ド・ゴール伝 第4部その4

   

   OAS   (目次に戻る)

 「将軍たちの反乱」失敗後、フランス官憲の追求を逃れた反乱軍の将校たちはその多くがラガイヤール(反乱に参加出来なかった)の「OAS」に加わった。ギャルド、ラシュラワ、ゴダール、アルグー、プロの指揮官であり「栄光の落下傘部隊」の幹部だった大佐たちはOASの実権を(ラガイヤールから)乗っ取り(註1)、(ほとんど連絡がとれなかったが)潜伏中のサラン将軍を「指導者」に選び、ジュオー将軍をその副官とした。組織の政治面での参謀役は「バリケードの1週間」の時のFNF幹部であり、ラガイヤールとともにOASを創設したジャン・ジャック・スシニ、「サン・ジュスト(フランス革命で活躍した青年革命家)の面影」と称された27歳の青年である。

 註1 しかしアルジェリア独立革命史によれば、組織の実権は旧ペタン派7人組のメンバーが握っていたという。

 彼等は「将軍たちの反乱」の時に武器庫から奪った大量の武器を備えていたが、さらにOAS全体の参謀であるゴダール大佐がFAFやFNF等のコロンの過激派を残らず吸収し、コロンからの「寄付」(註2)や銀行強盗で莫大な軍資金を蓄えるに至った。

 註2 本国の著名人にも寄付が強要された。女優のブリジッド・バルドーが拒絶したのは有名な話。

 OASは活発なテロを行った。フランス・FLNの交渉が行われたエヴィアンの市長を暗殺、フランス警察の対OAS責任者ガヴーリ警視を「落下傘部隊の」短剣で刺し殺し、「ラ・ストルーンガ」と彼等が呼ぶプラスチック爆弾をド・ゴール派のコロンにお見舞いした。8月5日と9月21日にはOASによる電波ジャックが行われ、アルジェ中のテレビからOAS幹部の演説が流れ出た。アルジェのド・ゴール派警察はほとんど無力であった。

 かつての「アルジェの戦い」はアルジェリア人とフランス人の戦いであったが、今度のOASは純粋にフランス人の組織であり、警官・兵士の多くは自分と同じフランス人に銃を向けるのを躊躇った(アルジェリア独立革命史)。(註3)「アルジェの戦い」においてアルジェリア人貧困層の住むカスパ地区が難攻不落の要塞と化したのと同じく、今度はコロン貧困層の居住するバブ・エル・ウェッド地区が警察の侵入を許さぬ無政府地帯となった。

 註3 そこで例えば警察は、インドシナ戦争の時にフランスに味方したヴェトナム人(OASに対して同情心がない)をOAS捕縛に用いていた(アルジェリア戦線従軍記)ほどであった。

 ところが、本国から派遣されてきた腕利きルイ・グラシアン警視とアルジェ憲兵隊長ドブロッス大佐とがOAS幹部多数の居所を掴むことに成功した。OASのアルジェ・パリ・マドリードの各拠点を行き来していた密使モーリス・ジャンジャンブルの逮捕に始まるフランス官憲の攻勢の前に、OASはその多くの幹部を逮捕されるという大打撃を被った。

 とはいえOASも果敢に反撃する。61年9月、ド・ゴールの専用車の通り道に爆弾を仕掛け(註4)、さらに11月にはバーで歓談中のグラシアン警視めがけて機関銃を乱射、グラシアンは取り逃がしたもののその補佐官を殺すという戦果をあげた。これに対し、ド・ゴール派のコロンが対抗テロ組織「秘密結社」を結成し、OAS御贔屓のバー6軒を爆破した。このうち一軒の「オトマティク」は「アルジェの戦い」の時に一番最初にFLNの標的となり、58年5月13日の反乱の時にはラガイヤールが反乱宣言を行った歴史的な酒場であった。

 註4 爆弾が古すぎたため大した爆発にならなかった。

 だが、「秘密結社」の指揮官ビッテランは2度に渡ってOASに狙撃され、さらに自宅をロケット弾と機関銃で文字どおり蜂の巣にされた。他の幹部アルシェイクは印刷機に見せかけた偽装爆弾で構成員18人もろとも吹き飛ばされ、残ったメンバー25人も誘拐されて殺された。OASだけでなく、一般のコロンまでもが秘密結社構成員の残殺に手を貸した。当時外国に亡命していた前アルジェリア総督スーステルも、第二次世界大戦中のレジスタンス統合組織「全国抵抗評議会」の議長であり、やはり強硬な「フランスのアルジェリア」論者であるジョルジュ・ビドーもOAS支持を表明した。テロはフランス本国にも拡がった。ド・ゴール本人も何度も狙われた。「フランスのアルジェリア」を完全に裏切った男に対し、OASが抱いているのは暗い憎悪だけだった。

