ド・ゴール伝 第5部その2

   

   政界再編   (目次に戻る)

 62年、ド・ゴールはそれまで国会・自治体の議員によって選ばれていた大統領職を、直接国民投票によって選出するとの改革案を持ち出した。ド・ゴール派以外の全政党が反対していたが、この頃はまだOASのテロが続いており、さらにアルジェリアから引き揚げてきたコロンや兵士たちによって国内の空気がすさむのではないかとの危惧を巧みに自己の支持へと結び付けた(嬉野ド・ゴール伝)。結果はド・ゴールの勝利、投票数の62%(ただし棄権が23%)を獲得していた。

 続いて行われた総選挙(註1)でもド・ゴール派が大勝する。議会内で安定したド・ゴール支持の勢力を築くために新共和国連合(UNR)・労働民主連合(UDT)・独立共和派・MRPの一部を集めて結成された保守派「第五共和政連盟」に対して、左派の各政党は連携行動をとることが出来なかった。ド・ゴール派のUNRとUDTだけで過半数に近い233議席を獲得したことは、それまでの議会における不安定な小党分立時代の終りを意味していた。

 註1 第五共和政の国民議会は1人1区の小選挙区、単記二回投票制である。第1回投票で12.5%を確保した者(最大8人)のみが第2回投票に進むが、ここで立候補を辞退して他党の支援にまわる「立候補取止め(デジストマン)」も可能である。

 ド・ゴールは第三・第四共和政でよく見られた小党の離合集散による不安定な連立政権を嫌い、それを超越した強力な大統領を有する第五共和政の創設に尽力したのであるが、やはりド・ゴールは共和主義者であって、大統領の独裁者化を防ぐため、三権分立のひとつたる議会の役割を否定することは決してしなかった。何にしても議会内に自分の与党があった方がよいが、それが「第五共和政連盟」であった。

 「元来、私はフランスの擁護者であり、決して1階級または1党派の擁護者ではないから、私から奉仕を受けんとするために私に奉仕するような党派を持たない」のであるから、第五共和政連盟は単にド・ゴールを支持するだけの組織であり、まとまった綱領も持たなかったが、結局はこれが巨大な政党そのものへと変質(あるいは最初からそうだった)し、強力なリーダーであるド・ゴールがいてもいなくても立派に政局を安定させる力を有するに至る(註2)のである。

 註2 ド・ゴール派は名前を変えて今に続いている。現在の大統領ジャック・シラクもその系列である。

 65年の大統領選挙では左派のミッテランがド・ゴールに戦いを挑んできた。この頃のミッテランは政界に大した影響力を持たなかったが、その分左派の各党からはくみし易いとみられ(渡邊フランス現代史)、核戦力の放棄や社会制度の充実を唱えてド・ゴールの防衛政策や福祉切捨て政策を批判した。結果ミッテランは多くの支持を得て第1回投票(註3)で32%の票を獲得、ド・ゴールとの一騎討ちとなった第2回投票でも44.8%という僅差となった。ミッテランの善戦には新メディアであるテレビの活用が大であったといい、またこの頃には経済成長が減速して失業者が増加、その一方で強力な政府と結びついて国政を左右する高級官僚(テクノクラート)への不満が高まってきていた。それに、これが肝心なのだが、社会や経済の問題はド・ゴールでなくても解決出来る類のものであった。他国による侵略の危機も、植民地の独立戦争も、過激派のテロもすでになくなっていた。

 註3 大統領選挙の場合、第1回投票で過半数を得た者がいなければ、2週間後に上位2名による決戦投票となる。ちなみに大統領候補は30以上の県にわたる500人以上の国会、県会、パリ議会、海外領土議会の議員、市町村長の推薦が必要であるため、泡沫候補はありえない。

 ド・ゴール体制は発足後10年目に近付いていた。

   

   五月革命   (目次に戻る)

