オマーン・ザンジバルの歴史 第2部

   バートンとスピーク   目次に戻る 

 東アフリカの内陸部に踏み込んだヨーロッパ人は、まず16〜17世紀頃に活躍したポルトガル人たちがあげられる。時代がくだって1770年にはエチオピア皇帝に仕えたスコットランド人ジェイムズ・ブルースがナイル河の源流を探索した。ナイルの主流は「白ナイル」と「青ナイル」の2本があるが、ブルースはこのうちの青ナイルの源流に到達し、そこから河をくだってエジプトのカイロに出たという。さらに時代が進んで1848年、「チャーチ・ミッショナリー・ソサエティー」というイギリスの宣教団体に属するドイツ人レープマンが布教をしながら内陸へと進み、キリマンジャロ山(アフリカ大陸の最高峰)の付近に到達、翌年には同じ団体のクラップがケニア山に迫った。

 さらに57年、イギリス政府の資金援助を受ける「王立地理学協会」が白ナイルの源流を調査する探検隊を組織した。バートンとスピークに率いられた探検隊はザンジバルから出発し、内陸奥深くにヴィクトリア湖・タンガニーカ湖・ニヤサ湖という3つの巨大な湖があるという話を聞きつけて、とりあえずタンガニーカ湖の西端に到達した。バートンはここで病気になってしまうが、スピークはさらにヴィクトリア湖の南端に到達、この湖のどこかから白ナイルが流れ出していると確信した(確認した訳ではない)。「ヴィクトリア湖」というのはこの時に、当時のイギリス女王の名を冠して命名したものである。スピークはバートンを置いたままイギリスに帰国、今回の探検の成果を発表して有名になった。しかしこれには遅れて帰国したバートンが激怒した。2人の意見が一致するまでは発表しないと約束していたのに、それを破られたからである。

 スピークは60年、今度はグラントという人物とともに再び内陸に踏み込み、ヴィクトリア湖北岸にあった黒人国家「ブガンダ王国」まで到達した。ここは現在のウガンダ共和国である。グラントは病に倒れたものの、スピークはそこから東へと歩を進め、62年7月28日には遂に白ナイルがビクトリア湖から流れ出しているポイントに行き着いた。スビークはその後、病の癒えたグラントと一緒にさらに広範囲を探索し、ブニョロ王国(ブガンダ王国と敵対していた黒人国家)で抑留されたりしつつナイル河を下り、エジプトを経由してイギリスへと帰国した。しかし、彼がナイル河を下っている途中にたまたま行き会ったベイカー夫妻(ナイルを遡るルートで源流を探そうとしていた探検家)はアルバート湖こそが白ナイルの源流であると主張し、バートンもスピークの説に異議を唱えた。64年、王立地理学協会はスピークとバートンに討論の場を提供したが、スピークは討論の日の前日に不慮の事故で死亡した。

   リヴィングストンとスタンレー   
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 66年、今度はリヴィングストンという人物が現在のタンザニアとモザンビークの国境線付近を進んで内陸のニヤサ湖(モザンビークとマラウイの国境)へと到達した。リヴィングストンは既にアフリカの他の地域の探検で有名になっており(ニヤサ湖にも以前に来たことがある)、今回の探検では白ナイルの源流に関する論争に決着をつけるのと、キリスト教の布教、奴隷貿易の根絶といった様々な目標を思い描いていた。リヴィングストンはニアサ湖から北上してタンガニーカ湖に進み、その付近を2年に渡って探検したが、そのうちに彼の母国のイギリス(正確には彼はスコットランド人)ではリヴィングストンは行方不明になったとの噂が流れ出した。

 69年、エジプトで「スエズ運河」が開通した。この落成式を取材していた『ニューヨーク・ヘラルド』紙の特派員スタンレーは「リヴィングストンを救出せよ」との社命を受け、71年の2月からリヴィングストン捜索を開始した。2人が握手を果たしたのは同年の11月24日、タンガニーカ湖畔のウジジという場所であった。スタンレーはリヴィングストンに一緒に帰るよう勧めたが、リヴィングストンはあくまで白ナイルの源流を確認することに固執し、スタンレーが帰った後も現地にとどまって探検を続行した。結局、彼は73年の5月に亡くなるまでアフリカの奥地を離れようとはしなかったのであった。スタンレーの方は74年に再びアフリカを訪れてヴィクトリア湖を一周し、白ナイルが確かにこの湖から流れ出していることを確認した。ただし、正確にはヴィクトリア湖にはさらに南方から流れ込む川が存在し、現在ではナイルの源流はそちら(ブルンジ共和国に源流を持つルヴィロンザ川)に求められている。

