その後のアルジェリア

 独立後のアルジェリアの動きを簡単に記述する。

   

   独立直後   目次に戻る

 1962年3月、アルジェリア独立を決定する「エヴィアン協定」の調印により、それまでフランスに拘束されていたFLN幹部のベン・ベラ等が出獄した。彼等は既に(チュニジアで)臨時政府を組織していたベルカセム・クリム、ベン・ヘッダ等との対立を引き起こした。FLN指導者を自負する有力な幹部の多くが長い間フランスに拘束されていたことは組織にとって不幸だった。出獄した元幹部は当然のこととして新生アルジェリアの指導権を要求したのである。

 ド・ゴールがアルジェリア独立を承認するのは7月3日だが、FLNではそれ以前から帰国組のベン・ベラ派と臨時政府組のベン・ヘッダ派とが別個に声明を発していた。両派の関係を修復する会議が何度か行われたが、6月28日の会議にはベン・ベラが欠席し、FLNの分裂は決定的なものとなった。

 7月2日、臨時政府が所在するチュニジアにて独立祝賀大集会が開催された。ここで挨拶に立った臨時政府首相のベン・ヘッダがベン・ベラを糾弾するともとれる演説を行い、その時トリポリにいたベン・ベラも臨時政府への合流を拒絶した。翌日、ベン・ヘッダは空路アルジェに降り立ち大歓迎を受けたが、12日にはベン・ベラも別ルートでアルジェリアのオランに到着し、22日には「FLN政治局」なるものを立ち上げた。ベン・ベラの側には、これまでフランス軍の攻撃を避けてチュニジア・モロッコに逃れていたFLN兵士約3万6000人をまとめていたブーメディエン大佐がついていた。これはFLNの戦力としては最も強力である。

 8月2日、臨時政府の方が妥協し、ベン・ベラの「政治局」を優位とする新体制が成立した。しかし25日にはアルジェ市の実権を握っていた第4軍管区が政治局を強く批判したため、ベン・ベラは自派の軍管区を動かしてアルジェを占領しようとした。各地で市街戦が行われた。しかし、さすがにこれには平和を求める(フランスとの長い戦いを終えたばかりの)大衆が反発し、本格的な内戦に至る前に話し合いがもたれ、第4軍管区のアルジェ撤退という形でおさまった。形はどうあれベン・ベラの勝利である。

   

   ベン・ベラ時代   目次に戻る

 9月25日、国民議会が召集され、ここにベン・ベラを首相とする「アルジェリア民主人民共和国」が成立した。フランス政府が独立を承認して以降これまで3ヶ月近くの間アルジェリアの政情は不安定で、7年半続いた「アルジェリア戦争」の間フランス軍に味方していたアルジェリア人の処刑や、独立後も残留していたヨーロッパ系住民(コロン)への私的な報復が繰り返されていた。前者の数ははっきりしないが、後者の行方不明は1835人、うち310人が死体となって発見されたという(アルジェリア近現代史)。

 ベン・ベラは競争者の排除によって政権の安定をはかろうとした。彼の政府には旧臨時政府閣僚は1人も入っておらず、翌63年4月にはFLN書記長でベン・ベラと獄中生活をともにしてきたモハメド・ヒデルも排除されるに至った。9月8日、FLNによる一党独裁と強大な大統領権限を明記する憲法が国民投票を通過し、同月15日には新憲法に基づきベン・ベラが大統領に選出された。64年4月には彼はさらにFLN書記長に就任した。去る63年10月にモロッコとの国境紛争が起こり、大した戦闘はなかったのだが、外国との戦いという名目でアルジェリア国民一般がベン・ベラ支持に集まったことが彼の権力拡大に大きく寄与した。

 ベン・ベラが選んだのは社会主義であった。まず植民地時代にコロンが所有していた農地が国有化されてアルジェリア人労働者の自主管理に委ねられた。しかし、これまで経営や技術をほぼ独占していたコロンがいなくなったことから経済も行政も麻痺しており、さらに「自主管理」とは名ばかりの国家の管理が労働者の意欲を失わせた。農業生産は横ばい(それからどんどん低下する)なのに人口の増加は年3パーセントの勢いで、植民地時代から数百万いた失業者にあたえる職も全く足りなかった。仕方なくフランスの援助に頼ることになる。フランスに出稼ぎに行くアルジェリア人は年々増加し、そちらからの送金は石油による収入とかわらないくらいの額に達することになる。

 これらを解決するにはとにかく更に強大な指導力が必要だが、ベン・ベラが独裁体制を完成させるには、軍の実力者で国防相のブーメディエン大佐を排除することが必須である。ブーメディエンはベン・ベラが臨時政府と対決した時にFLN最強の部隊を率いて力になってくれた人物である。

 しかし65年6月19日夜、機先を制したブーメディエンがクーデターを起こしてベン・ベラを逮捕、「革命評議会」の名で新政権の樹立を宣言した。基本的にこの政変はFLN内部の権力闘争であり、ブーメディエンはベン・ベラの敷いた路線を変換するつもりは持っていなかった。ちなみに、この政変の数日あとにアルジェでベン・ベラを主催者とする「第2回アジア・アフリカ政府首脳会議」が開催される予定だったのだが、お流れになってしまったのであった。

