスブルク家の)領地への締め付け(租税や関税)を強化した。利害を損なわれたと感じたルツェルンはハプスブルク家に対する臣従を破棄し、その領地へと軍勢を侵犯させた。怒ったハプスブルク家は翌86年に4000の軍勢を動員してルツェルンを攻撃し、ルツェルン側は原初3邦の援軍をあわせて1600の軍勢を集めた(それ以外の邦は助けてくれなかった)。ハプスブルク家は去る65年に東西に分裂しており、この時ルツェルンへと駒を進めたのは西の家のレオポルド3世であった。

 こうして発生するのが「ゼンパハの戦い」である。ハプスブルク軍の騎士たちは70年前の「モルガルテンの戦い」の反省から馬を下りて戦い、ランス(騎兵用の長槍)を効果的に使って一時はルツェルン軍に相当の損害を与えた。しかしハプスブルク軍の騎士たちは重い鎧を身につけたまま走り回ったせいで疲れてしまい、そこに側面からウリ軍の攻撃を受けて大損害を被った。この時ウリ軍の先頭に立っていたウィンケルリートという兵士はハプスブルク兵の繰り出すランスを何本も両手で抱え込み、自身の体を貫かれつつも「自由の途はここにあり!」と叫んだという。4邦側の戦死者200名に対してハプスブルク軍の戦死者は総大将レオポルド3世を含む1800名である。その結果ハプスブルク家はさらに分裂し、全部で3つの系統にわかれてしまった。(レオポルドの2人の息子フリードリヒ4世とエルンスト、それから彼らの伯父のアルプレヒト3世の計3人の家が鼎立)

 2年後の1388年にはグラールスもハプスブルク家への臣従を破棄し、「ネーフェルスの戦い」においてハプスブルク軍を撃破した。この時グラールス軍は背後に丘を持つ村を守っていたのだが、突撃してきたハプスブルク軍を前にして素早く丘の上に撤収、村を占領して荒らすハプスブルク軍めがけて頭上から石や矢を浴びせたうえで突撃して勝利を得た。ハプスブルク家は盟約者団の兵士のことを「山岳の獣的人間」と呼んで恐れ嫌悪した。

 そして1389年、盟約者団とハプスブルク家との休戦条約が締結され、ルツェルン、グラールス、それからツークが正式にハプスブルク家への臣従を解除、ハプスブルク家の勢力はスイスから大幅に後退することになった。さらに93年、盟約者団の8邦は「ゼンパハ協定」を結んで団結を強化した。この協定の内容は、「フェーデ(私闘)の禁止」「商人の安全保護」「理由のない戦争行為の禁止」といった治安維持や外交に関する項目と、「戦場逃亡の禁止」「戦利品分配規定」「修道院・教会の攻撃禁止」「婦女子の保護」といった軍事に関する項目からなっていた。

   従属邦と共同支配地の獲得   目次に戻る

 1403年、スイス北東部にあったザンクト・ガレン修道院(単なる修道院ではなく、帝国諸侯と同格以上の権勢と領地を持っていた)の支配下に置かれていた「アペンツェル」の農民たちがシュヴィーツの支援を受けて反乱を起こした。この反乱軍はまず1405年の「シュトースの戦い」に勝利(10倍の敵軍を破ったという)し、ザンクト・ガレン修道院のみならず近在の中小領主にまで攻撃を加え、一時は67の城塞を占領・破壊するほどの勢いを見せた。しかしやがて南ドイツの帝国諸侯に攻撃されて1408年の「ブレゲンツ攻囲戦」に敗れたため、盟約者団に救援を求めてきた。盟約者団ではシュヴィーツが軍事的援助を主張したが他の邦は和平を望んだため、アペンツェルはベルン(アペンツェルから遠くて利害関係に乏しかった)以外の7邦と同盟を結んでその保護下に置かれることとなった。「保護」ということはつまり盟約者団の正式メンバーにはなれなかったということで、内政については自治を認められるが、外交に関しては7邦に強く統制されるという扱いであった。このような、盟約者団正式メンバー8邦より格下の邦を「従属邦」と呼ぶ。(とはいっても既にみたように8邦の中でも格差があった訳だが)

