FLNはこの頃なにをしていたのであろうか。
実のところ、FLNは軍事的には逼塞しており内部でも抗争が絶えなかったのだが、外国に対してはアルジェリア人全体を完璧に統御しフランスと対等に渡り合っているかのような印象をアピールすることに成功していた。FLNは既に59年9月19日をもって「アルジェリア共和国臨時政府」の樹立を宣言していた。これについて少し説明しておく。
FLNが臨時政府への承認を求めたのはまずアラブ諸国であつた。ただ、アラブ諸国は身内ともいうべきアルジェリアの独立運動をこれまで陰ながら援助しつつも、公式に臨時政府を承認するとなると躊躇うだろうというのは最初からわかっていた。そこで(フランスと対等に戦っている……ようにみえる……ので諸国としてもその動向を無視することは出来ない)FLNは、「あした臨時政府樹立を宣言するからいますぐ承認してくれ」といきなり詰め寄り、押しきってしまったのである(アルジェリア革命)。最初に承認したのがモロッコ・シリア・レバノンで、チュニジアとエジプトも苦言を呈しつつこれにならった。中国・北朝鮮・北ヴェトナムといった共産陣営も続々と臨時政府を承認するに至った。
恐らくそれに関係してアメリカも、少なくともFLNに反対することはなかった。アルジェリア問題に関してフランスに加担することでFLNを必要以上に共産陣営に頼らせるのを危惧したからだと考えられている(アルジェリア革命)が、かようなアメリカの態度は、フランス人には「アルジェリアの油田目当てで消極的にFLNを支持している」ととられていた。
国連総会でも毎年のようにアルジェリア独立の権利を承認する決議が可決された(註1)。
註1 61年の第16回総会における決議には日本も賛同した。
そしてこれらのこと(FLNが外国に支持されている)がまわりまわってアルジェリア人一般のFLN支持につながっていたと考えられている(アルジェリア革命)。軍事的に逼塞していたFLNがそれでも大衆の支持を失わなかったのはつまり外交上の勝利を喧伝していたからである、と。
ド・ゴールは政権獲得以来、アルジェリア人の参政権拡大を打ち出し、各種の選挙に立候補するようすすめていたが、FLNはそのような小手先の妥協にのることを拒絶し、アルジェリア人の多くも(おそらくFLNの指導に従って)少なくとも自発的に立候補するようなことはなかったのである(前掲書より。コロンの傀儡として立候補を強要されることがあったようである。自分から進んでコロンに協力した人ももちろんいた)。
最初はFLNとの和平を模索したド・ゴールであったが、60年6月に行われたFLNとの和平交渉は失敗に終わっていた。そこで11月、ド・ゴールは「非FLNアルジェリア人」を主体とする「アルジェリア共和国」という国の建設をめざすことを発表した。言うまでもなくFLNが激烈に反発する。
しかしこの構想は、FLNよりもむしろコロン過激派の方を激怒させていた。ド・ゴールの語る「アルジェリア共和国」はかなり抽象的なものではあったが、彼の説明を聞く限りでは「自らの法律と制度をもち」、さらに「独自の外交政策まで与えられるかのような口ぶり(ド・ゴール伝)」であった。前回の反乱「バリケードの1週間」の時点ではド・ゴールは「フランスと連携した(各種の政策・制度においてフランスと密接に連携した)アルジェリア人のアルジェリア」を目指すと語っていたが、今度はそこから「フランス」を外すとでも言わんばかりの話である(註1)。コロン過激派にとっては、ド・ゴールのいう「アルジェリア共和国」なるものからFLNが除外されていることはどうでもよかった。ただ、どんな形であれ「アルジェリア人のアルジェリア」などを認めて、それじゃあ100万のコロンはどうなってしまうのだ(註2)、と、それが問題であった。
註1 ド・ゴールは最初からアルジェリア人に完全独立を与えるつもりでいたようにも思われる。しかしそれだとフランス側の反対が大きすぎるので、段階的に「フランスのアルジェリア」→「フランスと連携したアルジェリア人のアルジェリア」→「アルジェリア人のアルジェリア」と、政策を変更していったのだと考えられる。
註2 黒色アフリカの植民者は数も少なく、現地に「滞在」しているという程度の感覚であったが、コロンにとってのアルジェリアは「自分の国」であった。(フランス植民地帝国の歴史)