 1964年、パリ近郊のナンテールにソルボンヌ(パリ大学文学部)の分校が開校された。ここで学ぶ学生は当初約2000人であったのが年々増加して、67年には法学部も加わって1万2000人にも膨れ上がっていた。フランスの1939年に5万人だった大学生が戦後の60年には25万人に、68年には50万人にも増加していた。急速に拡大する大学は過密状態であって施設も組織も不充分であり、さらに、当時の文相フーシェによる大学教育改革(研究者養成のための教育と、産業社会が求める人材育成のための教育とを分割する)の中途半端な強行等によって様々な不満が充満していた。(以下、『パリ68年5月』を参考とする)

 学生たちはフーシェの改革によって学位を取得出来ないまま学外に放り出される学生がでるとの危機感を抱いており、67年11月に「改革前と後の学士号の相等性・実習用職員の削減反対・学部評議会への学生の参加」を求めてナンテール校のストライキ(授業放棄)を実行した。その結果学部内に教官・学生双方からなる委員会が発足したが、これは形式的なものにすぎなかった。

 68年3月20日、アメリカン・エキスプレスのパリ支店の前で、当時ヴェトナムでアメリカ軍と戦っていたFNL(南ヴェトナム民族解放戦線)(註1)を支持する示威行動が行われ、支店のショー・ウィンドーが叩き割られるという事件が起こった。すぐにナンテールの学生1名が犯人として逮捕されたが、このことが従来からの大学の設備や制度や教育・学問全般への不満とあいまって、ナンテールの極左学生を大きく動かすに至った。彼等は実力行使に訴える決意をかため、ひとまず学部本館の会議室を占拠した。

 註1 アメリカとFNLの戦い「ヴェトナム戦争」については本稿の述べるところではないが、これについてもいつか詳しく書いてみたいものである。とにかく、この頃はアメリカに反対するデモが全世界で激しく行われていたのである。

 彼等極左学生はトロツキスト、アナキスト(筆者にはこの辺の思想について簡潔に説明する能力はない。)、さらにどの組織にも加わらないノンセクト等がごたまぜになっており、共通した思想や、これからとるべき行動は全く決まっていなかった。しかし彼等は「固定した指導部を持たず、あらかじめの政治路線やイデオロギーに基づいてではなく、下部での討論を基礎にした」のであり、そこから「ブルジョア的・資本主義的な国家を攻撃し、その破壊に向かわなければ、革命ではない」とするのである。

 28日、大学側は翌日から2日間の講義停止と学内への立ち入り禁止を決定した。憤慨した学生たちは学内に大量の落書きをした。「教授たちよ、あなた方は老いた、あなた方の教養もまた」。学生たちは学内での政治活動の正常化を求めた。「我々は、自分たちの考えを述べることが全く出来なかった」。4月2日に行われた学生側の集会には一部の教官も参加した。

 この頃、フランス(だけでなく世界中で)ではヴェトナム反戦デモが盛んに行われ、デモに参加する左派学生とこれに反発する右翼学生とが衝突するといった事件が頻発していた。かような空気の中、ナンテールの左派学生が5月2日と3日を「反帝国主義デー」とすることを決定した。

 大学側が反発した。3月に行われた左派学生による会議室占拠(4つ前の段落)の中心メンバー8人のパリ大学懲罰委員会への召還、さらにナンテールにおける講義の停止を発表したのである。これを受けた学生側は活動の舞台をナンテールからソルボンヌへと移すことにした。

 5月3日、ソルボンヌの中庭で左派学生による集会が開かれた。この集会では右翼学生との衝突が懸念されたため、パリ大学区長ロッシュがその日午後の講義停止、及び左派学生の学外への退去を命令してきた。しかしこの命令は無視されたため、ついに警察が介入してきて学内の左派学生600人を(警察に)連行してしまった。ところが、これを見ていた他の学生2000人が自然発生的なデモを組織し、警察と対立してバリケードを築きだした。

 このデモは一旦は警察によって退けられたが、6日には再び大規模なデモが組織され、パリの各地で警察と衝突した(仕掛けたのは警察側)。この日1日の学生側の負傷者は約800人、警察の方は350人が負傷していた。騒ぎは大学の外にも広がろうとしていた。労働組合の一部に学生と連携しようとの動きが出てきたのである。6日、7日、デモが続行された。学生に好意的な教授たちも参加してきた。

