オマーン・ザンジバルの歴史 第3部
タンガニーカ独立 目次に戻る
大戦終結後、戦地で白人と肩を並べて戦った黒人兵たちが復員してきてみれば、故郷に待っていたのは厳しい人種差別であった。銃後の村では(働き手が兵役にとられている状態で)前線に送り出す食糧の増産を強要されて疲弊しており、しかも、たとえばトウモロコシの買い取り価格は白人農園と黒人農民とで違っていた。戦後のイギリスは「多人種協調」をうたって立法審議会という植民地議会を創設したが、その議員割当はたとえばタンガニーカでは白人・黒人・アジア(インド)人それぞれ11人(アラブ人の扱いについては手元の資料に記載なし)という、3者の人口の違いを全く無視したものであった。
47年、イギリスの最重要植民地であったインドとパキスタンが独立を達成した。国際連盟の委任統治領であったタンガニーカは新しく出来た「国際連合」の「信託統治領」に組織替えされ(註1)、その国連は「すべての人民は自由と正義に浴する権利がある」と唱えて植民地の解放を訴えた。55年にはインドネシアのバンドンで「第1回アジア・アフリカ会議」が開催され、全世界の植民地における独立運動を大いに盛り上げた。
註1 委任統治より信託統治の方が受任国に対する制限が厳しい。受任国は毎年の年報を提出する義務があり、3年ごとに国連の視察が行われ、統治領の原住民が国連の信託統治理事会に(受任国を通さずに)直接請願を出すことも出来る。
タンガニーカにおいては51年、植民地政府(註2)がメル族の土地をとりあげて白人に分配する計画を実施しようとした。メル族は国連の信託統治理事会に訴え、いい返事は貰えなかったものの国際世論の動向を気にしたタンガニーカ植民地政府は計画をとりさげた。54年、ジュリウス・ニエレレ等が「タンガニーカ・アフリカ人民族同盟(TANU)」を結成、タンガニーカ全土における独立運動を組織化した。この党はもともとは綿花農民(スクマ族)が戦前に結成した「タンガニーカ・アフリカ人アソシエーション(TAA)」を母体としていたが、ニエレレたちの指導で都市労働者と連繋(前述のメル族の運動にも協力)、部族の枠を超えた大規模な運動へと成長した。政府側は傀儡黒人組織「合同タンガニーカ党(UTP)」を組織したがその党員は最盛期で1万人程度にしかならず、同時期に25万人の党員を集めていたTANUの足下にも及ばなかった。
註2 「信託統治領政府」とでも言うべきなのであろうが、面倒なので本稿では「植民地政府」と記述する。
58年、立法審議会の選挙が行われることになった。この選挙はこの年9月と翌々年9月の2期にわけて実施され、上で説明した「多人種協調」以外にも所得・学歴に基づく制限がついており、タンガニーカ全土で5万9000人しかいない有権者は投票の際に黒人・白人・アジア人それぞれの候補に一票づつ入れる方式であった。TANUではこの選挙に参加するかボイコットするかで激論になったが、党首ニエレレは参加を決断、まず第1期投票で黒人議席のみならず白人・アジア人議席にも推薦候補を立てて全議席を奪取するという快挙を成し遂げた。翌々年の第2期投票では議員割当が黒人50・白人10・アジア人11に変更、学歴・所得制限も大幅に緩和され、TANUは71議席中70議席を確保した。ニエレレは植民地政府の首班に就任、そして1961年の12月9日、タンガニーカの完全独立を達成したのであった。
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次にザンジバルの話である。イギリス保護領ザンジバルは「ザンジバル島」と「ペンバ島」という2つの大島とその周辺の小島からなっていた。この地の人種構成はタンガニーカより複雑で、白人・アジア(インド)人・オマーン時代の支配階級であるアラブ人、それから黒人には「シラジ」と「アフリカン」の2種がいる。シラジとは数百年前のスワヒリ都市国家時代の支配階級の子孫を名乗る人々(本稿の最初の方で説明したが、伝説では彼らの先祖はペルシアから来たことになっている。肌の色は黒だが……)、アフリカンは内陸部(タンガニーカ方面)から連れてこられた奴隷の子孫である。シラジとアフリカンは容貌が少し違い、前者はイスラム教徒、後者はキリスト教徒という違いもある。