   ザンジバルの弱体化   
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 さて、上で少し触れたスエズ運河の開通は、ザンジバルの地位を著しく損なった。この国はヨーロッパから喜望峰経由でアジアに向かうのに必要な中継地であったのが、その価値をなくしてしまったのである。弱体化するザンジバルにヨーロッパ諸国の魔の手が伸びる。

 特に目立ったのはイギリスの動きである。インド洋方面にはフランスも手を伸ばしていたが、イギリスはスエズ開通前の1862年にフランスと協定し、「イギリスはザンジバルを、フランスはマダガスカル島を各々の勢力圏とする」との約束を取り決めた。70年代に入ると、イギリスの資本家の間に、東アフリカの沿岸部から内陸部へと道路を敷き、奥地の湖(ヴィクトリア湖やタンガニーカ湖)に汽船を浮かべたいという構想が生まれてきた。ただしこの時点でもイギリス政府としては東アフリカを植民地化する気はなく、ザンジバルのスルタンの主権を尊重した上で経済的に支配するつもりでいた。

 その一方で、イギリスはザンジバルにおける奴隷貿易を廃止したいと考えていた。イギリスは1833年に自国における奴隷制度を廃止し、余所の国にもその動きを広めようと努力した。イギリスはまず西アフリカにおいてポルトガルの奴隷貿易を妨害し、ポルトガルはやむなく奴隷市場を東アフリカのザンジバルに移さなければならなくなったという話は既に説明した。その東アフリカからも奴隷制度を駆除しようとしたイギリスは、しかしザンジバルが隆盛を極めていた頃には迂闊な手出しをする訳にもいかなかったのだが、数次に渡る交渉を通じて時間をかけて奴隷貿易を縮小させ、スエズ運河開通後の73年にはスルタンに脅迫的に迫って奴隷貿易の禁止に同意させることに成功する(ただし奴隷制度そのものを廃止した訳ではない)。ザンジバル島ではその3年前にコレラが流行って大勢の奴隷が死に、72年にはハリケーンに襲われて大きな被害を受けたことから新規の奴隷を必要としていたのに、イギリスの運動にはフランス・アメリカ・ドイツが同調していたことからどうにもならなくなったのである。

 さらにまたその一方で、ザンジバルの北からエジプトの勢力が迫ってきた。エジプトは1820年代から現在のスーダン共和国地域を支配下に置いていたが、63年にエジプトの君主として即位したイスマーイールがナイルの源流までの支配を夢見てさらなる南下を開始したのである。エジプト軍はまずソマリアの紅海沿岸地帯を占領し、75年にはザンジバルの支配下にあったブラバやキスマユ(どちらもソマリア南部の町)を占領した(註1)。この輝かしい南下政策は、しかし費用がかかりすぎたため、エジプト政府を破産状態に陥れた。エジプトはスエズ運河に関する株(註2)を売りに出し、それをイギリスが速攻て買い取った。イギリスはエジプト政府に圧力をかけてインド洋沿岸部から撤収させるとともに、今後ザンジバル(自分の縄張り)がこのような侵略に脅かされないようその(ザンジバルの)軍備に梃入れし、イギリス軍人をザンジバル軍の総司令官として押しつけた。エジプトの方は1882年に至ってイギリス軍に占領された。

註1 最初はナイル河を遡るルートで南下しようとしたが、これはブガンダ王国によって妨げられた。そこで、紅海〜インド洋に沿うルートで現ケニア地域へと進出し、そこから内陸のヴィクトリア湖方面へと向かう計画をたてた。

註2 スエズ運河はフランス資本によって建設されたが、管理会社の株のうち半分弱はエジプト政府の所有であった。 


   植民地化の開始   
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 84年11月、東アフリカにドイツの勢力が現れた。この年3月に民間が設立した「ドイツ植民会社」の派遣した探検隊がザンジバル島の対岸の奥地(現タンザニアの内陸部)へと進入し、12の部族にドイツの「保護」を認める旨の書類に署名させることに成功したのである。ドイツ帝国宰相ビスマルクは翌年3月にこのことを公式発表、「ドイツ保護領東アフリカ」の設立を宣言した。保護領というのは植民地の一種で、内政については現地部族にまかせるが、軍事や外交については本国政府が代行するという制度である。