 1414年、皇帝ジギスムント(ルクセンブルク家)とハプスブルク家のフリードリヒ4世が対立、皇帝は盟約者団に対しフリードリヒ4世攻撃を命じた。盟約者団の軍勢はハプスブルク家揺籃の地である「アールガウ」を占領、翌15年に皇帝とフリードリヒ4世の和議が成立した際に正式にこの地を購入した。アールガウは盟約者団全体による「共同支配地」となった。共同支配地というのは従属邦よりもさらに格下の存在で限定的な自治しか認められず、各邦が2年交替で代官を派遣して支配し、そこからあがる収益は各邦が平等に分け合うというものである。共同支配地はその後もどんどん増えていくが、8邦すべてが代官を派遣して治めるところもあれば、2つか3つの邦だけで支配するところもあった。それに関連して、先にちらりと触れた「盟約者団会議」がかなり頻繁に開かれるようになった。この会議はそれまで1年に1回ぐらいしか開催されなかったのだが、共同支配地の扱いといった問題のために年に何度(時には何十度も)も開かれるようになり、そのおかげで盟約者団の結束が強まるという効果を生んだ。

 それから、皇帝ジギスムントはルツェルン、ツーク、グラールスに自由特許状を付与してくれたため、8邦すべてが皇帝のみに属することが法的に確定した。

   ヴァリス共和国   目次に戻る

 ところで、この当時の盟約者団の勢力は現在のスイス連邦の北部に限られており、南西部の「ヴァリス」地方はシオン司教の支配下におかれていた。「司教」ということはつまりキリスト教の高位の坊さんだが、帝国においては皇帝に領地を授けられた「聖界諸侯」という身分である。ところが12世紀以降、イタリア北西部の帝国諸侯サヴォア家がシオン司教の領域を浸食して「下ヴァリス」を制圧、さらに「上ヴァリス」にも迫ってきていた。この地域には北イタリアとフランスを連結するシンプロン峠があったため、サヴォア家としては是非とも押さえておきたいポイントだったのである。司教側は上ヴァリスの都市民や農民の助けを借りてサヴォア家に対抗、1388年の「フィスプの戦い」でサヴォア軍を破った。

 上ヴァリスの都市民や農民は「ツェーンデン」と呼ばれる共同体を組織、やがて司教よりも強い発言権を持つようになり、1417年には盟約者団と同盟した。一般的にはこの地は従属邦のひとつに数えられるが、正確には盟約者団と対等な独立国という扱いであった。司教はそのうちに名誉的な権限しかもたなくなり、上ヴァリスの地は「ヴァリス共和国」と呼ばれるようになる。

   アルベドの戦いとパイク密集方陣   目次に戻る

 1422年にはウリ、ウンターヴァルデン、ルツェルンの軍勢2500名が北イタリアのミラノ公国(帝国諸侯のひとつ)の内紛に介入してその北部の領地ベリンツォーナ市を分捕ろうとした(註1)。ところが3邦の軍勢は6月30日に起こった「アルベドの戦い」においてミラノ軍1万6000名に包囲され、よもや降伏の瀬戸際まで追い込まれてしまった。しかし、ミラノ軍の指揮官が「情け容赦するな」という命令を出していたことから3邦側も死に物狂いの奮戦で突破口を切り開き、約500名の戦死者を出しつつも脱出に成功した。ただこの戦いにおいては、それまでの盟約者団の主兵器であったハルバートよりも「パイク」という長槍(4〜7メートルの柄の先に25センチほどの木の葉状の刃がついている)の方が役に立ったため、その後の盟約者団ではパイク兵の密集方陣で敵軍に突っ込むという戦法を多用するようになる。