ザンジバルにおける対イギリス独立運動はアラブ人主体の「ザンジバル国民党(ZNP)」、アフリカン及びザンジバル島のシラジを主体とする「アフロ・シラジ党(ASP)」、ペンバ島のシラジを主体とする「ザンジバル・ペンバ人民党(ZPPP)」の3党が存在した。彼らの努力により、それまでイギリスの宗主権下に自治を行っていたスルタンは実権を手放すこととなり、総選挙に基づく内閣が組織されることが決定した。
選挙は61年1月に行われた。総議席数22のうちZNPが9、ASPが10、ZPPPが3という結果が出たが、ZPPPが分裂して3議席のうち2がZNPに、1がASPに協力したため、11対11で勝負なしとなった。そこで翌62年6月に議席数を1つ増やした上で再選挙となる。この時の選挙戦は人種対立を煽る苛烈なもの(タンガニーカのTANUがASPを応援したため、余計に激しい戦いとなった)で、投票日には暴動が起こってアラブ人68名が殺される惨事となった。オマーン系の支配階級でこの頃も地主が多かったアラブ人と、奴隷の子孫で貧しく抑圧されていたアフリカンとの対立が噴き出したのである。
もちろんこの対立構造は宗主国イギリスによっても利用されていた。イギリス支配下のザンジバルにおいては黒人は公職につくことが出来ず、その点で優遇されているアラブ人を恨んでいた(そのようにイギリスにしむけられていた)のである。アラブ人がZNPという独立運動を始めるに至った動機は、アフリカン主体の独立ザンジバルが誕生して彼らに権力を握られてしまう前に先手を打とうとしたという説と、純粋に反イギリスの観点から立ち上がっただけの話であるとの説の2説がある。それはともかく選挙の結果はZNPとASPがそれぞれ10であったが、3議席を確保したZPPPが今度は結束してZNPに協力するという態勢となった。ペンバ島のシラジの党であるZPPPがここでアラブ寄りの姿勢を見せたのは、ペンバにおいてはシラジはアラブ人と並んで富裕な者が多かったからであり、対してザンジバル島のシラジは相対的に貧しかったことから同じ貧乏人のASP(アフリカン主体の党)に参加していた(両島のシラジの富裕度の違いはイギリスの意図とかによるものではなく、商売の運によるものだったらしい)。
と、そんな経過をたどってZNPとZPPPの連立政権が成立し、首相にはZPPPのシャムテが就任した(ただしこの時点ではまだイギリスの宗主権から抜けていないため、シャムテはあくまで植民地政府の首相にすぎない)。シャムテ首相は翌63年にまたまた(選挙区割と議席数を改正した上で)総選挙を実施し、今度はZNP・ZPPP連合が24議席、ASPが13議席で前者の圧勝という結果が出た。そして同年12月10日、ザンジバルはスルタンを元首としシャムテを首相とする立憲君主国「ザンジバル王国」としてイギリスからの完全独立を達成した。
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……63年の総選挙では、実は得票率ではASPが過半数を確保していた。ZNP・ZPPP連合を率いるシャムテは(首相という地位を悪用して)恣意的な選挙区割を設定することで3分の2近い議席を手に入れるというインチキをしたのである。独立1ヶ月後の1964年1月11日、ASP青年団のリーダーをつとめていたジョン・オケロという石切工が「神の召命を受けた」と称して数十人の仲間と供に警察を襲撃、そこで奪った武器を用いて反乱を開始した。暴動はあっというまに大規模化し、スルタンも政府閣僚も12日には国外に逃亡した。この「ザンジバル革命」の詳しい背後関係はいまもって不明とされているが、ASP党首のアベイド・カルメを大統領とする「ザンジバル人民共和国」の樹立が速やかに宣言されるに至った。これが「ザンジバル革命」である。ZNPの支持層だったアラブ人……5万人ほどいた……は暴徒の襲撃を受け、3日間で5000とも8000とも1万2000ともいわれる大勢の人が殺される騒ぎとなった。むろんZPPPの支持者であるペンバ島のシラジも迫害された(インド人は特に被害を受けなかったが、相当数が恐れをなして海外に脱出した)。
