ド・ゴール退陣後のフランス第五共和政の動きを簡単に記述する。
ド・ゴール退陣後、新大統領の選挙は69年6月1日と定められ、それまで空席となる大統領のかわりは上院議長アラン・ポエールがつとめることとなった。ド・ゴール派UDRの多くはポンピドゥー支持に結集していたが、左派ではミッテランが68年総選挙敗北の責任をとって民主社会主義左翼連合(FGDS)の代表を退いたため、左派の各党は、統一社会党がロカールを、共産党がデュクロを、トロツキスト(註1)がクリヴァンヌをそれぞれ擁立して第1回投票に臨むこととなった。社会党は分裂し、一部はドフェールを、一部は左派・中道の結集を狙って上院議長のポエールを擁立した。
註1 ロシアの革命家トロツキーを祖とする共産主義の一派。これについて詳しく説明する能力は現在の当サイト管理人には備わっていない。とりあえずロシア革命の概要については当サイト内の「ロシア革命」を参照のこと。
結果はポンピドゥーの大勝で、実に44.5%を獲得していた。社会党のドフェールは惨敗し、共産党のデュクロの4分の1にも及ばなかった。しかし得票率2位を獲得したのは中道諸派の結集に成功したポエールで、第2回投票では彼がポンピドゥーとの決戦投票に臨むこととなった。
ところが、ここでポエール支持を期待された共産党・統一社会党・トロツキストの多くは棄権してしまい、ポエールは42%と善戦したもののポンピドゥーに及ばなかった。かくしてポンピドゥーが第五共和政第二代大統領に選出されたのである。
ポンピドゥーは57歳、もとロスチャイルド銀行の取締役で、ド・ゴールの下で何度も首相をつとめていた。68年以降個人的にド・ゴールとの関係が冷却化していたが、大統領選挙に際してはド・ゴール派UDRの多くはポンピドゥーを支持し、彼もまた組閣において多数のド・ゴール派を登用した。UDRの中では議会派に属するシャバン・デルマスを首相に任命して議会との和解を強調し、フラン切下げによる財政均衡の達成、外交面でもイギリスのEC加盟を認める等の改革を行った。
ところが、国民の人気が集中したのは大統領ではなく首相のシャバン・デルマス(註2)であった。テレビ・ラジオの自由化のために情報大臣を廃止したのを手始めに、労組代表との積極的な対話、国民の要望に答える自然環境保護大臣を設置したこと等々が好評をはくし、70年には66%という高支持率を獲得した。しかしこれは強力な大統領権限を主張するポンピドゥーにとっては大問題であり、次第に冷却化した2人の関係は、大統領と首相の役割分担が明確でない第五共和政の欠陥がここに来て顕在化したことを示していた。という訳で(?)、シャバン・デルマスはたまたま起こった脱税疑惑を追及され、72年7月には大統領の意向を受けての辞任を余儀なくされたのであった。
註2 大戦中自由フランスに参加し、29歳で旅団長になった。これはナポレオン以来ほとんど例がないという。
社会党は分裂を繰り返していたが、71年6月のエピネ・シュ・センヌ大会の際、新しく合流してきたミッテランを書記長とする再編成が整った。この時問題とされたのは共産党との関係で、社会党主流派が(共産党との)イデオロギー論争を重視したのに対してミッテランは現実的な政策論争を主張し、激論の末に後者の意見が押し通されたのである。ミッテランは困難な交渉の末に社会党・共産党・急進社会党左派の連立による政権獲得を狙う「政府共同綱領」を成立させ、73年の総選挙では全体としてはド・ゴール派UDRの大勝に終ったものの、社会党と共産党がそれぞれ20%を獲得するまでに回復したのである。
一方のポンピドゥーは、この頃のオイル・ショック(註3)に伴う経済低迷とインフレの最中にあって強力な指導力を求められていたにもかかわらず、重病におかされていた。首相メスメルはポンピドゥーの政策を忠実に実行するしか能がなく(だから首相に任命されたのだが)、政局運営が停滞する最中の74年4月2日に大統領の死亡が発表されたのであった。