 これに驚いたザンジバルはイギリスに助けを求めた。が、イギリス本国政府はドイツの動きに文句をつけようとはしなかった。先のイギリス軍によるエジプト占領をドイツが認めてくれていたからである。それどころかイギリスはこれまでの政策を転換、ドイツに習って現ケニア地域の内陸部を植民地化することに決めた。割と最近まではヨーロッパ人にとってのアフリカの奥地は未知の風土病が猖獗する「暗黒大陸」であったのが、リヴィングストンやスタンレーの命がけの探検によって詳しい様子が知られるようになり、さらに医学の進歩のおかげで風土病もさして怖い存在ではなくなりつつあった。86年、イギリスはドイツと話し合いを持ち、ザンジバルの領域を沿岸から10マイル内陸まで(と島嶼部)に限定、それより内陸のうち現ケニア地域をイギリスの、現タンザニア地域をドイツの勢力圏にするとの「境界線協定」を締結した。ただしこれでは英独の勢力圏は内陸部のみに限定されて海に出られないため、イギリスはモンバサ港を、ドイツはダルエスサラーム港を支配出来るよう手を打った。さらに英独はフランスによるコモロ諸島(マダガスカルの北西)の領有を認めてやり、これを受けたフランス政府は英独の境界線協定を承認した。

 イギリスは「帝国イギリス東アフリカ会社(IBEA)」を設立し、この会社を通じてのケニア地域の植民地化に乗り出した。先の境界線協定では内陸奥深くの帰属については未定であり、そちらにあったブガンダ王国にはドイツが先に乗り込んで友好条約を締結した。これに対してイギリスは、ドイツがブガンダから手を引き、さらにザンジバルの島嶼部(ザンジバル島やペンバ島)をイギリスの保護領にさせてくれるならば、イギリスとしては(ヨーロッパの)北海のヘリゴランド島をドイツに割譲し、さらにタンザニア地域の沿岸部のザンジバル領をドイツが買収出来るようザンジバル政府に圧力をかけてやると言い出した。

 ドイツはこの話を受けた。ヘリゴランド島はイギリスにとっては大して重要な島ではなかったが、ドイツにとっては海軍基地として有望だったのである。こうして1890年、イギリスはザンジバルの保護領化を宣言、ドイツは先の取り引きに従ってタンザニアの沿岸部を買収した。ケニアの沿岸部はもちろんイギリスのものである。ブガンダ王国はその周囲にあった中小の諸国と一緒にイギリスの支配を受ける「ウガンダ保護領」となった。ザンジバルがソマリアに持っていた領土については、92年にイタリアが租借(期限付きで領土を借りること)した。イタリアは東アフリカにおいては既にエリトリアの植民地化に着手していた(註3)が、その方面にはフランスも進出したがっており、これを警戒したイギリス(註4)がイタリア(格下の列強)を進出させることでフランスへの防波堤としたのであった。ドイツ領となった地域のその後については
別稿に譲る。

註3 詳しくは当サイト内の「イタリアのアフリカ侵略」を参照のこと。

註4 エリトリア方面はイギリスの支配するエジプト、つまりスエズ運河の南の出口であり、そこをフランスに制圧されることはイギリスとしては絶対に阻止したかった。フランスは既に59年(スエズ運河の開通前)の段階で現在のジブチ共和国地域の植民地化に着手している。


   四十五分戦争   目次に戻る 

 イギリスはザンジバルの統治に関し、内政についてはスルタンの政府に任せることにした。ところがイギリスの目から見ればザンジバルの行政機構はあまりにも前近代的なもので、王室財政と国家財政の区別すらついていなかった。イギリスはスルタンの権限を縮小した上で行政組織の整備にとりかかり、さらに、いまだに残っている奴隷制度を完全に廃止しようとした。

 96年、スルタン・ハメド(サイード大王の孫)が亡くなった。イギリスはハメドの従兄弟のハムードを新スルタンに据えようとしたが、その前にハムードの弟のハリドがクーデターを起こしてスルタン位を宣言した。ハリドの背後にはドイツがいた。イギリスはこの事態に対し断乎たる措置をとることに決め、ハリドに退位を要求した。ハリドはイギリスと戦うために2500人の軍勢を動員し、1685年以来使っていないという旧式の大砲を引っぱり出した。

 そしてこの年8月27日午前9時、ザンジバル島の沖合に集結したローソン提督指揮のイギリス艦隊が王宮に向け艦砲射撃を開始した。もちろんザンジバル側は何の抵抗も出来る訳がなく、ハリドはたちまちドイツ領事館に逃走、戦闘が始まってからたったの45分後には降伏を申し出た。約500人の死傷者を出したこの事件は世界史上最短の戦争として知られている。