 62年2月7日、文化相アンドレ・マルロー宅にOASによる爆弾テロが行われた。この時マルローは不在であって運良く難を逃れたが、そのかわり建物の1階にいた4歳の少女ドルフィーヌ・ルナールが瀕死の重傷を負った。その翌日、たびかさなるテロに激怒したパリ市民が反OASのデモを行った。ところが(何故かはわからないが)内相ロジェ・フレイはこのデモを禁止しようとし、デモ隊と警察とが衝突して数百人の死傷者が出た。5日後に行われたこの事件の犠牲者のための葬儀(50万人が参加)には、さすがに警察の方も何もしなかった。

   

   エヴィアン協定   (目次に戻る)

 すでに2月5日、ド・ゴールはアルジェリア問題が解決の直前に達していること、今年(62年)末には全フランス軍がアルジェリアから撤退する予定(あくまで予定)であることを発表していた。彼は海外植民地を完璧に切り捨てる決意を公にした。FLNとの秘密交渉を再開していたフランス代表団のもとに、「突っ切れ ! 」とのド・ゴールの訓令が何度も飛び込んだ。

 OASのテロはますます過激になり、アルジェだけで1日平均30人以上の死者が出た。OASのテロはド・ゴール派だけではなく一般のアルジェリア人にも向けられていた。誰か特定の人を狙うのではなく、街中で群衆に向けていきなり機関銃を乱射したりするのである。FLNはかような挑発に応じることを強く戒めたが、現在の単発的なテロが全面的な相互大量虐殺に結びつく危険は常に存在し、むしろそれこそがOASの最も望む展開であった(アルジェリア解放戦争)。OASは飛行機まで持っており、FLNのベン・ムヒディ基地を空から襲って5人を殺した。

 OAS系の新聞『カルフール』が以下のように書き立てた。「陸軍は、そしてとりわけ若い士官たちは、インドシナやアルジェリアにおいて何のために戦ったのか。いうまでもなくフランスのためである。が、それだけではない。もう1つのことのためにも彼等は戦ってきたのだ。すなわちそれは、ある倫理のためであり、フランス的であると同時にヨーロッパ的でもある諸価値のためであり、人間の自由のためであり、要するに文明の一形式のためなのだ」(アルジェリア戦線従軍記より)。ヨーロッパとイスラムとの文明の戦いという訳だ。

 3月7日、エヴィアンにてフランス・FLNの公式会議が再開された。具体的な論点はすでに秘密交渉で話がついていた。同月18日に調印された「エヴィアン協定」により、フランスによる油田開発を認めるかわりにサハラを含むアルジェリアの独立が承認され、コロンは3年の移行期間を経て「アルジェリア市民」もしくは「特権を持つ外国人」のどちらかを選ぶことが出来るとされた。またフランスの派遣軍は現在の60万人を8万人に縮小するのに12ヵ月、完全に撤収するのにさらに24ヵ月の期間が与えられるとした。独立後も両国は密接な経済・文化協力、両国間の人間の自由な移動、コロンの財産の保全といった事柄も取り決められた。

 ……しかし、「フランスによる油田開発を認める」というところがクセ者であった。この頃、植民地を政治的に支配して莫大な維持費を注ぎ込むよりも、独立だけ与えて後は経済面のみ支配した方が儲けが大きいのではないかという考えが出てきていた(フランス植民地帝国の歴史)。ド・ゴールによるアルジェリア独立承認の背後には、実はかような考え「新植民地主義」に立ち至った実業界の動きがあったのである。

   

   焦土作戦   (目次に戻る)

 エヴィアン協定の調印日前日、アルジェ市ではOASのテロが48件も起こった。2日後(3月20日)の真昼間、アルジェリア人の集まっていた広場に迫撃砲弾が6発も射ちこまれ、24人が死亡し59人が負傷した。22日、機関銃とバズーカ砲で武装したOASが移動中のフランス憲兵隊を待ち伏せ攻撃し、車3台を吹き飛ばして憲兵18人を殺した。

 23日、OASの強力な地盤であるアルジェのバブ・エル・ウェッド地区が2万のフランス軍によって完全封鎖された。OAS狙撃兵の籠る建物めがけ、同じフランス人の軍隊が戦車砲とミサイルを撃ち込み、この日1日で双方あわせて35人の死者と100人以上の負傷者が出た。

 事態はアルジェリアの他の都市でも同様であった。オランではコロンとアルジェリア人とが衝突し、22日にはOASがアルジェリア銀行を襲撃して22億フランを奪い去った。しかし25日にはオランのOASの指揮をとるジュオー将軍がフランス軍の手に落ちた。

 26日、アルジェにてOASに指導されたコロンの大デモ隊に向けフランス軍が一斉射撃、46人の死者と200人の負傷者が出た。

 4月8日、エヴィアン協定の是非を問う国民投票が実施され、投票者の90%が賛成票を投じた(棄権が25%)。長い戦争に飽きた「フランス国民の大多数はアルジェリア戦争が終るのを喜び、そしていろいろな政党がそれと反対などんなことをいおうと、この業績をド・ゴールと結び付けたのである(ド・ゴール伝)」とはいえOASはそんなものは認めない。 