註3 73年、アラブ諸国とイスラエルが「第四次中東戦争」を起こした。アラブ諸国(産油国)はイスラエルが占領地域から撤退するまで段階的に石油の輸出量を削減し、特にイスラエルの友好国に対しては全面的な禁輸を行うと表明して世界経済をパニック状態に陥れたのである。
任期7年のところを5年で病死したポンピドゥーの後任を決める大統領選挙の第1回投票は74年5月5日に行われた。1位を獲得したのはミッテランで、社会党・共産党その他の左派の大部分の支持を集めていた。逆に右派は分裂ぎみで、元首相シャバン・デルマスがUDRを代表して立候補したものの、UDRの一部は独立共和派のジスカール・デスタンの支持にまわっていた。
第2回投票はジスカール・デスタンの辛勝(50.81%)であった。新大統領に当選したジスカール・デスタンはド・ゴール時代に一時期蔵相をつとめた後、路線の違いからド・ゴール派の主流から離れていた。66年に「独立共和派」を結成した彼は、基本的には保守に立ちながらも、「そのとおりだ。だが、しかし……」と唱え、ド・ゴール派の経済統制策に対して自由経済主義を主張する等の独自路線へと歩みだしていた。今回の大統領選挙における彼の勝利は、テレビ討論で48歳という若さを強調したこともさることながら、ド・ゴール派に特徴的な権威主義への反発や、ミッテランを代表とする左派政権誕生を警戒する中道右派の支持を獲得したところが大であった。とはいえ議会では彼の独立共和派は多数派ではなかったため、大統領選挙の際にド・ゴール派でありながらジスカール・デスタンに協力したシラクを首相に任命するという妥協を余儀なくされた。シラクはこの時41歳という若さであった。
ジスカール・デスタンは「フランスのケネディ」と呼ばれるお洒落で若い大統領らしく、就任当初はまず選挙年齢を21歳から18歳に引き下げ、他にも避妊や離婚の自由化の拡大、社会保障の充実等を打ち出した。しかしながら肝心の経済政策はなかなか進展しない。ポンピドゥー時代の末期に起こったオイル・ショックに対してフランスはちょうど政権交代と重なったことから対処が遅れ、減税と社会保障で景気回復を狙えばそのために財政が悪化した。76年の県議会選挙にて左派が大幅に躍進する。ド・ゴール派はジスカール・デスタンのリベラル政策を批判し、EC政策についても、熱心な大統領と懐疑的なド・ゴール派との食い違いが目立ってきた。結局ジスカール・デスタンはシラクに辞表の提出を求め、ド・ゴール派と無関係のパールを首相に任命したのであった。
しかしパールの経済政策もまた失敗が多く、ジスカール・デスタンと離別したシラクが新たに再編したド・ゴール派「共和国連合(以下RPRと記す)」や左派政党を迎え撃った77年3月の市町村会選挙は政府与党の完敗に終った。特に社会党・共産党の躍進はめざましく、シラクの方もパリ市長に当選した。とはいえ社会・共産は路線の違いから決裂してしまい、78年の総選挙(註1)でも左派の政権奪取はならなかった。
註1 第1回投票では、社会党22.58%、共産党20.55%、RPR22.62%、ジスカール・デスタン派21.45%と4党伯仲であった。
ジスカール・デスタンの外交については、79年にソ連軍がアフガニスタンに侵攻した際にはアメリカが呼びかけた対ソ経済制裁に同調せず、西側諸国の多くがボイコットした80年の「モスクワ・オリンピック」に参加したりした。しかしそれ以外についてはおおむねアメリカに同調する方針であり、ド・ゴール以来の反NATO政策の緩和といった路線を打ち出している。
81年5月、社会党のフランソワ・ミッテランがついに大統領に就任した。左派政権が誕生したのは実に23年ぶりのことであり、ミッテラン個人としては大統領選挙に出馬すること3回にしてようやく掴んだ栄誉であった。ジスカール・デスタンは長引く不況を脱出出来ないまま7年の任期を終えてしまい、再選を目指して出馬するもシラクのRPRの協力を得られなかった。この時は軟化していた共産党(註1)はミッテラン支持を打ち出しており、6月の総選挙でも社共選挙協力に助けられた社会党が単独過半数を獲得、社会党の古参モーロワが首相をつとめる内閣には共産党閣僚も4人入閣していた。今回の政権獲得に際しては、78年の党大会において国民一般の世論に答える形で核戦力容認に踏み切ったことが大であった。