 5月10日、大学のストライキが高校にまで波及した。教員や研究者を含む、大学生・高校生・労働者約2万人がデモを行い、カルチエ・ラタン(学生街)にて警官隊と対峙した。カルチエ・ラタンは警察に包囲され、学生側はバリケードを作ってこれに備えた。交渉も失敗した。この時たまたま首相ポンピドゥーは外国におり、大統領ド・ゴールは安眠中、おそらく首相臨時代理ルイ・ジョッシュと内相クリスチャン・フーシェの決断によってデモ隊の「掃討」が決定された。

 11日午前2時31分、警官隊と機動隊が総攻撃を開始した。催涙弾と火炎瓶の応酬が続き、夜明け頃にはデモ隊はほぼ鎮圧された。警察は警官251人を含む378人が重傷を負い、468人を逮捕したと発表した。(あくまで警察発表)

 この「バリケードの夜」事件は警察による全くの失態、というより暴虐であった。外遊先から大急ぎで帰国した首相ポンピドゥーは警察の非道を批判し、学生側の要求「講義停止中のソルボンヌ校を再開する・大学周辺からの警察の撤収・逮捕学生の釈放」を直ちに受け入れると表明した。事件がラジオで中継されたこともあって世論の同情は一気に学生側に集まり、学生と連携する労働者の意志を受けて、左翼系の政党や労働組合が大規模な抗議デモと24時間のゼネストを行うに至った。

 13日のゼネストには官公庁と私企業の労働者の大半が参加、パリで行われたデモにも約80万人が参加した。その中ではド・ゴール体制を批判する「10年は長過ぎる」「ド・ゴールを古文書館へ」といった声もあげられた。この前後数日間のストには全国で1000万(註2)の労働者が参加したといわれ、それも、必ずしも伝統的な労組や左翼政党の動員によるものではなく、自発的に学生に呼応した未組織(組合に入っていない)労働者の参加にその特徴があるとされている。この13日、学生がソルボンヌ校を占拠し、学生・教員・労働者自身によって運営する「学生コミューン」を設立した。

 註2 フランスの人口は約5500万である。

 ここまできても、大統領ド・ゴールは事態を深く受け止めてはいなかった。14日、ド・ゴールは閣僚の反対を押し切ってルーマニア訪問に旅立ち、18日に帰国した際にも、「改革はウィだが、馬鹿騒ぎはノンだ」と学生を嘲った。

 しかし、騒動はさらに拡大していた。各地の大企業で労働者によるストや工場の占拠が相次ぎ、交通は完全にストップ、銀行すらストに入った。この頃パリではアメリカと北ヴェトナムの和平交渉が行われていたが、通信技術者がストに入ったことから使節団と本国との連絡が途絶するという有り様であった。もっともこのストの中心となった未組織労働者の大半はその後どうすればいいのかというビジョンを持たず、結局は伝統的な組合の指導下に入り、革命などという大袈裟な変革よりも、わずかの待遇改善で満足してしまうのである。

 その労組や左翼政党、特に共産党は学生運動家を信用していなかった。学生たちはあらゆる活動を当事者全員の参加によって決定しようと考えており、これは、党や組合の指導者が一般労働者を完全な統制下におく形でデモやストを行うという従来の形の左翼・組合活動とは相容れなかった。

 とはいえこの事態は労組にとっては願ってもないチャンスである。25日にはポンピドゥー首相の仲介による労使間の交渉が労働省にて行われ、48時間に渡る交渉の末に「最低賃金の35%引上げ・労働時間の短縮・賃金の10%引上げ」等を定める「ダルネル協定」が結ばれた(註3)。政府側としては、これで労働者が満足してくれれば学生と一緒にバリケードに籠るよりはいい、というところだが、しかしこれは労働者を満足させるに至らず、全国のデモやストは一向におさまる気配を見せなかった。左翼連合のミッテランは「国家は消滅した。臨時政府の組閣が必要である」と唱え、自身が大統領に立候補するとの意志を明らかにした。