タンザニアの誕生 目次に戻る
その後のザンジバルでは大統領カルメと革命の火付け役オケロが対立した。オケロは「大元帥」を名乗って実権を掌握し、個人的に崇拝していたキューバのカストロ議長にならってザンジバルの社会主義化を押し進め、アメリカ大使を追放したりした。このことでザンジバルは「アフリカのキューバ」と呼ばれてソ連や中国の熱い視線を浴びることになるが、結局はカルメ大統領がオケロを追放することでこの動きを食い止めた。
4月23日、ザンジバルとタンガニーカの合邦が宣言された。後者のニエレレを大統領、前者のカルメを副大統領とする「タンザニア連合共和国」の誕生である(註3)。ニエレレはアフリカ諸国を結集する連邦の創設を夢見ており、カルメの方はタンガニーカから様々な便宜を吸い上げるつもりでいたらしい。「らしい」というのはこの合邦は2人だけで決めたことであって、その真意はいまだにはっきりしないからである。先のオケロ追放劇の際にタンガニーカの警官隊がカルメに貸し出されていたことから推察して、ニエレレとカルメが力をあわせてザンジバルに対するソ連・中国の進出を食い止めようとした(ザンジバルがソ連の衛星国になったら、すぐ近くのタンガニーカも狙われるのは目に見えている)というのが真相であるらしい(とはいってもタンザニアは社会主義の思想(註4)については拒絶しなかったし、後には中国と結ぶことになる。詳しくは後述)。
註3 タンガニーカ側の人間が連合共和国の大統領になればザンジバル側の人間が副大統領に就任する(逆もありうる)決まりである。
註4 社会主義とは、農地や工場といった「生産手段」の個人所有をやめ、労働者みんなで共有しようという思想である。それをどのような手段で実現するかで様々な流派がある。
連合共和国における政治力はニエレレよりもカルメの方が上であった(ニエレレの方が夢想家で甘かったという感じがする)。ザンジバルは外交・国防・出入国管理・通貨管理・郵便等を除く広範な自治権を認められ、連合共和国議会においてタンガニーカとの人口比からすれば大目の議席を配分された。公務員や警察の給料もタンガニーカの方にたくさん負担させた。カルメは「自分が生きている間は選挙はしない」と公言して反対派を弾圧(逮捕・拷問・処刑)し、ニエレレはそれについて黙認するという有り様である。ちなみにタンガニーカでは合邦の年にニエレレの与党TANU以外の政党が禁止された……国民と合致した一党制は二党制よりも民主主義的になる可能性が強いと説明された……が、選挙はなくならず、1つの選挙区にTANU所属の候補を2人たてるという制度がとられた。
ウジャマー村 目次に戻る
さてニエレレは、いまだ白人の支配下にある諸地域の黒人たちへの援助に熱心であった。ポルトガルの植民地支配に喘ぐモザンビークの黒人解放運動FRELIMO、少数の白人入植者による抑圧的支配が続いているローデシア(現在のジンバブエ)の黒人解放運動ZANUといった諸組織を支援する。ここで特に問題となったのがローデシアであった。この国はイギリスの宗主権下において白人入植者が自治を行う半独立国(外交権はイギリスに握られていた)であって黒人大衆を差別的に支配しており、その点で、次第に黒人の独立を認めるようになってきたイギリス本国との仲が悪化していた(註5)。そして65年11月、ローデシアの白人たちは「一方的独立宣言」を行ってイギリス本国に反旗を翻すのだが、イギリスはこれに対してあまり本気で怒ろうとせず、抜け穴だらけの経済制裁を実施するにとどまった。