註1 ミラノ公国の北辺地域はザンクト・ゴットハルト峠の南の出口であるため、盟約者団としては是非押さえておきたいポイントであった。


 パイク兵の密集方陣とは具体的には以下のようなものであった。まず防御の場合、方陣の前から4列目まではパイクを水平もしくは斜めに構えて槍襖をつくる。その際、先頭の列は膝をついてパイクを低く持ち、2列目は前屈みになって右足の下にパイクの石突きを据え、3列目はパイクを腰の位置に保ち、4列目のパイクは頭の高さに構えられた。5列目以降のパイクは垂直に構えられ、前の列が敵の攻撃で裂けた場合に速やかにそこをふさぐことになっていた。この陣形は大抵の敵の突撃を食い止めることが出来たし、密集したパイクの林は敵方から飛来してくる矢をある程度は防ぐことが可能であった。

 攻撃の場合には、右腕を後ろに左腕を前にしてパイクを胸の高さに(少し下向きに)構えて前進した。もし敵の抵抗が頑強で攻めあぐねた場合、パイク隊の左右や後方からハルバートや刀剣を持った部隊が躍り出て状況を打破することになっていた。

   古チューリヒ戦争   目次に戻る

 1436年、スイス東部に勢力を持っていた帝国諸侯トッゲンブルク家が断絶した。この家と独自に同盟を結んでいたチューリヒは直ちに遺領の接収に乗り出したが、交易上の要地であったこの地にはシュヴィーツとグラールスも野心を示した。シュヴィーツとグラールスはその周囲のほとんどを盟約者団の他の邦に囲まれていたため、領域を増やそうと思えば両邦の北東に位置していたトッゲンブルク家の遺領を狙うしかなかった。

 こうして始る盟約者団内部の紛争が「古チューリヒ戦争」である。シュヴィーツ側にはウリとウンターヴァルデンが加担したため、苦境に陥ったチューリヒはよりにもよってハプスブルク家に援助を求めた。この行動……チューリヒが盟約者団に加盟した時に結ばれた規約によるならば別に違法ではなかったが……に怒った盟約者団は結束してチューリヒとハプスブルク家に宣戦を布告した。

 盟約者団の軍勢は43年に「ジール川沿いザンクト・ヤーコプの戦い」でチューリヒ軍を破り、チューリヒ支配下の村々を略奪してまわった。このせいで村々は飢餓状態に陥り、戦死者よりも多くの餓死者が出たという。チューリヒは一旦は和議に応じて屈服したが、すぐにまたハプスブルク家の応援を見込んで戦争を再開した。

 そのハプスブルク家は、1438年に久しぶりに(108年ぶりに)ローマ王に選ばれていた。もっともその「アルプレヒト2世」(註2)は翌年には赤痢で急死してしまうのだが、その次のローマ王にはまたハプスブルク家のフリードリヒ5世(アルプレヒト2世の又従兄弟)が選ばれた。その頃から帝国の東辺を脅かすようになっていた「オスマン・トルコ帝国(註3)」に対する防波堤(ハプスブルク家の本拠地オーストリアはオスマン領に近い)の役割を期待されたのである。しかし、既に触れたように当時ハプスブルク家は3つの系統に分裂していた。まずフリードリヒ5世の家、故アルプレヒト2世の遺子ラディスラウス(父親が死んだ後に生まれた)の家、およびフリードリヒ5世の従兄弟のジークムントの家である。それにフリードリヒ5世という人物は凡愚で決断力がないうえに風采もあがらず、ケチなのにいつも借金に追われていたため、そんな男だったらローマ王にしてやっても必要以上の権勢を振るうことはあるまいと帝国諸侯に思われたのだという。(フリードリヒ5世は52年に皇帝の冠を受けた。彼はハプスブルク家のフリードリヒさんとしては5人目なので「フリードリヒ5世」なのだが、神聖ローマ皇帝のフリードリヒさんとしては3人目なので「フリードリヒ3世」と呼ばれる。本稿では以降、後者の表記を採用する)

註2 彼はハプスブルク家のアルプレヒトさんとしては5人目なので「アルプレヒト5世」ということになるが、ローマ王のアルプレヒトさんとしては2人目なので「アルプレヒト2世」と呼ばれる。