   

   ブーメディエン時代   目次に戻る

 ブーメディエン政権の政策は、まず脱税の取締を徹底的に行うことによる税収の確保であった。これと、軌道にのってきた石油収入を用いての各種工業への援助と統制が行われ、地方自治体の整備も進められることになる。もっとも地方議会の選挙はFLNの名簿から行われるのだが。66年からは外国系企業の国有化が開始され、それは71年にはフランス系の石油会社にまで及ぶことになる(後述)。税収の安定・石油・外国からの借款によって重工業の発展が急がれ、教育に力が注がれた(国家予算の4分の1をあてた)ことから各種技術者を自力で養成することが可能となった。

 1971年2月24日、ブーメディエンはアルジェリア国内のフランス系石油会社の株の過半数をアルジェリア国家の所有とし、同じくフランスの天然ガス利権とパイプラインを全て国有化するとの発表を行った。フランスはこれらの石油利権の存続を条件としてアルジェリアの独立を認めたに等しかったのだが、ブーメディエンは政権について以来少しずつフランス側の利権を削る努力を続けており、今回の国有化に際しても1億ドルの補償金を支払うことを約束した。フランス政府は石油に関する交渉を打ち切ったが、アルジェリアがアメリカもしくはソ連に頼ることを警戒して(アルジェリア革命)それほど強硬な態度を示すことはなく、民間会社の契約という形でアルジェリアに有利な関係を継続することとなった。

   

   イスラム原理主義   目次に戻る

 かように一定の成果をあげつつ、ブーメディエンは78年12月に亡くなった。後任はシャーズィリーである。80年代、2度に渡って石油価格が暴落した。石油と天然ガスに依存するアルジェリア経済は大打撃を受けた。その一方で増え続ける人口を養うための食料輸入が増大する。工業化を急ぎ過ぎたために他の部門が犠牲になっており、特に農業を軽視したことから食料の自給率は2パーセント以下にまで落ち込んでいた(嵐の中のアルジェリア)のである。田舎から出て来て都市部の劣悪な住居に住む職のない若者たちは「イスラム原理主義」へと引き付けられて行った。FLNはもともと宗教色が薄く(西欧的な近代化を目指していた)、イスラム教を国教としてはいたがそれは庶民を統制するための手段であった(前掲書)。また、独立後30年近く続く一党独裁は庶民にはとても手の届かない贅沢な生活を楽しむ特権階級を産み出していた。

 88年10月、都市部で原理主義者による大規模な暴動が起こって数百人の死者が出た。11月シャーズィリー大統領は議会権限の強化を主眼とする憲法改正案を提示し、さらに翌年2月には建国以来のFLN一党独裁を廃止して複数政党制に移行するとの改革を行った。

 翌90年6月、11の政党が参加する統一地方議会選挙にて、イスラム原理主義に立つ「イスラム救国戦線(FIS)」が65パーセントの得票を得た。もちろんFIS支持者の皆が皆イスラム原理主義だった訳ではなく単にFLN政府に不満な人々も多かった訳であるが、ともかく驚愕したFLNは続く総選挙を選挙法の変更で乗り切ろうとし、FISが抗議行動を起こすとこれを弾圧して幹部多数を逮捕した。が、91年12月に行われた総選挙の第1回投票はまたしてもFISの大勝に終わった。FLNの得票はその4分の1程度であった。1月予定の第2回投票もFISの勝利が確実視され、シャーズィリーは政権引き渡しもやむなしと考えた。

 ところが投票日前の92年1月11日、軍がクーデターを起こして弱腰のシャーズィリーを辞任させ、第2回投票も中止した。軍の背後にはこれまでFLN政権の中枢にて特権を維持してきた官僚たちや、原理主義を危ぶむ知識人・女性団体といった存在があった(嵐の中のアルジェリア)。とりあえずの政府となるのは「国家高等委員会」、委員長は植民地時代の1954年に最初の反フランス闘争を開始した伝説的な「歴史上の9人」の1人ブーディヤーフであった(その後暗殺されるが犯人の背後関係は謎とされる)。もちろんFISが激烈に反発するが政府は3月をもってこれを非合法化、FISの戦闘部隊である「イスラム救済軍(AIS)」との内戦状態へと突入した。AISは当初優勢であったが次第に勢力を失い、98年には政府側がそれまで拒んでいた外国機関の調査を受け入れることによってこれ(外国)を味方につけた。

 FISとは別に「武装イスラム集団(GIA)」なる原理主義の集団も活発なテロを行った。彼等は小グループの集合体であって統一的な指揮系統をもっていないのだが、その一部は(特にFISの支持者が多かった地域で)あまりにも見境の無いテロを行うことから実は政府に操られているとの確度の高い噂がある(前掲書)。

 その後AISは戦闘停止を宣言するが別の組織によるテロは現在も継続中であり、その1つでGIAから分離した「布教と聖戦のサラフィー集団(GSPC)」は国際テロ組織アル・カイーダとの密接な繋がりを有しその創設にはウサマ・ビン・ラディン本人が関与していたとも言われている。92年から現在に至るテロの応酬による死者は約6万人とされている。

                         

おわり     

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