 スルタンの政府は「四十五分戦争」の敗北後も存続を認められ、その下でオマーン系アラブ人の地主が黒人の小作人を支配する体制が継続した(註5)。奴隷制の廃止は97年のことである。時代が進んで1914年には第一次世界大戦が勃発、東アフリカのドイツ植民地軍はイギリス軍を相手に奮戦したが、18年の大戦終結に伴って降伏した。19年、ドイツ植民地は「国際連盟」が大戦の戦勝国に統治を委託する「委任統治領」とされ(註6)、ドイツ領東アフリカの大部分はイギリスの統治に委ねられることとなった(一部はベルギーに委任)。イギリス委任地域は「タンガニーカ」と呼ばれ、首都はダルエスサラームに定められた。こんな具合に東アフリカにおいてはザンジバル・タンガニーカ・ケニア・ウガンダという4つのイギリス植民地が出来上がった訳だが、本稿ではタンガニーカとザンジバルについてのみ記述する。

註5 ザンジバルは蒸気船の普及やスエズ開通によって海港都市としては衰えたが、丁字の農園は健在であった。

註6 詳しく説明すると「委任統治」とは未開地域の住民が独立出来るレベルに達するまで文明国が後見してやるという制度で、受任国は連盟に毎年の統治報告書を提出する義務を有するが、委任地域を自国の構成領域として扱うことが出来る(その地域の文明レベルに応じてA・B・Cの3段階があり、「自国の構成領域」として扱えるのはBとC。東アフリカはBにランクされた)。


   タンガニーカ委任統治領の発展   
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 タンガニーカでドイツ人の経営していた農園は接収のうえ競売にかけられた。むろん黒人に買える額ではないので、農園は新しくやってきた白人(イギリス人とは限らず、何故かギリシア人が大勢やってきた)のものとなった(インド人が購入した農園もあった)。

 農園では主にサイザル麻や綿やコーヒーが栽培された。コーヒーは東アフリカが原産地なのだが、実はこの地域には何故かコーヒーを飲む習慣が存在せず、商品作物として栽培するようになったのは西洋諸国による植民地化がなされて以降であったという。それはともかくコーヒーは白人の農園のみならず黒人部族によっても栽培され、キリマンジャロ山腹に住むチャガ族などは「キリマンジャロ原住民共同組合連合会」を組織して質の高いコーヒーの販売に努力した。日本でも普通に売っている「キリマンジャロコーヒー」がこれである(キリマンジャロで最初にコーヒー栽培を始めたのはギリシア人であったという)。商業ではインド人が活躍した。この地域に昔から多くいたインド人はイギリス統治下でさらに増え、1931年の時点でタンガニーカに2万5000人、ザンジバルに1万5000人が暮らしていた。イギリスはインド移民を商業のみならず職人や中級の公務員として用いた(下級公務員は黒人。上級はもちろん白人)。

 タンガニーカ首都ダルエスサラームには地方からの出稼ぎ労働者が大勢やってきた。彼らは最初は出身部族ごとに互助組織をつくっていたが、やがて部族や宗教の違いを超えた福祉団体を結成するに至る。34年に創設された「アフリカ人商業協会」は福祉事業のみならず『クウェトゥ(われらの立場)』というスワヒリ語の新聞を発行し、首都の黒人たちの間に政治意識をひろめていった。政庁に勤務する黒人職員も組合を結成し、植民地政府と対立して時には暴動を起こすこともあった。

 黒人対象の初等教育はキリスト教会が担当し、高等教育はウガンダのカンパラに1922年に創設された「マケレレ・カレッジ」が、ザンジバルやケニアまで含めた東アフリカのイギリス領全体における最高学府の役割を付与された。この学校は最初は工業高校であったのだが、やがては医学や教育学も教えるようになり、1950年には正規の大学として認可された。東アフリカ最古の大学とされ、後のタンザニア大統領ニエレレもここの出身である。

 話が前後するが、1939年に始まった第二次世界大戦に際しては、それまでタンガニーカ・ケニア・ウガンダをあわせても7個大隊しかいなかった軍隊(ザンジバルについては手元の資料に記載なし)は、最終的に28万人にまで膨張し、うちタンガニーカだけで8万7000もの兵員を提供した。無論その主力は黒人兵であり、エチオピア・エリトリア・ソマリア南部を支配するイタリアの植民地軍や、インド・ビルマ戦線での日本軍との戦闘に参加した。

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