いくつもの極右組織が結成される。まず「フランスのアルジェリア戦線(以降FAFと記す)」その中心はかつてのアルジェリア総督で今でもコロンの支持を受けるジャック・スーステルその他。かつては自由フランスの要人だったスーステルも、今や完全にド・ゴールと袂を分かっていた。
FAFとは別に、こちらはかつてのアルジェリア派遣軍総司令官だったラウール・サラン将軍がフランス警察の監視を振り切ってスペインに亡命し、そこからアルジェへの帰還をはかっていた。彼いわく「アルジェリアはつまるところフランスである」。サランは記者会見を行って、自らが「フランスのアルジェリア」運動の首領たることを宣言した。
さらにそれとも別の動きがある。元インドシナの空軍司令官で、58年5月の反乱の際に公安委員会副議長をつとめていたエドモン・ジュオー将軍とその一派。彼もいわく「アルジェリアにおけるフランスの旗を維持する」。彼はスーステルやサランと異なり、生粋のコロンであった。この頃またFLNのテロが激しくなり、コロン全体の世論が反ド・ゴールへと動いていた。ジュオーはド・ゴール本人に向い「フランスのアルジェリア」論を45分間もぶちあげていた。亡命中のサランと違って直接軍を指揮する立場にあるジュオーのまわりには、第1外人落下傘聯隊、第14・18落下傘狙撃兵聯隊といった精鋭部隊の聯隊長たちが集まっていた(註1)。
註1 しかし、この文章に何度か登場したトランキエ、ビゲール両大佐は協力を拒否した。前者は黒色アフリカに渡って傭兵隊長となり、後者は順調に出世して75年に国防相となった。
アルジェリア人の民族自決を問う投票は翌61年1月8日に予定されていた。ド・ゴールが12月9日に行ったアルジェリア訪問は轟々たる非難の嵐によって迎えられ、ド・ゴールの警備隊とコロン過激派のデモ隊が衝突、ド・ゴール暗殺計画も後に発覚したものだけで4つもあったという。
しかしその2日後、ド・ゴールの警備隊とFAFの「電激隊」とが睨み合うその隣で、突如アルジェのアルジェリア人数万がデモを起こしてコロンのデモ隊と衝突した。アルジェリア人の立場からド・ゴールの構想する「アルジェリア共和国(FLNを除外する形での独立アルジェリア構想)」の欺瞞性を糾弾したのである。「FLN万歳!」「臨時政府万歳!」これはFLNの指示によるものではなく自然発生的なものであり、ド・ゴールをして、やはりFLNを独立アルジェリアの主体と認めた上で交渉のテーブルにつかざるをえないと決心せしめるに至るのである(アルジェリア革命)。
そして1月8日の投票日(フランス本国とアルジェリア双方で実施された)、75%の高率を得てアルジェリアの民族自決が決定した。もっとも有権者の4分の1は棄権して「アルジェリア植民地の放棄に対する複雑なフランス国民の感情をうかがわせた(渡邊フランス現代史)」特にコロンが多数を占めるアルジェ市では72%が「否」であった。ただし、本国における投票で「否」を入れたのは、「民族自決は支持するが、ド・ゴールも完全には信用出来ない」とする共産党の票が大半で、極右の票は少数であった(アルジェリア解放戦争)。その一方て、この投票にはアルジェリア人も参加出来たのだが、彼等の半数近くは棄権にまわっていた。これは「この投票はFLNに相談することもなくフランスが一方的な方式で決めたものである」というFLNの解釈に従ったものである。投票したアルジェリア人もその多くは派遣軍の兵士やコロンに無理矢理投票所に引っぱっていかれたもので、やはりこの結果からもFLNがアルジェリア人大衆の広汎な支持を得ていること、従って「非FLNアルジェリア人によるアルジェリア共和国」などありえないことを確定させたのであった(アルジェリア革命)。
自信をつけたFLNがド・ゴールに交渉を申し出た。「アルジェリア問題は、話し合いによる、平和的解決の可能性に見通しを与える新しい段階に入った」。ド・ゴールはこれを受けることにした。しかしコロンはどうするか。「非FLNアルジェリア人によるアルジェリア共和国」にすら徹底的に反対した彼等にとっては「FLN主体による独立アルジェリア」はさらに最悪な針路であった。
2月、「バリケードの1週間」裁判の後保釈され行方をくらましていたラガイヤール、同じくFNF(「FAF」ではない。実に紛らわしい)のジャン・ジャック・スシニ等がスペインのマドリードで新組織「秘密軍事組織(以降OASと記す)」を結成した(註2)。3月にはアルジェでド・ゴール派へのテロを開始するこの組織は、アルジェリアに絡んでつくられた極右組織の中で、その後最も危険なテロ集団へと成長するのであるが、それはもう少し先の話である。