 註3 この時政府側の雇用問題担当相として労組代表と交渉にあたったのが現在の大統領ジャック・シラク。胸に護身用のピストルを忍ばせていたという。

 ド・ゴールもようやく行動をおこした。彼はまだ衰えていなかった。29日、突然姿を消したド・ゴールは極秘裡に西ドイツ駐留フランス軍司令部の所在地バーデンバーデンを訪れ、現地の司令官マシュー将軍と密談した。マシューってあのアルジェリアの「栄光の落下傘部隊」を率いたマシュー将軍である。いらん口を滑らせたり色々あってもやはり最終的にはド・ゴールの支持者だったマシューはこの時、旧OAS幹部の赦免を条件にして、最悪の場合の軍部のド・ゴール支持を約束したといわれている。

 5月30日、ド・ゴールがテレビに登場し、国民議会の解散と総選挙を実施すると表明した。これに対する左翼系の政党や労組は、自分たちの掲げる議会制民主主義の路線から外れる訳にはいかない以上、この提案をのむ以外の選択肢を持たなかった。政府は労働者(左翼系政党・労組)の目を学生主導の過激なデモ・ストから政府主導の穏健な選挙へとそらすことに成功したのである。これまで息を潜めていた右翼が盛りかえし、この日午後にはパリにて右派50万人の大デモ隊が政府支持を訴えた。

 以降、ストは急速に沈静化していった。「総選挙の興奮が始まると、少数者の学生運動はもはや状況を左右する力を失った。選挙はつねに先鋭な少数者を孤立させ、のみ込んでしまう大波のようなものである(河野フランス現代史)」6月になっても一部の労働者や学生はストを続けたが、再び強硬に転じた警官隊との派手な衝突が市民の眉をひそめさせるようになり、かえって政府への支持者を増やしてしまう有様だった。学生の熱気も急速に薄れていった。かつて5万の学生を集めた学生集会も、日によっては40人しか集まらないことすらあった。そもそも学生の多くは「当初から、本当に真剣に運動に取り組んでいるのかどうか、疑問視されていた(ヨーロッパ現代史)」。武力で政権を奪取しようとの試みも全く存在しなかった。運動の中心となった学生たちは、武力による革命を成し遂げたロシアがその後いかなる国家になったかをよく知っていた。6月12日、選挙期間中のデモが禁止され、16日にはソルボンヌの学生コミューンが警察によって排除された。

 そして、総選挙はド・ゴール派の大勝に終った。名称変えしたド・ゴール派「共和国防衛連合(UDR)」は過半数近く(46%)に達し、共産党も左翼連合も大幅に後退した。「五月革命」は結局は「革命」にはならなかったのである。(したがって五月革命は「五月危機」とも呼ばれている。五月革命については本稿のようないいかげんな文章よりも、江口幹著『パリ68年5月』を読んだ方がよっぽどいいです)

   

   ド・ゴールの最期   (目次に戻る)

 「五月危機」を乗り切ったド・ゴールは、危機の最中に学生が求めていたもの、すなわち大学の運営への参加を認める改革に乗り出した。大学と教育組織の管理にかんし、教職・事務職・学生の代表による選抜評議会の創設、教育計画にかんする各大学の自治の尊重等が定められたが、財政上の自治が認められなかったこと等から大した満足は得られなかった。

 69年2月、これまで常に議会と対立してきたド・ゴールは、上院の権限を縮小するという改革案を持ち出し、これを国民投票にかけるとの提案を行った。当然各政党は反対した。国民投票もまた議会勢力を退けるためにド・ゴールが好んだ常套手段であった。

 しかし、五月危機以降情勢は明らかに変化していた。五月危機における全国規模のストに際し、労使間を調停した功労者はド・ゴールではなく首相ポンピドゥーであり、このことは彼ポンピドゥーに対する国民の信頼を大幅に高めることになっていた。また、議会内にはすでに安定したド・ゴール派の勢力(単独過半数に近い)が形成されていた。ド・ゴールはかつての第三・第四共和政下における小党の不安定な離合集散を収拾する「超然的な執行部(河野フランス現代史)」として登場したものであった。しかし今現在強力で安定的な大政党が成立している以上、もはや議会を超越したド・ゴールの強力なリーダーシップなどなくても、政党の力だけで安定した政局をつくり出すことが出来るのである。