註5 本国政府は、黒人を政治的に支配するための莫大な経費を注ぎ込むよりも、独立だけ与えてあとは経済面のみ支配した方が儲けが大きいと思うようになっていた。その点で、政治的な黒人支配を続けようとする白人入植者とは意見があわなくなっていた。
その辺の詳しい話は別稿に譲るとして、ニエレレはイギリスの煮え切らない態度に抗議し、同年12月15日をもって対イギリス国交断絶に踏み切った。さらにニエレレは67年2月「アルーシャ宣言」を発布、社会主義体制への移行を宣言した。ザンジバルとの合邦は反ソ連の見地から行った(らしい)のに、どうしてその後すぐに社会主義宣言を行ったのか……。ニエレレは、社会主義にしても民主主義にしても、先進国に手取り足取り教えてもらわずともアフリカ独自のやりかたで実現出来ると考えたのである。「社会主義」というのはブルジョアジーの支配する資本主義社会を労働者の革命によって打倒するという理論(註6)なのだが、ニエレレの目指す社会主義はそれとはやや異なり、アフリカ社会において伝統的に保たれてきた相互扶助・共同労働といったシステムを近代技術の手を借りて再構築するというものであった。
註6 これについての詳しい説明は当サイト内の「ロシア革命第1部その2」を参照のこと。
タンガニーカにおいてはザンジバルとの合邦以前から全ての土地を国有化しており(ただし実際には個々の世帯に99年期限で賃貸するという形式がとられた)、今回のアルーシャ宣言はザンジバル側とも綿密な話し合いを行った上のことであったという。まずはイギリス系企業の国有化を断行、既に国交を断絶してしまっているイギリスはこの動きに対処することが出来なかった。
67年9月、ニエレレは「ウジャマー村」の建設構想を発表した。「ウジャマー」とはスワヒリ語で「家族的な連帯感」を意味する。その内容は、まずタンガニーカの農村部に一般的な散村(村のあちこちに家屋が分散している村落)を集村(村のどこか1ヶ所に家屋が集中している村落。日本の村落はこれが普通)に改める「第1段階」。次に、世帯ごとに耕地を持ち続けながら、同時に村全体で共同農場を耕作する「第2段階」。最後に、村の農作業のほとんどを共同農場で行う「第3段階」という、3つの段階を経て農村の社会主義化を目指すというものであった。ニエレレは外国援助に頼らなければ整備出来ない工業ではなく農村中心の経済構造を目指してこのような政策を打ち出したのである。
しかし農民の側では特にこのようなことをする必要を感じなかったため、最初は「農民の自発的意志によるウジャマー村建設」に期待していた政府は69年から「説得」に切り替え、さらに71年以降は「強制」となってしまった。その結果、無理矢理にでも集村をつくらせるために軍隊が出動して家屋を焼き払うような事態が発生し、引っ越しの手間暇で農作業が滞った上に、72年の旱魃、73年のオイルショックという不運が続いてタンザニア経済は大きな打撃を被った。食糧の自給すら満足に出来なくなったせいで外国産の食物を買わねばならなくなり、それを何とかしようと国内の食糧増産に梃入れすると今度はコーヒーやサイザル麻といった換金作物の収穫が落ちるという八方塞がりな状態である。76年にはブラジル産のコーヒーが霜害で打撃を受け、そのかわりとしてキリマンジャロコーヒーを世界に売り込むチャンスとなったのだが、それも逃してしまった(かわりに隣国ケニアのコーヒー農園が儲かった)。しかも、そんな苦労をしたのにウジャマー村の人口は74年の時点で総人口の2割以下、第3段階まで行ったのはさらにそのうちの1割以下という有り様であった。75年には生産・流通・教育・治安に責任を持つ「村落政府」が設立されることになり、これで地方自治が進んだように思われたが、実際には中央政府による各村への統制が強化されただけの話で、しかも村落政府は流通をうまく把握出来ず、その点でも経済を大いに混乱させた。