註1 79年にソ連軍がアフガニスタンに侵攻した際にフランス共産党もソ連寄りの姿勢を見せたため、国民一般の支持が低下していた。そこで単独での政権獲得を不可能と見てミッテランのもとでの政権参加を考えるに至った。
しかし、ミッテランも不景気には勝てなかった。大企業の国有化・若年層の職業教育促進等の景気浮揚策をもってしても失業率の増大には歯止めがかからず、83年には大統領に対する不支持率が支持率を上回ってしまった。政府はやむなく緊縮財政に転じるがこれは企業の合理化を伴っており、製鉄・石炭・造船等で大量の解雇者が生じたことから、特に炭坑労働者に地盤を置く共産党との協力関係まで断絶するに至った。
86年の総選挙において、社会党は単独では第1党の座を堅持したものの、84年以来提携を進めていた保守派のRPRとUDF(註2)があわせて確保した291議席には及ばなかった。また、この頃増加してきた外国人労働者を排外し、「フランス人のフランス」を唱える極右政党FN(註3)が35議席を獲得、共産党と同率(註4)に並んだことが注目された。第五共和政の選挙制度はド・ゴール以来小選挙区制であるが、この時は社会党大敗を避けるために比例代表制に変えたことが極右の進出を許したとの批判を受けた。
註2 フランス民主連合。77年結成。ジスカール・デスタンの独立共和派を母体とし、中道派を代表していた。
註3 国民戦線。反共・排外主義を唱え、移民の多い国境周辺地域で支持を集めた。党首ルペンはインドシナやアルジェリアで戦った元落下傘部隊隊員で、党員には旧OASや王党派も含んでいた。
註4 共産党は9.8%まで落ち込んでいた。やはりアフガニスタンが痛かった。
それはともかく、ミッテランはRPRとUDFの保守連合が勝利したことを認め、「新たな多数派(保守連合)は脆弱ではあるが、憲法第8条を尊重して多数派の代表(シラク)を首相に指名する」との声明(註5)を発し、ここに、大統領は左、首相は右という異常事態「保革共存(コアビタシオン)」が出来したのである。
註5 何度も書くがここで自派の議員を首相に任命しても法的には問題ない。しかし野党が強力である場合は問責動議によって不信任になる可能性が大である。
ここでは、大統領は国家の最高責任者かつ火急の際の仲裁者として軍事・外交を、首相は内政を担当するとの原則が打ち出されたが、ミッテランはことあるごとに声明を発してシラクの政策に干渉しようとした。
シラクは経済における自由競争を強調し(註6)、国有企業の民営化等を押し進めた。86〜87年にかけての民営化による国庫収入は400億フランと見込まれ、この臨時収入を担保とする大幅な減税も行われた。
註6 ド・ゴール派RPRは当初国家による経済統制を主張していたが、81年の総選挙に敗北した後は路線転換を行っていた。
しかしながら、歴代政権がことごとく失敗してきた教育改革にはさしものシラクも苦杯をなめさせられた。この時シラクが持ち出した改革案には、バカロレア(大学入学資格試験)合格者は無条件には希望大学に入学出来なくなり、入学登録料金も各大学の裁量によって引き上げられる等々の条項が盛り込まれていた。当然学生は猛反発し、12月4日には大学生・高校生のデモ隊と警官隊とが衝突して多数の負傷者を出してしまった。この事件は世論を学生の側へと押しやったため、シラクとしても教育改革の白紙撤回を飲まざるを得なくなった。また、この頃頻発したアラブゲリラのテロに過剰反応したことも支持率低下につながった。