 そもそもド・ゴールは五月危機に際し、最初は総選挙ではなく国民投票に訴える考えでいた。それが、もし国民投票に敗れた場合には大統領の退陣につながるということを懸念した首相ポンピドゥーの「総選挙なら私が敗北したということですみますから(大統領の地位と総選挙は無関係だから)」という説得に応じて総選挙に踏み切ったのである。これはある意味で議会への妥協であり、「五月危機」は、国民投票で敗れる可能性がある程にド・ゴールの威信を傷つけていたのである。

 問題の国民投票(上院の権限縮小その他を問う)はド・ゴールの苦戦が予測された。議会の諸政党が猛反発するのは当然として、この頃の経済政策の失敗で物価が高騰したことによって労働者の離反をかってしまっていた。議会にてド・ゴール派と連立する独立共和派のジスカール・デスタンまで反発した。国民投票の乱発は(議会での)綿密な討議や妥協の道をふさぐものである(河野フランス現代史)。くどいようだが議会はすでに小党分立の不安定な時代を終え、国民投票などという非常手段を用いなくとも安定した政局を築くことが出来るのである。「危機に立つ英雄」ド・ゴールの役割はすでに終っていた。

 69年4月27日に行われた国民投票は、52.41%で「否」ド・ゴールの敗北であった。これまで国民投票によって国民の信任を問うてきたド・ゴールにとって、この敗北は自分に対する支持基盤が失われたことを意味している。「将軍(ド・ゴール)は民衆の支持がなければ、権力の座にとどまっていられないということを知っていた(ド・ゴールの最期)」議会を舞台とする政党政治を嫌いぬいたとはいえ、ド・ゴールは民意を無視する独裁者では決してなかった。それにド・ゴールはもう78歳、数ヵ月前に長男のフィリップに「80歳をすぎても仕事をつづけようとは思っていない。国家元首としては80歳は老齢すぎる」ともらしていた。このあたりが潮時である。

 28日、フランス通信がド・ゴールの声明を伝えた。「私は共和国大統領の権限を行使することを停止する。この決定は今日、正午をもって有効となる」。ド・ゴールはすでにエリゼ宮を離れていた。最後の閣議も、国民に対する演説も、政府職員や秘書官に対する告別の辞もなかった。ド・ゴールは黙って舵柄から離れた。10年も続いたド・ゴール体制の、まことに呆気無い幕切れであった。6月1日に行われた大統領選挙ではド・ゴールの下で何度も首相をつとめたポンピドゥーが勝利した。五月危機の際に運動の路線をめぐって分裂していた左派の各政党は、この大事な時にもバラバラに候補をたてて自滅した。ポンピドゥー大統領はド・ゴールの反米政策を緩和し、大企業と直結した経済政策を行ってフランス経済の立て直しに尽力した。

 

 シャルル・ド・ゴールが亡くなったのは1970年11月9日、死因は動脈瘤による腹部大動脈破裂と診断された。享年79歳であった。退陣後18ヵ月、アイルランド、スペインを訪問し、その次は中国を訪れるつもりでいた。引退後の外遊はいつも6月に行った。ド・ゴールの人生で最も大きな意味を持った1940年6月18日のラジオ演説、あの歴史的な抵抗の呼びかけを行った記念日にフランスにいることは、すでに国民の寵を失ったド・ゴールには耐えられなかったのである。

 葬儀はド・ゴールの私邸のあったコロンベ・レ・ドゥ・セグリーズで私的に行われたが、12日に政府が主催した追悼ミサには全世界の国王や大統領が列席した。中には自由フランス軍の制服を身につけた旧植民地の大統領もいた(註1)。会場となったパリのノートルダム寺院では、1944年8月26日にパリ解放が果たされた時にやはりノートルダムで歌われた「偉大なるかな」が奏でられたのであった。

 註1 これは中央アフリカのボカサ大統領である。後に「中央アフリカ皇帝」を称して国際的な嘲笑を浴びる人物だが、生前のド・ゴールには「古参兵」と呼ばれていた。詳しくは当サイト内「中央アフリカの皇帝」を参照のこと。

                     

おわり   

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