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要するにニエレレの社会主義は理屈倒れだった訳だが、しかし彼の外交施策についてはかなり華々しいものがあった。先に触れたローデシア問題で、反ローデシアを鮮明に打ち出したせいで経済的打撃を受けたザンビア(註7)を救うためにザンビア・タンザニア鉄道の建設構想を打ち出し、中国からの破格の援助(4億ドルを無利子30年賦という好条件で借款)もあって76年には全線(1900キロ)開通を実現した。他にも、アフリカ統一機構(OAU)の創立に参加したり、67年にナイジェリア連邦からの分離独立を宣言したビアフラ共和国(註8)を支援したりと色々なことをやっている。
註7 内陸国ザンビアはローデシア領内を通る鉄道を使って貿易していたのだが、ローデシア白人政府に国境を閉鎖されてしまったのである。この辺の話は別稿を参照のこと。
註8 これについての詳しい話は当サイト内の「ビアフラ戦争」を参照のこと。
67年にはウガンダ(62年に独立)・ケニア(63年に独立)とタンザニアの旧イギリス領3国で鉄道や航空を共同運営する「東アフリカ共同体」を組織した。その時点ではタンザニアと同じように社会主義の道を歩んでいたウガンダは、しかし71年に軍司令官のアミン少将によるクーデターが発生してオボテ大統領が追放されるという事態となった。タンザニアはオボテを匿い、そのせいで72年には両国間に国境紛争が発生した。アミン政権は無茶苦茶な失政を繰り返してウガンダ経済を急降下させ(註9)、タンザニア経済も既に説明したような社会主義政策の失敗で低迷していたことから両国は東アフリカ共同体関連事業の「東アフリカ航空」や「東アフリカ鉄道公社」の分担金を支払い出来なくなった。そのしわ寄せを嫌ったケニアは77年2月をもって東アフリカ航空の解体を宣言、共同体もそのまま消滅してしまった。このような動きはケニアとタンザニアの外交関係を悪化させて両国間の国境閉鎖まで突き進み、東アフリカで一番の工業国であるケニアの製品を輸入出来なくなったタンザニアの経済はまたしても悪化した。
註9 これについての詳しい話は当サイト内の「アミン小伝」を参照のこと。
78年10月にはウガンダと本格的な戦争になった。ウガンダではタンザニア以上の失政が続いており、低迷した支持率を対外戦争の勝利で挽回しようとしたアミン政権の軍隊が一方的にタンザニア国境を越えて攻め込んできたのである。しかしタンザニア軍はこれを撃退、ウガンダ国内の反アミン組織「ウガンダ民族解放戦線」と連合して翌年4月にはウガンダ首都カンパラまで進撃・占領するという大活躍を見せた(ウガンダ領内でのタンザニア軍はあまり行儀が良いとは言い難かったようである)。粛清に次ぐ粛清で自国民を30万人も殺したことから「人喰い大統領」と呼ばれ、世界的に悪名を轟かせていたアミンの政権はこれで潰れたが、タンザニア側も5億ドルという莫大な戦費を浪費した。
79年には第2次オイルショック、80年には旱魃に襲われた。都市部では食糧を配給制にしなければならなくなって闇屋が跋扈し、ウガンダ戦争の帰還兵が横流しした武器を用いての強盗が頻発した。電気も水道も電話も維持出来ず、タンザニアの最高学府であるダルエスサラーム大学の学生(80年代前半のタンザニアには大学は2つしかなかった。だからそこの学生は超エリート)ですら、講義中に給水車が来ればバケツを持って走り出すような有り様であったという。