ところで大統領側のうけもちである軍事・外交であるが、軍事面については原子力潜水艦搭載の核ミサイルの換装や移動式地対地中距離弾道ミサイルの開発といった核戦力の強化が行われている。外交面では、例えば中東に対してはド・ゴール以来アラブ寄りだったのがミッテランはイスラエルとの友好を重視し、84年に西欧の元首として初めてイスラエルを訪問した。
88年、大統領選挙が行われ、ミッテランが54%を獲得(第2回投票)を獲得して再選を決めた。経済政策には極力触れず、シラクの強硬な治安政策を攻撃して「社会正義」「平等」を唱えたことが勝利につながった。続く総選挙では社会党は単独過半数には届かなかった(左翼諸派をあわせて276議席)ものの、RPRとUDF(あわせて250議席)よりは多かったため、どうにか社会党右派のロカール(註7)を首相に指名することが出来た。この頃ようやく経済が好転のきざしをみせ、公共住宅・雇用・教育研究の予算が増額され、「国営・民営企業の共存する混合経済体制」が掲げられた。ヨーロッパ統合に積極的に賛同し、特に重視したドイツとの友好関係は89年の歴史的な独仏合同演習、翌年の独仏旅団創設へとつながった。
註7 もとは統一社会党を率いていたが、74年に社会党に合流した。党内ではミッテランのライヴァルであった。
91年5月、ロカールが辞任し、かわってクレッソンが首相の指名を受けた。クレッソンはフランス史上初の女性(註8)首相で、対日批判の急先鋒でもあった。経済はいくらか上昇していたが失業問題は一向に改善されず、ヨーロッパ統一市場の実現によって打撃を受ける農業関係者の政府批判も高まってきた。という訳で社会党は92年3月の県議会選挙に敗北し、クレッソンも在任1年たらずで退陣に追い込まれたのであった。
註8 若い頃からミッテランのとりまきで、ルイ15世の愛人にちなんで「現代のマダム・ポンパドゥール」と揶揄された。
後任のベレゴヴォワ(註9)には93年3月実施予定の総選挙までに世論の社会党支持を回復するとの使命を課せられていた。貿易収支の黒字転換、公教育と私学教育の対等を実現する等の一定の業績をあげたものの、失業者はついに300万人を突破し、党関係者のスキャンダルが次々に発覚したこと、保革共存の際に選挙制度が小選挙区制に戻ったこと等が手伝って、結局総選挙では社会党は議席数を282から67に落すという致命的な大惨敗を喫してしまった。
註9 ウクライナ移民の子として生まれ、16歳から様々な職業を経験してレジスタンスにも参加したという経歴の持ち主。
現役閣僚も多数落選し、首相ベレコヴォワは敗北の責任をとってピストル自殺を遂げた。ミッテランは第1党となったRPRのバラデュールを首相に指名し、ここに「第二次保革共存」が始まった。しかしバラデュールは個人的にミッテランと親しかったことから両者の関係は良好で、シラクと違って何事にも慎重な彼の支持率は50%をキープした。
95年、ミッテランの任期が終了した。ミッテランは引退を表明し、5月に行われた大統領選挙ではシラクが勝利した。当初最有力と目されたバラデュールは首相在任後半に例によって教育改革に失敗し、個人的なスキャンダルでも支持を落してしまった。意外に善戦した社会党のジョスパンは第1回投票(註10)で首位につけたものの、第2回投票では47%という僅差で敗れた。以後、現在に至るまでシラクがフランス第五共和政の大統領をつとめている。ミッテランの方は引退8ヵ月後の96年1月に前立腺癌で亡くなった(註11)。享年79歳であった(註12)。(97年の総選挙では社会党が大勝し、ジョスパン社会党内閣が誕生した。「第三次保革共存」である)
註10 極右FNのルペンも14%を獲得した。FN所属の市長も存在する。共産党のユーは8.6%、トロツキストのラギエは5.3%、エコロジストのヴォワネが3.3%であった。
註11 癌にかかっていることは大統領に就任した81年の段階でわかっていたが、薬によって奇跡的に進行を押えていた。
註12 晩年、隠し子の存在を認め、大戦中の一時期ヴィシーに協力していたことも公表した。
おわり