註3 13世紀の末に現在のトルコ共和国の西部に興ったイスラム国。この頃にはバルカン半島の全域を席巻していた。


 そんな訳でとにかく力が足りないハプスブルク家はチューリヒの期待に応えることが出来なかったため、フランス国王に支援を要請することにした。この頃のフランスはイギリスとの「百年戦争」にほぼ決着をつけたところであったため、用無しとなった大量の軍隊を持て余していた。そんな訳で……ハプスブルク家はとりあえず5000の援軍を頼んだだけであったのだが……フランス国王シャルル7世は王太子ルイに4万もの軍勢を与えて盟約者団との戦いへと出陣させた。

 盟約者団からはとりあえず1500名の偵察隊が出撃し、小ぜり合いでフランス軍の小部隊に勝利した。偵察隊の指揮官は一旦撤収すべきことを命じたが、緒戦の勝利に血気盛んとなった兵士たちがそのまま突進することを望んだために前進を続行、フランス軍の主力と遭遇した。この「ビルス川沿いザンクト・ヤーコプの戦い」において、偵察隊は3つの密集陣を組み、4時間に渡ってフランス騎兵への突撃を繰り返したが、やがて息が切れ、ザンクト・ヤーコプの小さな診療所へと後退した。そこは塀に囲まれていて防御に向いていたのだが、フランス軍は偵察隊が持たない大砲と火矢を使って塀を瓦礫に変えてしまった。偵察隊は砲撃で多数の死者を出し、続く白兵戦によってほぼ全滅した。火薬を用いる兵器は13世紀頃にヨーロッパに伝来したとされ、百年戦争でも既に大砲が用いられていたが、その頃は砲も砲手も必要に応じて調達していたのを、フランス国王シャルル7世の軍制改革によって常設の「砲兵隊」が編成されるに至っていた。

 大砲はともかくとして……、盟約者団は戦闘には負けてしまったのだが、戦争そのものには勝利した。偵察隊の奮戦に驚いたフランス軍(4000名もの戦死者を出していた)が早々に和議に応じて撤収したからである。結局チューリヒはハプスブルク家との同盟を破棄して盟約者団に復帰することになり、ことの発端となったトッゲンブルク家の遺領はシュヴィーツとグラールスの共同支配地となった(一部はトッゲンブルク家の縁者が相続)。これ以降のチューリヒは盟約者団の一員として他の邦と緊密にしなければやっていけないことを悟り、盟約者団は結束をあらたにした。

   盟約者団の拡大   目次に戻る

 そのうちに、盟約者団の周辺に位置する帝国都市や農村が競って盟約者団との同盟を求めるようになってきた。帝国都市「シャフハウゼン」や「フリブール」等である、以前は盟約者団と競合関係にあったザンクト・ガレン修道院との同盟も成立した。ただ、それらの諸邦は近在の帝国諸侯の脅威から身を守るために盟約者団を頼らなければならないという立場だったため8邦よりも格下の従属邦として扱われた。具体的には、非常時には規定数の兵員を出す義務があるが、盟約者団会議に代表を出せない(邦によっては出せた)とか、共同支配地に代官を派遣出来ない(邦によっては出来た)とかである。

 1457年、ハプスブルクの3家の1人ラディスラウスが17歳で亡くなった。彼は独身(フランス王女と結婚する準備をしていたところであった)で子供がいなかったため、その遺領はフリードリヒ3世によって相続された。続いて63年、フリードリヒ3世は弟のアルプレヒト(兄に領地を分けてもらえず、不満を抱いていた)に叛かれて幽閉されてしまうが、そのすぐ後にアルプレヒトの方が癌で死んでしまった。フリードリヒ3世は後世「神聖ローマ帝国の大愚図」と呼ばれた程の何の取り柄もない人物であったが、不思議と幸運(と長寿)に恵まれていた。その一方で60年、ジークムント(フリードリヒ5世の従兄弟)がローマ教皇ピウス2世と喧嘩して破門されるという事件が発生した。盟約者団はこのどさくさにジークムントの所領のひとつ「トゥールガウ」を占領、共同支配地に組み込んだ。ジークムントの破門がいつ解けたのかは手許の資料にないが、彼はさらに69年にも盟約者団と戦って敗れ、賠償金として1万グルデンを要求されてしまった。

前編その2へ戻る

中編その1へ進む

戻る