ところでザンジバルにおいては合邦後もカルメによる恐怖政治が続いていた。主産品である丁字の生産以外の経済活動は停止されて食糧も医療も足りなくなり、いくらか残っていたアラブ人やインド人の女性は黒人との結婚を強要された。独裁者カルメはやりたい放題やったあげくの72年に暗殺され、その後継者のアボウド・ジュンベが政権の座につくが、その背後の事情は不明である。ジュンベはカルメの抑圧的支配を緩和し、ザンジバル単体のことしか興味を示さなかったカルメと違ってニエレレ(タンガニーカ)との協力体制を強化した。77年にはニエレレの与党であるTANUとジュンベの与党であるASPとの合同を行い、新しく「革命党(CCM)」を立ち上げている。しかしこれは実質的にはTANUによるASPの吸収合併というべきものであり、ザンジバルはカルメ時代ほどには好き勝手出来ないようになってしまった。80年には経済悪化を背景とする反ジュンベのクーデター未遂事件(ザンジバルの経済問題について後述)が発生し、83年にはタンガニーカ側においてもクーデター計画が摘発された。後者には軍の一部が関与していた。
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という訳で83年、ウジャマー村政策は放棄され、タンザニアの社会主義は終わりを告げた。ニエレレは失政の責任をとり、85年をもって引退した。後任の連合共和国大統領はアリ・ハッサン・ムウィニ(註10)である。その後のタンザニアは西側諸国の援助で経済全般の立て直しをはかり、そちら(西側)からの圧力もあってCCM1党体制を廃止、95年には複数政党制に基づく総選挙を実施した。ところでニエレレの社会主義政策の失敗に喘いでいたのはタンガニーカ限定の話であって、ザンジバルは70年代までは丁字の産出で潤っていたのだが、やがてその丁字の需要が国際的に低下、貧困に苦しむようになっていた。特に貧しくなったのはペンバ島で、この島は丁字の8割を産出していたにもかかわらず、その儲けはもっぱらザンジバル島のインフラ整備に用いられていた。もともとペンバ島のシラジはZPPPという政党を持ち、イギリスから独立した時にアラブ系のZNPと組んでいたのだが、それがザンジバル革命で潰された、という過去の事情がペンバ島の待遇を悪くしたようである。
註10 彼はザンジバル側の人である。カルメ失脚後のザンジバルではタンガニーカに軽く扱われているのではないのかという不満が燻ってきたが、ニエレレはそのザンジバルの人を自分の後任にすえることで不満を和らげようとしたのである。
それで95年の総選挙では、タンガニーカではCCMが大勝、ザンジバルではCCM26議席に対して野党「市民統一戦線(CUF)」が24議席という僅差となった。これはもちろんザンジバル島とペンバ島の対立を背景としている。タンガニーカでもザンジバルでも政府(CCM)による野党への嫌がらせが行われたが、ザンジバルでは特に酷く、CUFは事務所にファックスをひくことすら許されなかったという(http://www.asahi-net.or.jp/~ee1s-ari/j.html)。そんな訳であやうく暴動になりかけたが、元大統領のニエレレがサンジバルに飛んでなんとか調停したという話が伝えられている。この選挙の結果を受け、タンガニーカ側のCCM指導者ベンジャミン・ウィリアム・ムカパが連合共和国第3代の大統領に就任した。ニエレレは99年に亡くなった。失政が多かったが個人的な欲得に溺れることは決してなく、現在に至るまで「国父」として崇められている。
2000年代に入るとザンジバル島はオマーン時代の遺産を活かした観光産業で活気が出てくるが、ペンバ島はやっぱり取り残された。2000年のザンジバル総選挙ではとうとう流血の惨事が発生し、選挙に敗れたCUF支持者の一部は国外に逃れた。2001年にはCCMとCUFの和解協定が結ばれ、2005年のザンジバル総選挙でも小規模な流血が起こった(この時もCCMが勝利した)が、以前とくらべれば平穏になってきたようである。タンガニーカでは一貫してCCMの絶対優勢、野党は17党もの小党乱立状態で全く力がない。2005年には連合共和国第4代の大統領としてやはりCCMのキクウェテが就任した。経済については成長してきてはいるのだが、昔とくらべて汚職が酷くなったという批判もある。