註2 この話を聞いたサランがうんざりしつつ語ったという。「コロンは可哀想に、FAFがあり、FNFがあるというのに、今度はOASか、何がなんだか見分けがつかなくなるだろうよ。でも、それで連中が喜び、もっとよいことが来るまでの暇つぶしになるなら、それでよしとするか」。
一方ラガイヤール等と同じくマドリードに居を構える元アルジェリア派遣軍総司令官サランのもとに、彼の後任の総司令官となっていたシャール将軍から協力の申し出が送られてきた。シャールは総司令官に就任後FLNに対して大攻勢をかけていたにもかかわらず、その結果が出る前にあっさりと(ド・ゴールに)解任されてNATO軍の指揮官に転出されたことに深い憤りを感じていた。さらにド・ゴールは3月末にフランス政府とFLNとの二者間平和会議を行うとの声明を発しており、自らの平和への意志を示すために(以前は「平和の前には軍事的勝利が必要」とかいっていたのに)アルジェリア派遣軍への戦闘停止を命じていた。これはFLNとの血みどろの戦闘を指揮してきたシャールにとって許せないことであり、また、一部の「フランスに忠実な」反FLN派アルジェリア人に対する裏切り行為であるとも思えたのである(アルジェリア独立革命史)。
サランとシャールはジュオー将軍とそのとりまきの落下傘部隊指揮官、さらに本国のアンドレ・ゼルレ将軍(註3)等とともに反乱計画に乗り出した(註4)。OASのラガイヤールも将軍たちへの協力を申し出た。3度目のアルジェリア反乱「将軍たちの反乱」勃発が迫っていた。
註3 彼はもと地上軍の参謀長。兵站業務の専門家で、公然たる「フランスのアルジェリア」の支持者として知られていた。
註4 アメリカのCIAが裏で糸を引いていた、という噂もあるが、どうでしょ。
4月20日、それまでフランスにいたシャールとゼルレの両将軍がフランスを離れ、アルジェリアのブリダ空港に降り立った。現地でジュオーと合流した彼等はただちに反ド・ゴール派の落下傘部隊や外人部隊の指揮官達と連絡をつけ、反乱の具体的な準備を開始した。決起はアルジェとパリの両方で行う。本国の方ではフォール将軍率いる2200の落下傘部隊が決起の準備を整えた。
21日深夜、第1外人落下傘聯隊がアルジェ市の主要な建物を占領し、現地ド・ゴール派の要人を逮捕した。これがいわゆる「将軍たちの反乱」である。「軍はアルジェリアとサハラを支配下におきました。フランスのアルジェリアは死んではいません。(アルジェリア人による)独立アルジェリアは決してなく、将来もないでしょう。フランスのアルジェリア万歳 ! フランス万歳 ! 」反乱開始を告げるラジオ放送を聴いたコロンは大喜びした。しかし、「将軍たち」が最もアテにしていた在アルジェリアの海軍は全く動こうとせず、洞が峠を決め込んでしまった。ある海軍士官がいったという。「我が海軍はいつも船に乗り損なうんだ、トラファルガー以来 ! (アルジェリア独立革命史)」とはいえ派遣軍のいくつかの部隊が反乱支持を明らかにした。
23日、それまでスペインにいたサランが空路アルジェに到着した。同行するはずだったラガイヤールはスペイン警察に阻まれ、反乱に参加出来なくなってしまったが……実はラガイヤールはサランに嫌われていた。とにかくこれでアルジェにはサラン、シャール、ジュオー、ゼルレという4人の大将が出揃った。いくらかの手違いがあったとはいうものの、アルジェリア派遣軍はフランス軍の中で最も強力、かつ最新の装備を有しており、大戦中の中古の武器しか持たない本国の部隊との差は歴然としていた。また、将軍たちは、ド・ゴールがNATOに関して米英に協調的でない(後述する)ことに目を付け、アメリカのケネディ大統領に支援を頼んでいた。
しかしこの「将軍たちの反乱」を迎え撃つド・ゴールは、58年5月の反乱に対応したフリムラン首相とはくらべものにならない胆力と決断力を有していた。またド・ゴールが築き上げた第五共和政大統領の破格の権力はこんな時のためのものなのだ。報告を受けたド・ゴールは憲法16条による独裁的な非常大権を行使する決意を固めた。当局はいかなる容疑者も令状なしで15日間拘留出来る。本国で陰謀をめぐらしていたフォール将軍とその幕僚たちは内相ロジェ・フレイの手で逮捕され、彼等がパリ近郊に集めていた2200人の反乱部隊はあっさりと解散命令に従った。サハラの原爆基地に通達が飛び、反乱軍が原爆奪取に動いた際にはただちに爆発させよとの命令が伝えられた。アメリカ大統領は将軍たちの要請を無視し、かわりにド・ゴールに反乱鎮圧のためのあらゆる援助を与えると声明した。(註1)