 20日、OAS指導者サラン将軍がフランス軍に捕われた。次の指導者に選ばれたのはジョルジュ・ビドー、(前にも書いたが)かつて大戦中のレジスタンス統合組織「全国抵抗評議会」の議長をつとめた人物であり、OASにはかようなかつてのレジスタンスの闘士や自由フランス軍の兵士だった者が大勢いた(註1)。サラン逮捕への報復としてその日のうちに24人のアルジェリア人が殺され、5月2日にはアルジェ港で車に仕掛けた爆弾が爆発し、アルジェリア人62人を殺し150人に重傷を負わせた。

 註1 ペタン派のラガイヤールの様に、大戦中のことを根に持っている者もいる。

 これまでOASの挑発に耐えていたFLNもさすがに黙ってはいられなくなり、過激派コロンの溜り場の酒場を襲撃して17人を殺し35人に重傷を負わせた。その翌日には当然のこととしてOASが報復し、56人を殺し35人を負傷させた。アルジェリアは完全な無法地帯と化した。限度を越えた恐怖に際して、コロンの中にフランス本国へと脱出する者があらわれ、その数は加速度的に増えて、やがては1日1万人にも達した。

 自暴自棄に陥ったOASは「アルジェリア人に1830年(フランス支配開始の年)以前のアルジェリアを返す」として近代的な施設を片端から破壊する「焦土作戦」を開始した。アルジェ大学、各種学校、市庁舎、石油貯蔵タンク、等々が爆破された。獄中のサランとジュオーはこの異常措置に驚き、無用の破壊をやめるよう呼びかけた。

 6月17日、突然OAS・FLN間の休戦協定が成立した。OASの政治参謀スシニの尽力によるものであり、彼はOAS幹部の中で最初に戦いに敗れたことを自覚した人物(アルジェリア独立革命史)であった。この1年たらずの間にOASは2360人を殺し、5418人を負傷させていた。また、アルジェ市に限っていえば、最後の半年間にOASのテロの犠牲になった民間人の数は、56年以来のFLNのテロによる犠牲者の3倍にも達していたという(前掲書)。

   

   アルジェリア独立   (目次に戻る)

 7月1日、エヴィアン協定の是非を問う今回はアルジェリア独自の投票が実施され、599万3754票が賛成、1万6478票が反対、棄権が10%、棄権の大半はコロンであった(前掲書)。すでに35万のコロンが全財産を二束三文で売り払い、フランス本国目指して脱出していた。アルジェリア独立後におけるコロンの権利は「エヴィアン協定」で保証されていたのだが、凄まじいテロの応酬の中でパニック状態に陥ったコロンの大部分はもはやアルジェリアに留まる意志を持っていなかった。

 3日、ド・ゴール大統領がアルジェリアの独立を承認した。7年半に渡って続いた「アルジェリア戦争」でフランス軍の出した死者は1万7456人(註1)、負傷者6万4985人、脱走を含む行方不明者約1000人であった。FLNによるコロン民間人へのテロは4万2090件、それによる死者は2788人を数えた(註2)。アルジェリア人の死者はフランス側の推定で約30万人、アルジェリア側の推定で100万人であったという。(これらの数字は『アルジェリア独立革命史』によった)

 註1 事故死5966人を含む。フランス軍の死傷率は本国の交通事故死傷率より低かったという。

 註2 OASが殺した数より若干多い程度。しかもこの数字にはOASに殺されたド・ゴール派コロンも含まれている。

 4日、アルジェの総督府から三色旗が下ろされた。軍楽隊が『執政官のマーチ』を演奏した。これは1800年の「マレンゴの戦い」に勝利したナポレオンのためにつくられた曲だった。年末にはアルジェリアに住むヨーロッパ系の住民は15万人を数えるのみとなった。OAS幹部も脱出した。しかし彼等はまだ幸運だった。本国に引き揚げたコロンには家と仕事と様々な便宜が与えられ、数年後には「故郷」アルジェリアへの郷愁すら感じなくなった(『ド・ゴール伝』より、少し大袈裟)。しかし、これまでフランスに忠誠を誓ってFLNと戦ってきた一部のアルジェリア人(25万という)は完全に見捨てられ、新生アルジェリア共和国によって「裏切者」の汚名を着せられた彼等はその多くが虐殺された(3〜15万人という)のである。

 ともあれ132年の長きに渡ったフランスのアルジェリア支配は完全に終りを告げ、フランスの手許に残った植民地は南米ギアナ、アフリカの仏領ソマリア(註3)、仏領南極大陸アデリの3つと太平洋・大西洋・インド洋に散らばった島々(註4)のみとなったのである。

 註3 77年にシブチ共和国として独立。

 註4 75年コモロ諸島が「コモロ共和国」として独立。イギリスとの共同統治下にあったニュー・ヘブリデスは80年「ヴァヌアツ共和国」として独立した。現在のフランスの植民地は、本国の法律が適用される「海外県」としてマルティニク、グアドループおよびその属領、ギアナ、レユニオン、サン=ピエール・エ・ミクロンがあり、独自の体制を持つ(その程度は様々)「海外領土」として仏領コモロ諸島、ニューカレドニア、ロワイヨテ諸島、ワリス・エ・フトゥナ、仏領ポリネシア、仏領南極及びアデリがあり、全部で約56万?の面積と120万の人口を有している。

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