オマーン・ザンジバルの歴史 第4部
スルタン国とイマーム国 目次に戻る
さて、オマーンのうちのアラビア半島部分はどうなったのであろうか。サイード大王の三男スエィニーによって相続されたこの地域はオマーンの富の源泉だった東アフリカから切り離されて急激に衰亡し、首都マスカットの人口は19世紀後半の20年間で5万5000から8000にまで減少した。貿易が盛況だった頃は格安だった税金がアップされ、怒った内陸部の部族が首都マスカットを攻撃するような事件も起こる。スルタンはイギリスに頼るほかなくなり、1891年にはその保護領になりさがってしまった。
スルタンと内陸部族の抗争はその後も続く。この問題の背景には経済問題だけではなく、1780年に王家が行った政教分離政策があとをひいていた。復習すると、それまでのオマーンの君主はイスラムの宗教指導者の称号である「イマーム」を名乗っていたのが、このタイトルを捨てて世俗の君主である「スルタン」と名乗ったというあれである。1913年には内陸部族が独自にイマームを選出して「オマーン・イマーム国」を立ち上げるに至り、20年のイギリスの調停による「シーブ条約」によって、沿岸部の「オマーン・スルタン国」と内陸部の「オマーン・イマーム国」とが並立する運びとなった。後者は前者による宗主権を認めるかわりに自治権を行使出来るというものである。
このような動きの中、現実政治への情熱を失ったスルタン・タイムールは1932年に息子サイード3世にスルタン位を譲り、日本の神戸に隠居することにした。タイムールは神戸で日本人女性をめとり、娘をもうけた。オマーン・スルタン国の今後については、サイード3世にはこの頃まだ子供がなかったため、彼に何かあれば弟のターリクがスルタン位を継承するという「神戸の合意」が結ばれた。タイムールの神戸での生活は3年後に夫人が亡くなったため終了した。娘は本国に引き取られ、タイムールはその後の余生をインドで送った。
サイード3世は質素倹約につとめ、すこしづつ貯めた金でイマーム国の有力者を懐柔していった。ただし、「倹約」という言葉だけ聞けば立派なように思えるが、要は国民のための出費を極力抑えたということであった。彼の治世下のオマーンには学校は3ヶ所、病院は1ヶ所しかなく、マスコミは皆無、議会も存在しなかった。識字率たったの5パーセント、乳幼児死亡率なんと75パーセントであったというからちょっと信じ難い国である。タイムールは夫人を亡くしたあと本当は母国オマーンに帰りたがったのだが、猜疑心の強いサイードはこれを許さず、「神戸の合意」によってスルタン位の優先的継承権を認められていた弟ターリクも外国に追い出してしまった。
時が流れて1954年、イマーム国側で新イマームの選挙が行われた。スルタン・サイード3世はこれに立候補するも落選、そこでイマーム国への武力攻撃を開始した。イマーム国は同時期にイギリスが実施しようとした石油探査を自治権侵害と見なして妨げたため、怒ったイギリスはスルタン国を支援し、対してイマーム国にはエジプト・サウジアラビア・ソ連が加担したが、戦闘はスルタン側の優位に進んだ。戦いに敗れたイマーム国政府はエジプトに亡命した。
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こうしてオマーン統一を果たしたサイード3世は、しかしその後はオマーン南部のドファール地方の離宮に引き蘢り、精神に失調を来して(もとからかなりおかしかったが)病的な行動をとるようになった。進歩的な改革の類は一切やらず、煙草も眼鏡も洋服も自転車も禁止し、国政に関する指示は離宮の中から無線で発し、ザンジバル革命から逃れてきたアラブ系難民を受け入れることすらしない。イギリスに留学していた息子カブース王子が帰国してくるとこれを軟禁する。財政的には58年に、1797年以来オマーンの支配下にあったパキスタン南部のグワダルをパキスタンに300万ポンドで売却し、67年からは石油の採掘が本格化してオマーン経済は急激に上向いてきた(註1)のだが、それらの収入はサイードが個人的に貯金してしまったという。
註1 オマーンは中東の中では最も石油の開発が遅れた国であった。
国民たちがいつまでもこんな政治に耐えられる訳がない。早くも62年に離宮のお膝元であるドファール地方が「ドファール解放戦線(DLF)」を組織して反乱を起こし、これに旧イマーム国の残党までが参加した。66年に彼らがサイードの暗殺をはかって失敗すると、サイードは自分の生死を秘密にするという奇怪な行動をとった。ドファール解放戦線の兵力は約1000人、対するオマーン政府軍は約2500人の兵員を持っていたが志気は極めて低く、イギリス人の有能な指揮官に率いられているからなんとか崩壊しないですんでいるという有り様だったという(やがてイギリスも愛想を尽かす)。
そして70年、カブース王子がクーデターを断行した。まず王子派の有力者数人がサイードのところに出向いて退位を求めたところ、サイードがいきなりピストルを撃ち、そのまま王宮内での戦闘に発展したという。戦いはイギリスの支援を受けていた王子派の勝利に終わり、サイードは戦闘で受けた傷の手当という名目でロンドンに放逐された。以下は王子の声明。「私は、自分の個人的な関係を忘れなければならない。なぜなら問題は、父とか息子とかより大きいからだ。国家の存在が問われている時、私は自分の個人的愛情を全て忘れなければならなかった」。
かくしてカブース王子は新スルタンに即位した。71年にイギリスからの完全独立を達成して国際連合にも加盟した。これまでろくな教育制度がないせいで人材を育てようがなかったオマーンの近代化を急ピッチで進めるため、ザンジバルから逃れてきた人々(オマーンよりは教育程度が高い)を要職に登用した。いわゆる「オマーン・ルネサンス」の開始である。その一方でドファール解放戦線は去る68年に左傾化して社会主義を掲げる「占領下アラブ湾岸解放人民戦線」に組織を改編し、71年には「ドファール革命政府」の樹立を宣言した。しかし「左傾化」の時点で保守派が脱落したため組織としては弱体化した。新スルタン・カブースはイギリス等の手を借りて掃討作戦を押し進めつつ、投降者は気前良く許し(一部は政府の要職に登用)、学校や病院を整備してドファール地方の民生の向上をはかるという硬軟両策をとって、75年には戦闘を終結させた。
カブースは即位以来36年を経た今でもスルタンをつとめている。即位時に叔父のターリクを亡命先から呼び戻して首相に任命したが、これは1年で辞めている。それまでの4年間で4倍に膨れ上がった石油生産がイギリス資本に食い荒らされており、首相でありながら大した実権を持ち得ない(万事外国資本の言いなり)ことへの不満が辞任の理由として説明された。90年代にはスルタン政府の作成する法案を審議・勧告する権利を持つ「諮問議会」「国家評議会」という名の議会(後者は国政調査権を有する)が創設されたが、どちらも立法権は付与されなかった。オマーン国は今のところスルタン1人で首相・外相・蔵相・国防相を兼任するという絶対君主制の国であり、石油のもたらす潤沢な予算のおかげで政治・経済ともども至極安定してはいる。
おわり