註1 それに対するド・ゴールの反応がまた傲慢である。「あの若いケネディが、私を助ける? いつから他国の大統領がフランス人に勝ったフランス人を祝福する習慣が出来たのだ?」
夜8時、ド・ゴールがテレビ・ラジオにて演説を行った。かつてド・ゴールがドイツへのレジスタンスを訴えた1940年6月18日の演説「あの同じ声がラジオから流れ出た(ジャッカルの日)」「私は全兵士に命令する。反乱首謀者の命令をきくな……私はすべてのフランス人、とりわけ全兵士に、彼等(反乱軍)の命令を実行することを禁ずる」「フランス人の男女よ、私に助力を ! 」ド・ゴールはあくまで冷静であり、続いてテレビに登場した首相ドブレの狼狽ぶりがますますド・ゴールへの信頼を高めることになった。内務省に助力を申し出る男たちが殺到した。翌24日には各労働組合がド・ゴール支持を表明、共産党も(反乱軍と戦うために)戦闘員1万5000の動員が可能だと申し出た。放送を聴いた反乱軍の将兵たちも動揺した。アルジェと他地域との連絡を遮断(テレビ・ラジオの視聴を禁ずる等)しなかったのは反乱軍の大きなミスだった。特にシャール将軍にとってショックだったのは、麾下の軍用機がド・ゴール側に投降すべく逃げ散ってしまったことだった。シャールは空軍大将だった。各部隊で脱走が相次いだ。「大隊によっては、大隊長が目をさました時、残っているのは一握りの将校だけで、下士官兵はほとんど姿を消していた(ジャッカルの日)」落下傘部隊や外人部隊といった精鋭部隊の指揮官にはアルジェリアを墓場と決め込む者が多かったが、本国の一般の家庭から徴兵されてきた普通の兵士たちはすでに戦争そのものに疑問を感じていたのである。
シャールは投降し、サラン、ジュオー、ゼルレは逃亡した。テレビ・ラジオを活用したド・ゴールの勝利であり、後世「トランジスターの勝利」と称される反乱の終結である。
「私(ド・ゴール)はよき武器を持っていた。私が身につけている国民の支持という鎧と、正しい道を歩む決意という剣である(希望の回想)」(裁判の結果、シャールは禁固15年という比較的軽い刑を受けた。数百人の将校がさらに軽い刑に処せられた。ただし、反乱に特に熱心に加担した第1外人落下傘聯隊、第14・18落下傘狙撃兵聯隊は解体となった。これらの部隊は爆薬で兵舎を破壊し、残っていた弾薬を全て空に向けて撃つ尽くした。後に残ったのはFLNとの戦いで死んだ兵士約300人の墓だけだった〜アルジェリア独立革命史より)
5月20日、エヴィアンにてフランスとFLNの和平交渉が始まった。FLNの代表はベルカセム・クリム。1954年に最初の対仏闘争を開始した「歴史上の9人」の中で、いま生き残り、なおかつ自由の身でいるのは彼ひとりだけだった。会談はまずアルジェリア独立後に少数民族に転落するコロンの扱いをめぐって紛糾する。フランス側はコロンにフランス・アルジェリア両国の二重国籍を与えることを要求したが、FLNはあくまでアルジェリアの全住民は等しく平等な権利を持つべきだと主張した。
次の難問はサハラである。フランスは広大な砂漠の保持にこだわった。そこには油田があるからである。「アルジェリアのサハラというのは、何の歴史的根拠もない。インディアンがテキサスに権利を持たないのと同じだ(?)」「いや、サハラはアルジェリアの不可分の一部である」。結局交渉は中断した。
その後も色々な案が考えられた。親フランス派アルジェリア人の組織「アルジェリア国民運動(MNA)」を中心とする「FLNなき政権樹立」の試み……以前も似た様な案を出して激烈に反対された。アルジェリアを南北に分割して北部の肥沃な地域をコロンに、南部の山岳地帯をアルジェリア人に与えるとの案……も、今となってはあまりにも馬鹿げている。サハラに隣接する諸国に現地の共同開発を呼びかけ、それらの国々とFLNとの離間をはかるとの試みも失敗した。外交に関してはフランス外務省よりもFLNの方が上手であった。フランスは交渉再開を申し入れた。